続篇  巻之20 〔14〕  事実でないことの取り扱い

 10月10日の夜、天文台の下の高橋氏の屋舗を猿屋町の方と御蔵前の方から大勢が取り取り囲んだ。
夜陰のことゆえ灯蹬夥(おびただ)しく、その中には御紋の高張も見えた。
やがて高橋の屋舗から、青網をかけた駕(かご)がかき出ていった。
この駕を大勢で警固していった。
そのあたりの町人どもが驚いて見てい者が語った。

 「この頃聞いたんですがね。天文方高橋作左衛門さんは、何か御尋のことがあって、揚がり坐敷に入られたそうですよ。駕の人は、この人でしょうね」。

 わしはかつてこの人から笙を学んだが、何か罪はあるだろうが、不憫に思う。
如何なることを為したのか。
日頃処々の取沙汰は色々耳に入ってくるが、事実を聞かないので、記さないでおく。
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続篇  巻之20 〔13〕  ある遊行上人の化益の路中で起こったこと

 聞いたはなしである。

 遊行上人が始まって廻国されていたころの路を 今も遊行街道といって例によりその路を遊行されるという。
因みに御朱印の表もその路をさして人夫伝馬を命じられてきた京都公方の時からの旧蹤(古い足跡)である。

 代々の上人は廻国の間に遷化(高僧がなくなること)した。
藤沢道場(遊行4代呑海上人の開山以来、遊行上人が住まわれる御寺)に帰着されるのは稀である。
故にかの徒はその路程を記すが、諸国の人は審らかにしないことが多い。

 今の上人は長寿で、遊行を続け、遂に大井川(駿州)を渉った。
この川の官道は普段通行しないので、中瀬という駿遠要害の処を行くことになった。
土地の者はかえって不案内になるし、御朱印の人馬も、辺鄙な処なので手助けしたいと、御代官竹垣庄蔵に伝えられた。

 かの中瀬は要地なので上裁を経て下知すべしとの答えだった。
御朱印については上人が押し通れば事が済むはずだし、僧業は穏便である。
上人は川畔に執政青山野州の領地があるのを断って通行し、化益(人々に教え解くために自在に歩き廻る事)を施しつつ、本街道に及んだ。

 例遊化の終わりは駿州沼津に定まるのならば、日を決めていたはずの饗応の日時を引き延ばしたことに領主水野羽州(執政)は疑いの心が働いた。

 だが上人の処置を聞くにしたがい、その穏やかな人柄に両執政ともに感じ入ったという。
上人は戌子の8月に藤沢道場に帰入(きえ)したという。

巻之51 〔1〕    本寺火災に遭い、立て直しの伴うはなし

親鸞宗に人心が帰する、不可思議である。
浅草本願寺に京都から来たれる願照寺と云う、ここにその従者が話したくだり。

 京の本寺(東)去年11月15日に焼失したとき、大阪の町人が金子千両ずつ持ち馳せ参じた者3人、その以下の者も多くいたが、金高はこれに劣っていた。

 さてこの金を門主は納めず、追って本堂普請のときの入用金として、その者に預けにしたという。

 この火災につき寄金、現物およそ3万両余、目録で寄進して40万両余、これはみな本堂建立の料にと出したものである。
この度の作事、表書院、居間書院、その次の所々千畳鋪の間、門主の住居向き、台所等総て21棟、以前の通りに出来た。
去ながら材木は前より3歩通り下の品ですべしと、門主の指図に任せたという。

 またこの普請金は門主の納戸金を当てた。
その故は、檀家から出したとすれば、檀家は困るだろう。
因みに望みは申さないとの旨にて上の如くと。
この入用金は8万両とのこと。

 上の再営は、昨冬中に焼灰を取り除け、当正月建てかかり、瓦を葺き済ませたのは5月節句の前におわった。

 末向きの折々、勝手の住居向きは追々に成就して、これも7月7日に門主の移徒があった。
但しこの入用は、浪花の町より5千両出金したのを、すぐに造作を致してくれるようと門主の依頼で、大阪中の引き請けで普請するとのこと。

 本堂はまず仮建てといって、27間に建てる。
この堂は元来尾張本願寺の堂だったが、子細あってたたみ置いていたのをこの度廻し仮堂に用いた。

 もっともしまい置くものゆえ、木柱塵汚しがあって、宗徒の工匠寄り合い、成仏の志にと自身でこれを掃除ひた。
瓦についたごみは洛中の遊女が云い合わせて、往生の助けにとみなみな鴨川の川原に出て洗い濯いだが、何れも同様の湯衣を着ているので、これを観る者は数百人になったという。
件の仮本堂もはや成就して、この7日に入仏あったと沙汰があった。

 またこの仮堂を尾張の門徒が見て云うには、京は本山ゆえに、見替える堂になった。
尾州では、古びているからこの様にしたのだろうが、(それが本当ならば)寄進はするものではないとつぶやいたという。

 また仮本堂を建てた地所は、やがて本堂を建てる所は別にして、本堂は36間4面にやがて造営されるという。

 この住居向きの普請金は、前に門跡の借財がかさなり、12万両を超すのを、勝手向うを倹約して皆済ませた。
この倹約の財積たる20万両余金になるのを、これで借財12万両を返し、その余財8万両で今の建物が出来たという。

巻之24 〔7〕  たぐいもなき楽意なこと

 過ぎし寛政8年(1796)の夏、下国の道中州小郡駅の西たかねという処で休みをとった。
農家で染工を兼ねた家だが、今日は某の田植えなので祝奉ると、三方に稲苗を敷いて持ち出した。
わしも悦び入り取り収めたが、どうにもならない。

 だが人の心ならば、少しでも持ちこして領内(現長崎県北部辺り)に植えさせるように申し付けた。
器に少し植えて、日を経てから領の入り口早岐(現長崎県佐世保市早岐町、但し早岐旧大村藩)と云う所まで持っていき、所の郡代にしかじかの旨を依頼した。

 その秋長崎へ行こうと早岐に宿どまりをした。
郡代が稲3穂を持ってきて云うには、「この夏命じられた苗を植えましたが、茎がいたんでいましたが、ようやく新芽が出ました。纔(わずか)にこの様な実りがございました。この稲の名もわかっておりません。中早田もので、善悪と呼ぶ稲に似ていますが、御領はこの種は古くからあります。実るかどうかはっきりするまで、様子を見ようと思います」。
また善悪とは宜しくない名なので、今より善作と呼んではどうかと申し付けた。

 後年東観が終わって、下国入城したとき、勘定奉行が申し出て、「先年早岐へ命じられた稲は追々作っていたようですが、穂のでき方は至って宜しく、この秋は籾18石でき、その中から少々御年貢米にもいたします」。

 この籾は、処々の田地や水の少ない所に植えると宜しき事、郡代どもがそろってそう申す。
籾を望む所々の者に分けて、種子にせよと命じた。

 その頃平戸の郡代から聞いた。
「この嶋中の方々からも、この種で作りたいと願う者が多くなりましたよ。また近頃(文政6年、1823)早岐の吏が江都に出たところ(稲のことを)問われ答えたそうですよ。『早岐の辺りの田方は7分通りはみなこの種で以て作り、米も至って善いものです。先年静山公が旅先から携えてきた種と人々が申し伝えておりますよ』」。

 思いもよらぬことで、このような事が耳に入るのは、たぐいもなき楽意あることである。

巻之30 〔28〕   今切から舞坂に舟行

 今切の御関所から舟に乗って舞坂に向かうと、およそ14,5丁海が浅く、底に菅が生えている。
左は洲崎で遠望1里ほど連なっている。
右は遠山江をめぐり富嶽(富士山)を上に臨む。
この間棹で舟を行(や)る。

 これを過ぎると左は渺々とした滄(あお)い海である。
遠江灘と云う。この間10丁余りあるような深さである。
櫓にかえて舟を行る向う左には標木が数本見える。
はじめの標木が最高い。
この余みなひくく水を出ること3,4尺。ここまで来ると海は最浅い。

 また棹にかえる。
左右みな杭を打って波よけにしている。
その濶(ひろさ)6,7間、舟行20丁ばかり。

 その趣は、淀河をのぼるようである。
ここを経て舞阪に至る。
この間左は波よけの堤である。
小松が群生してよい景色である。
これも波よけの為に植えられた。

 右は杭だけ打ちつらねている。
舞坂の方には14,5間の間は標木なく、そこは最深く潮の勢い甚だ急である。

 向いは石塘(つつみ)で上は松が並ぶ。
すなわち舞坂の地である。これより舟を下りる。

 わしは毎年ここを渡る。
己酉11月朔日渡ると、舟行は至ってはやいので、水夫にその由を問うと、潮時のはたらきを言った。
わし曰く。「この浦海で何か潮勢が去来したか?」。
水夫曰く。「そうではありませぬ。右はひく潮が標木に当たって沖に向かい、左はダイナンからさし入る潮がもっとも強いのです。舟を進める時、この潮に向かえば最難しい。わし曰く。「ダイナンは何れのことか?」。水夫曰く。「向うに見える白波の湧く処でございます」。

 「わしは思うが、さては大灘ではないか」。
賤夫は「漢語をおっしゃいますね」とニヤリと笑った。

 白波の処は即遠江灘で、今切と云うのはここの事である。
波がたつのは布を晒すようなものだ。
これを海で見るには至って浅くなくてはならない。

 水夫が言う。「ここで漁人がヒラメとコチを釣りますよ」と。

わしの渡海の時も白波の浦で多くの漁舟を見た。
(〇貝原『釈名』に曰く。洋(なだ)。仙覚曰く。なだはなみたかきなり。今案ず。大海は波高し。俗に灘の字を書くのは誤りである。灘は瀬である。字書を考べし)。

巻之20 〔36〕   辻斬りを思い立ったけれど。。。

 近頃御家人の某が語ったと伝聞した。

 この人が辻斬りをしてみようと思い立ち、ある夜広徳寺の前で待っていた。
が、通行人が切れ間なくあり、隠れて居た。

 ようやく夜が更けて通行が稀になり、1人来た。

 「これを!」と思ううち、寺前の溝ばたでかがんで小便を始めたので、立ち上がったところを斬ろうと待った。

 かの男は小便をしまい、念仏を2,3遍唱えたと。

 御家人はこれを聞いて、「如何に今死ぬのも知らないで念仏を唱えるのを、斬るのはむごいいことだ」という気持ちが起こって斬るのを止めたと。

 つまり「斬る人も丁度良き機会は無きものになった」という事だった。

巻之24 (3) 薩摩の暮らしぶり 1少年の見た薩摩

 高崎侯の臣市川一学(儒臣、また軍学にたける)が、あるとき軍講のついでに、某(それがし)の幼少のときゆえありで、薩摩に居た。
11歳でこの地に還ったというので、かの国の事をかれこれ問うた。
その語った条々を以下に記す。

  薩摩国は一向宗が厳禁らしいが、今は然りかと問う。
答えるに、かの邦の士家は仏壇がない。
家の入り口の中の口という所を入ると向かいの上に神棚の様なつくりに塗板がある。
版に先祖の法名をならべ書いてある。
すなわち仏壇であり、祭事もここで礼拝するという。

 また総じて仏に向かい合掌はしない。
礼拝には両手をついていつもの礼をするごとく。
なぜなら合掌すると一向宗の嫌疑がかかるので、この様にするのだと。

 この俗は、客人が来るときは士も庶民もまず『塩気盆』と云うものを出す。
蓋物に香の物梅干などを入れ、貴人は氷砂糖などを入れる。
人が来ればこれを出す。

 茶を出すにも、客1人に各茶台1つ宛に茶碗をのせて出す。
土瓶も銘々に添えて出すと云う。

 さて客人が茶を飲むときに、主人は塩気盆の物を取って、客人に与えるとなる。
土瓶は足なきを上とすると云う。
これを『チヨカ』と云う。客家と書くよし。

 酒は泡盛を多く飲み、肉は獣が多い。

 士庶民の婦人の多くは、木綿服である。
帯はみな丸ぐけで、虚無僧の帯の様に太い。
また木綿の赤と萌黄で、ねじり縫にしたものもあると。
この時は今の老侯栄翁の家督の中だと云う。
この頃から栄翁の世話で京風にされ、やや華麗に移ったが、なお昔の余風は今に残っているとぞ。

 男子も9,10歳までは、振り袖を着て、すまだわけに髪を結う。
12,3になる頃、半元服をする。
これを半髪と云う。これで若衆姿になる。

 桜島は世に薩摩富士と云う。
その形は富士山と違わない。
鹿子嶋と垂水の間にあると云う。
薩侯の居城は城ではない。
館の造りである。
その大手は、前に自然の滝川がある。
その向かいは門、城門てはなく、いわゆる門造りである。

 後ろは山がありげに見えて高みである。
館の周り表に向う所は、いわゆる塀で石垣はない。
その余りはみな柵を構えて、矢狭間などもなしとなり。

 城下に琉球人の旅館がある。
琉球屋鋪と云う。
いつも来て居る。
球人は薩摩ことばを言うとのこと。
その普段着は袷(あわせ)のみにして、綿衣は着ない。

巻之24 (4) 海馬嶋(アシカジマ)

 また前の人が云う。
常州の銚子に(高崎侯の領地)海馬嶋と云うところがある。
アシカを取ることがあれば、必ずその近くの村々にも触れを使わして取ることを告げて知らせている。

 また他領の人が取ることを禁じている。
当領で取れたものを、もし他領に往き申しのべても取りもどすとのこと。

 大きな海馬になると、皮9尺4方もあるという。斑文はないと云う。

巻之24 (5)  信州の雪解けの妙

 また前の人の話。

 信州にも居たと言った。
信越の雪は世間で言うとおり。
雪は次第に降り積もるのでその深さはおよそ6丈(18.18㍍)にも及ぶとのこと。

 だが、下からから固まっていくので、春になっても1丈4、5尺(4.5453〜4.84845㍍)ほど。
その雪が解ける所は、江都などの雪解けとは異なり、雪の中に一筋の往来の道がつく。

 それは土が出て細道をなすが、道の左右はなお4,5尺ほど高く積まれた雪がそのままある。
それがいつ解けるともなく、漸々にひいていくのは、自然に土中にしみ入って消えてゆくためである。

 その間は江都などの様に、道がぬかるむことはない。
この様な深い雪もいつかは消えるもの、この土地の様な解けて流れてゆくならば、ぬかるみの道路を行く人は絶えるところだが、造化の妙で、道路は乾いたままで雪は消えてしまい、行く人の妨げとなることはない。
不思議の1つにあげられないか。

巻之31 (4) 地雷火、狐火

 長岡侯(牧野備前守。元閣老。病により今免)在邑のとき、家士が火術を心得た者どもが地雷火を試そうと、某の野山をかけてやっていた。

 来る幾日にと云う者も伺い出たので、侯は許された。

 その前夜に1100の狐火が、その山野に満ちてさまざまの形容を為した。
あたかも地雷火がほとばしり走る様にその中に存在感をなしていた。

 狐が物事を前もって知るのは、珍しい事ではないながら、火術の真似をするのは最奇聞である(蜂洲話)。

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