わしの待妾(御側にひかえる女中)の中に外山家の女(むすめ)がいる。
その父は元公家だったが、年若い時、身持(一身の処置)が出来ず、退身して隠遁した人である(名了円)、
わしは、その人と問答する中に、奇と思えることを1つ2つ記したい。
その一は,わしは云った。
公家は貴いと。古より髪をも剃らず、総髪であることこそ目出長けれと語ると、答えるには、いやいや左様では無し。
我等若輩の頃迄は、摂関などは特別で、大納言の衆中武家伝奏は勿論、我等祖父なども、皆々月代(さかやき)を剃っていた。
却って総髪は珍しく、多くは武家の通りだと。
それならいつ頃から(年代を今忘れ)、漸々に今のようになった。
かつて今の風は復古なるものだろうが、中古の風には非ずとのこと。
またその一は,
刑罰はじめとか云って(その名忘れ)、毎年正月某日(月日忘れ)、何の処か(また忘れ)、罪人をひき出して(この罪人と云う者はこれを勤めとして、日常は何か家業をしている者である。
例年この事行われる時には、罪人の代として、刑場に出ると云う。
真の刑罰は総て武家にて行われるので、これは朝廷の儀式ばかりと聞こえる)、検非違使は正面に並び、その下にかの罪人をひき出す。
その外その事にあてがう者、みなみな官服を着せる。
罪人もまた烏帽子を着服あって、敷皮の上に坐す。
時に側から罪文を読むと、太刀執(とり)も同じ服の色で、その後ろに回り、太刀をあげて首を打つ。
その太刀は刃ではなく、木の(名忘れ)、小枝を執ったもの。
罪人は太刀執の首を打つとき、かぶった烏帽子を脱がせ、敷皮の上に置いて、その身は退く時に、側の人はその烏帽子を取って、検非違使にささげて事を終えると云う。
なるほど世の俳優に類するが、古政のやり方が遺されているようだ。
またその一は、
了円在勤のときは、正四位式部少輔にて、主上(桃園院)の御側に侍る勤めとなった。
御坐所平常の朝清めの洒掃(さいそう)は、衣冠を着する。
世の煤(すす)払いと云うものも歳末にはある。
この時も同じく衣冠にてする。やはり俗間のように、主上別伝に遷された御跡にて、御坐所の御丁度を悉く持ち出でて、天上から御席までの塵をみな清掃する。
また御遊びのときは、これまた衣冠にて、御円池の船に乗って棹さす等のこともすると、語った。
これは九重のうえにては、固よりこのようなことになるけれども、武家の心にて見れば、異なるように思われる。