巻之20 〔26〕 玄海に人魚現れる

  人魚のこと、大槻玄沢の『六物新志』に詳しい。
かつ附考しながら、わが国の所見を載せようと思う。
わしが聞いたところによると、延享(1744~1748)のはじめ伯父母二君(本覚君、光照夫人)が平戸から江都に赴かれ、船で玄海を渉るときに天気晴朗だったので、従行の者どもが船の櫓に上がって廻りを見ようと舳(へさき)の方から10余間(1間=1,8181㍍、20㍍程)の海中から何者かが現れた。

 全く人体で腹から下は見えないが、女の容貌で色は青白く、髪は薄赤色で長かったという。
人々は怪しんで、このような海中の海女が出没することはあり得ないなどと云っていたら、船を臨んで微笑んで、海に没した。
ついで魚身が現れ、また没して、魚の尾が出たという。

 この時人々ははじめて人魚だと云った。
 今『新志』に載る形状を照らし合わせるとよく合っている。
漢蛮共に東海にいると云うんで、わが国内にては、東西二方でも見るは事あるだろうか。

三篇 巻之35 〔12〕  世の諺、色々と

 世の諺に、士(サムライ)は、速飯、急屎(ハヤグソ)、迅歩(ハヤバシリ)と謂うが、如何にもあるものだ。
わしが自らのうえで云わんとするのはー。
はやくより歯が落ちれば、喫食は速くない。
遅々と時を移す。
また痔を患えば、厠に往きても長く在る。
また歩行も、この疾病で迅速ではない。
これらは泰平の今憂いとしない。
けれどかつて、遠祖公法印殿(松浦鎮信公、11549~1614、戦国から江戸時代初期大名)の朝鮮在陣の記事を観ると、如何なれば7年の間、この月日を過ごされたか。
羨しくも、慕わしくも渇仰(深く慕う)の念が絶えない。
またかの三条のことは、故武の加藤清正が云ったこともあると聞く。
何の書に載っているかは、今知る術がない。
またつかぬことだが、小笠原逸阿(当時哥人)が、小川町に住んでいた頃、隣の家が失火したことがあった。
その時の口占(くちずさみ)に、

  隣なりける家より火いでて、
  栖(棲、巣)を走りのがるるとて、
                      逸阿 
  とぶひのの野焼けふりの風さきに、
  かくろひ(隠れ)かねてたつ雉子(きじ)哉。

巻之30 〔10〕 みさごのすし(鶚鮨)

 海辺にはみさごと云う鳥がいる。
鷹の類で魚を捕り食う。
この鳥、海巌数仭の壁立した穴の中に巣くう。
この鳥は捕った魚を積んでおいて餌とする。

 この魚は天然の酢気があって味が良い。
人はこれを『みさご酢』と呼ぶ。
これを取るには梯子等を設置する。
鳥がいない時を窺い、素早く出かけ、この積んだ魚を下から取って上を残しておく。
すると鳥が帰って来ても取られたことに気づかない。

 もし上から取っていったら鳥は気付き、再び来ることはないだろう。
巣を他に移すと考えられる。

 蘭山が『啓蒙』に云う。みさごは鶚と。
『万葉集』に水沙児(ミサゴ)。『福州府志』に海鶻。
水辺に多い。形は鴟(とび)に似て、大いに高く翔ける。
鳴き声も鴟に似ている。
水上を高く旋飛びすれば、魚はその影に驚き逃げるが水面にその姿が見えるので、捕まる。

 翔水上を翺(か)け魚を煽って(水から魚は)飛び出す。
これである!江州で魚網を引き挙げると、鶚鷗(みさご、かもめ)が多く来て集まり、水面に浮かんだ魚を捕る。

 また深山巌陰に魚を多く積み重ねて置くのを、『みさごのすし』と云う。
これは冬の貯えである。
人はこれを取るに、重ねた下の魚を取れば、追々新たに魚を持ってきて積み重ねる。
もし積んだ魚を上から(人が)取れば再びここに持ってこないだろう。
また樹の枝の繁茂した処に柴を襯(しん、肌着の意味)し、その上に魚を積み重ねるのもいる。
これ等の酢はすでに久しくなっていても腐らない。
人が取って賞食する。
これを見ると、みさごも一様(そろっているさま)ではないと聞こえる。

三篇 巻之12 〔7〕 人と鷹と心得合わす

 岸和田老侯は、近頃縁家となったので、親しくよく会っている。1日宴席の話―。

 某の領邑は住ノ江の近くで古には岸の姫松と歌を詠じた旧蹟は、今は城下町の裡(うら)、3町ばかりの奥に、小さい土手の形がある。
この処はかの旧蹟という。
ならば今は昔の海浜は3,4町も陸地となったのだ。

 老侯60余り、殊に放鷹を好まれる。
わしは「鷹は巣育(スガイ)のものだから、野立のものを飼うようなものですか」と問うた。
この意は思うに、巣育のものは当然のものである。
侯は「巣育は野立に及びません。そのゆえは巣育のものは、人に馴れるのは宜しいけれども、
鳥を捕るわざは、みな人の教えであればそのままにしておくわけにはいきませぬ。
野立のものは、はじめみな、己で困苦していきる術を学ぶので、人に馴れるのは少し難しいけれど、馴れた後は、捕獲の技は自在でございます。
それで使う者が機会をよくすれば、鷹の捕獲もまた意のままになりましょう」。

 すなわちわしは心の中で嘆息した。
人といえども鷹のようなもの。
上古舜禹(シュン、ウ。2人とも中国神話伝説の君主)のような者達も、もとは庶民であった。
つまり天子となっては、またみな賢く働いた。
吾が朝も同じうして、その中に善悪はあっても、豊太閤、恐れながら神祖徳廟(家康公)のようなお方も、御処置のほどを量知るべきである。

 その下はとても、近く寛政(1789~1801)に採用されている我々ともがら(地方藩主)は、みなもとは放蕩游冶、あるいは侠行の輩である。
ならば今の大名と云っても、とかく為すことのある人は、もとは野立の鷹である。

 また君臣の合も、野立の鷹を、鷹上手の捉え飼う体のことと念う方がよい。
鷹も心得て、使い手も心得、その心得が双方協うならば、うまく鳥を獲れる筈である。

続篇 巻之7 〔16〕 牛角

 世に、俗の年長けて僧となって剃髪する者を牛角と呼ぶ。
これは額の上の毛を抜き上げた形が牛の角が左右に開いたようなものを云う。

 この頃『名臣言行録』で張詠がこの中で、ある(怪しい)僧が行く手を遮られた。
有司は僧を捕えたと公に告白した。
公はその牒(ふだ)を判別して曰く。
人を殺した賊を取り調べていくと、果たして(我は)一民だったがと、自ら(打ち明け)剃髪して僧となったと云っている。
(この男は)ある僧と共に道中を歩いていたが、僧を殺してその祠部戒牒二衣を奪い取り、自ら(衣を)着て剃髪して僧となったのだ。

 役人は問うた。
「如何にしてこれがおわかりになったのですか」。
公曰く。
「その額の上を見ると、猶(なお)、剃った疵あとに毛がふさふさしているだろう」。
これは前の牛角とは異なるが、よく似たことである。
また前の段のような人を鳥居とも呼ぶ。
これも額の上の毛のぬき上げた形 が、社前の鳥居のようだと云う意味である。

 嘗て聞いたが、ある籏本の人が、剃髪して僧形となった時に、ある人が狂歌を口ずさんだ。
  禅門の前に鳥居はいらぬこと
        後にかみ(神、髪)の御坐るでもなし

続篇 巻之46 〔15〕 首斬り、罪人と心を合わす

 1日三上侯にて犬追物を視て後、談話の次に侯曰く。
成瀬氏(犬山城主)の臣に某がいる。
我が方によく親しくやって来る。
この男は心剛な者で段打ちよくする(この人は試しに腰車といって骨の五重(イツエ)あるところを6度切って切り通した手練れである)。

 ある日言うには、某人が切りの門人となったので、死刑の者の首を度々斬っていると。

 その斬らんとするとき、胸中に今刀を下さんと思えば、罪人は息を外へつくことなく、アッアッと内へのみ引くという。
それ故その苦患を見ると自ら惨く思う故、今斬らんと為ったとき、己が無心になれば、罪人も一向心つかないので、平気になるものである。
そこで首を打ち落とす。

 死する者ながらもしばらく苦痛させないのが善しと念ってこのようにすると云ったと。

 いかさまにも活き物同士のことゆえ、心気自ら相通じる所があるのは不思議であるものだなあ。

続篇 巻之46 〔16〕 移ろう鼓の不思議な音

 わしの荘にあたり、夜になると時に遠方から鼓の音が聞こえてくることがある。
世にこれを本荘7不思議の1と言って、人も往々知る所である。
だからこの鼓の音を調べようと音のなる方に行くと、他の方向から音が聞こえてくる。
わしの荘では、辰巳(東南)に当たる遠方で時として鳴る。

 この7月8日の夜、邸の南方で聞こえたが、にわかに近くなって邸中で打っているかと思うばかりになったが、たちまちまた転じて未申(南西)の方に遠ざかり、その音がかすかに成っていたが、俄かに殊更に近く邸内で鳴らしていった。

 わしは几(つくえ)で字を書いていたが、侍婢(側近くの女中)などが恐れて立ち騒ぐので、もしやいたずら者の児の所為かと人を使って調べさせたところ、近所の割り下水迄はその音を追いかけたけれど、鼓を打つ景色もなく、またその辺りに問うても、誰もその夜は鼓を打つこともなかったと答えた。

 その音は世の宮守などによる太鼓の、面の径り1尺6寸(約50㌢)ばかりであるが、面の革はしめり、裏革は破れた音のように、または戸板などを撲てば、調子よくドンドンと鳴る事がある。
その音のように、拍子は、始終ドンツクドンツクドンドンドンツクドンツクドンツクとばかりに、この2つの拍子は、あるいは高くあるいは低く聞こえる。

 何の所為なのか。
狐狸のわざでもあるのか。
欧陽氏が聞くと、秋の声賦(ふ、詩歌をつくる、唱える)の後、また一賦の作があるだろう。

三篇 巻之23 〔3〕 酒を飲んで酩酊の後に

 年毎の正月2日に舞初めと唱えて、午時の半ば過ぎる頃より、侍女を白拍子をかぞえ為せている。
これについて、この舞を採興したとき、これに与(クミ)する者は、いつも招いて、酒肴を与え饗していた。
またそれを観ようとやって来る者もまた多くいる。
それで後は、酒酩酊の者も相半する。
今春もわしは盃を傾けた結果、遂に酔臥した。
次の朝起きて、懐に入っていた袋を見ると、一片の書き付けがあった。曰く。

    神祖御教訓のよし人の模し置し条々

 人の一生は、重き荷を負て、遠き道をういくが如く、いそぐべからず。

 ふ自由も常となれば、不足なし。
 心に望起こらば、我より困窮なるものをおもふべし。
 堪忍は無事の基,物好は敵とおもへ。
 勝ことばかりを知て負ることをしらざれば、身を害するに至る。
 唯己を責て人をせむるな。
 何事も及ばざるは、過たるよりも増る。
 これ予が常に懐にするものにあらず。
然るときは、熟(た)れか昨来の客中、予に示せし者ならん。
今其誰なるを審にせず。何れとも神の授け賜いし者ならん。
神君の御意(ココロ)、蓋し『論語』、『老子』等の旨か。
呼那賢古志(あなかしこし)。

  啓拝上け初に指出候、どふか酒ずくめにて恐入候得共、本心は堅固故、御旧交相違無願参候。頓首上。

王月(正月)五日      花押印(写真)
黙山林公玉案下  
                          
 酒は天の美録、何ぞ不可とせん(『漢書』食貨志。
酒者天之美録、所以願養天下)。呵々。

一、 七条の宝訓と称するもの未見の御座候。誰人所持にて某伝候哉。御序に御托示可ㇾ被ㇾ下候。以上
         正五       衡 行上

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巻之1 〔43〕 公家のやり方と武家のやり方の違い

 わしの待妾(御側にひかえる女中)の中に外山家の女(むすめ)がいる。
その父は元公家だったが、年若い時、身持(一身の処置)が出来ず、退身して隠遁した人である(名了円)、
わしは、その人と問答する中に、奇と思えることを1つ2つ記したい。

 その一は,わしは云った。
公家は貴いと。古より髪をも剃らず、総髪であることこそ目出長けれと語ると、答えるには、いやいや左様では無し。
我等若輩の頃迄は、摂関などは特別で、大納言の衆中武家伝奏は勿論、我等祖父なども、皆々月代(さかやき)を剃っていた。
却って総髪は珍しく、多くは武家の通りだと。
それならいつ頃から(年代を今忘れ)、漸々に今のようになった。
かつて今の風は復古なるものだろうが、中古の風には非ずとのこと。

 またその一は,
刑罰はじめとか云って(その名忘れ)、毎年正月某日(月日忘れ)、何の処か(また忘れ)、罪人をひき出して(この罪人と云う者はこれを勤めとして、日常は何か家業をしている者である。
例年この事行われる時には、罪人の代として、刑場に出ると云う。
真の刑罰は総て武家にて行われるので、これは朝廷の儀式ばかりと聞こえる)、検非違使は正面に並び、その下にかの罪人をひき出す。
その外その事にあてがう者、みなみな官服を着せる。
罪人もまた烏帽子を着服あって、敷皮の上に坐す。
時に側から罪文を読むと、太刀執(とり)も同じ服の色で、その後ろに回り、太刀をあげて首を打つ。
その太刀は刃ではなく、木の(名忘れ)、小枝を執ったもの。
罪人は太刀執の首を打つとき、かぶった烏帽子を脱がせ、敷皮の上に置いて、その身は退く時に、側の人はその烏帽子を取って、検非違使にささげて事を終えると云う。
なるほど世の俳優に類するが、古政のやり方が遺されているようだ。

 またその一は、
了円在勤のときは、正四位式部少輔にて、主上(桃園院)の御側に侍る勤めとなった。
御坐所平常の朝清めの洒掃(さいそう)は、衣冠を着する。
世の煤(すす)払いと云うものも歳末にはある。
この時も同じく衣冠にてする。やはり俗間のように、主上別伝に遷された御跡にて、御坐所の御丁度を悉く持ち出でて、天上から御席までの塵をみな清掃する。
また御遊びのときは、これまた衣冠にて、御円池の船に乗って棹さす等のこともすると、語った。
これは九重のうえにては、固よりこのようなことになるけれども、武家の心にて見れば、異なるように思われる。

巻之69 〔26〕 利をもたらすはずだった工事が止んだ話

 林曰く。
辛未(1811、文化8年か)の年、西行のとき下関に至り、もしこの間が地続きであれば、さぞ海運は不便利になるだろうと、つらつら思っていると、今一か所東西に通じる運輸があれば、本邦の富庶幾倍になるかと考えるより、琵琶湖の西方の越前若狭の地尻で、その高低を計り、運河を新たに穿ち、中間の高みは舟の通らねば、その間は山越に馬荷を通じ、湖辺では荷物を積みかえ湖中を水運して、鹿飛(ししとび、山川の渓流で岩と岩の間が狭くなっている)では再び荷物を陸送し、淀の河船に移し、大坂川口からまた海船に転じたら、運輸が自在になる事、これよりすぐるものは無いと考える。 中々新田類よりは百倍の国利を起こすはずだと思案した。

 さて、工事が終わって、帰路に京兆(ここでは京都か)に逗留する折に、小浜侯(酒井若狭守忠進)だから、その事を密に面議した。
幾ほどもなく小浜侯は召されて台閣(中央政府)に入った。
その老臣は帰郷の初めにそのことを謀り、土地の詮索があった。
兼ねてから若州の小湊を川上へ余程堀り上げたところ、それを聞いて大阪の富豪ども争って出金し、その費用に当てようと云う者があったとのこと。

 つまりその川上から江州に赴く場所が、他領の入り合いが多くて、色々と指支(さしつか)えるので、ついにはその事が成らずに終わってしまった。

 かえすがえすも惜しまれる。もし時を得て、官命があれば、この事業は成功しただろう。

 やや成就に於いては百世の利足るのであったろうに。
子白が評するには、桑田の変、図り難し。況や時運の移る、天道あり。人力の施す、蓋日あらん。

 ならば林子出言の功、上に揚げた処の為か。あるいはまた伍胥の眼を借りて東門の上にかけて観ん。

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百合の若

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