続篇  巻之16 〔14〕 ふと心に浮かんだことを記す

 前に井伊侯城下の風俗の話をした。
 また先年のことを思い出すと、わしは旅行のとき、江州越智川のあたりを天気がよいので歩いていたが向うの藪の中より馬に乗って来る婦人がいた。
いつもの乗鞍にすべてを備えて、婦人は藩士の妻と見える様子で、口添えの男も賤しからぬさまであった。

 わしが来るのを見て路傍に片寄っているのを視ていると、手綱を執って、裾を股の間に引き入れ鞍に敷き、何か土産と思われる物を風呂敷に包み、後輪の四方手に2つ3つ結びつけてある。
路人に、あれは?と問えば、このあたりの御家中の内儀が、親類見舞いに往くところと答えた。

 越智川辺は彦根侯の領邑なので、このような古いやり方もあるのだろうと思ったが、今ふと心に浮かんだので筆に留めた。

三篇 巻之12 〔9〕 和漢三才図に見る麝香猫(ジャコウネコ)、麝(ジャコウジカ)、麞(ノロジカ)

 例の長崎より官に贈った天保5(1834)年甲午の紅毛風説書を視に、その末に積荷物を記録しながら、常例の次、別載を記す中に鳥獣の末に在る麝香猫(ジャコウネコ)の欄がある。
わしはこう思う。これまで画がかれたこの獣は、猫の形をして尨(むくいぬ)の毛をしていてその状態は愛らしい。

 それで書を長崎の留守宅に(人を)遣わして、江戸に取り寄せた。
霜月に手元に着いた。曰く。既に浪華の人は得ていると。
また数金で手に入ると。その獣の容貌をありのままに写して書に附した。

 『和漢三才図』の図を閲覧すると、麝香猫は、漢名霊猫、また麝を図にしたものは長崎の図に似ている。『三才図』は何を見て描いたかわからないが、何かを参考にしなければ出来ないだろう。

 すると今麝香猫と言っている物は麝(ジャコウジカ)なるものだろうか」。
『本綱』集解を見ると、麝の形はの麞(ノロジカ)に似て而して小さく、黒色だと。常に栢(かしわ)の葉を食う。また蛇の嘴をして、その香は正に陰茎前皮の内に在り。別に膜袋が有ってこれを包む。

 これらによれば、長崎の図に見える股の後ろに挟む睾丸如きもの、陰茎前皮内の膜袋と云うものか。
また長さ2尺5,6寸ほどと有れば普通の犬のようなもので、小獣ではない。集解の麞に似てかつ小というところであろう(『三才図』もまた同じといえよう)。

 これについて話が1つある。かつて淇(き)園先生が語ったと記憶がある。
日向霧嶋山中とか飛騨の山中に、1人の猟師がいた。
疲労して岩を枕にして臥していた。すると何者かが股間より腹上を歩き面を過ぎると驚いて目が覚めた。
見ると犬のような獣で黒色である。
猟師は驚きこれを撃とうとしたが、はや走り去り行方はわからなかったという。

 それでその跡を追うと香気甚だしく馥郁(ふくいく)として鼻を撲(う)つ。
しばらくしてなおその香を残すと。

 識者は云う。これは正に麞かと。
大きさかつその色は、集解及び前図と違わず。
すると吾が邦(平戸)も、山中には稀にその獣がいるか(集解に云う。
麝は中台の山谷、及び益州、雍州の山中に生ず。
また云う。今陜西、益州、河東諸路の山中にみなあり。
また云う。商汝の山中、麝多し。時珍が曰く。
麝は山に居る、麞は沢に居る。これを以て別のものと為すと)。

〇また吾が邦では古来より画家の伝る図が存在する。下に出して一々説明しようと思う。
 〇まず(3匹の獣の図、後ろに大きいもの、前に2匹小さいものの図)画家洞益の紛本である、益曰く。麝香猫の他に、また麝香狗(いぬ)と云う物があると。その図下に写した。これは麝香猫と云うが霊猫(ジャコウネコ)とも表す。集解霊猫の条にある。
 〇霊猫は南海の山谷に生ず。姿は狸の如く、自ら牡牝を為す。その陰は麝の如く、功もまた相似たり(これは画では分からず)。
 〇『西域記』いに云う。黒契丹にて香狸が出る(霊猫1匹)。文、土豹に似たり。(土豹とは如何なるものか。図には豹文はなし)。
 〇『丹鉛録』に云う。予大理府に在りて香猫を見る(また1匹)。狸の如し。その文金銭豹の如し。これも前と同じ。
 〇『南山経』にいう亶爰の山に獣有りとは何か。状狸の如ししかも髦(たれがみ)がある。その名を類と云う(類また1名)。『釈名』に は冒(おお)うと。頭頸を冒うのを覆ると見えるのは、図に毛を長いものはこの状態に合致する(図は大きいものが左に座し、小さいものが右に2匹いる)。
 〇これはまた1種のものである。決して元より(人間が)所有してはならぬ。
 〇この麝香狗(いぬ)の図であるがその初め所伝あって画けぬ。猫狗何れも尻尾は尨している。長崎舶来のものは尾は尖っている。また麝狗というものは『本綱』及び和書には未だ見ていない(あごを搔いているものの図)。
 〇これは獣の児の体である。もしくは前の麝狗の子か。これも画家の伝えるところ(最後の図)。

283739_n.jpg

0509_n.jpg

9731_n.jpg

3283_n.jpg

414355_n.jpg

82359_n.jpg



巻之3 (19) 樅(もみ)板

奥州の人が云うには、「樅の板は人の話し声をあまり通さないものである」。
住居の板羽目にするか、間から間を隔てる板戸に樅を用いれば、距離の近い言葉も通さないものではないかと。
このことを聞くままで未だ試していないと、述斎が語った。

巻之3 〔30〕 地震による海水の移動

 佐渡の海は潮汐の進退と云う事はない。
止水の如く、海潮の深さはいつも極まった位置であるという。
故に海岸の岩石に、積年の塩が凝って、一帯の白色を成しているという。

 近年一湊が地震でゆり崩れて、波が浅くなって、海面から尺余りもかの白帯が見えたという。
これは地震で地が下りたという験をなす(あらわれ)のだと云う。

 羽州の象潟(きさがた)では、本朝三景の一と云われるが、先年の地震でゆり崩し、入海の水がみな干しあがり、今は風景がさらになしと云う。

 西洋の説に、地は実じたものなので、横へ震することなく、ただ上下にゆれるのは宣(むべ)なるものである。

巻之63 〔2〕 庚辰(かのえたつ)騒乱につき

過ぎし文政3(1820)年は庚辰の歳で、その3月は庚辰。
その24日は庚辰で、その辰の刻(午前7時)に水を汲み、竜水としてこれを飲めば、難を除け、吉を招くと云って、設几薫香、洗米餅菓、花燈を陳ねて祭る。
都下一般このことをやっている。 
ふと林氏(皝コウ)に話をふると、これはその初め、支配昌平小吏の者が申し出て、喧伝蔓延、このようになったという。
それで林氏よりその者を叱ったことがあったと云う。
その書面を請て見たが、
                           浦井伝蔵 
 右この間当年の干支に合い候月日時刻のこと等申し唱え候のむねこれ在り候よし。
世上にてみだりに取り用い候者も少なからず哉に相聞こえ候。鬼神、時日ト筮(占う)を仮りて衆を疑わしむるものは王制これを赦さざる所に候。
御場所内より右の体雑唱え出し、世上へ相響きたるはもっての外なることに候。自今と屹と相慎み、雑説等申し唱えまじく候。

 またある人がこの庚辰三合の歳を古来よりこれがあるのを記した。
 白鳳9(680)  天平12(740)   延暦19(800)   貞観2(860)
 縁起20(920)  天元3(980)  長久元(1040)   康和2(1100)
 永暦元(1160)  承久2(1220) 弘安3(1280)   暦応3(1340)
 応永7(1400)  寛正元(1460) 永正17(1520)   天正8(1580)
 寛永17(1640)  元禄13(1700) 宝暦10(1760)  文政3(1820)

巻之63  〔4〕

 巻之13に、わしの国の鍛冶真了がことを云ってまたこの頃聞いた。
家政省略で、鍛冶の申し付けも稀になるので、口腹を養う資なしと、出奔致したくと云う願書を役所に出した。
役所でも彼のとこゆえと留置したら、果たして出奔した。
つまり出奔はしたけれども、国を立ち去ることを忍び難しといって、領内所々の知る人のもとに滞留して、日々酒を飲んで笑い語して、領境を超さなかった。

 このことが役所へ聞こえて、狂夫のことだからと、呼び戻しとなったと。

続篇 巻之8 〔4〕 吉野の桜花の押しもの

 宴席で行智は懐から一枚の紙を取り出した。
視ると吉野山の桜の押し花である。
行智は吉野は一生に一度は訪ねるべきところだと云って、ここから便りをするという。
この押し花も正に吉野そのものである。
その図をここに写した。
 思うに東叡山中の桜花はこれと同種と思われる。
そもそも吉野の一目千本と聞くものは、一斉に開くので、(見る者は)その盛観勝景にきっと目を奪われてしまうだろう。

9263_n.jpg

巻之63  〔15〕 柳川侯の元旦登城

 浅草寺雷神門の右方に神明寺がある。
その後ろに見世物がある。
この地は日音院の境内である。
広小路から見える所である。
ここで話を聞く。
この屋は元はというと柳川公(立花氏)の建てた所で今なお代々これを修理するとのこと。

 その起こりを尋ねた。
その祖宗茂、関ヶ原の後未だ浪人してこの地にいたときに、ここより出身して侯位に列したと。
それより今にかの神明宮及び僧舎の類、みなかの侯より修造したというぞ。

 また兼ねて聞いた。
この侯は年始登城のときは必ずこの院に来て宿泊し、年越しをして新歳の登城をすると。
問うたが「これが筋だ」と。

 そうしてだんだんと宿泊はせず元旦早くこの院に来られ、それから新年の登城があった。
やがてこれもなくなり、この頃では家老が名代に来て越年して、柳川侯は邸より直に登城するという。

巻之63 〔16〕 浅草寺の寺内のはなし

 また浅草寺の寺中で、今二十三坊がある。
往古はみな山伏で三社の別当、常音坊等の配下だったが、後この山は東叡の持ちになる頃に、その業の僧をとりわけ卑しめられるのを常に不快に思い、かつ常音等の手を離れ、宮の御内であることを冀(こいねが)い、遂にその妻子を退け、三社の方を去って、東叡の下に属した。

 それで今に至って山内の僧徒は東叡の配下にして、天台僧である。

 されどもかつて妻子を退けたことに当たり、遣るべき方をなくして、身は清僧だけれども、妻子はかの山内の別所を請して、しばし(そこに)置いたことが例となって、今も浅草寺の山内であるが、他所の女人住居することは構いなく、当時に至っては、芸妓、私窩の類も憚らず棲住することになった。

巻之63 〔17〕 紀州東照宮の御祭礼

 また聞いた話だが。
 紀州東照宮の御祭礼は大造な御事で、殊に美観という。
その中如何なる御ことか、神輿の通行に当てて、紀侯が御輿前に平伏されたことがあった。
この時御輿前に於いて、二十番とか相撲があった。
その間紀侯は平伏すので、相撲人もこれを畏れ、双方より走り向い、行司団を挙げてたちまち勝負して、見るうちに数番の相撲が終わって即ち神輿渡御あったことであった。
あまり聞かれぬ珍しきことであった。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1143位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
157位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR