三篇 巻之39 〔3〕  空腹の犬がにごり酒を飲んだことの顛末

 近年米の値段が高い。
当年(天保8年、1837か。霜月)は酒が売り切れるので、都下で濁り酒を造って売る。
濁り酒は下直(安価)のうえ、飲めば腹が張って食欲が減るので、人々は好んで甚だ飲んでいる。
つられて追々酒も積み込んでくるし、米価も下がるが、濁り酒が繁盛して、米酒の邪魔をする故、即ち都下の濁り酒が禁じられた。
 
 因みに私慝(とく、隠れての意)の者があって、その楼上で陰造する。
だが露わに売ることは出来いので、酒桶を紐で括って楼牖を出して、街に下ろして密かに行を与えようとした。
忽ち縄が切れて桶は地面に墜ち、道にあふれ出た。

 またこの頃市の人は食物が乏しいので戸外に残り物を捨てる事はなかった。
故に犬戌のようなものも残り物を喰うことが出来なかった。
だから餓えた犬はこの米汁(ここでは濁り酒)なる物を知って、集まって来ること50余匹、みなこれをなめ尽くした。
須叟(しゅゆ、ほんの少しの時間)にして、その犬はみな喜んでいた。
或は相競争したり、また悦吠(えつはい)の状態を為し、また歓闘の体であった。
悉酔(すいほう、すいぼう、酒に酔い、あきるほど食べること)している。

 視る者は安堵した。
つまり遂に酔って臥したものが半数いた。  
人は戌が酩酊したと大笑いをした。
犬は時が経っても起きない。 
人はまた沈酔していると笑う。
1人が犬を揺らしてみると、これがみな死んでいた。

 その奈(い)かんを知らず。
これは神田佐久間町に於いて、わしの弓工の某が間近で見たことを話してくれた。
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続篇 巻之4 〔4〕 雪舟渡唐富士の図

 谷文晁の話に、今細川家(隈本)秘蔵の雪舟渡唐富士の幅は妙心寺の什物である。
三斎の時妙心寺の住職に乞い借りて江戸に至り、茶席に掛けて愛賞していた。
が装潢(そうこう)があまりに麤末(そまつ)だと佐久間将監に頼んで、好きな装潢に替えられた。
また帰国の時上方へ持っていかれ、しばらく国元にて借りたいと云って持ち去った。
また翌年東覲の時もそのように、ことわっては江戸に持参された。

 年月を送る内にいつか細川家の物となったと云う。
またその図は、清見寺の山を前に画いたものである。
雪舟が唐国にあって、うっかり寺山列樹の間に塔を描いた。
帰って清見寺を過ぎると塔はない。
雪舟は嘆いて、「我は唐人を欺くつもりはなくして、ふと描いたが、今見ると虚誕(でたらめ)になってしまったので、寺から18町ほど阻たる所に、新たに塔を建てた。その方角で恰(あたか)も画いた地位によく叶えり。」

 それなのに、寺の境内でもない所の塔なので、誰も守る者もなく、遂には乞食の住家となったが、1日失火して灰燼(はいじん)となった。
天明中(1781~1789)の事だからか、あり得るのだろう。

 古人の物に厚きことを感ずるに余りあり(林語)。

 この言にて思い出すのは、先年享和壬戌(1802)夏、狩野養川院の粉本を見たことが有る。
時に模写して置いた。
取り出して見ると、上包みに、雪舟渡唐富士と記して、内に、この本細川越中守殿所持としるしてある。
正しく上の真である。
因みにここに附す。(写真参照のこと)。

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続篇  巻之22  〔11〕 肴に火を与えた客と受けた花扇

 天明(1781~1789)の末だろうか、吉原町の花扇と云う游女は、書をよくし、学才もあったと云うのは、世に知られたことだった。
この花扇の客は何か思う所があったのだろう、酒宴の席で、肴にといって炉中の火をはさんで(花扇に)与えた。
花扇はは火を着物の袖で受け取った。

 それから室に入って、衣を更えて客の前に出てきた。

 客はまた火をはさんで肴に与えた。
花扇ははじめと同じく火を袖で受け取り、再び衣を更えて出てきた。

 これには客は大いに畏れ、恥じ入ったという。

三篇 巻之67 〔5〕 官艇(コウギブネ)と游舟がぶつかった顛末

過ぎた日ではあるが、わしの荘に阪善右衛門と云う者がいた。
この者は、祖先は常陸の成井とか云う処に、一城を構えた身分であったが、佐竹か誰かに戦に打ち敗けて後は微々として遂には庶民となった。
それからは上野の宮の臣となって、阪大学と称して近習奏者番など勤めて、その子が善右衛門である。

この男もはじめは宮の小姓近習番などに為ったが、如何なることか名を成井新三郎と更ため、戯場(シバキ)のふりつけ者(し)に成った。
わしの白拍子を再興したとき、近所の御鳥見は、歌学でもって聞こえ、中村弥三郎が吹挙して、その夫婦共に、前の業を止めてこの妓舞のことを周旋した(この婦人は、わしは年若いとき、小童として奥室の女員だったが、中散してしばらくして合流した。婦人は子どもの時から世俗の妓舞をよくしていた)。

この新三は未だわしの荘に入る前に游客で徘徊していた頃、また荘の近所に、御代々の御旗本、大坂御陣のときなどは、船手の天晴れなる家の(むの字の標旗を用いる人)主、新三と懇ろにして、ある日微服(シノビ)で屋根舟に乗って、歌妓(ゲイシャ)を携え、両人游行した。

中流で絃歌して献酬歓語した。
時にこの人の配下官艇(小舟)を公事(ゴヨウ)で往て還るに遭った。
游舟が知らずに官艇にこつんと触れた。
(官艇の)舟夫(カコ)は罵った。
「官艇を知らねえのかい」。
蝣舟はこれに応じなかった。
舟夫はますます怒って云った。
「おめえさんよ!官艇に触れて、知らん顔はなしですぜ」。
この舟はこれを聞いて驚き、逃げようとした。
舟中の怒りは甚だしかった。
舟中は歌妓絃を断ち切り、その他は杯を投げた。
舟夫(カコ)が云った。
「游舟、不敬であるぞ。そいつをさし出せ!」。

 かの人はますます恐れ、席(ゴザ)をかぶってその下に潜伏(カクレフシ)た。
舟夫はこれを知らず、驕って游舟の酒を飲み尽くし去った。

 後しばらくして、かの人は席に顔を出して、大息をして云った。
「急難をのがれたな」と。

 この人は実は、(怒った)官艇の支配頭だった。
舟夫は知らずして、権威を高くして、配頭は知って游過を隠したのだ。
笑える。面白いので記した。

三篇 巻之12 〔3〕 不学の後にたどり着いた憐れなる事

前の陰泉二損のことで、世の風説を聞くと、戸田氏午75齢になる人が今は載っていないが、去秋9月初めの8日、海釣りをしようと隣宅の清水殿家人の子の少年を伴って払暁に発とうとした。
この前に戸田氏の妾がその僕(使用人)とかねて姦通していた。
図らずもその時会合していたのを隣息が見て、戸田に告げた。
僕ははやこの様子を察知して、直ちに主人の刀を取って(主人の)戸田を殺した。
それから隣息と妾を疵つけた。
翻ってその氏の本家に行って、常々から主人の無慈悲な使われ方でだったので、切り、その上金子50片を奪おうとした。
ならば内々で済まそうと云っていたので、本家も法外の沙汰ならば、そのまま捕えて公辺に及んだと云う(かの僕の巧みは、このことが露見したら、戸田の家は断絶すれば、本家で金子を取って出奔し、戸田家に災いをもたらそうと。
また戸田が釣りに行こうとしたのは、俊廟(上様)の御正忌日だった。ともに冷笑ものだ)。
このような後12月に、千住でかの密婦は死刑梟首(さらし首の呼び方)していたのを、かの僕は磔系にて引き廻し、すでに刑場に行く道すがら、密婦の首を見て、含み笑いをしていたと。
正しくはわしの中の者が傍観してそのように語った。
女首には僕の切った疵がなお額にあったと。
また僕はこれから磔系になって、刑槍を受けても、なお悪行の様子が見られたと、云った。 
その男は年24,僕と唱えるが、その様子は侍勤めなど為した者かと、何より憐れなのは、不学の末路であるということ。

みなよ、よく学んで、良き人であって欲しい。
慎むること、戒むること。

巻之44 〔14〕 碁打ちの老狸

 世に知られた角力(相撲)の関取で緋威(ヒオドシ)という者は芸州の産まれである。
近頃年老いて、わしの藩お抱えの角力である錦の家に仮住まいをしている。
わしも年来知る者ゆえ、時々呼んで噺をさせる中に面白いものがあった。

 彼の故邑から在郷3里ばかりの村に老狸があった。
常に人と話を交わした。
見た目は普通の狸と違わない。
緋威もしばしば付き合った。

 ところでこの狸はよく碁を打った。
相手がほとほと困っていると、「あっしは目が見えませんからね」などと云って、かなしや凡夫をあなどる言い方をする。

 総じて人の如し。
だからこれを困らそうと、傍人が戸を閉じて障子を塞ぐと、その隙間から出て行くのは幻影のようである。
だからそこに留めておくことは出来ない。

 また戯れに陰嚢を披いて人に被せる。
人は驚いて逃げようとすると、いよいよ包み結んで、笑っている。
そのいたずらをするのも人と違わない。

 またある人がこれに「あんたさんには弟子がいるかね」と聞くと、「弟子ありと云ってもねえ、ただ隣村にいるちんば狐だけがわしの弟子だね。
しかしながら人と話するのは未だできねえな」。

 わしは疑った。
内心は信じられない気持ちを持ちながら、時に錦もまた同席していたのだから。
かつて共に芸州に行ってその人(錦)を知っているので、虚妄ともいえない。

 またこの狸はよく古い昔のことを語る。
おおむね茂林寺の守鶴老貉(むじな)の談に類する。

 だから芸狸も長寿の者か。
また隣のちんば狐は、里人に時々視られていたと云う。

(注): 茂林寺の貉(狸)は分福茶釜の昔ばなしで有名で、一般には狸が茶釜に化けたとされるが、寺の縁起は、狸の化けた釜とはせず、寺に長い間(161年間)も仕えていた老僧守鶴は古狸(貉)が化けていたもので、千人の僧が集まる法会で使った(分福)茶釜が一昼夜汲み続けても釜の湯はなくならなかったという。


巻之9 〔1〕 酢を買う心の先には

 松平一心斎は(備前岡山侯。内蔵頭治政、一心斎は退隠後の称)、性質が剛毅な人である。
大鼓打ちに孫兵衛と云う者がいた。時々伽に来て気に入り、左右に侍らせた。

 ある夏のこととかで、その邸に行って申し入れたらば、取次ぎの者が、「今庭におられます。聞いてきますと入っていったが、やがて出て来て、直に庭へ御入り下さい」と云う。
故に園中に入ると、折節夕景で自身で池水を汲んで、水銃を持って地にそそいでおられる。
孫兵衛が目通りに出ると、一語にも及ばず、水銃で水をかける。
孫兵衛も戯れと心得て左右に逃げる体を為たが、庭中に出ている人々がみな水銃でかける故、孫兵衛は目や口に水が入り、満身水を流して懐中の物に至るまで濡れてしまった。

 その時孫兵衛は立腹して、「いかに懇意の上でも、戯れもほどほどにせよ」と言うと、諸人はどっと咲(わら)った。
孫兵衛はいよいよ腹にすえかね、無言でそこを去って、表に行き、用人にこの事を言わなければと思っていたら、はやその所に小姓頭どもが待っていて、御苦労千万である。

 主人は早く(小姓達に)申し付けていて、これを着かえさせようと、上着、下着、袴、帯、その他懐袋、扇子等まで一切そろえ、みな元着ていた物より遥かに品まさった物を与えられた。
孫兵衛も愕然として老侯の奇策にひれ伏した。

 これからまたある夕に出ると、これも水うちの折なので、この度は世に謂う酢を買う心(いらぬ世話を焼いて人の気持ちを損なう)で、わざと水銃の筒先などに立ち廻っても、一向にとり合う者もいない。
たまりかねて、「さあ、かけ給え、かけ給え」と云っていると、やがて前のようにさんざんにかける故、わざと十分に濡れて、また賜り物やあるやと勝手に見ているが、何一つなく人もいない体なので、大いに失望して空しく帰ったと云う。
侯の気性このような事が多かったということ。

三篇 巻之15 〔3〕 古仏像を老女よりたまわる

 わし年30歳ばかりの頃、平戸の城にいた中、かの地の老女某はその家に以前から伝えた仏像があった。
そのはじめは京で某氏から与えられたものだった。
即ちこれをわしに上(たてまつ)るべきだと云う。
わしはかの家伝の物ならば、辞して受けないつもりであったが、再三これをすすめるので、収めて愛崇した。

 近頃ふと思い出しては、ここにその像を描いた。
像の大きさは大抵図の大きさである。
素は金彩を施したものと見えて、はく落して大体を露わしている。
それなのに、その金の純色は最も古光を残す。
木もまた蠧蝕(きくいむしに蝕まれた)して、すこぶる仏姿を破損している。

 またかの仏像を得た時、小記を添えた。云う。
     鳥の作。阿弥陀仏の化鳥である。

 嵯峨天皇の御願に応じて、仏が鳥と化して、この仏像を作りたもう。
即ち嵯峨清凉寺晴霞堂の御光仏である。
虫くいを明らかにする。
この尊は、台徳院様から安藤丹波守殿へ下され、御袋照智殿から伝来した(安藤丹波守は、『藩翰譜』を調べると、右京進重長の二氏、重好である。
『武鑑』重広に作った。御袋は、母を表す俗称)。(重長は、今の安藤侯の祖)

 『都名所図会』に云う。五台山清凉寺の阿弥陀仏堂は、棲霞寺と号する。
嵯峨帝の皇子融の大臣の営まれる棲霞観である(源順賦を書された)。
本尊は、阿弥陀観音勢至の三尊である。
旧嵯峨帝が離宮に在の時に、化人が来てこれを彫刻した。
造り終わって、酉の刻に去った。
この故に化人を酉と号した。

 上前記と異同があっても、その旨は通じる。
また嵯峨の崩ずる『皇朝史略』によると、承和9年(壬戌、842)である。
それなのに、今を隔たること(天保6年、乙未、1835)994年、最も古物と為すべきであろう。

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三篇 巻之20 〔13〕 天に偽るものはなし

 また先年に云ったことを思い出したので書き付ける。
 これもまた先年、東照宮御神忌のとき、京から公卿が多く下向あって、帰途東都の大城にも登営があった。
このとき伶工(れいこう、楽人)に仰せて舞楽があった。
この折から、予め諸有司が評議するには、「舞台には雨覆いがなくては、当日もし雨天なら如何なものか」と、伶工を召して尋問した。
答えるには、伶家では、「昔から朝廷の舞台に雨除けの沙汰はございません。また雨が降った例(ためし)もございません。だからこの度も定めて雨天にはならないでしょう。雨覆いを用意されるには及びません」。

 果たしてその日は天晴れたと。
行智曰く。
「これは人心に決定して動かないことは、天もまたこれに随うこと。『羽衣』の謡に、いや疑いは人間にあり、天に偽るものはないものであると、天人が云うのは実に凡夫は恥ずるものだと覚える」と。

三篇 巻之20 〔12〕 木刀で竹を斬る

 行智が先年話して記していたのをそのままに写す。
 青竹を4尺ばかりに切って、紙を広さ1寸位に細く長く断つ。
それからつないで、左右に垂らして、竹に掛ける。
図のようにしてこれを木刀で中から打ち切ると、竹は中から切れて落ちるけれども、細く釣っている紙は切れない。
これはよく人の為すことで、手が利くように見えるものである。

 この一段、仮設の観想に一点の疑慮がなければ、実有の竹でさえなくなり、雲を切るように切られるものである。
この観念の功験と云う。
智曰く。「斬ることを聞くより、呪師の観想で、不測の験力を顕わす具合を考得た。


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