巻之24 〔9〕 麻の芽を食して狂ったこと

 ある日の坐話で聞いた。
麻の初生の芽を食すると発狂すると云う。

 先年谷中妙伝寺と云って早朝人が往くと住持、小僧、奴僕などがみな眠り込み熟睡していた。
またその様子を見ると仏壇の本尊から、器具、戸障子の類がことごとく打ち砕かれている。
その人は不審に思って、眠り込む者を揺らして起こすが目覚めない。
しきりに起こしてようやく目覚めた。

 それでその人は次第を尋ねると、「さてさてよく寝たものよ。昨夜は面白かった」と云うので、「それは如何に」とまた尋ねた。
それで打ち砕かれた類を見て大いに驚いて、はじめて狂乱の所然を知ったと云う。

 この様な毒は消せば回復するのだろうか。
このとき坐傍に人が云った。
「夏の日の麻の襦袢を着たものの、酒を飲んで汗が出ると、襦袢に酒気は強く移っていった。襦袢は酒気を吸い込むんだな」と。
すると麻の性質は酒を引き寄せるものなのか。
また1人の客が云った。
「麻毒による狂乱は酒を飲んだから発生するでのはありませんよ」。ならばまた酒は麻に克つと?
また『本草』の大麻の条に、附方(旧一)。
風が狂って百の病をおこす。
麻子(けしの実か)4升。水6升。猛る火で煮て、芽生を令し、滓(かす)を除き、煎じ取ること2升。
空心(穏やかな心か)にこれを服すれば、あるものは発し、あるものは発せず、あるものは多くしゃべる。
これを怪しむることなかれ。
但し人に手足をなでさする様に促す。
頃合いを視て、定めて三剤を進めて癒えていく。(千金)。
これらかの発狂によるものであろう。
またかの寺にて数人発狂したとき、12歳の子が両手に箸を持ち、面白いと云いながら狂いだした。
その次に住持が狂いだしたと云う。
年少者は腹中(心に浮かぶことが)そのまま出て狂った、和尚は多く食していたので狂ったのだろうか。
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続篇 巻之26 〔7〕 日本国中寺院数

 故紙累積の中から得た情報である。
記しておきたい。
天王寺修補勧化願のとき、御改めなりしとひかえた。
享保10年(1725年)のことだという。

  日本国中寺院数
天台宗       1820箇寺
真言宗      11008箇寺
律宗        9008箇寺
法相宗       5320箇寺
禅宗        9100箇寺 
浄土宗     140009箇寺 
時宗       67006箇寺
大念仏       1510箇寺
法華宗      83020箇寺
東門徒      80120箇寺 
西門徒      48018箇寺
高田門徒      7520箇寺 
仏光寺派      8520箇寺 
  通計    471979箇寺

三篇 巻之74 〔23〕 親の着物を取り返そうとしたが

 近郷花又村で隣村の農夫が夜行していたが、両刀士に遇った。
彼が言うには「金を貸せ」。
農夫答える「お金はありません」。
士言う「ならば衣服(キモノ)をよこせ」。
農夫は思った「与えたら害はないだろう」。
裸身になるまでことごとく与えて、家に帰って子細を告げた。

 その子が聞いて、素早く一両輩を連れて1里余りも行ったがその者は見えない。
一旦諦めて空しく思いながら帰ると、両刀士が来るのを見えた。
その親の着物を着ている!即近くにある物で打倒した。
取り返そうとよく見るとその者は死んでいた。
きっと官に訴えられるべきものだが、大喪の御中であり、裁許は如何なるか。
ある人が評して言う。

「父は衣を剥がれたけれども(相手は)死ななかった。子は衣を取り返したけれども人を殺す。仇とみるならば、下手人だが、部外者は御裁許に従うのみだね」。

所謂疫病神を雇って父の敵を討つなど、この類のものである。

巻之23 〔28〕 世にも恐ろしきは

 平戸城下の酒屋に、何れからか奉公に来た下男が云ったと聞いた。

 「世にも恐ろしきは侯(静山公か)だね。おれは以前海道辺りに住んで夜盗で渡世していた。
盗みの仲間も数人いたさ。で、夜毎に道側の高い処で寄り集まって博奕なんかをしたさ。
その辺を往来する者がいたら追いかけて荷物を奪っていたさ。ある晩の事、1人の御侍が通りかかった。
見るからに金子も懐に持ってると思えた。で、出て行って俺らは見ての通りの貧乏だあ。
その懐の金子を俺らにくれないかい?」と云ったのよ。

 で御侍は何と云ったと思いかい?
「なるほどこの懐には金300両がある。望むなら遣わそうか。
けれどこれはこの辺の大庄屋借財の返金ゆえ、今夜返さなければその家は潰れるのだ。
だがどうしてもと云うならば遣わそうではないか。
ならば手先にで勝負をして勝った者の所得としよう」と云った。

 俺たちも若いときでなあ、御侍のいい分も大したとねえと思ってな。
ならばと立集まって、御侍は金300両をその辺の松を高さ8,9尺ばかりの処に引きためて、金300両が落ちないように結いつけた。
御侍が手を離すと結わえた金子は梢の上にはね上がり、手も届かない処にあった。

 それからいざ勝負となって、帯びた両刀を抜くと、博奕仲間が5,6人立ち会ったが、見る見るはや2,3人を切り倒した。
みなは大いに怖れて逃げ去ったのよ。

 御侍はは残った1人を目掛け切り付けたら、手負った後へしざり引いたら、から堀があるのを知らずに落ちてしまった。
御侍はそれを追いかけ、独り言を云うには、「はや死んだろう」。闇の中刀を堀に入れて探り見た。

 堀の男は動けば即殺されると、息を止め臥していた。
御侍が云うには、「これもくたばっちまったな。心易いことよ」と、上から小便をしかけた。
それから静々と松の金子を解いて、それを懐に入れて去った。

 これを見ると驚きがいや増し、後影の見えなくなるのを待ってから堀から出て跡も見ずして逃げ帰った。
それからというもの盗みも命があってのことと思い、盗みはふつふつと止めていった。

 で今はこの様な身の上になっているのよ。
今思い出してもなあ、侯は如何にも血気盛んな不敵の御方だよ。

続篇 巻之70 〔4〕 春日局手栽(てづからうゑ)の垂桜

 湯島の天沢寺(麟祥院と号する)は春日局の葬地である。
わしは昨年故あってこの寺を参詣した。
局の影堂もここにあれというので登拝した。

 折から南道和尚に往き会って、同伴したが、行く傍に巨木の垂桜があった。
南道曰く。「この樹は局が生前に手栽のものです。
亡くなった後樹は勢いよく育ちました。
垂桜はとても行く人の道の妨げになります。
ある日、局の墓を猷廟(家光公か)が訪れになりました。
その時に左右(御側にいる者)の人は、この樹は行く人の妨げになるから、処を遷すべきではないでしょうかと。
上意(猷廟)には、もし防げとなっても、道行く人がこれを避けるようにと。
局の植えた所を、変えるべきではない」と。
それで今なお昔日のままだと。
わしは初めてその図を作した。

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巻之29 〔10〕 塩吹き(ひょっとこ)の面をつけて・・・

 布衣(江戸期の武士の大紋に次ぐ4番目の礼服を着る御目見以上の身分の者)以上の御役人某が、御用のことがあって1日浅草の辺りへ行った帰りに、途中さまざまの子どもの玩具店の所を過ぎようとしていた。
ふとわが孫はわしの帰りをさぞ待っているだろうと思うと、駕籠脇の士に、「あの店にある仮面を1つ買ってきてほしい」と頼むと、その者は走っていってやがて塩吹き(ひょっとこ)の面を買い羽織のすそにおおって、そっと駕籠の中へ入れた。
某は「このままお孫さまに与えられたら、よいように被ることは出来ないでしょう」というので、駕籠の簾を下して、脇差小刀を抜いて懐中の鼻紙をとり出し、紙捻(こより)を作り、その面に捻の通る穴を穿ちて結び付けた。
そしてわが顔に押し当てて捻の長短をはかり、ちょうど髪の後ろに引き廻し試していたが、思わずこま結びになってしまった。

 その折に、向こうから1人の御役人が来て行違おうとしていて、双方の徒士(かち)は何の誰さまと呼び告げた。
(わしの)駕籠脇の者は何の心もなく互いに戸を一度に引いた。

 そのとき某はあわてて面を(わしの顔から)取ろうとするが、こま結びのひもはすぐに解けない。
仕方なくこの面を付けたまま、会釈した。

 これを見て、向こうの人もその供もこの面体に同音に笑った。

 後々までも宮中にてもこのことを話題にしたという。
このように可笑しなこともまたあるものだと話したのだという。

三篇 巻之38 〔2〕 名物『信実朝臣画師の雙紙』

 丁酉(1837年か)9月に京下りの摂家の(二条公、近衛公)の方々が、上野へ登り山があるのを見ようと、広小路の古筆了伴(こひつりょうはん、1790~1853、江戸後期の古筆鑑定家)が家に休んで云々する間、主人と話す中、耳目に留まったことをここに書き付けた。

 〇先年京都大地震のとき、亡父了意(古筆了意、1751~1834)は存命で在京していた。
折ふし客に対応していると、軒前の巨石の手水鉢に湛えた水がにいきなり1,2尺もあがったように見られた。
次いで地が揺らいで次第に大揺れとなった。
それから考えると水が昇ったと思えたが、地の下に陥っていったことだった。

 〇それから久々に会った。
書画等に珍しい物があるかと問うた。
すると一軸を携えてきて云った。
「これはもと角倉与一(1571~1632、朱印船貿易家の了以の長子。父の事業を助け、大堰川、富士川、天竜川の開削を補佐)の蔵していたものだが、故あって得たのですよ」。
よく見ると『信実朝臣画師の雙紙』と呼ぶ世の名物であった。
この軸は、書画ともにかの人の自筆で、世の画院雅家の多くがその模写を伝襲する。
つまりこれは基本書である。珍襲と云うも、また更に一層上のものである。
 わしもまた模写1本を蔵む。比すると正体は格別なるもの。
『好古子録』に云う。
『画師草子』(1巻、画信実)は、結構俗気なしである。
眼を悦ばそう。

続篇 巻之28 〔21〕 出火による死者

 6月20日昼望楼(ヒノミ)で版木を打った。
何方の出火なのかと尋ねると、池の端だと答えた。
火元を見に人をやれば、あわてて帰ってきた。
「小日向みょうが谷の龍泉寺が自ら火を出して類焼にはならなかった」と云う。

 なるほど半時(1時間)ほども消化の鐘は鳴らなかったと思う。
後に人に話を聞くと、表門は残っている。
後はすべて焼失してしまった。
住持は他に出かけていて、留守の僧1人と住持の弟僧が乱心をして囲いに入れ置おいたが、急な火の手ゆえあわてて囲いを開けずそのまま焼死させてしまった、と。
留守僧の死は如何なるゆえか、明らかにされていない。

 また聞いた。この時の焼死した僧は4人という。
1人は前の如し。
2人は件の乱心僧を囲いから出そうと囲いに入り、火の手が及んで3人焼死したと。
或はこうも考えられるか。
1人は住持だったかな。
何れが是なのかよくわからぬ。

 またこの寺は『江戸砂子』にも載せなかった。
人が云う。「臨済禅徳雲寺、俗に藤寺(藤の樹があるから)と呼ぶ隣の寺であり桜の樹のある処である」と。

 またある人が云った。
この龍泉寺は洞家、茗荷谷のしばり地蔵と云う仏像のある寺である。
すると『江戸砂子』に出ている徳雲寺の隣の寺である。
この3月21日に1昼夜の大火の被害者 数百人の死亡に比べれば、1寺のわずかな時間の火に、死人の多き事、如何に如何に。

続篇 巻之97 〔13〕 江戸に大風吹いて その顛末 その1

 当年は210日、20日も風変わりなく、雨気はあれど平和で人々は安んじている。
八朔(八月朔日を縮めて云う)の朝から小雨が降っている。
わしは遥拝(遥かに隔たった所から拝むこと)の日だから早くから浅草の邸に往った。
巳刻(現在の午前10時)ほど還る途中だったが、雨風を帯びて、興中身を濡らし従行者も濡れた。

 次いで帰宅の後、次第に風は盛んになった。
日午の頃(正午)ますます東方より吹き、過午(午後)より甚だしく猛烈に吹き荒れた。
所々一時に風損なう。

 それより風は幡然と和らぎ、見ていると穏やかになっていった。
がまた西風と変わり、梢々は烈しくなったが、これもその半刻で収まった。

 この日の荒れは、所々より知らせてくるが覚えることができない。
しばらく置いていた。
けれども心に残ったことをここに記す。

 大城中、紅葉山の立木の樅(もみ)は9尺余り囲っているのが吹き折れたと聞く。
 深川33間堂は、その半ばより潰れた。
 上総は殊に荒れた。竜巻が起こり、近くで見た者がいたと伝え聞いた。
 深川は津波になり出水高く、永代橋を陥損した。
 浅草寺境内の蕎麦店、茶肆(みせ)等多く潰れた。
 田原町大聖寺門前の大和屋と呼ぶ餅屋のやねをことごとく吹きとった。
空中の飄(つむじかぜ)が揚がったのを人は仰ぎ見た。
天上では火が出て燃えているのを、竜火だとうかと人は云っていたと(これは神事舞大夫田村の子浅之助が目撃した)。

 ある人がまた云った。
近在のことだが、大木と思える物が、根は勿論枝葉も付けて、全体が飛んで行ったと。
何れの里に墜ちたろうか。

 仙台侯の上屋舗では、馬舎(うまや)を新たに建てて7間余りなのをかの大風に吹き倒された。
馬3疋は圧死した。
4疋は足を折って伏した上に、屋根が潰れ掩(おお)うものなく恙(つつが)なし。
却って古き廏(うまや)もその側のものがなくなって、これは障りなしと、近くに住む観世新九郎が語った。

続篇 巻之97 〔13〕 江戸に大風吹いて その顛末 その2

また聞いた。
わが荘の川向竹町の者が大風の中、外に出ようとした。
が家族は道の難を恐れ、強いて止めたが本人は聞き入れなかった。
行く先の家の屋根上の物干しをも吹き飛ばしてその櫓に打たれ即死した。
また1人はこれも近所埋め堀の辺りに人だが、用事があって外出した途中、いそぎ帰る間に、その辺りにある火見櫓が風に倒され、その人の行路に転がり落ちた。
人は驚き放心してしまった。
その場にいた人が為方なく、駕籠に乗せ自宅まで送ったという。

また上総では洪水があって船舶は破損おびただしい中、大きな商船は田地に打ち上げられた。
ちなみにもとのように海に浮かべようとすると、田畠を破損することが多く、50余金を与えると、船を移すことができないと云って、船商ははなはだ困っていると。

この日は都下所々から出る釣り船なども破損し(人は)溺死した。
舟人とも行方不明も少なくない。
その中品川沖に出た釣り舟はこれも例の釣り舟と違って、平太舟に数人乗り組んで出たが、かの暴風に遭い、後は舟は覆ろうとしたと1人が云った。
もはやみな溺死するしかない。
われにはかりごとがある。
これに従えと云うたと。
人はみなお前には従わんと云うたと。
するとその人、ならばこうせよと。
とても免れる術はなし、みなみな海に飛び込んで、舷(ふなばた)にとりつき、またこの葭(あし)の茂ったものを片手に握って難苦して凌いだ。
波濤は弄騰し頭を越えること数回あったが、葭に取りつき、手舟を放さないのでそこを去らず、このようにして遂に風の過ぎるまで待つことができた。
元のように地潟を漂って遂にはみな命を取り留めた。

  また舟に取りつき海の中にいるとき、大きな本船の破網が切れて、あふれて波の為に水尾木に触り、忽ち破裂したのを目近に見て、甚だしい恐怖が襲ったと。

  この話については記した臣は云う。
『淮南子』に善く游(あそぶの意味)者は溺れると見えるのは、実に然ることと思い当たる。
長崎で蘭船が在留する間、奉行所の番船が、御船蔵の者は小船に乗り組む。
蘭船の傍にいて、昼夜去ることはない。
あるとき夜中にわかに大風が起こり、大きな波濤が舟を覆した、1人の船頭は常々泳ぎをよくする為に、即ち海に飛び込み泳ぎ去ろうとしたが、舟に胸が当たって死没した。
1人は泳げなかった。
それで舟が覆るに及び胴木にしがみついた。
既に舟は覆るといっても手を放さなければ身体は水中にあるが、首は水から出て沈没することはなかった。
こうする中、救舟が出て、助けられて溺れることはなかった。

  この余りを記す遑(いとま)がないので、ここで筆を止む。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
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