2022/02/01
三篇 巻之11 〔13〕 三川内焼 その2
祠の前に額の掛かった小さき鳥居が立つ。熊川明神。
わしは左右に居る者通して問うた。「これは如何なるものだろうか」。
「もと高麗の某の氏神でございます」。
某は法印公(平戸松浦第26代当主松浦鎮信公。1549~1614)がかの地から御帰陣のとき、御供にこの地にやって来た。
高麗の神を招じてこの宅の鎮主とした。かつ氏神である。
熊川とは高麗の地名の『熊川コモカイ』だと思い、氏神と云うのも宜しいこと、また小祠の辺りを視ると、梅の古木の枝を交えて横たえ、瓢箪に紐をつけて下げている。
これはに雀(やまがら)が来て棲んでいると(続77巻に既出)。
何と珍しいことと思うと近頃(天保5年甲午、1834年)の肥州(静山公御子息)がこんな話をしていた。
「三川内の今村の家の熊川の祠を、おととし(天保3年、壬辰)に訪ねた。がその祠も額は今はないという。
肥州も捜索したが辺りの田令里長の輩もみな知らないと」。
わしは「もとより虚談を云うべきでない。
今の有り様は実に嘆くべきではないだろう。
顧みると安永から既に56年経ち、桑田の変わりようも当然か。
ただ図(写真②)を見て、昔を偲びたいもの」と思う。

(図(写真②))
続く

(三川内焼の特徴付けるマーカーで囲った部分。高麗の『高』である。)