続篇 巻之57 〔12〕 最上億内と会って話す  その10 沙汰書及び文通

 三月廿六日、御黒書院溜(ため、集まりの意)に於いて、美作守親類柳生但馬守、池田
 百助、大御目付伊東河内守へ、御老中御列座に而松平伊豆守殿御逢い、松前美作宅へ相越し被り、御下知書の趣を申し渡すべし旨に、御下知書河内守へ御渡し。御下知書。
    申し渡しの覚え   
                           松前美作守 
 その方家督中、蝦夷地の取り治むの不行き届き、異国人手当も等閑に心得て、その上隠居いたし候而(しか)も言行不謹慎の様子に相聞き、不埒に思し召し被り候。これによって永の蟄居仰せつけ被る者なり。 
     三月
  右の趣河内守にこれを渡し申す。
 六月十一日留守居札書き
一、 松前若狭守様
昨夕牧野備前守様へ御家来御呼び出しの上、この度御在所御引き払いに付き而は、御失脚多く御難儀の為と(それに)付き、御手宛の為に金三千両仰せつけ被り候旨、御書き付けを以て、仰ぎ渡し被り、有り難く思し召し候旨、右御知らす為、申し来る。
  七月廿七日御沙汰書
                           松前若狭守
   領知割御書出これを下し被る
  右波之間に於いて、老中列座、伊豆守これを渡し申す。
七月廿九日留守居札書き
一、松前若狭守様
昨廿七日召し為を被り、御登城成り被り候処、先達而仰ぎ渡し被り候御知行割、御書付きを以て御渡し成り被り、有り難く思し召し候。尤も陸奥国、常陸国、上野国に而御払い込み高壱八千三百石余り、郷村高帳御勘定所に於いて、御渡し成り被り候旨、右御知らし為申し来る。 
十二月朔日御沙汰書
     御納戸構
       松前上ヶ地請取御用仕廻罷り帰り候
           御勘定組頭 男谷平蔵
             御勘定 守屋権之進

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続篇  巻之57 〔13〕 愚かな者にも生じる自然の理

 世俗に愚痴っぽい輩が、何かふと心に浮かんだことがあると、みな笑う。
「あの人が気づいたとは、こりゃ雨が降りますなあ」と云いながら。

 これが俗言としてもすこぶる理があるものだ。

 「それ人は天地の間に生まれる者だからわずかな間にも、うけるものだ!」。

 天、まさに雨が降ろうとするときは、地もまた気を受けると、草木鳥獣までも自らその兆を成すことは多いものだ。
況や人は万物の霊ならば、愚者もその気によって変化を生じて、知恵を得るのは、自然の理である。

巻之96 〔25〕 気の毒になるいたずら描き

 弘前老侯の新しい門の扉にいたずら書きのことを前に記した。
今回またこの話を聞いた。
同時に当侯屋鋪の表門にも同じように描かれたという。
老侯の邸は素木の門ゆえ墨でー。
当侯の表門は従来仮の門造りなので、扉も柱も黒渋塗りなので、白色で片扉には大きく陰茎から小便がほとばしる体を描き、もう一方の片扉には女文の文段を書いていたと。
如何なる文にて書いていたのやら。

 これも内の者が夜間などに洗っていたが、しばらくして人目にかからぬように成ったという。

 また『領分附売店』と大きく書かれた張り札のいたずらをやったとという。
様々な人の嘲笑となったことだったが、気の毒になる騒ぎであった。

巻之57 〔1〕 和田酒盛りと盃に思うこと  その1

 桑名侯(楽翁、松平定信、1759~1829、江戸中期の大名)の溜り詰めのころだろうか、何かのことで大きな盃を贈られた。
「如何なるものですか」とたずねると「これは和田酒盛(幸若舞曲の曲名)のときの盃で、今鎌倉の寺院にあるのもを模したものです」と答えられた。ここにその図を載せる①

 『曾我物語』の和田酒盛の条(虎が、盃を十郎に指す)を見る。

「義盛虎をつくづく見て、聞しは物の数にならず。
かかる者も有りけるよ。
十郎が心を兼て出ざるさへ優しく覚ゆるにや。
夫々と云ふ。何となく盃取挙て、其盃和田飲て祐成に指す。
其盃、義秀飲て面々に下だし、思ひ指、思ひ取、其後は乱舞になる。
茲に又始めたるかはらけ、虎が前にぞ置たりける。
取挙るを今一度と強られて、受持けるが、義盛是を見て、何かに御前ン、其盃何づ方へも覚ぼし召ん方へ思指し為給へ。
是ぞ誠の心ならんと有ければ、七分ンに受たる盃にちぢに心を使ひけり。
和田に指たらんは、時の賞歓違議なし。
去れども祐成の心の中恥かし。
流を立る身なれば迚(とて)、睦びし人を打置きながら座鋪に出るは本意ならず。
増てや此盃、義盛に指なば綺麗に愛たりと思ひ給はんも口惜し。
祐成に指ならば、座鋪に事起りなん(中略)。
和田の前へ下りに指し給う刀こそ童がものよ。
さゆる体に似て成し奪取り一刀刺し、倶(とも)にかくにもと思定めて、義盛一目、祐成一目心を使ひ案じけり。
和田は我にならではと思ふ所に左は無くて、免るさせ給へ、去迚(さりとて)は思ひの方をと打咲ひ十郎にこそ指れけれ。
一座の人々目を見合せ是は何かと見る所に、祐成盃取揚て、某給はらんこと狼藉に似たり。
是をば御ン前にと云ふ。
義盛聞て、志の横取り無骨なり。何かでか去る可き。
早々と式第也。
左のみ辞す当きに非らず。
十郎盃取挙、三度ぞくむ。
(朝夷奈に五郎力くらべの条)時宗盃取あげて、酌に立つたる朝夷奈に式第して、御盃の前後は持参の不礼御免あれ。
御盃は賜はり候迚、三度までこそ乾したりけれ。
其盃思取り申さん迚、元の坐式に直りけり。
五郎も酌に手をかけ、近くも参らず。
御酌に時宗立たんとゆるぎ立つ。
四郎左衛門坐を立て、其是に迚、挑子に取つけば、五郎も暫し式第す。
義盛是を見て、客人御酌然る可からず。
夫々と有ければ、経氏酌にぞ立たりける。
 朝夷奈盃取挙、三度乾す。其盃を虎飲て、義盛にさす(下略)」。

前図と此文に拠れば、この頃の盃は殊に大きく、義秀、祐成等が三度傾るとあるは、全く礼飲とこそ思わるるが、其余の応酬する回盃を知るべくして、又虎が七分を受たるとあるのも、婦人の飲量も亦見てほしい。
するとこの頃の酒は今と違うということか。
また奥州の泉侯(本多氏)は古盃を蔵に納める。
千寿盃と称する。②。
これは中将重衝囚となって、鎌倉で頼朝は千寿で宴を催しをさせたときの盃として、なお鎌倉に伝わっているのを、泉侯の祖寺社奉行のとき求め得て今に及ぶという。

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巻之57 〔1〕 和田酒盛りと盃におもうこと    その2

これは全く和田酒盛りと前後同時の物でまた大盃である。
『平家物語』「千寿の前と云う条に(上略)、名をば千寿の前と申候とぞ申ける。
其夕べ雨少し降て、よろづ物淋しげなる折ふし、件の女房、琵琶、筝持て参りたり。
狩野の介、家の子郎党十余人引具して中将殿の御前近ふ候けるが、酒を勧め奉る。
千寿の前酌をとる。
中将少し受て、いと興なげにて坐(お)はしければ(中略)、狩野の介申けるは云々。
兵衛佐殿仰せ候。
夫何事にても申て、酒を勧め奉り給へと云ければ、千寿の前酌をさし寘(お)き、羅綺の重衣たるは、情け無き機婦(機織り女)に妒(ねた)むと云朗詠を(云々中略)、い云ふ今様を四五返唄ひすましければ、其とき中将盃を傾けらる。
千寿の前給はって狩野の介にさす。宗茂が飲ときに箏をぞ引済ましたる」。

これ等を思うに、きっと満酌もしなければ、何れ酒気の今と違いがあるのか。
思い出すに、嘗て浪華の旅邸にして、しばしば木村孔恭に(蒹葭(おぎあし、すすきにに似た植物)堂と称す)会うとき、蠧(と、きくいむし)敗した古冊書の断片を数十葉持ってきて言うには、「見なさいよ。これは天文年間(1532~1555)の書である。年号もあって、文章もそのころの体であるが、恨むらくは編次混雑、今は口をはさむまい。

この書中に酒醸のことが詳しい。
今と大いに殊に酒気は甚だしく薄い。
すると古人の酒器の大きなのもここに知るべしと云うが、その書を写すにも及ぶまい。
今思えば写本で、その紙背にも何か書いてあった。
何ごとだったのか。
このとき木村が云うには、「古の酒は米と何とかを合製して、尋常なのは中分にした片白と云い、白は白米の白である。だから諸白と称するのは酒の上品な即今の酒である。
故に能の狂言、末広と云うに、大名、太郎冠者に恚(いか)るものだが、冠者の歌舞するのを聞き云うには、「だまされたは憎いが、はやし者が面白いと喜び、泥鰌の汁をほうばって諸白を飲めと云って、太郎冠者を招き入れるは、褒められたものではないが、今日は上酒を与えようという風情にも、古代の体を知るべし。
また寺島良安(りょうあん、江戸期前中期の医師1654~没年不詳)が『三才図会』醸製のことを「諸拍片白は、本来麹米共に真精なるものゆえに、両白と名づく。
本米は精にして麹米は精ならざるゆえに、片白と名づく。
これ等もしくはまた昔は麦麹を用いていたか。
要するに酒造家において質(ただ)すのみである。

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続く

巻之57  〔1〕 和田酒盛りと盃に思うこと   その3

 林子はこの言を聞いて、『延喜式』を見たと云った。
すなわち造酒司の条を見ると、造御酒糟法とて、酒八斗、料米一石、糵(ひこばえ)四斗、水九斗と見え、また御井酒四斗、料米一石、糵四斗、水六斗と見える。
これによると、前者は片白で御井酒は諸拍だろう、と。
これについて云う事あり。
平戸城の恒例に農夫の舞を覧ることがあった。
七月十八日であった。
舞う者、囃子の者数十人舞終わり、これ等に酒を与えた。
台所の吏がこれを行った。
このとき農夫に伝達したのは、「今日のことにつき、上より片白を下さるということである。
農夫だから諸白は無いと申し渡しは旧例である。
この酒の製は米を中白に搗いて、水も分量を多くして造る。
考えると『式』の酒八斗と云うものに当たるか。
すると『式』の糟法は前者は片白である。
また平戸で諸白と云う製は、米を上白に精(し)らげ(米は上品を用いる)、水も分量は少ない。
考えるにこれ『式』の御井酒に当たる。
ならば『式』の後書のものは諸白であろう。
(前の農夫は志自岐神領の者であり、この舞も志自岐神社の御田の野楽である。平戸城に縁があることは、大永(1521~1528)、享禄(1528~1532)の頃か、軍事において勝利の吉例による。今平戸の俗ジャンガラ踊りと云う。これは数人の腰鼓と鉦とを打ち鳴らす。その音の響きからこのように聞こえるのでこの呼び方である)。

終わり

巻之57 〔4〕 拍子木で時刻を知らせるはじまり

括嚢斎(大関土州引退後の号)曰く。

夜中に拍子木で時刻を打つことは、水戸義公に始まると聞きます。
それより前は、夜回りの者がただ拍子木を打って廻ることになったのを、義公が聞き給わり、

「あれは無益のことである。時を打たせよ」

と命じられて、そのようになったのを世を上げて習い、今では一般の風俗になったということ(林談)。

三篇 巻之65 〔1〕 計り知れないまこと

 三月十五日の沙汰書に、松平和泉守を召され、御座の間で御目見えがあった。
  父和泉守、重き御役をも相勤め候に付き、仕置き等、万事心得候様出づる仰せ被る。
 ある人が聞いた。
「帝鑑衆のこの通りの御座の間で拝謁のこと、如何でしょうか」。
 答える。
「これまで老中の子息は、父が京都に往くとき、召し出される上意はあるものです」。
だが(父の)没後にこのようなことがあるのはあってはならないものだ。
またある人が云うには、前にもあらましを云うが如く、間候は特進する、それで遠方より御郭内へ入られ、織侯は不首尾に終わり、浅草から三田へ移された。
それで泉州は、久しく住み馴れた御郭内を出て、浅草の邸に赴いた。
この浅草の邸と云うのは、織侯の祖父山州と云うが、四位(しい、日本の位階及び神階における位の1つ。
三位の下、五位の上に位する)を望むとのこと、貧迫となって、居所から臣舎まで弊損の体になっていた。
間侯の三田の邸より、この浅草を当泉は望んで往ったが、到ってみるとこの様なことゆえ、またまた官権に便りを出し、内意を嘆いた。それが官上に聞こえたと噂になってしまった。
わしは(どういうことか)思いめぐらしたが、この度の御ことは、当代の泉州が(父からの時代のつき合いの)御懇意というものを知らなかったこと。
世にいう有難迷惑であったとのこと。
そのまことというものは実に計り知れないものである。

三篇 巻之65 〔2〕 上には上のかたりに出会った運なし駕かき

 (わしの)左右に侍る人が記した話をここに書いておこうと思う。
 近頃の話だが、何処の国か知れない者が二人連れで江戸へと板橋迄来た。
ところが一人は病で思うように歩くことが出来ない。
それで連れの者が駕を頼み、病人を乗せて、駕かきに云った。
「おれたちゃ神田須田町に往く途中でな、賃金は後で江戸で渡すからよ。今生憎手持ちのもんがないからなあ」。
 路の途中では、駕かき達は、酒代を欲しがった。
連れの男は、「今懐が淋しくってな。酒代も後で渡すから、代わりに出しててくれよ。江戸に着いたら必ず返すからよ」。
 駕かきどもは自腹で飲み食いをした。
ところが柳原に着くころに連れは「用事が出来たから、ちょいと待っててくれ」と出かけていった。
 ところが待てど暮らせど、男は戻ってこない。
とうとう駕かきどもは腹を立てて、病人を「やい、どうしてくれる」と責めた。
 病人は「あの男はただ途中で知り合っただけでどこの誰か知らないのだ」と云った。
駕かきはこれを聞いて、ますます腹を立てた。
この腹立ちの持って行き場がなく、病人の衣を剥ぎ、菰(こも)を着せて立ち去った。
流石のかたり者と世に知れる駕かきも、その上を行くかたりに遭ったということ。

続篇  巻之16 〔13〕 銚子と同じく小名浜で鯨捕りをする異国船

 前に総州銚子の海中で、異国船が漁稼をすることを云った。
またある人が云った。

 奥州白川群だったか、小名浜のあたりも、何処よりか異国人が来た。
鯨猟をして、油をとり、平たい船に鯨の皮と肉を収めていたと。
定めて元船様中に在るにちがいない。
8月になると必ず帰ると云う。
総州と同じものだろう。

プロフィール

百合の若

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