謡の中に『善知鳥(ウタウ)』がある。
その大略は、立山禅定の僧が奥州に往こうとしていて、この山の地獄で老人に逢う。老人曰く。
「陸奥に下ると外が浜と云う所があって、そこの猟師が妻子を残して身まかった。この亡者(猟師)に蓑笠を手向けてくれと云った」。
僧は「では、(あなたが)その猟師の縁のある者という験(シルシ)を頂けないか」と云った。
老人は、麻衣の袖を解いて、僧に托した。僧はそれを携え、猟師の妻子のいる奥州を尋ね、(袖を)与えた。話をしていくと、さきの老人はその猟師の亡霊その者だった。
生前に殺生を業とした報いに地獄に墜ちて苦難を受けているのを妻子に知らせようと、この形見を渡したのだった。
妻子は亡者の衣を確認すると、やはり袖のない衣があった。
これからまた亡霊があらわれて、地獄苦患のありさまを語る。
〈 謡の文句は、是も久しき形見ながら、今取出し能(よく)みれば、疑ひも夏立け
ふの薄衣、一重なれども合れば、袖有りけるぞ、あらなつかしの形見や。頓て
其儘吊ひの、御法をかさね数々の、中に亡者の望むなる、蓑笠をこそ手向けれ。
又、陸奥の外の浜なるよぶこ鳥、なくなる声はうとうやすかた。
又、中に、無慙(むざん)やな此鳥の、愚か成るかな筑波根の、木々の梢にも羽を敷き、浪の浮巣をもかけよかし。
平沙に子を産て、落雁のはかなや。親はかくすとすれど、鳥頭と呼れて、子はやすかたと答けり。扨(さて)ぞとられやすかた。
又、親は空にて血のなみだをふらせば、ぬれじと菅蓑や笠をかたぶけ、爰(ここ)かしこの便を求て、かくれ笠かくれ蓑にもあらざれば、猶(なお)ふりかかる血のなみだの、目もくれなゐにそみわたる、紅葉の橋のかささぎか、娑婆にてはうとふやすかたと見れしも、冥途にしては化鳥と成。
『藻塩草』に、
子をおもふ涙の雨の笠の上に
かかるもわびしやすかたの鳥
太神宮へ勅使が下て、うとふやすかたと云鳥を取って、三角柏(みつのがしわ)と云樋
に備て神供にたてまつると也。此鳥取るものは蓑笠をきてとる也。其故は、すなの中に
子をうみてかえしたるを、母鳥のうたふがまねをして、うとふうとふとよべば、やすかた
と云てはい出るを取と也。其時母空にあがり、かなたこなたへつきありきて、鳴涙雨のご
とくにちにてふる間、その涙かかりて身そんずる故に、みのかさをきると云也。〉
これもまた奇異に聞こえる。
和歌は何人の所詠か。
『観跡聞老志』を引いてみよう。
出所はわからない。同書にまたこの様に出ている。
〈素都浜(ソトノハマ)は津軽以北の蝦夷の地である。
土人がこれを外の浜と謂う。安潟村、外の浜は青峰(アオモリ)の山畔にある。この地
に鳥がいる。子を沙の上に産する。人がその子を捕れば、即悲鳴をあげること殊に甚だ
しい。土人は沙鳥(ウトウ)という。或は善知鳥と称し、或は烏(童鳥)(ウトウ、童
に鳥は辞典に見い出せず)と号する。
陸奥の外の浜なるよぶこ鳥
なくなる声はうとふやすかた(『夫木集』)
『和漢三才図会』にある。索規浜(ソトノハマ)は、津軽の海辺の総名である。青森の
近処の浜の村にあり、安潟と名づく。善知鳥の鳥が多い。然るに安潟を以て、その声と
為る者は、いぶかしい。
同書に云う。善知鳥は正しい字は未だ詳しくない。按(しらべ)るに、善知鳥は鷗(かも
め)の属だろう。形色は鷗に似て、嘴は黄色で、末に勾れり。脚は淡い赤色。奥州卒土
浜(ソトノハマ)にいる。特に津軽の安潟浦の辺りに多い。〉
蕉叟曰く。すべて謡曲は、従来、拵立するもので、みな事実では無きことは勿論である。
たまたま有るということは、この一事を敷衍(ふえん、おし広げること)して模様をつけ
たものである。
世の人は知らずして、謡の事跡(出来事)を真の典故の様に唄う者である。面白い。