続篇 巻之92 〔14〕  北村季文が語るには

 ある日、和歌のことで北村氏へ臣を使いにやった。

季文(北村季文、俳人、江戸後期の国学者、)が語るには、この春、林氏は故桑名老侯が題讃した蛮船を宝船に見立てて示された和歌に、たまには返そうと、

 玉を積み錦をかざる船よりも
         人の言葉ぞ宝なりける

 と詠じて遣わしたと聞く。

 この原本は、故佐野参政堀田正敦が保管していたものを、没後に今の摂州(正衡)、松前志州に与えた。

 志州は、九鬼長州に謀(はか)り、板に刻した。
長州は、また林氏の手先なので、摸(まねるの意味)刻が成ったと云う。
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巻之3 〔7〕   たっぴ、中の汐、白上の3つの潮道、難所を渡る

 鳥越邸の隣家川口久助は、当御代替のとき陸奥国の巡見に赴いた。

 1日、わしは陸奥から蝦夷に渡る海路のさがしさ(けわしさ)を問うた。
答えるには津軽領の三馬屋から船を出して、松前に着くとき、船を出した日は風が殊に強く吹いて浪が高いまま日和が悪いだろうと言った。

 船子の話では、この渡りには潮道が3処あるという。
潮が急なので渡ることは難しい。
日和ならば船は潮の為に流れ漂い、渡る事は出来ない。

 だからこのような風力で渡ると言うが、いかにも沖へ出て、急潮の所に着くと、それほど大きな船の逆さまにわきかえり、流れ行く巨浪に堪えられぬ様に見えたが、強風に吹き抜かれた。
そしてその浪をしのぎ、3処の難所を渡り、着いたという。
舟中の苦は云う程でもなかったという。

 かの急潮のところは、たっぴ、中の汐、白上という。
また松前の白上三に登り、海面を臨み見ると、3つの潮道は海面に分かり見える。
その潮行きのところは、海より高くあがって見える。

いかにも海底に危石嶮巌(きせきげんがん、嶮はけわしいの意味)があるので、海潮もこの様なものかと云ったことよ。

西の国の海路では見聞きしない事だった。

三篇 巻之57 〔11〕  内匠は成し遂げたりや 

 元禄14年(1701)春3月14日、参向の公家衆御饗応の日の事。
御馳走人浅野内匠頭が、高家吉良上野介を刃上に及んだ。

 本家藝州(広島)の邸でも何かの祝いに能を催していた。
脇能『絵馬』の中入りのとき、殿中の騒動を報告に来た。

 藝州が即問われたのは、「内匠は成し遂げたか?」。
使い曰く。「そのようではありませんでした」。

 この時から藝州の家では、『絵馬』の能はしないということだ。
因みに、かの侯の能役者の輩数人あったが、1人もこの能を知る者がいない。

続篇  巻之3 〔18〕  天変地異は連なるかや

 我が領内の者が語った。
 文化甲戌年(文化11年、1814)6月14夜、平戸の海で釣りをする者があった。
糸を数尋下ろしているのに、海中の潮行粉乱だと判断した。
鈎を海底に落とすことが出来ない。

 そして天を仰ぎ見ると、雲行きはまるで風なきの様子である。

 また海水に手をつけてみると熱湯のようである。

遂に魚1尾捕れなかった。
三更(五更の第三。今の午後11時から午前1時頃)になったので、家に帰った。

 翌15日の昼になろうとする頃から大風が起こった。徹夜してようやく止まった。

 この時巨木が倒れるのが殊更多く起こった。大小の破船が100ほどもあった。

 これらの事を思うに、天が異常の風を興すときは、地がまずその徴候をなすのか。

 もし知らなければ有りえないではないか。

三篇 巻之26 〔1〕  善知鳥の姿と性質

 謡に見える善知鳥(ウトウ、或は鳥頭)という鳥の事を『続篇』の4巻に書いたが、その後狂言の鷺に衛門(1560~1650,江戸前期の狂言師)が咄すことがあったと仁右衛門は云った。

 某の弟子に狩野三平と云う者はすこぶる画才があった。
近頃訳があって、奥州へ往くが、外浜で親しくこの鳥を見たという。
そして写して帰った。

 それは仁右衛門に贈られた。
図を視ると、容貌は雌雄の区別がつかない。

 全く両種ではないか。形状は『三才図会』と同じではない。
しかし、ここに写したものは、この鳥の真の姿である。

 (写真参照)

 この図によると、この禽は、鷗(カモメ)の様に海鳥で、子を生むのは浮巣ではなく、打沙の上に産する。
だから容易く人に取られる。

 思うに愚性の鳥である。
わしは『続』4に詳細にした。

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続篇 巻之4 〔1〕  うたふ やすたかと鳴く善知鳥の親子を殺めた地獄の猟師 

 謡の中に『善知鳥(ウタウ)』がある。
 その大略は、立山禅定の僧が奥州に往こうとしていて、この山の地獄で老人に逢う。老人曰く。
「陸奥に下ると外が浜と云う所があって、そこの猟師が妻子を残して身まかった。この亡者(猟師)に蓑笠を手向けてくれと云った」。
僧は「では、(あなたが)その猟師の縁のある者という験(シルシ)を頂けないか」と云った。

 老人は、麻衣の袖を解いて、僧に托した。僧はそれを携え、猟師の妻子のいる奥州を尋ね、(袖を)与えた。話をしていくと、さきの老人はその猟師の亡霊その者だった。
 
 生前に殺生を業とした報いに地獄に墜ちて苦難を受けているのを妻子に知らせようと、この形見を渡したのだった。
妻子は亡者の衣を確認すると、やはり袖のない衣があった。
これからまた亡霊があらわれて、地獄苦患のありさまを語る。

  〈 謡の文句は、是も久しき形見ながら、今取出し能(よく)みれば、疑ひも夏立け 
    ふの薄衣、一重なれども合れば、袖有りけるぞ、あらなつかしの形見や。頓て
    其儘吊ひの、御法をかさね数々の、中に亡者の望むなる、蓑笠をこそ手向けれ。
    又、陸奥の外の浜なるよぶこ鳥、なくなる声はうとうやすかた。
    又、中に、無慙(むざん)やな此鳥の、愚か成るかな筑波根の、木々の梢にも羽を敷き、浪の浮巣をもかけよかし。
    平沙に子を産て、落雁のはかなや。親はかくすとすれど、鳥頭と呼れて、子はやすかたと答けり。扨(さて)ぞとられやすかた。
    又、親は空にて血のなみだをふらせば、ぬれじと菅蓑や笠をかたぶけ、爰(ここ)かしこの便を求て、かくれ笠かくれ蓑にもあらざれば、猶(なお)ふりかかる血のなみだの、目もくれなゐにそみわたる、紅葉の橋のかささぎか、娑婆にてはうとふやすかたと見れしも、冥途にしては化鳥と成。

『藻塩草』に、
    子をおもふ涙の雨の笠の上に
    かかるもわびしやすかたの鳥

 太神宮へ勅使が下て、うとふやすかたと云鳥を取って、三角柏(みつのがしわ)と云樋
に備て神供にたてまつると也。此鳥取るものは蓑笠をきてとる也。其故は、すなの中に
子をうみてかえしたるを、母鳥のうたふがまねをして、うとふうとふとよべば、やすかた
と云てはい出るを取と也。其時母空にあがり、かなたこなたへつきありきて、鳴涙雨のご
とくにちにてふる間、その涙かかりて身そんずる故に、みのかさをきると云也。〉 

 これもまた奇異に聞こえる。
和歌は何人の所詠か。
『観跡聞老志』を引いてみよう。
出所はわからない。同書にまたこの様に出ている。

〈素都浜(ソトノハマ)は津軽以北の蝦夷の地である。
土人がこれを外の浜と謂う。安潟村、外の浜は青峰(アオモリ)の山畔にある。この地
に鳥がいる。子を沙の上に産する。人がその子を捕れば、即悲鳴をあげること殊に甚だ
しい。土人は沙鳥(ウトウ)という。或は善知鳥と称し、或は烏(童鳥)(ウトウ、童
に鳥は辞典に見い出せず)と号する。

  陸奥の外の浜なるよぶこ鳥
          なくなる声はうとふやすかた(『夫木集』)

『和漢三才図会』にある。索規浜(ソトノハマ)は、津軽の海辺の総名である。青森の
近処の浜の村にあり、安潟と名づく。善知鳥の鳥が多い。然るに安潟を以て、その声と
為る者は、いぶかしい。
同書に云う。善知鳥は正しい字は未だ詳しくない。按(しらべ)るに、善知鳥は鷗(かも
め)の属だろう。形色は鷗に似て、嘴は黄色で、末に勾れり。脚は淡い赤色。奥州卒土
浜(ソトノハマ)にいる。特に津軽の安潟浦の辺りに多い。〉

 蕉叟曰く。すべて謡曲は、従来、拵立するもので、みな事実では無きことは勿論である。
たまたま有るということは、この一事を敷衍(ふえん、おし広げること)して模様をつけ
たものである。

 世の人は知らずして、謡の事跡(出来事)を真の典故の様に唄う者である。面白い。

巻之79 〔6〕 江都に登った蘭人の土産話

 丙戌(1766か1826とみられる)の春、蘭人が江都に来上のとき、参政水野壱州の宅に行智もよばれた。
そこで蘭人に逢い、その時の話をしてくれた。

  甲斐丹 ヨハンウィルヘルンデスデコルレル    52歳
  書記役 ヘンデレキヒェルケル          25歳
  医師  ヒイトルヒリップフランスハンシイボルト 24歳

  このコルレルは、身の丈が殊に高く、かの邦でも非常に高いとぞ。

 コルレルが云った。
かつて軍の旅で、衆士とともに流沙を渉ったことがあるという。
その間およそ40余日、沙漠(砂漠)の地を行くと、処によっては林木もあったが、すべては沙石のみだったと。

 夜宿の家も無い。
寝るべき道具を木の枝に網を懸けて、その中に臥すのだという。
これは熊が多いので、露地に宿することは不可能であるからだとのこと。

 夜半になると、人がいることを知って、熊どもは群でやって来て、木に登ろうとする。その時、鳥銃を放てば退くという。

 後は昼の出てきて路を遮ることもある。炮を打ち出すと、その火の光を見て、鷲もまた飛んできて、翔り舞う。

 人のいない所だと、これ等鳥獣の害を避けるのは困ると云っていた。

 流沙砂漠の話を親しく(距離感が近いや詳しくの意味も含まれると思う)聞くのも珍しかったと行智が云った。

 行智また曰く。
昔我が真如親王が、入唐渡天(唐に入り、インドに渡った)と思い立ったが、流沙の河で虎に喰われて失われたと云うことも、このような猛獣の多い堺なればこそで、さぞあったのだろうと思われるかと。

巻之23 〔18〕 白岳に登ったら、海で起こる不思議を見た

 医師の某が、先年壱岐に往こうとして田助に泊まった際、この浦の辺りの白岳に登った。

 時は3月で天気はよく晴れ渡り、海の波は穏やかだった。
4,5人の輩としばらく眺めていたが、海洋を臨む処4,5里と思われるが、西の天にはたちまち一むらの雲が、墨を流す様に俄爾となりそれは半天をおおってしまった。

 その形は斜角(しゃかく、直角90度、平角180度以外の角)で下り垂れる所に鋒(ほこさき)がある。
やがて海面に下ろうとすると、潮がそれに応じて沸騰した。
それは尖った山の様な形で高さは2,3丈(6~9㍍)だった。
雲と波は相向って、一条の銀氷白浪が躍々としていた。

 すなわち暴風大雨かと思われたが、遠くにあるのではっきりとわからない。
この時雲が下れば、浪が迎えて上る。
雲が上がれば、浪は下る。

 こうして西から東へと奔る如しである。
その迅速さは須臾に10余里を渡り終えて雲は散り、浪は平かになった。

 このとき、1艘の小舟が2,3里辺りにあったが、この風に中(あた)り、ひっくり返ってしまった。

 また1里辺りに大船があったが、俄かに帆を張って走り行く。
なお風の音に触れて楫(かじ)を折って、地の方角に漕ぎ入った。

 奇異な事に思えたので、土地の老人に見たことを話し、何のことだかを訊いた。
老人は「これはゑいの尾と云ってな、これに逢うたときは船は必ずひっくり返る。舟人はこれをみたらよく晴れていても著しく警戒するものじゃ」と答えた。

 このゑいの尾と名づけたのは、ゑいは魚の名(紅魚)、雲の形はかの魚の身に似ているので云爾(しかいふ)となった。


 *何とも不思議な話でありました。が判別不可能が即ちあり得ない事とは思いません。甲子夜話には、不思議な話が多く含まれます。1記録として読んで残します。

 *また対馬や壱岐、平戸の辺りや白岳には不思議な白髪白髭の老人の話もありますので、これからこの類の話に出逢えることを期待しながら読んでいきたいです。

巻之45 〔34〕 四方山話~能、雅楽、産子(うぶこ)が麻疹にかかる

  この程林氏を訪問して、四方山話をした中で覚えてたものを記そうと思う。

  今の能(申楽このこと)は、宋の世のしばい狂言である。
宋に行った僧などが見てきて、わが邦も取り成して作ったと。

  また、今の雅楽は、唐時の枝楽であると。

  また、対馬から朝鮮にの地に往った者が会宴があるときは、必ず女楽を設く。
これは、親しみを示すものだろう。

わしは話題を変えた。
「生涯、麻疹にかからぬ人もあるがな。これは母の胎内でかかった者と云う人がいるよな。さもあらんか」。

すると林は、「近頃親戚の某の妾がですね、懐妊しておりましたが麻疹にかかりました。残念ながら流産したんですが、その産子(うぶこ)の満身に麻疹を発していたんですよ」。
取り上げてやや久しくして息絶えたと。

  すると前言は真(まこと)であるかと。

続篇 巻之82 〔1〕 姦曲吟味につき

 先ごろ志摩国の姦曲(心に悪だくみがある事)があり、かつ里民騒動に及んだ等聞いた。
この頃勢津の臣井野某はしばしばわしの荘に来るので、それについて質問しては、応じてくれたのでそれを記した。

 志州に波切(ナキリ)嶋と云って、家戸5~600であった。
ここに某称する豪富の者があった。
嶋中の人々は服従していた。
ある時官の廻米船が、かの沖で難船して濡米が出来たのを官船の長と姦謀して、廻米が全て濡米になったと称して、かの豪家が下直(げじき)に買い取った。
ところが江州信楽の御代官多羅尾靱負の支配所の庄屋某案内者として、多羅尾の役人等官米の糺として波切嶋に至った。

 この庄屋は元来公領所の権勢を借りて、時々ゆすり、人に迷惑をしていたので、この度もまたゆすろうと心得て、大勢の者が庄屋を打ち遂に死に至った。
この次第が公庁の耳に入り、江都の官吏が下向して、桑名領四日市で吟味があった。
囚人が多くいてかしこに呼び出された。
勢津の臣は正しくこれを観たと云った。

 この時籠(かご)で30人余、歩行20人ばかり、志州より指し出した。
そのころは殊に騒がしく、種々風説もあった。
総じて御代官ばかりより、御用と官吏輩他へ赴くときは、先ぶれがあった。
先方の有司も立会糺方あるべき作法が、先の庄屋は、先令も至る前にかの地へ到って糺方等したのは、これまでの欺慾の仕方なのか。

 またかねがねの不埒露見したのだろうか。
強いて穿鑿(せんさく)もなかった。
この穿鑿が強ければ、却って御代官の方の非文(道理にはずれたこと)に及ぶべきかの風評もあった。
それゆえか吟味も一通りで、囚人も連々返され、その中の3人江戸へ出たようだ。

 この卯年(1819、1831,1843、1855辺りか)2月頃のことの由。
   かの庄屋打ち殺された翌日、稲垣侯へ先ぶれ達したりとぞ。それゆゑ侯の不念
   にも成らざるかと風聞す。津侯(藤堂)へも、百姓多人のことゆゑ万一異変も 
   出来なば、速に人数を出し、火事羽織着すべしと達し有て、番頭一人組士以下三百
   人計の手当有り。伊州表も別段人数の手当有りしと。
勢津は南海の向いた所なので、異国船渡来の防設を専らとしていた。
平常は武器人数の手当があって、即刻にも出張の手配りのところだが、この度は外事のため、かの手配は用いず、迷惑に及んだと。

 また波切から、勢津へ海上10里許の所、日々魚買い往来をした。
同所のことも委ねる心得があれば、中々徒党などないと騒ぐことはないが、伊州は程遠いので、今も人数出張と、殊にもの騒がしくあった。

このとき桑名侯へも人数の令(フレ)があった。これは領内四日市で吟味あったことによる。
志州表の手当ではないと聞こえてくる。

 かの波切嶋は米穀無き所で、魚猟のみなると、かの難船等で不意の利があることを幸いとする里俗で、この度だけとは限らない。

 吾の留守、鳥羽の留守を聞くと、津侯人数手当のことは、鳥羽から申し立てることはなくて、官からの令である。
故に鳥羽へは官からその旨の御達しがあったと云う。

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