三篇 巻之12 〔10〕 昔の蛮製の大砲に思う事 その1

 先年肥州(静山公御子息)が跡を継いだ国に滞在したときのことである。
 平戸神崎で、先代の蛮工が作成した大砲を試みたが破裂したことを記した。
 〇その後ある人が云うには、先年紅毛作の冶筒の鋳法を考えた。

64307_n.jpg
    蛮質古大砲(写真参照のこと)

 図のように鋳型を横に設ける。
筒は後の方から熱銅を流入するものと思える。
鋳型の中  筒の形は横だえあり、その孔の中らしき所へ心棒をいれる。
流銅はこれを廻って孔の中は虚ろとなるので、このように設ける。
がそれは心棒正中が動くので、銅の流蕩を鎮める為に3,4鉄菱を置いて心棒を貫いてこれで動きが止まる。

 故にこの鉄菱の際には、熱銅は和すことはない。
この隙間即ち破裂の基となる(冶(と)けた後、心棒は引き取って孔が出来るが鉄菱はみな筒の中に残ると知っておきたい)。

 これは蛮製と謂えども、昔年の物はここ(神崎)の今の人が作る物の質には及ばないのだなあ。

  また平戸の人が云ったとよ。
  『花房覚書』に(花房名は権右衛門、太兵衛正義の祖である。天祥公(松浦家第29代当主、1602~1703)のときの平戸藩の客である。
天草陣(島原の乱)のとき、松平豆州の指図で、平戸に来津した紅毛人を召して、石火矢で賊城を打たせた。
この時も、大砲は破裂して蛮奴は噴火の為に死したと。
これ等もこの筒銅の不和による。古代も蛮炮この様を引く。
また曰く。
吾が邦天山伝の冶筒は、鋳造のときは地を掘って鋳型を縦に埋め、心棒を上下にして固め、筒内に他の物が有らざる制作ならば、また孔道も正直に銃造の成りが宜しきと。

続く

三篇 巻之12  〔10〕 昔の蛮製の大砲に思う事 その2

 平戸の士が語った。
 領邑に伝わる蛮流の大砲術を、先年試したとき、打手の某等の所為を思うと、石火矢台の後、土俵2,30を積んだ。
また近くには縄張りをして人を止め、4,50間の処にも『筒後用心』と書いた札を立てた。

 この他に火門に火をさすには道火(導火線)を設けて、火をつけ3,4間も走らせ発鉛を待つ。
話す者も少年のときのことで、これを観て大砲術はおそろしき物と思った。
が、天山などを知り、わずかな距離なら大丈夫と。
1人曰く。
先年新たに天山筒を改鋳するとき、古く蔵に入れていた蛮筒が出て来て、500目と300目とを冶崩して、1貫目の銃を製作した。
よく視れば、孔の中も直らず、筒尾のネジの処を穿ち通して除き視ると筒が邪魔をして孔中の首尾違うこと半輪月(半月か)のようだ。
古代蛮銃の大方はこんなものだと。
またある人が云った。
古代の蛮銃は、今のように必ず田間を孔中に合わせ、遠間を打ち物を貫通するのをあまり期待していないと。
急発のときは、小石の塊等を数多取り込み、硝気を醸して散撃するとのこと。
また我が武庫旧蔵の蛮弾の多くは鉄玉だが、銃口と比べるとみなかなり小さい。
これ等を布にくるみ孔中に納るるとぞ。
すると必ず激噴して貫通するは期待できないか。
ただ発射して物に当たればそれでよしとなるか。
終わり

巻之45 〔17〕 浅草の総寺組合の年番 浄宗の神像遷坐の掛け軸

 わしの寺、浅草の永昌寺より、小さい箱に菓子型を入れて、御供物を献じますと贈られてきた。
わしはその故を問うたが、浅草分の浄宗の総寺組合が年々番をたてて、神祖、台廟、猷廟の尊体を古くより祭り奉るとのこと。
今年永昌寺が年番なので寺にて祭る供物だと云った。

 すなわちわしは拝戴したが、祭のことを聞くと、尊体と云うのは掛け幅に御像を描いた物だと云う。
幅上に3代の尊容を描き、下に慈眼大師と観智国師の像があると云う。

 この掛け軸を4月までその寺に留め置いて、翌5月より別の寺に移して、翌年の4月まで送ると云う。

 上野山中両大使の遷坐と同じことである。
これは浄宗の神像遷坐と云うべきだろう。
人の多くが知らぬことであるが。

巻之2 〔18〕 徳廟に献じられた馬、渡

 徳廟(家康公)の時、仙台より献じた御馬が思し召しに叶い御召しに備えられた馬に渡(渉り)と名づけられた。
その丈は8寸(約240㌢)あったという。
これにお乗りになり、10匁(約37.5g)の御筒を馬上で打ち試しをなさるに、馬は驚いのたので(徳廟は)御落馬された。

 すなわち又召され、同じ筒を取られたので、諏訪部文石衛門じっと御馬の向うに廻り、両手で御馬のもろ轡(くつわ)をとるや否や、徳廟の(馬の)渡の三頭(さんつ、牛馬の背の尻に近い高くなったところ)よりまた一丸打ち出された。

 この時は渡は少しも驚かなかった。
諏訪部も決心して御轡をとりおおせた。

時ひそかに評して三勇と申されたことよ。

続篇 巻之22 〔10〕 はるも栄行山路かな

 能大夫喜多氏は、太閤秀吉に仕え、豊氏が滅びた後、神祖の召しにより御家に出ている者だという。
元祖を六平太と称する。

 その時から歳首に唄ってきた小謡がある。

 『松君子』と云うと、昨冬(戌子1828、文政11年か)に隠居の寿山が語ったことであるが、この春の謡初めのその文句を自筆して贈った。

  下松は君子の徳ありて、雨露霜雪もおかさず。

  上十かへりの花をふくむや若みどり、猶万歳の
  春の空、君の御影もつく羽根の、このもかのもに
  立よりて、老を忘る詠めして、春も栄行(さかゆく)
  山路かな、はるも栄行山路かな。

上を家例として、年々の元旦に必ずこれを唄うというぞ。
寿山、今年75.

巻之29 〔20〕 わが親友の器量の大きな述斎(林子)のこと

 述斎(林子の号)はわしの昔からの友で40年ばかり特に深いよしみの者である。
辛未(1811、文化7年か)、韓使が対州(対馬)に訪ねて来た。
それで上使並びに諸司とともに命を奉じて赴いた。
領内の壱州(壱岐)に泊り、風侯を待ちながら、渡海の期を評議した。
時に官船並びに対州、唐津、わしの領内の船頭、その議は均からず決がない。

 都下の人々は風浪を憚って話に加わらない。
述斎は独りごと。
韓使は既に先んじて対州に来ていた。
延滞すべからずと。
その船はまず鼓を撃って津を出発する。
諸船はそれを見て、遅れを取らじと蒼皇みな出た。
遂に対州に至る。

 その日は風順なりと云っても、大洋のならいで波は極めて高かった。
船は揺れて、困眩嘔噦する者が多かった。

 述斎は自若していて常の如し。
後におよんで、述子は先天的に船に酔わぬ体質かと問う者がいた。
述斎は笑って、「人の好き嫌いは誰も同じでございます。船の揺蕩を心地よいと思う者はおりませんよ。けれどもこのような時は大事の公務を腹に貯えれば、余程の事は胸中につかえることはございませんよ。だから如何なる風浪も平地のようだと思うのです。帰路に四国路の海で風に逢うときは何となく気宇あしく思いましたよ。これは公用が既に終わり、ただ無難に望郷の念の他はないので」と云ったと。

 実に真摯な云い方、彼らしく思う。

 また対州で聘礼(人を招くときの贈り物)が終わって、韓客がわが諸司を饗した。
かの国のならわしとして独参湯(どくじんとう)を薦めた。
諸氏は目送して、互いに薬気を畏れて飲まない。
述斎は独り盛儀を感謝して一盌を尽くした。
侍者はまた一盌を奉じた(薦めた)。
また尽くした。
尋で別に避暑の薬と云って、黒色の薬を薦めた。
即ち感謝して一盌を尽くしたと。

 述斎の洪量おおむねこんな感じである。

巻之28 〔3〕 生死の見分け

 陣中では人気が立つものと云う。

 その気に生死吉凶があって、物慣れた人はよく見分けることができると云う。

 大阪御陣のとき、冬の陣に城中の気を臨むに、晴れた日にも薄暗くてものの見分けがわかぬほどであったという。
夏の陣には、曇っている日でも、臨み見ると城中が白くあきらかに見えていたという。

 この見分けが生死の気となるのだと。

巻之10〔10〕 昇平(世の中が平和によく治まっていること)

 釈尊の教えも、末になると戒律を保つことは不可能になる。
川柳の点者(川柳などの評点を加える者)の句に、

 大黒が鼠の衣縫て居る

都下の僧家にこの類が多くいると聞こえてくる。

つまり破壊の罪をも得ずに生涯を送れるということは、仏徳よりも官の大慈大悲である。
これと云うのも昇平の世の有り難さである。

巻之87 〔5〕 山と寺の言葉あそび

ある日嫖客が塗(みち)で幇間に出会い話しかけた。
「寺々を何山何寺と称するが、いかなる故か」。

幇間即答する。
「寺にも限りませんよ」。
客曰く。
「では聞こう」。

ちょうど2人は御倉前を通った。
幇間は左を顧み、「見給え、梅花山(さん、散)ふさ楊寺(じ、枝)」。客は笑った。

それから黒船町を通ったので「ここは?」と問うた。
また顧みて曰く。「大家山(さん)月行寺(じ、事)」。

行き行きながら客がいきなり路の人を指して問うた。
「あれは?」。幇間は「おんば(乳母)山、子をだい事(大事)」。

客は幇間の答えが面白く、喜んだ。
「ならば共に行こう。おぬしの答えは面白い」。

ところが幇間の方は答えの種が尽きていた。
逃げ去ろうと曰く。
「いちもく山(さん)ずゐとく寺(じ)。(いちもくさんは、俗倏急(しゅうきゅう、倏はたちまちの意味)を謂う。ずゐとくじは、即去るを謂う)。

客の僕がその後ろから「旦那さん(山)よいあん寺(じ)(よいあんじは、良き了見である)」と云った。

続篇 巻之70 〔10〕 能と歌舞伎の間には

 この度勧進能が当年初日正月16日に、道成寺の能があったときのこと。
わしも往って観たが、群衆の中に芝居役者共も往々忍びで来人に混じっていた。
これは能の業を見覚える為と聞いた。

 このことで思い出すのは先年上手と謂われた京優中村富十郎(俳名慶子)が、当地の名残といって道成寺を歌舞伎に為したとき、ある能役者がひそかに戯場に往って見物した。
これを評判して云うには「哥舞伎の道成寺は能の本式には届かぬ」と哂(わら)ったが、ある人がこれを富十郎に話した。
富十郎は「我等の様な者の道成寺は、とても卑賤の身分ゆえ、とても本式には届きませぬ。この様に評されるのは如何かと思うが、御目のとどかぬことであります」と苦笑した。
これを聞いた人はまた能役者に告ったが、その人は恥じて赤面したという。

 わしも少年のときに、この慶子の道成寺を親しく見て今も記憶しているが、仕手、囃子いずれも揃っていて能に見劣りしない。

 けれど間々違うことがあるのは哥舞伎の体である。
すると能役者の評は一概(強情な)の言い分である。
楽翁老侯釈教(釈迦の教え)の歌に

 吾国の弘き教の中なれば
     仏の道もあるにまかせて

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1328位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
181位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR