三篇 巻之11 〔13〕 三川内焼  その2

祠の前に額の掛かった小さき鳥居が立つ。
熊川明神。
わしは左右に居る者通して問うた。「これは如何なるものだろうか」。
「もと高麗の某の氏神でございます」。
某は法印公(平戸松浦第26代当主松浦鎮信公。1549~1614)がかの地から御帰陣のとき、御供にこの地にやって来た。
高麗の神を招じてこの宅の鎮主とした。かつ氏神である。
熊川とは高麗の地名の『熊川コモカイ』だと思い、氏神と云うのも宜しいこと、また小祠の辺りを視ると、梅の古木の枝を交えて横たえ、瓢箪に紐をつけて下げている。
これはに雀(やまがら)が来て棲んでいると(続77巻に既出)。

何と珍しいことと思うと近頃(天保5年甲午、1834年)の肥州(静山公御子息)がこんな話をしていた。
「三川内の今村の家の熊川の祠を、おととし(天保3年、壬辰)に訪ねた。がその祠も額は今はないという。
肥州も捜索したが辺りの田令里長の輩もみな知らないと」。

わしは「もとより虚談を云うべきでない。
今の有り様は実に嘆くべきではないだろう。
顧みると安永から既に56年経ち、桑田の変わりようも当然か。
ただ図(写真②)を見て、昔を偲びたいもの」と思う。

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(図(写真②))

続く

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(三川内焼の特徴付けるマーカーで囲った部分。高麗の『高』である。)
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三篇 巻之11 〔13〕 三川内焼 その3

 また今村の祖を尋ねると、朝鮮熊川の人で巨関と称すると。
つまり熊川は正しく今村の生国で、かつて氏神と云ったのも信用できる話だ。

 また今村は、わしが巡視した頃の亭主は弥次兵衛と云ったが、その子楚八、そのこ槌太郎となって、今は弥次の孫だと聞く。
浮雲流水、世の有り様悲しみに堪えることのみ。

  按ずるに(しらべるの意)『懲毖録』に、熊川郡は慶尚道の    東、海辺の地、釜山浦と遠くない。
傍々法印公の昔想いにはせたいものだ。

三川内焼終わり

続篇 巻之63 〔12〕 花木を植えること

江戸の御城ははじめ太田道灌が興したと、今は何事も道灌に帰して云う。
が、道灌が築いたのは今の西城であって、御本丸は藤堂高虎と諜(はか)られて御新築があったのだ。
だから『駿府政事録』には、新城と記してある。
また道灌も流石風流人で、今桜田と云う辺りには多く桜を植え、今の紅葉山と呼ぶ地には楓の樹を植えた。
それで春秋の詠を専らとしている。

今増上寺の門前に通じる小川を桜川と呼ぶのも、その源は桜田に出て、当年よりこのように云っているからと云えるだろう。
この事を林老が聞いてこう云った。

「桜や楓のことには頷けますね。桜田はもとより村の名前でしたが、桜を植えたことが昉(ほう)らず(始まりではない)ですね。御城の外の桜田から今の桜田町まで、よほどの行程です。当年豈(あに、意外なことに)その間に花木を栽(うえ)る理はあるのだろうか」。

また紅葉山は、駿府にあった名を移されたと云う。

巻之94 〔8〕 南竜院殿のことば

 梅塢はよく事を諳記(覚えたことをそらんじる)する人である。
ある時このように云った。
「紀伊侯の祖、南竜院殿(徳川頼宜、紀伊和歌山藩の初代、1602~1671)が仰せられた事には、士は人の司である。事に偏らぬように。凡そ物に片寄るは愚人の仕業である」と。

  もののふの桜狩して還るには
       やさしく見ゆる花箙(えびら、矢を入れて背に負う道具)哉 

この歌の心を持つべくと、よく教示があったという。
『紀君言行録』に見えると語った。
わしはまだこの書を見ていない。

巻之94 〔9〕 古書にある北村季文の歌

 林が云った。
 近頃北村季文(江戸時代後期の歌人、1778~1850)に逢ったという。ふと反故のような古書物を得て見ていると、家祖の和歌があったと。それで家にも伝わっているかと聞くと、伝わっていないようだ。
もっとも2度の火災に遭って、旧笈(古い書物を入れて背負う箱)の多くが燃えてしまい、ほとんど残らなかったと。
古書物からの和歌を見たままに写してと頼んだ。

    子日(ねのひ)      道春法印
  此御代をためしにひかむ万世と
         ねの日の小松野べになくとも
    霧
  たな引ん山しなければ春霞
         立ぞわづらふむさしのの原
    八重垣と云桜を      林 春斎
  神風や花も咲けり八重垣の
          ほかにもなびく雪の白ゆふ

  無名氏の聞き書きは、宝永(1704~1711)正徳(1711~1716)頃のものと見える。

三篇 巻之7 〔1〕 はかなきもの

 城下庇羅の渡(ひらのと)東里(田平村)に、南左戸右衛門と云う者が住んでいた。
この先祖公は相神浦半坂(現佐世保市相浦(あいのうら))の合戦には、蔵人として討ち死にした。
その子孫を左戸右衛門とする。
その者はこう云った。

「先祖某は朝鮮御出陣のときは老年なので、子が2人ありました。
長男は廿余歳、弟は13歳ばかりでした。
この時法印公(松浦鎮信、26代当主、1549~1614)は海を渡り自ら南の居宅を訪ね、仰いました。
『汝、征行の志があれば、従軍しないか』。
南が答え申しますには『わたくしはもはや老年で戦うことは出来ません。子を供にして頂けませんか』。
公は『さらば長子を従うべし。弟は未だ少年なので汝が介抱すればよし』と云って還っていかれた。
今、この事を云う者は、公がこのような田里の居にお出でになり、従軍の士をお誘いになった。
これはかの国にては一辱(一栄一辱~人の世には良い事も悪い事もある。ここでは良い事)を受ける所以である」と。

 またこの南の宅は、公時代の制か、この宅地の回りは譜代の家来を10余家住まわせ、南の家には鼓を置き、急変のときこれを鳴らせば、隣人がみな集まる。
そのような用心深さだった。

 つまり世が移り今は治平に至っても、隣居なお古と変わらない。
鼓もまた空しく(はかなく)南の家に存在する。

巻之30 〔25〕 歌にも詠じ難き花の名

 西に帰国の際に木曽を経た。
かけはし(けわしい崖下に板などを渡して作った橋)の下は急流で、みなぎる水は白を曳いていた。
その流れに樵夫が「向うの山に渡る小舟があります。
その形はいかだのようにようやく1人2人しか乗せることはできません。
その乗り物の名はカラと申します」と云う。

 思うにカラは甲であろう。
木の実の甲、亀の甲、人の甲冑を(わしは甲を〇(兜の儿を取って金)とする。彼には甲は胴。冑を兜とする)などそれぞれのが思うブトの字を云う。

 この舟を甲と云うのも自ずから古い言い方と聞こえてくる。

 また寝覚めの里に至れば、その辺りはみな深い谷で、路は山の腹にある。

 山の形に合わせて曲がり曲がって上に下にと舟は往く。処々にかけはしの掛かる道がある。

 その岸に見慣れぬ大木に花が咲いているのが見えてきた。桃のように花弁が一重であった。
名を問えば『クソ桜』と答えた。

 古名は方言かいまだ聞き及んではいない。
若しくは訛言か。歌にも詠じがたい名である。
一笑。(『東上筆記』)。

三篇 巻之77 〔17〕 今までに見ない蚊のはなし

蚊は小虫と謂えども、時として変化するのだろうか。
わしは今の江東の下邸に住んでいるが、少年から3度目の住み方である。
昔から蚊がいるのは相変わらずだが、つい6,7年前から1種新種のの蚊が見られるようになった。
その状態は夜に出る白色をしたもの、昼出る黒色したもので、所謂やぶ蚊とも違う。
やぶ蚊よりやや大きく、淡く黒く、口ばしの長きことは鷺のようである。
身もまた長く前足を伏せて、尻を上げる。この故に、人を吸うときは、錐で刺すが如し。
痛み良(やや)久しく止まず、毒をも含む。
以前から存在する種なのかはわからぬが、わしの幼い時にはいなかった。
また世には、「蚊を焼く」と云って、蚊帳の中にいる者は紙燭(しそく)で様子をうかがいながら焼くと、必ず吊り蚊帳にいる物は焼殺に遭う。
それでも今ここでは、わしは甚だしく蚊が厭であるので、連夜人を置いて、蚊帳を窺いながら使っているところである。
だから(わしの)蚊帳に蚊は寄ってこない。
 必ず寝具に集まってきて、蚊帳につくことは無い。
毎夜こんな感じである。『本草』の蚊の条では、殊に『略集』、『啓蒙』と謂えども、これらに載っているのとは違うことがあるものだ。
偏った見方かもしれぬが、新説とするか。

巻之40 〔3〕 天子さまの福祚(天子様のお祈り)

 10月の初めに普門律師(円通、1754~1834、天台宗僧)に会って話を聞いた。
天子の勅願所のある寺は、その檀に於いて宝祚(ほうそ、幸福)長久を祈ることである。
ここは京の知恩院、三州大樹寺、鎌倉光明寺などにある。
あれば必ず勅願(天子様の祈願)をかくと語るので、東都両山にもあったかと尋ねると、上野はあるが芝はなしという。

また訊いた。
上野はいずれにあるか。
瑠璃殿(現在の新宿区)にありと。
殿の額はすなわち宸筆(天子さまの直筆)である。

また問うた。
この檀には御なでものと云う物があって、これを置奉って、御祈りをなす。
これは何れも勅封(天皇の命令で封印すること)にして開くことはない。
大佐の局より進退するとのこと。
律師も今上の御祷を御幼年よりされたゆえ、ある日青蓮院(天台宗の京の寺院)の宮に、かの中のものは如何なるものぞと問い申したら、中には御鏡が一面あり、と。
これに天子が自ら御冠服を着せられて、かたじけなくも尊容を照らし留め給い、終わって御衣(おんぞ)に包んで、櫃(ひつ)におさめて勅封されたと。
これを以て、玉体(天皇の御体)にかえ、福祚を祈り奉らると。

三篇 巻之69 〔7〕 雲居の郭公(かっこう)に

 昌信(高坂、戦国武将1527~1578)が語った。
伊勢太神宮の庫の中に、頼政(源、平安時代の武将、公卿、歌人、1104~1180)の歌があった。
雲の紋がある紙に金砂子があって、短冊でもなく色紙でもない。
それに和歌を書いた。

   武士の射る矢は名のみ郭公
        心にとほる夜半の一声

 紙裏に、頼政の神力を謝する言葉があるが、その文は忘れたと。
これは正しく、頼政の奉納なる証である。
『源平盛衰記』、頼政の変化(ぬえである)を射取るのに、関白基実公(近衛、1143~1166)を御使として、御剣を賜いしとき、基実が詠じられたのは、(同書に、頼政畏れて御剣を拝領した。5月20日余のことになるが、折知りがおに、郭公が一声二声雲井に名乗って通った。関白殿はこれを聞き召してと見えるが)、郭公の名を雲井にあぐるか。

 頼政はこれを次いで、弓張月のいるにまかせて。
また、異なる本に載っていて、五月闇雲井に名をあぐるか。

 この異なる本は、関白殿に次いだら、後の口占になるだろう。

 伊勢へ納めるは、またその次になるか。

 歌の意を察するに、このようなこと。
如何にも伊勢の歌は、怪異を射ようとなる前に、八幡大菩薩、国家鎮守の明神、祖族帰敬の冥応に御坐(おわしまし)と、黙禱されたことを見れば、このとき伊勢をも念じたる、奉賽(祈願が成就した御礼に神仏に参拝すること)なるかや。

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