巻之98 〔5〕 かなづかひの法とは

 屋代弘賢(1758~1841、江戸中後期の国学者)が、仮名遣いの心得を少しばかり記して檉宇に示すといって、檉とわしに示した。それらを以下に挙げる。
  これは近年和学者流といってとかく古学と云うものに専ら盛んになっている。中古の仮名遣いを用いる者が少なくなっている気がする。何ごとも古今の沿革は在るのだが、今の世にて上古に帰そうとなる事にはならないと思うのだが。仮名は中古の法を用いるべきだはないだろうか。蕉軒学士(林述斎、1768~1841、儒学者)も云っている。
 かなづかい
ある人が問う。
かなづかいに古今の差別があるのは如何なるゆえか。

答。
古代のかなづかいは漢字の四声が正しく、皇国の言語が正しければ別に法を設けることはなく、言語の軽重にあわせて漢字の軽重を用いれば、いかように書いても違うことはない。
だからかなづかいという名目は成り立っていくだろう。
つまり時が経つにつれ、漢字の音みだれ、和語の軽重もみだれていけば、人ごとにかなの格はまちまちになる。
あまり差別がなかったとしても、定家卿の『拾遺愚草』清書の時に、いささかその格を定められことがあった。
これ今かなといふはじまりである。
その法は、いろは四十七字、いとよむ字三、をとよむ字三、えとよむ字三ある。

文字の方に、おはおもく、をはかろく、ほは尚かろしと譜牃をつけ、男はおもく、女はかろし、という義をたてて、おとこ、をんなと書く。
大はおもく、小はかろしにして、おほはら、を野と書き、ほははひふへほに相通ずる外、宇音に顔(カン)、岩(ガン)などはねる字は訓にかほ、いはほと書くように差別されぬものである。
いもえもこの例である。これはやむを得ずに出といっても、法がなきにはまさる。 

問。 ならば古かなは正しく、今かなは正しくないと思われるが、古かなを用いずに今かなを用いるのは如何だろうか。
答。 その様であろうが、上一人より下諸臣に至るまで、用いさせる為に、私にあらためるのは臣下の情ではない。
例えば定家卿の時に『和字正濫』『古言梯』などの作があって、朝廷で行わせるならば、上もない事である。
けれども時勢にて、かなづかいのみだれならば、定家卿の式によせてみるべし。
上の件の様に法をたてられたのは自然の勢いである。

今でも建言(けんげん、意見を申し立てる事)する人があって、上一人を始奉り、古かなを用いさせるなら論なし。
上で用いさせぬことを、下として改めるはこころよくなきことである。

世の制度が古法と違う事は何ほどもあるが、それに従うのは臣下の情である。
おもだたしい事に従いながら、かなづかい如き小事を背くべきにあらずと思う為、今かなを用いる。

そのように古かなを信じる人が、今かなには法がないと思うのは伝を得られぬ失ではなかろうか 
     弘賢

三篇 巻之71 〔2〕 西福寺

 御倉前の大通より左に見る西福寺と云うと福山の阿部氏の寺である。
この寺内に御由緒があって東照寺を勧請(神仏の分霊を請(しょう)迎えること)した。
世に松平西福寺と呼ぶ。

 わしはかつて備中守(阿部。後閣老になった。わしの旧友)に問うた。
その御寺を松平山と号するが、如何なる故ぞ。

備州が答える。松平は号ではない。
神祖(家康公)がかつて西福の主僧の某に松平の御称を賜り、松平西福寺と称したのだと。
山号ではない、松平西福寺であると。
珍しいことだ。

巻之 87 〔12〕 鉄炮玉石

 わしの城の辺り1里ばかりの所に鉄炮玉石と云うのが出た。
『平戸名物集』にある。
「南鐐崎鉄炮玉石、その形は無患子(むくろじ)程で大小がある。鏽(さび)色でよく鉄炮玉に似ている。小石に混じって拾うことは稀である」。

 わしはこれによってはじめてそのことを知った。
それで人を南上埼に遣わしこれを探させ30余りを採集して帰ってきた。

 『雲根志』にあった。
「美濃国加茂郡太田川の渡場より五町ばかり下の川岸の大石に孕(はら)むものがある。大きいものは無患子の如く、小さいものは豆粒の如し。色は青黒く、堅く丸い。里人は鉄炮玉石と云う。これを紙に包み貯えると、その紙は忽ち腐れ破れる。甚だ塩気を含む。
 また1種は飛騨国高原の産といって、木実石というものを高山福嶋氏より頂く。形状は相似している。全く一類であるけれども、これは塩気かつてなし。別物か否かはわからない。石卵、孕石など同類にして少し異なる」。

 南上埼に産するのは高岸の下、海磯にある。
潮盈(み)ちるときは採れない。
潮去れば、別に砂の中にある。
他は『名物集』の如し。
南上埼の産は海中にあるが、塩気なく、紙も腐敗しない。
しかし月日を経れば、甲は裂け実が出てくる。色は黄白。
砂土のかたまりで太田川の産と異なる。

続篇 巻之94 〔6〕 京と江戸で見る日月の色の普段と違う色、人の心

 4月11日、12日は日光がいつも違い、日没のときはますますだった。
それは月の色も同じように違っていた。
都下の噂ではこの日京師また大火があったのではないか、だから日の色が違うのではないかと伝わったのだ。
そしてこの頃から京に出店する町人が来たとのこと。

昨日京より便りが来て、本店の書状には、「このほど日光の色が悪く、月も悪いと。人はみな江都で大火があってこのように日と月の色が悪いのではないかと云っていると。如何別条なしかと」。

つまり西東両都の懸念は同じで、事は違っていた。
日月の違いも同じに見えて、災いがないのもまた同じだった。
これは間違いで最も吉なるものだが、両都の人の心はこの様に思うのは如何なるものか。

巻之96 〔6〕 川柳の背景を後世が知るには

 川柳点の秀句は、鄙(ひな)びた野ではあるが、人の心にひしひしと伝わって来る。
誰人が言い出し、何人は伝えたか。

   坊様が二人死んでは困る

 今の時世にピッタリで誠に適切に言いおおせている。
後世になったら何のことかと分かりづらかろう。
だから注釈している。
坊様二人とは一は沼津執政の故土方縫殿助(ひじかたぬいのすけ、江戸後期の武士、駿河沼津藩士、初代藩主水野忠友、2代忠成に仕えた)が引退して祐因と云うのをさす。
一はこの2月雲隠れされた御方をさす。

 ではと云う天爾波(てには)は出羽なり。
その深い意味は後世といえども察して知るべし。

続篇 巻之94 〔9〕 千次郎に功徳を学びしこと

 わしの荘の近所に名和屋千次郎と云う軽い町人がいた。
わしが退隠の後、故(千次郎は)あって識人となった。
その業は戯場仕切場(シバキノシキリバ)をする者であった。
互郷与に云い難い輩だが、それには似つかわしくない実貞不器用な者で、中々弱々しく遊蕩な様子はない。
けれども何年もその業をしているので近所には似付かわしくないが能を好み、内々で別宅に舞台を設けた。
時々能を催す者がいて、ここでやっていた。

 さて今年に入ってこの千次郎が少し気狂いしたという。
日あらずして没したと。

 後にある日、この男の事を梅塢に語ったところ、答えるには、「彼は死の前に平生人に金銭を貸与して証券があったが、『我の心地悪いのでもし後に残っているならば、冥後の迷いになるかもしれない。むしろ世捨て人を助ける人を助けるには却って成仏往生の種とも成るだろう』と云って、みなその証文を一切合切出して人々にすっかり返した。その明くる日に安然正念に終わったそうですよ」。

 この様に賤業の匹男だが、かく仁潔の志をたてたのだ。
士も恥ずべきである。

 またわし、彼が人に功徳をしたことを聞いて、功徳をしようとここに記す。

続篇 巻之94 〔5〕 前項続き

林子が云った。
京と江戸に見える日月の色の違いの話のその後の事。

12日は近江、美濃で大きな地震があった。
伊勢州辺りもゆれたという。

全く地の気が動くことにより、朦朧な気が生じて天を覆したのだろう。

続篇 巻之98 〔1〕 多遅華(タチノハナ)、虎杖(イタドリ)、接骨木(ニワトコ)に思う

 『日本紀』の反正紀に、「天皇が初めて生まれ、ここに井戸があった。これをくんで太子を洗う。時に多遅(タチ)の華が于(ウ)井の中に落ちてあり。多遅の華というものは今の虎杖(イタドリ)である」とあるのを、萩長は虎杖を接骨木(ニワトコ)の花だと云う。

 わしは既に『紀』に虎杖とあるのを見たが、今新たに接骨木という事は、非だろうかと云った。
否、古にも虎杖と云っていましたし、古の誤りかどうかもわかりません。なぜならば
接骨木を九州では『タヅ』、日向では『タヂ』、上州は『タヅ』、下野も『タヅ』、武州の西方は『タヂ』、中国も『タヂ』。
すると『ヂ』と『ヅ』は音通りなればだな、と。
如何様この説もまた誣(し)いいるべからず。だから後考に備う。

 『啓蒙』にある。
「接骨木、『タヅノキ』『キタヅ』の木は深山には多く自生している。人家にも多く植えている。高さは丈(1丈で約3㍍)、余り、枝は方々に茂り、木はねじれて綟木(ネジキ)の様である。冬は葉はない。春初嫩芽(春の初めに若芽がでるの意)の中に蕾を含み、形状を観たいもの。採って花瓶に挿した。既に発するときはよくわからない。葉は紫藤の葉に似て、大きなものは鋸歯の様で対生(葉が向かい合って2枚出る)する。枝梢に花を開く。小さいものは白い。数百まとまって傘のようである」。

 『和漢三才図』にある。
「接骨木は人家の間垣に植える。3,4月に小さな白花を開き、集まって枝になる」。
『啓蒙』には、「虎杖は深山に生じ、最長大のものは春、宿根(多年草植物の地下部)から苗を発する(これはわしの荘中にも多く生じる。だから山中のみならず人家の辺りも多かろう)。夏は葉の間に花を開く。穂をなして集まり群がる」。  

 ならば共に春夏に開花する。
これは反正帝降誕の御時と宣長の説のように、若しくは宣花の曽孫多治比古王、誕生の月を知りたいと思うが、旧史を見るところはない。

 それでも虎杖の花は葉の間に開くと云い、接骨木の花は枝梢に開き、数簇傘(数多く集まって傘の如しの意)の様だと云えば、中山氏の紋章(モンドコロ)の形に似ている。
だから今はこれに対して意見を述べることはできない。
後の人の考察を待つものだ。

36695_n.jpg

巻之70 〔24〕 雲気を観察〜文政8年の彗星

乙酉(きのととり、文政8年、1825か)の11月14日申下刻(午後5時頃)、雲気があった。
西天から東方に亘る。
西の下は白気があって、雲気は淡黒色、東方に至っては黄色を含む。
気の上は薄紅色、これは月の出に映し出される。
図の如くであった。
人の見た所である。
わしはこの時は見なかった。

翌15日申下刻も同じように現れた。
わしもよく見る事ができた。図の如くであった。
西は淡黒、東に至っては黒色、東方の両端は白色、総じて気の両端は薄紅色。

18040_n.jpg

巻之90 〔10〕 相撲力士、妹に衣を贈り、感謝の文に公、思いを馳せる

 天祥院(平戸藩第4代藩主、松浦鎮信公1622~1703)殿がこの荘に退老し坐ませしとき相撲力士共が多くいた。
その後松英院殿(第6代藩主、松浦篤信公1684~1757)が老居おわせしときは力士の沙汰を聞かない。
また祖公御隠居の御ときはこの者はなかった。
わしが退老した後、天祥院殿の御蹝(フミ、天璋院のされたことをする)の慕わしく思うが、とても諸家の上にいずる力士のいない。
ただ小わら(子ども)の相撲を置いてみようと、三都(江戸、京都。大阪に名高い緋威(ひおどし、緋色に染めた組紐で威したもの))と呼ぶ相撲にこのことを語れば、某の許に幼少から養う小童がいるという(絹嶋幸太郎)。
この子を参らせようと年15の小わらをと勧めた。
すぐに邸に招いて年々と相撲の場にも出したが、未だ10年を経ぬうちにいつしか取り上げられ今は幕の内となって、大関とも席を並べる男となった。
三都に贔屓の人も多くなった。
それで昔天祥院殿の相撲の名を思い出して錦と呼んだが遂にその先達の名を譲られて、今は緋威とますます東都に時めいている。
錦もと京師の産まれで、1人の妹がいる(名前は伊和)。
元より会う事はなかったが、京師の舞児で、今は人に嫁して妓舞は止めたという。
1年錦が京師へ上るとき、江戸紫に染めた帛(きぬ)に白絲(いと)紋縫の衣を贈り、そのこと忝(かたじけ)なしと文で感謝している。
その辞の優れたものと思えたので、卑しき業の身でこのように申し綴ったと、並べて書く(原文まま)。

 おもひきや、かく隔りまいらせぬる身を、よくもおぼしも捨たまふらで、いともかしこきおおせごとのかたじけなきに、おそれみをも不顧(顧みず)、せめてつたなきふでして心ゆくばかりをまふしのぶるにこそ、さるは手になれし扇もいつしか秋の風たちて、たへかねしあつしさもこの頃はすこしわするるばかりに候。
まつとよ君の御あたり、いと御たいらかに渡らせ給ふるとや、つばらに承りさもらへば、こよなふ嬉しうなん。
はたこたびはからざりき、あさ露の玉の御こと葉にそへて、むらさきのゆかしきまでにそめなし給う衣恵み給ふる、うれしさたとふるにものなし。
うからやからうちこぞりつつ、めでくつがへり忝(かたじけの)うなん侍りぬ。
もしみあたりの御さた候はば、よきに取なしおおせ上てよ。
つばらにいやきこへあげとうさもらへども、元よりつたなきふでの跡、ひとしほわかりがたふこそと思はれぬを、よきにおしはかりたまへかし。
はたあになる男もかはらぬみめぐみの厚を幾重にも申尽しがたふ忝うなん。
こもよきにおおせ上てよと、ぬかづきおがみす。
あなかしこや
                          いわ子
  上  人々御ひろう

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1143位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
157位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR