巻之37 〔10〕  鳩杖の謂われ~鳩は咽(むせ)ないから。。。

 鳩は咽ることがない。
 老人は痰が絡まって、気弱くなり咽ってしまう。
故に呪詛をする。

 『続漢儀志』に曰く。
中秋月に、8,90の老人に杖を賜る。
鳩を造った物をその杖の端に着けるので、鳩杖と呼ぶと。

 また云う。
唾に咽るときは、掌(たなごころ)に鳩の字を指で書いて嘗めれば、即治ると云う(『世事談』)。
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巻之80〔24〕 壱岐の鯨組のもりを刺した鯨が佐渡の浜に打ちあがる

 先年わしの身内の人が剣術を伊庭軍兵衛に習っていた。
同門に林田長次郎がいてしばしば話を交わしていた。
その父は御勘定役で、かつて佐州在勤の間、奇異の物を得たと話した。

 あるとき、死んだ鯨が海に打ち上げられ、漂っていた。
潮が引き、浜に留まっていたが、農業、漁業の者達が集まって、鯨の肉を割って取っていた。

 鯨の背中には槍の刃や剣の様に長さ2尺ばかりのものが、刺さっていた。
その茎には、土肥組の三字が刻まれていた。

 思うに異域の剣なのだろうか。
その事は審議されなかった。
父はその剣を数金で求めて、佐渡の官庫に納めていた。
それは今なおそこにあると云う。

 わしの士に聞き咲(わら)ったが、これはわしの領する壱岐の鯨が漂着したものであった。
土肥組とは、壱岐の鯨の酋(おさ)、土肥市兵衛と云う者の目印である。
この如きもの数柄で鯨に突くのだ。漁の器でもりと云う。

 林田は大いに敬服したと云う。わが邦の中僅(わずか)に300里を隔てたら、そのことは感知しない。
況や異域1100里の外で器(もり)を賞玩する輩は、溺器を茗壺とする類が多いと思われる〔『余禄』〕。

巻之49 〔37〕 江浄寺

駿州江尻の江浄寺と云って、わしの祖先の松原院と法号される方の墓がある(泰岳公の二子、宗陽公の弟、名は信清。称源太郎。寛永(1624)元年5月この地に卒す)。

この年旅の次いでに、肥州(静山公の御子息)はこの所を参詣するに、岡崎三郎君(家康公の長男)の尊牌並びに御墳墓をも拝観したと文通に云いこした。

かつ曰く。
はじめは小寺であろうと思っていたが、参詣してみると小寺にあらず。
御朱印15石を賜る所であり、構造も軽々しくはない。
因みに諸侯の旅行、河本の阻滞があるときは、この寺に寄って本陣とすることもあるというぞ。
浄土宗である。

三篇  巻之67 〔8〕 祐天大僧正像

前にも記した祐天大僧正は、高徳の聞こえがあって、あるいは地蔵菩薩の化身だと云う。
この僧正の木像は、わしの荘の西南の川辺の普賢寺と云うところにあり。

因みに尋ねると、その縁記を書きとめたものもなく、昔はこの寺の近隣に、祐天所化の時住居の庵室があった(この処は、今は酒家四方の隠居宅の向いの町家の裏に井戸があるが、(この)庵室の旧跡、古井戸だと言い伝わる)。

ここに自ら彫刻した像で、近くの町家の特有したのを、この寺に納めたた後、伝えてこの所に置いたとのこと(普賢寺の住持が語った)。

一、 木像総体黒く煤(すす)け、玉眼は黄ばみ、瞳は右低く、左は高し。
一、 年齢はおよそ40余りか、50以下と覚ゆ。
一、 像の彫刻は細やかで衣服のひだなど殊勝にして、凡作ではないと 見える。
●像の長け2尺余り。面の縦、3寸5歩余り。
●濶(かつ、大きさ)は、2寸5歩余り。
●体、膝の所の濶1尺1寸5歩余り。

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巻之98 〔2〕 白雉のはなし

 丁亥(ひのとい、1827年か)5月。
野州黒羽侯のもとより、縁家の参政について白雉を内献上ありと聞いた。
その書き取りである。

 下野国那須郡高久村の辺りで白雉を見たという話があって、当4月はじめに、人足共に申し付け捜したところ、見かけた所々を追い回し、同村の内小深堀という処で羽が疲労していたのか、ススキの根本に首を入れ隠れていたのを見つけた。
町年寄を勤める高柳庄左衛門が手捕りした。
同月21日江戸に着いて、同27日堀田摂津守殿まで差し出した。 

『類聚国史』に云う。
孝徳天皇の白雉元年(650年)2月庚午の朔(四季の最初の日)戊寅、穴戸の(長門国)国司草壁の連醜経(むらじしこぶ)が白雉を献上した。
国の造首の同族贄は正月9日麻山に於いて獲たか。
これについては諸を百済の君に問う。
云々を略する。
赦天下に広め、元号を白雉に改めた。
仍(しきりに)穴戸界隈にて鷹を放つのを禁じた。
公卿大夫以下賜り、于(ここに)令史(律令制で、司監署の第四等官である主典(さかん)のこと)に至り、各差があった。
これについては美しく国司草壁の連醜経を褒め、大山を授け、並びに大録を給い、穴戸に三年調役(取り調べ役)として再び赴いた。

 これらによると瑞祥である。
肥州(静山公の御子息)がこのことを中川侯に咄(はな)したところ、侯の説に、拙領(豊後岡)では間々見られるという。
隣国肥後の山中には白雉がいて子をなすという。
すると白雉もまた一種の物と思えて来る。
穴戸は中国にある(現山口県)、『類史』によれば、但州、備後、丹波、飛州、美州よりも献上されたと聞く。
武州、常州、奥州よりも出し、筑前、壱岐よりも上るよし戴けば、わが大八州の中、その種は処々にあることか。

巻之7 〔18〕 安藤家の門松

前に、安藤家の門松は、故事あって官より立てられていたという。
後この事を聞くと、ある年の除夕(じょせき、除夜)に、神君安藤の先某と某に対して、しばしば負けて、また一局を命じられた。

某曰く。
今宵は歳尽しよう。
小臣は明旦の門松を設けようとする。
冀(こいねがわ)くは暇を給わらんと。

神君曰く。
門松は吏(役人)を遣って立てる様に。
懸念することなかれ。

よってまた一局を対せられ、神君は遂に勝ちを得られたと。

これは自らして、例によって官吏が来て門松を立てるとなった。

また今安藤侯の門松を立てるとき、御徒士目附某余の小吏来るのに、その労を謝するに、古い例のままになっていて、銅の間鍋で酒を出し、肴は焼き味噌一種である。
これは当年質素の風、思いをはせた。

巻之47 〔12〕 暗闇の中で矢を射 る太郎助

 津侯(藤堂和泉守)の臣に玉置太郎助と云うものがいた。
この祖は高虎朝臣の時の人で、大坂陣のとき弓述で高名をはせたこと7度。
因みに高虎は初め150石を与え、後300石を与えた。

 この高名の弓は、今に伝わるその家の重器となった。
この弓と云うのは、黒塗栗色藤であり、わずか6歩位の弱弓で、金粉で銘じてあり、この弓は弱いと云うが、敵7人を射倒すとの話がある。

 高名である中で、如何にした時か、敵の足の裏に矢が中(あ)たった為に敵が倒れたのを、太郎助は速やかに首を取って高名になったと云う。

 これはまぐれ矢なので、その朋輩より弓の弱きを咲(わら)う者があって、かの銘は自らしたことだと云う。

 この太郎助は、吉田六左衛門元直(弓の名家である)の門弟であり、元直が未だ藤堂家に入らぬ前の弟子であったとよ。

 また夏の御陣のとき、暗夜に高虎の陣の辺りに何かきりきりと鳴る音がして止まなかった。
高虎は怪しんで、太郎助に命じて射さしめた。暗黒の中、その者に何者か聞いたが、一発で即音は止んだ。

 人々はまた不審に思い、翌朝に視てみれば、柳の枝が裂けていたのを風が吹いて揺るがして音が出ていたのを、太郎助が矢をそのわれめに射中てて、音が止んでいたのだと。

 人々はその暗中といえども音を聞きあて、射て所を違えなかったのを感賞したのだと。

巻之61 〔19〕 神君の伝説―秀頼公の伝え 

大坂落城のとき、秀頼が薩摩に往ったことは前にも云った。
この頃聞くと初め肥後の隈本に退いた。
従者は5人あったが3人はそこで暇を出された。
肥後に於いて関東を憚り、薩魔に送り遣わしたとのこと(この次第はー。人名等『白石紳書』に見えると云う。わしの書は戊寅(つちえのとら)に焼失したので、人の云うままを記した)。
薩州でも関東を畏れて、内々その事実を申し上げると、すでに大阪城は落城して、秀頼生害(自害)と披露があったのは、生存すれども死んだも同じ。
そのままにして置くべき。

だが他国へな出さぬようとの御沙汰があって、91,2迄存命したとのこと。
その子孫は今4世ばかりになって、木下谷山村と云うところに住居して、次郎兵衛と云う百姓であるよし。 
朝川鼎が西遊のとき、正しく確かめて聞いたと云う。
秀頼の墓と云う物も往って見たが、同村の普門寺と云う所にあって、無銘の石塔であった(この谷山村は鹿児嶋より2,3里の所にあると云う)。

かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀」が今に残り、その外の物は一切なし。
この故は秀頼が終わった後、所持の品はことごとく売り払い、田畠を買い取り、百姓に成ったよし。
薩魔よりは前後手当等為らなかったという。
これも次郎兵衛が鼎に話したと云う。
これは関東を憚っていたからだった。
これ等もて思えば、その時天下の御勢観るべく、また豊氏全盛の成れの果ても憐れむべし。

また先年ある伝説を聞いたのは、落城のとき城中に火の手が上がるよし、言上あれば、即ち御立あったと仰った。
時に山岡道阿弥は、未だ城中の虚実はわからずと申し上げると、最早火の手が上がれば落城だとの上意にて、直ちに御立あったと。

また今年専筑と云う人(この人はよく古今の書に通じる人で、もとは僧であったという)の話では、大坂御立あって、直にその夜は二条の御城に到りあそばされ、翌日御参内になったという。
また先年聞いた話の中では、落城の日、御陣へ真田は夜討ちをかけたが、早や空になった宮で、真田は望みを失ったという。
誠に神智の君なのではないか。

また『史記』―。
周の世家に、紂走り反り、入りここに鹿が台の上に登り、衣てその珠玉を蒙り、自らここに火を燔(や)いてしかも死す。
武王は遂に入りて紂が死ぬ所に至り、自らこれを射ること三発にして、しかも後車を下り軽い剣をもってこれを撃ち、黄鉞(まさかり)をもって、紂の頭を斬り、大白の旗に縣くと。

これ等は聖賢の所為であるが、愚見には神君に比べれば、幾ばくか劣れるように思われる。

※下記写真は、旧谷山村の秀頼公の墓所
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巻之67 〔4〕 御本丸に差し上げる三首、西丸に差し上げる三首 春のうた

 今春参向する公卿の中で、女御使いとして来られた冷泉左衛門督は、未だ年若だけれど、家のことなので定めて旅中の新詠もあるにちがいない。
御覧に入られしとの仰せがあったので、御本丸へ差し上げる懐紙三首(三位為全卿。上冷泉である。『京羽二重』によると今年24)。

 〇ふる里を立出しより東路の
      半はこえしさよの中山
 〇蔦かえで緑の春にわけ入れば
      霞おくあるうつの山道
 〇ゆたけしと霞の空に仰見る
      影いや高き春のふじのね 
  西丸へ奉れる三首、
 〇かち人の賑う声も大井河
      わたる瀬広き水のしら波
 〇ふじの雪はるる光のゆたけさを 
      ひとつにうつせ田子の浦浪
 〇のどけしな水のみどりも春の色に
      霞む光の浮島が原

 因って御本丸より紅白縮緬7巻、西丸より同5巻下された。
享保(1716~1736)にもこのようなことが有ったが、またこの春にこのようなことがあったのは、冷泉家にもさぞかたじけなく思われたろう。
我輩までも有り難いことであると、林氏が云った。

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