続篇  巻之64  〔9〕 盂歌(ぼんうた)  その2

左(下)の歌もまた、邸内某の老婆が記した所、前哥の後へ続く、婆年83.

 〇ゑんじやと思ふて腰かけたらば、大じのひめが3つにわれて、
  1つは京へ1つは奈良へ、1つは置(オヒ)てお目にかけ(キ)よ。
  お目にもかけよが衡(ハカリ)にかけよ。
  衡にかけて13文目、13文目

 以下の3歌は老女豊野が臆する。豊野72。

 〇盂の盂の16日に、お閻魔様へ参ろとしたら、数珠の緒がきれて鼻緒がきれて、南無釈迦如来手で拝(オガム)、手で拝
 〇今日今夜(バン)ご大儀でござる。奥じや三味線中の間じや躍。お台所までが笛太鼓、笛太鼓。
 〇切子切子切子の燈籠。切子の燈籠はどなたのお細工。お若衆様のお手ざいく、お手ざいく

 この歌どもは、みな老輩が昔よりの覚へ伝へである。
今謡うものは半ば違う。
また増加のものもある。
言多く卑しかったりする。
因ってここには記さない。
人の知る所なればだが。

 またこの歌を観ると、唱哥と答哥があると知った。2編の唱哥と答哥を下に記す。

 唱哥→「盂盂盂は今日明日(アス)ばかり、翌日(アシタ)はよめのしほれ草、しほれ草」。
 答哥→「しほれた草をやぐらに上(アゲ)て、下からみればぼけの花、ぼけの花」。
 
 唱哥→「向ふにみえるは踊り子じやないか、踊があらばせり合もうそ」。
 答哥→「せり合ひはり合ひ、まければ恥と云ふ以下は」。

後は推してわかりたい。
このことを先年久昌夫人が語られたのは、我は16の歳にして初めてこの邸に来たと。
その前市中に住んでいた頃は正しく盂躍を見た。
これこの時になると、市間にいく群も躍が目立つ。
その体は女子が10歳を最年少にして、11,2,3に至っては相連なって前隊(マエガハ)となって、14,5より17,8,9の者は後隊(アトガハ)として、市陌(ミチ)を連行する。
このとき後隊が先ず歌って、「盂々盂はけふあすばかり」と唱えると、前隊はこれに付けて「あしたはよめのしほれ草、しほれ草」と和す。
こうして、他の群れがこれを聞くときは、嘲へて曰く。
「しほれた花を矢倉に上て、下からみればぼけの花、ぼけの花」と哥う。
これが答哥たる所以。
こうしてまた他群を見ることがあれば、迺(すなわち)後隊より「向ふに見ゆるは躍子じやないか」と歌えば、前隊つけて「躍があらばせり合もふそ」と続き、他群が「せり合はり合負れば恥よ、石でも擲(なげ)てへがでもすれば、てんでの親の迷惑よ」と歌って、終に双方相接り、強い方が弱い方を押し破って通っていく。
そのとき揚げ哥する。

「向のお山の相撲取草よ、ゑいやらやと引けばお手がきれる」と、同音声に叫ぶ。
敵隊の答哥に、「お手の絶(キレ)たにや御薬やないか云々」と云って過ぎて、「今はかかる体なることは無きぞ」と物語る。
ここでは男子とて数隊の中に1人も雑(マジハラ)ないと。
この時の風俗は、市中女児の群行さえも正しいことにして、戦国の余波尚存在して、義勇の気かかる婦女子のうえにも見えた。

続く

続篇  巻之64  〔9〕 続々 盂歌(ぼんうた) (盂歌  その3)

また玉垣の祖母が言うには、己6,7歳の頃は麻布白銀の辺りに住んでいたが、この盂躍には誰も彼も盂帷子(ぼんかたびら)と云って、伊達門を染めて着て、袖が長いものもよくあって、紅い襷(たすき)を懸け、6,7歳より14,5ばかりの女子が手を繋ぎ、前に幼い子を立て、後隊には年長者を列ね、その中を盂太鼓を持った者はそれを打ちながら哥いながら往く。
1町ずつの躍り、途中で往きあうときは、互いに押し合い、弱い方が手を離せば、その隊を押しぬけて進んでいく。
その時には後隊の少女どもは哥を放って、「先立(サキダチ)お衆のお声がひくひ。もちつと高く頼みます」と唄って前隊も同音に声を上げて哥い過ぎると。
これもまた夫人(久昌夫人、静山公の御祖母さま)の御話と同じ事である。
その増略は聞く者言う者に委ね遺したものである。
右(上)の中盂太鼓とは、今寺社の境内など売店にはあるものである。
わしが幼いときは、専ら子供の遊戯の具であったが、盂躍と云う事もなく、これを弄ぶ者はなお更なりだが、今は売店にあることは稀になってしまった。
因って最後にその図を出そうと思う。 
 
また近来種彦という者の著作『還魂紙料』に、往々この太鼓が挙げられている。

云う。享保20年(1735)の印本に団太鼓(ウチワダイコ)と云って、団のような太鼓で拍子をとって諷(ウタ)う。
また延宝8年(1680)の印本に、近年いつしか止んで、衣装を改めてあるく子供はなく、漸々2,3人連なって歩いてはいる。
それ故団太鼓並び云々、売り歩くことも止めた。
この製は江戸に起こったかや。
今盂太鼓というものは則ち団太鼓である。
わしは思う。
この盂太鼓は、その形が団扇に似ているのでこう呼んでいる。
そのはじまりは申楽の小鼓、太鼓などの、片皮に柄をすげて用いたのだろう。
この製並びにその形の図を知っておきたい(写真を参照)。
当時存する盂太鼓の図。

右(上)云々の時制を考えると、久昌夫人16歳で邸に来られて、ふと仰ったのは、夫人の卒年と御齢とを以て推するに、享保18年(1733)は以上のことであったと。
また玉垣の母67歳の頃と云う事を以て考えるとこの婦人が今存在するならば、67歳は安永の4,5年(1775か1776)である。
最近の話ではないか。
するとこの頃までも盂哥はなお盛んだったということだ。
これより後、今に至っては既に絶えたと云えるだろう(享保18年より今辛卯(天保2年、1831)に至っては99年)。

873342_n.jpg



続篇   巻之64  〔9〕 続々々盂歌(ぼんうた)(盂歌  その4)

 また盂歌の中に、
 「両国橋は長い長い、夫れより長いはすいぎよう橋よ」と云うのがある。
『江戸砂子』に拠ると、両国橋の長さは凡そ96間(174.545㍍)。
万治年中(1658~1661年)にはじめて掛かった。
はじめは大橋と云い、後両国橋と云うと。
すいぎよう橋は今詳しい資料が手元にない。
けれども、江都に両国橋より長い橋はなかろう。
同書に云う。永代橋の長さは凡そ110間(200㍍)。
元禄9年(1696)にはじめて掛かった。
その以前は深川の大渡しとして、船渡しだったと見える。

 またかの哥の文によると、かの舟渡しのときのことか。
とすると永代橋以前はすいぎよう橋と呼んでいたか。
この哥、元禄の後に起こることを知るならば、享保の前のことだろう。

 追記する。
前に盂歌の近頃まで盛んだったと云ったが、また吾が邸の中にいる舎婢、年67になるが、50年前のことを覚えていて、上野山下坂本の辺り、本郷などでも、女児が盂哥で道に於いて行争をしたことがあると。
因ってその老婆の50年前を計算すれば、天明元年(1781)に当たり、その年齢は17歳である。
すると明安の頃まではこのようにあったという事か。

 わしは思うに、これの衰えは、かの女児の争いは遂に男子に及び、闘打喧嘩に至って、市尹の禁令が出るまま、今の如くになったのだろう。
尚質(ただ)してみたい(この冊また一字賛るべからず)。

 またかの哥の中に、「今夜(バン)御大儀でござる。奥じや三味線中の間じや躍。お台所まで笛太鼓」と云ものは、正しく明らかにすべきである。
これは近古川舟のさまを謡っている(写真参照のこと)。

 この画者は、宮川長春に違いない。
長春は正徳(1711~1716)享保(1716~1736)中の人なので、今に至っては100有余年、やや古昔と云えるだろう。

82298_n.jpg

終わり

巻之95 〔4〕有り難き故事

 久留米侯の臣、松岡清助が語った。

 その門に入る我が内の者が申すには、侯の先玄播頭と云う者が先年官家の御大礼束帯登城されたとき、太刀の帯取りの金具が損じて佩(お)びることが出来なくなったのを、そのとき徳廟(家康公)いまだ紀藩の庶流に坐して登城されていたが、懐より元結を出され、玄播頭の太刀の帯取りをつなぎたまわり、滞りなく当日を勤めた。

 この故事により、今も久留米の家では、太刀の帯取りに必ず元結を掛けると云う。有り難い故事である。

  その後清助の子次郎太郎に逢ってこのことを問えば、いかにもその如しと。
されども 今は元結は用いず、別に打緒を掛けて出る事になっていると。

巻之88  〔13〕 その1、平戸と壱岐の名物 

 先年在城の間、納戸の品物に故記があった。
題して『平戸領名物集』と云う。
めた壱岐の冊が添えられていた。
何者が記したかわからない。
巻尾に、享保17年子3月(1732、壬子)と書かれている。
顧みると今に至る事90有5年。採集した所鄙びた野、見るに足らずと謂えども、両地の産物は居ながらにして知ることが出来る。
わしはその国を領してよく知らなかった所があった。
呵々(地名のようなものは他人は話し難し。
因って青抹をその側に加えて識るとしよう)。

 『平戸領名物集』
大嶋の蒼朮(シナオケラ、根茎は生薬に使用されたらしい)鰤、鰹。多久嶋の鰹、高麗雉。毛色は最見事である。
鶯は、御先代京より取り寄せ、放置被り為す由。
生嘱(生月)の蕪、芹、甘苔、牧駒。
昔頼朝卿の代、生嘱(イケヅキ)という名馬はこの所に従い出たと云伝え。
中野の樒(シキミ)。河内の鰯。紐指(現紐差)の白魚。獅子村の紫根。
また獅子椿はここから出ている。紅花に白い班がある。
同所館葉嶋の磯物、根獅子貝。防風。古田楊枝木。中津浦の青苔。
妻鹿磯の碝石。津吉の隧石。浦志自岐の大蛤。黒嶋の石。
小値賀嶋の蒪菜(ハクサイ)。海素麪、海栗(ウニ)、魚印(コバンザメ)、牡丹苔(ここの海藻種々あり。
重ねてこれを記しておきたい)。
同所平嶋巾海羅、並びに海髪(オゴノリ、平嶋のオゴノリは最名物である。
大坂の商人久平と呼ぶ。荷印に久字を書く為)。
五嶋三葉躑躅。針尾駒。早岐白荒生、焼酎。
権成寺(現権常寺か)蓮、胴浦白和布。三川内陶器。日宇真綿。
佐世保葛粉。相神浦上米。知見寺の鶉(ウズラ)。賤津浦伊勢海老。
同浦恵美須嶋約針松。白魚川白魚、鮎。阿翁竹野子嶋小刀砥(御領分1とする)。
今福葛苧(くずお)、蜷石。善福寺御所柿。宛陵寺熟柿。福嶋烏頭(うず、トリカブト鎮痛、強壮剤使用)、蕨。
調川砥。志佐蛤、鯲(ドジョウ)。世知原大鰷(おおはや)、椎茸、夏首鴉。吉田柿、煎茶、鯉。
佐々白魚、鮎。江迎早稲米、白藻、虫夜(?)。御厨松浦鰯。細藺畳。田平牛房、煙草。
釜田白瓜。鳴川浦鮪。平戸むさう香箸、釣香敷(人奇巧)、真了小刀。
黒久嶋辺のめばる、赤鼻魚、赤鼻鯛。白浜浦鮔、ひ魚。広瀬猪貝。
南鐐崎鉄砲玉石(その形むくろじ程。尤も大小あり。さび色であたかも玉のよう、小石に交じってひろえるのは稀。
この品先年戸川杢之助殿、廻る国上使いの為に御下向、平戸止め宿の節侯聞き及び被り侯由御所望これあり、老人申し伝う)。
薄香浦白干鰯。この外名物数種があるに違いない。
尋ねてこれを記したものである。

続く

巻之88  〔13〕 その2、平戸と壱岐の名物集 

   『壱岐国名物集』
武生水蕎麦、瓜、午房。御館大栗(朝鮮栗と云々)。
郷之浦菜切の潮煮貝、馬刀貝。
本井鯛、鱸(スズキ)、(魚荒)鱶(アラフカ)等。
渡良浦大鰯、潮煮鮑。同郷大小麦、莘子(薬草の1種)、大小豆、胡麻。
沖三嶋緋百合、甘苔。半城大浦海雲(モズク)、藻鯷。
物部金谷寺の銀杏、柳田鯲(ドジョウ)。
鯨伏村檜、楠、竹細工。長峰煙草、木曽大根。黒崎夏大根。
安保崎栄螺(サザエ)。立石石路崎葉鹿尾藻(?)。
湯本焼物土。湯浦杉苔。手長嶋海栗。布気村、薬師堂、両山の笋(タケノコ)。
本宮観音寺梨子。鋤崎雁木石。黒瀬猪貝。勝本鼻毛沖の背美鯨、伊勢海老。
灘海の烏賊。
窪の蚫(8月14日、聖母宮祭礼の節、代参の衆神酒の肴に出す。その殻を盃にして神酒頂戴した。ここの蚫は常に取る事成らず。霊地故に)。
可須村椿川の清水、夏袴嶋細布。
新城餅米。郷中上米、川魚、蟹。神岳生姜。
箱崎谷江川鰷(ハヤ)、鰡(ボラ)、雑喉(ジャコ)。
諸津海鮪、鱏(エイ)。恵美須浦初鯨。瀬戸浦口王余魚(カレイ)。
新田頭の車海老。蘆辺(あしべ)白酒、氷魚。
大石海の砥(3月の潮干てこれを取る)。清石浜の大蛤、牡丹苔、鶏頭苔、鮫苔。
八幡浦藻焼の蚫、熨斗蚫、屏風岩。諸吉蕪、大根、茄子、野菜雑穀、余郷に勝ちたり。
川北正一位兵主の神社の榊、杉。
下ル海の小肴。那賀郷臥坐(?)。阿弥陀寺の大小霧島躑躅。
国分当田海の小海蘿(?)潮吹貝、浅里貝。
湯岳の藺編笠。船橋川の鱓(ごまめ)、鯉、鮒。深江畳。
安国寺の槙、蘇鉄、芙蓉、紅梅、糸桜。
河内尻の白魚。筒城浜防風、蘇枋貝(公家方の歌仙貝の中)。
石田粟、稗、黍(キビ)。志自岐浜の石花蜷(ニナ)、青砂。
院通寺浦秋立の早鰤、(魚印、コバンザメ)。妻嶋生海鼠。
池田芹、金柑、柚、橙、久年母(クネンボ、柑橘の1種)、蜜柑。
志原鍛冶鋤、鍬、斧、山刀、鎌、包丁、各上作である。
初山の波瀬権現山の樫、椎、椿、榎(エノキ)、柊、その辺の鰺、鯖、蛸。

 享保17(1732)年子3月日

三篇  巻之39  〔5〕 鎮信公が記されたという『四席懐石誌』について

 何れの年だったか、林子より『四席懐石誌』と標した書2巻を贈って云った。
「この書は、御先祖某君の輯(シユウ、集める意)する所。某君が茶事に名高いのは、世に普く知る所なり。この書を、君故(モト)より蔵(おさむ)むる所ならん」。
 わしは云う。「名さえ未だ識らず」。
林子はすなわちその書を示す。見ると、その首に記して松浦鎮信入道著。
思うに後人の書いた所であろう。けれどもあとがきの末に、元禄9(1696)丙子(ひのえね)、9月、鎮信と記されたならば、正しく公が集められたのだろう。
その書体は、

     〇上巻  ●魚類の部
 〇正月膳附の部    〇同汁の部   〇同煮物の部   〇記伝に曰く云々
 〇2月膳附の部    〇汁部     〇煮物部     〇記伝曰く云々
 〇3月膳附の部    〇汁部     〇煮物部     〇記伝曰く云々
 〇4月  〇5月上に同じ  〇7  〇8  〇9  〇10月上に同じ
 〇11  〇12月上に同じ
          ●吸い物焼き物取肴の部
 〇春の吸い物  30種   〇肴部  20種  〇焼き物部 10種  〇取肴部8種  
 〇夏の吸い物  15種  〇肴部  7種  〇取肴部 8種  〇焼き物部 7種
 〇秋の吸い物  11種  〇肴部  6種  〇焼き物部  5種
 〇冬の吸い物  13種  〇肴部 9種  〇焼き物 5種  
 ●右(上)弁記云々 ●追加  8種
     〇下巻  ●精進の部
 〇正月膳附の部    〇同汁    〇同煮物    〇伝曰く云々
 〇2月同上   〇3月同上   〇4月  〇5、6月  〇7月  〇8、9月  
 〇10月    〇11、12月同上
          ●吸い物取肴の部
 〇春吸い物 23種  〇肴  14種  〇焼き物  8種
 〇夏吸い物 13種  〇肴  14種  〇焼き物  4種
 〇秋吸い物 13種  〇焼き物 5種  〇肴  10種
 〇冬吸い物 12種  〇肴  12種  〇焼き物  4種
          ●奥書、御跋(後書)である。年号御名(その奥に、丙辰の10月14日、栖止庵(押)。その人並びに年代、今これ詳ならず)。
 前の元禄9年(1696)は、丙子にして、公(松浦鎮信公)年75。
跋(ばつ、後書)に曰く。世上通用の分けるはこの如し。
この外吸い物は、見立てに寄り、有来物も、切り形によって、珍しい作意の品々がある。
勘弁だろう。併せて性の宜しくない物、かぼちゃ、唐なす、薩摩芋の類、紅粉茸(ベニタケ)等、一切用いずの事である。
この外に性の宜しくない物、餅の類、料理に忌事である。 
人が知る物に而、風流を料理する事第1である」。

 すると、かぼちゃ以下の3種は、性の宜しからず物と為られたということか。
今はこの3種は、専ら人を救う物であるが。時と人と世歴の更なる点を観るべきだろう。

 元禄9年より、今天保8年(丁酉、ひのととり1837)に至って、142年。

 またこの表題を、四席懐石と名づけ、四は四季にして、席は四季茶客の席を謂う。
懐石は、会席の音通にして、これをのたまうのだ。
但し、懐石の熟字は漢書に見る所なし。

巻之9  〔21〕 下馬札の書法を伝える家

大城の御門のその外両山、聖廟等に建てる下馬札(馬の乗り入れを禁止する旨を書いた札)の文字は、入木道(書道)のの伝授ではない。
京都公方の時は、政所代で書いてきたものを、今の蜷川氏(西城御側衆。相模守の家)は、この頃かの職であったので、その故実を家に伝えたが、奥御祐筆に伝えて、その所筆となったと云う。

しかしその伝える家は蜷川両氏で今奥御祐筆蜷川伊兵衛、小普請蜷川八右衛門(この両氏は実は蜷川同氏ではない。
京都の頃は蜷川氏の披官だが、この下馬札の書法を伝えることについて、苗字を与えて、今は官呈の系譜にも、同じく宮道性を称することとなったと云う)。

巻之9  〔22〕 力士が束になって掛かっても少女1人に適わない

 先年谷風梶之助と云う大関の相撲があった。
横綱を免されて、寛政の上覧にも出て大力量の大男である。
ある時、何事かその弟子のことで立腹して、その者を連れて来て、搏殺するように怒っている。
楼上に居て、多くの弟子どもは代わる代わる楼に行き、侘びを言うが承服しない。

 後は誰でもこれに関わる者に搏殺するようにと言って、いよいよ怒っている。
とうとう寄り付く者はいなくなった。

 1人才覚ある弟子は考えて、谷風の年17になる妾に頼んで、「あのように怒られては致し方がない。何とぞ機嫌を直し、楼より連れて来て」と云えば、妾は心得て楼に上り、谷風の手を執り、弟子中一同にお詫びを申した。

 「下におり給われ」と手を引き下りると、谷風は「応々」と言いながら、少女に牽かれて楼より降り、事は済んだと云う。

 後にその弟子どもが云うには、「このように多数の力士の力も、少婦1人には適わない」と、皆々かの才覚に伏す形となった。

巻之9  〔23〕 大雛人形は誰がもの?

 世に云うには、木下氏(備中の足守侯)のもとに、人の長けほどもある雛人形はある。
太閤秀吉のもので、今かの家に伝わると。
視た人の話をしばしば聞く。
つまり木下氏に問うたと言う人の話では、この如き大偶人(にんぎょう)はかの家にはないと。
太閤伝来と云う事は虚説だと思ったので、ある日木下三之丞(今の足守侯)が訪ねてきて物語る中に、かのひいなの事を問うた。
「秀吉のものと云うのは間違いでございます。吾が先代肥後守、後長及と云うものが(わしの叔母、真隆夫人の夫であるが)、造ったものでございます。なるほど人の長けよりも大きく、2間の処に1対を置くほどでございます。今は女子を嫁がせた水上織部と云う人のもとに、その娘が持っていきました」と語った。

 如何にもこのような大偶人は稀なことに違いない。
大仏殿のことなど思い比べて、太閤のものなど世人のこじつけだなあと思ったことだった。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1143位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
157位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR