三篇  巻之50   〔12〕 感嘆したはなし①

 林蕉亭曰く。
 先日画匠竹沙が来て雑談する間に、亀山の義婦と、津の歌仙のこととを説いた。
わしはこれを聞いて感嘆し、筆記としようとすると竹沙曰く。
「しばらく待ってくれ。誤りもあるかも知れない。津の友人に今一度聞くので」と、後日日を期した。
竹沙はまたやって来て、津の重臣藤堂多門の書いた札を出した。
視ると多聞も志ある人だろう。
竹沙も画工にしてこのようなことに心を留めるのは素晴らしいと、蕉亭がまたその紙片を出した。
因ってその内容をここに書き付ける。

 〇亀山領烈婦の記
 亀山領、村の名は忘れたが、橋称と云う者の乳母登勢という女、稀なる烈婦である。
右橋称幼少のとき、親死去した。
右の親は放蕩で引負(ひきおい、使い込み)を行い、家財は没官(もっかん、犯罪者やその家族の財産などを官に没収すること)、親戚の助けもなかった。
その節右の乳母とせは橋称の生長まで養育しようとを思い、あやしき小舎を村人の情にてしつらえてもらい、そこで橋称を育てた。
また主家再興の大願を興し、金毘羅へ跣(はだし)で参った。
自分はもとより藁で髪を結び、襤褸(ぼろ)を身にまとい、乞食のように人の田地を耕し、昼夜辛苦して、おいおい田地を買い戻した。
終に家を建て、牛を買った。

 今も自身昔のように、髪を藁で結び、麁(あらい)服を昔のまま着ている。

 さてまた家財を手放した時、この家に一人の伯母がいたが、何処ともなく出ていたが、家再興のうわさを聞きつけて帰ってきた。
この乳母は少しも厭な色を見せず、また故の如く主人として労わり仕えた。
今なお存命中で、当地へも乞食のような姿で来ているということ。

感心致し候の事。
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三篇  巻之50  〔13〕 鼠の害ありて

 清水殿、保之丞と称し申すのは、大御所25の公子でおありになるが、出て清水の館を継がれたが、過し文化10年(1813)6月に逝去された。

 ある人がこの頃語ったことよ。
ある時丞君に従って往くと女輩が何か騒いでいた。
その申すには、「鼠が殊に害を為して、昨夜も大切な御器を噛んで損じてくれたんだよ。だから今夜は罠をしかけて、鼠どもを殺さなきゃ」と。

 聞いていた丞君申し給うには、「器を損じるは実に悪(にく)いね。けれど罠をしかければ、餌を貪るのは他の鼠かも知れないよ。これが罠に入るかも知れないね。時期が来たら器を噛んだ鼠も横死(不慮の死)するよ。小獣と謂えども憐れなものだね。どっちにしても器を害した鼠が罠に入るのかな」と。

 女輩は理に伏して返す言葉もなかったと。

三篇  巻之50  〔12〕 感嘆した話② 上の五文字の置き煩い

 〇津の歌仙の記
    琴山筆記抄録 一条
  わが安濃の津の豪商、川北久大夫の者の祖、自然斎と云う者は、和歌を好み、千代の古道に草の庵を結んで住んでいた。
ある時、心の花を枝折にて夢に分け入る美芳野の山と云える歌を得て、上の五文字を置き煩っていた。
その頃の歌匠武者小路実陰卿に、常々雌黄(しおう、文の批評や添削すること)を請奉した。
額ずいてこの歌を聞こえ上げ、殊に褒めたたえ、「名歌はとかく闕(けつ、かち、ここでは無駄な言葉を取り去る、か)ものだ。試しに我も考えてみよう」とあった。
7,8日の後行って尋ね奉ると、実陰はの給うた。

「汝の(五文字の)置き煩いも理である。我も先つ日よりさまざまと考えて見たけれども遂に置き得なかった。院の御所(霊元法皇(1654~1732)の御ことである)には歌の聖の坐ませば、事の序に奉し試みしに、法皇は御感じられて、『朕考得させん』との御事だった」と聞こえ給い、自然斎は悦びながらも惑い、「賤しい身で詠歌叡聞に達する恐れあるのに、親しく考え賜ること、類なき冥加だ」と、涙に咽(むせ)び退出した。

その後実陰卿の院参の序、「法皇の宣うよう。先つ五文字、朕が意にもまかせず、箇様の事は北野こそ功者なれと宣う」。
実陰卿は急ぎそのことを自然斎に語り給う。
その坐より北野へ詣で、七日七夜参籠して、歌の五文字を得ることを願い奉り、満つる暁に至れども何の示現もなかった。
自然斎はいとも本意なく、たまたま然るべき歌よみ出て、 闕たる文字も当時名だたる歌匠武者小路殿の考えも能わず。
聖(かしこ)くも院の御所の叡聞に達し、法皇の尊慮にも及び給わず、扠はこの御社の神慮にも能わせ給わずにと思い捨て、打ちしおれて帰る折、千本の松原を、二人の宮つ子が朝浄(あさきよ)の箒を持ちつつ物語る詞に、「過ぎつることは思い寐(ね)の夢で有けるよ」と云う声がふと耳に入って、『思い寐の』と云う五文字を置いて、再び三たび吟誦すると、全くの歌となった。
自然斎は余りの嬉しさに感涙やまない。そのまま御社に賽し、宿所へも帰らず実陰の御許(みもと)に到り、これと物語ると、実陰いたく感賞されて、「我も共に悦しく思う」と急ぎ院参して法皇に執奉あって、叡感浅からず、忝(かたじけな)くも宸筆の御歌を賜った。

  御製
賤のをの心をよする伊勢の海の
     藻屑の中に玉もありとは
  清曰、以上のこと申も勿論なるが上に、法皇勅諚の中に、「北野こそ功者なれと」聞こへしぞ、天満宮に対し給ひて、流石天子人臣の当り、仰ぎ奉れる御言也。

三篇  巻之35 〔16〕 唯聞察耳

 (丁酉、天保8,1837)7月5日に、西帰の人を送ろうと品川へ往くと、帰りにかの人は云わないが、来客の中語ったのは、この頃、浦賀の辺りに異国の舶が来たと。
「本当か」とわしは云った。
「知らないです」と相手は云う。
「定めてまた諳厄利亜(イギリス)の侶(りょ、共)だろうか?」と帰ってから書を携えてある人に問うた。
答えに「然りでございます。こんな事があったのでございます」。
はや昨29日に出帆して、何処に去ったのか、その所を知らないと云う。
但し小田原城と川越侯の人数、一番手二番手までの士卒は出張して、銃弾を放って近寄らぬように使(しめ)たら、異船は澳(おき、水が陸地に深く入り込んだ所)に懸って、吾が漁舟に木綿に漆書きをしてものを投げ与えたと云う。
一帛(ひときれ)には漢字で記し、一は蛮文を書いてあったと。
計るに薪と水を乞いていたと。
ある人(!)は未だ蛮書を視ず。
唯聞察耳(ただ聞いたことを察したのみ(耳))。

続篇 巻之22  〔13〕 能『胡蝶』

 宝生座には『胡蝶』と云う能がある。
外流にはない。
その次第、ワキ僧1人、着流塗笠、行脚の体で出る。
和州三吉野の奥に山居する僧と名のり、都を一目見ようと京に到る。
一条大宮で荒れた家の庭に、梅花の盛りなのを見とれていると(『羽衣』の松の台のようなものに、紅梅の立った造物が出る)、シテの女、髪文字(かもじ)唐織で、呼びかけ立出、この僧と言葉を交わし、梅花に縁のないことを歎き、来る春毎にかなしみの、泪の色も紅の、梅花にえんなきこの身であると云って、遂に我が姿を夢で見て欲しいと、夕べの空に消える。
夢のように成ったと、中入り、後シテは、長絹、着付けは薄色大口、天冠に蝶の立てもので出て、造り物の前で遊ぶ体あって、序の舞、破の舞を為して、切りは太鼓もので、春の夜の明け行く雲に羽をうちかわし、霧に紛れ失せていくと留める。
梅に蝶を云う事は、唐の李義山の詩に、何の処か胸を払いて蝶粉を資(ト)り、幾時か額を塗りて蜂黄を藉(カリ)る。
また宋の林和靖の句に、霜禽下んと欲先ず眼を偸む、粉蝶の如しと知らば魂を断ち合う。

  胸は梅の弁を云う。
何の所にか蝶粉をとり、弁を払ってこの如く白きや。
蝶は白い。
額は梅の蘂(しべ)を云う。
いつか蜂黄を藉(か)りて蘂をぬり、この如く黄なるや。
蜂は黄なり。
見ざる如にして見るを偸眼(ときがん)と云う。
霜禽梅にとまらんとして眼を偸むものは、梅花美なればなり。
粉蝶は梅花の時には未だ出でず。
因て梅を知らず。
もし梅花を知らば、この為に魂を断たんとなり。
断魂は思の甚しきを謂う。
蓋し是等を取合せたる乎。

続篇  巻之22  〔14〕 咲(わら)う俗説

 遠州可睡斎は洞家の禅寺で、神祖駿城に於いて籠遇があったことを『政治録』にも載せた。
その御由縁を以て、今に年々歳首に出府拝礼する。

 頃日(けいじつ、この頃)ある人が言うには。
俗説に、「奏者番の可睡斎を披露する者は、その年病死するか、或は凶事に遭うと、甚だ忌嫌うというぞ」。

 元より取るに足らないことであるが、とかく世はさまざまのことを言い出すものである。
ある人また曰く。
可睡は『ねむるべし』と読むならば、死も徴あると。
ますます咲うべし。

巻之27 〔7〕 10かえりの松花

 過日浴園恩園の中に生じたと、老侯の自筆で『10かえり(10回繰り返す事)の花』と記して、この図を肥州(静山公の御子息)に贈られた。
肥州はわしに転示するべく写した。

 わしは思うに、これは尋常の松の花と異なる。
たまさかにこの花をつくることもあるだろう。因って、『10かえりの花』と古人はも別称して珍しい物として鑑賞していたか。
勅撰集中の歌詞にこれは云っているが、その状態はよくわからない。
『八重垣』に云う。
「10かえりの花は松によめる。松は1000年に1度花咲くといい、また別の説だが、100年に1度、1000年に10たび花咲くことをいう」。
『和訓栞』に載せてある、云々。今もまれまれあるのもである。
その花は紺色で、みどりの先に咲くといえる。
通常の花は年毎に咲く。
松黄ともいえる。
『栞』の言う事もよく観察したとは聞こえない。
するとこの浴恩園のをこそ本物とするのがいいのでは。
その状態は『栞』の云う所とは異なる。
『本草』には松黄のことのみ見られる。

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巻之28   〔16〕 わしの小庭の松の花

 第27巻(7)に、浴園中に生じた10かえりの花を記した。
然るに今年(癸未、文政61823)わしの小庭の松にもこの花が生ずること6枝に7花ある。
ここに於いて思うに、この松はようやく4,5年前に近郊より移した。
その樹も長け1丈尺(約3㍍)余り、枝幹のさまを計ると20余年来のものになるだろう。

 然るにこの花をよそへ移すのは如何なものか。
これを『八重垣』及び『和訓栞』の所言に従えば年数うまく合わない。
また浴園に10かえりの花と見られるのは、その花ではないのだろうか。

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巻之9   〔20〕 流行に触れを出す

 世間で流行することも時々変遷する。
10余年前、立花侯の浅草たんぼの別邸の古陸に狐が棲んでいた。
よく田の畝を走る姿が見られていた。
『黒班の狐』と呼ばれていた。
「風(ふ)と太郎稲荷」と唱えて現れて、都下を洋々と相称して、後はかの別邸に、群詣の人々は絶えず続いた。 
或は歌謡を作って、ここに合わせて唄詠する。
また祠を造り、尊崇して次第に壮麗を極めた。
然るにいつか止んで、今は知る人さえ稀になった。

 これに続いたのが、『叶福助』と名付けて、巨頭小軀の土偶の肩衣、袴を着けたのを売る。
「これを置いた者は富貴になる」と。
因って戸毎にこれを求め、それぞれの人が買った。
また都下では揚々として貴賤なくもてはやした。
歌謡もこれに付けて起こった。
然るにこれは今は絶えている。

 また去年位より『かんかん踊り』と云って、小児の戯舞するものがあって、都下に周遍している。
その章は唐音(とういん)を伝えているという事らしい。
坊の間を版刻して売り広めている。
今その図並びに歌謡を載せる(参照写真)。

 「かんかんのふきうのれんす。きうはきうれんす。きうはきうれんれん。さんちよならへ。さァいほう。にいくわんさん。いんひいたいたい。やんあァろ。めんこんほほらてしんかんさん。もへもんとはいい。ひいはうはう

 「てつこうにいくはんさん。きんちうめしいなァ。ちうらい。ひやうつふほうしいらァさんぱァ。ちいさいさんぱんひいちいさいもへもんとはいいひいはうはう

然るに壬午(文政5年、1822か)の春2月、市長は停止の事を闔都(こうと、都全体)に触れした。
これ自して止んだ。その文に曰く。

一、唐人踊の儀、この度厳しく停止を仰せ付被候に付き、子供に至る迄かんかんおどり哥抔(など)決め而も申しまじく候。
且つ辻商人、飴売り、壱枚摺り、絵草子抔にも、右唐人並びうた抔持ち流行候者これあれば、その所留め置く町所聞き糺(ただ)し早早訴え出るべし候事。

 右の通り仰せ渡し被る候間、町内限り相触れるべし候以上。

 後で聞くと、長崎では古くからあったとの事。
その辞意は猥褻を極めたということだと。
近頃崎の賤民は罪があって、その他を放逐されたもの、浪華に到ったと。
活計(暮らし向き)に苦しみ、唐人のかんかん踊りをして、一時人が笑い楽しんだという。
然れども左まで流行と云うほどのことは無いが、如何なることか東都に伝えて、人々はその趣意をも弁えず、猥りにもてはやして盛んに流行し、遂に禁じられるに至った。
また聞いた。
蛮人が来たれるに因って(3月恒例の紅毛来貢である)、淫詞、外国人に聞くことはいくらか憚るようにと、市長はこの触れを出したと云う。

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続篇  巻之64  〔9〕 盂歌(ぼんうた)  その1

 この7月、世の魂祭と云う時、わしも月下に心を澄ませに邸の外で女児の歌謡するのを聞いて、わしの若かりし頃、久昌夫人(静山公の御祖母様)の語られたことが心に浮かんだので書き記そうか。

 この女児が歌う事は、世に盂歌(ぼんうた)と呼んでこの時に至るとこのような歌謡あった。
みな行歌である。
然るにわしの少年の頃と思い比べると今はやや稀になって、この頃はただその時を違わないようにしているのみ。

 右(上)によって先ず行歌を挙げよう。
されどもこの歌詞を観ると。
昔に非ず者であるか(この御記事は、甚だ面白い事でございます。
懐古を撫でると今の情からは離れた感念が甚だしく、御文詞は例よりもよろしくととのい申し上ぐるべしとおありでない)。

   盂歌(注・本文ママ)
 〇盂々盂は今日明日ばかり、あしたはよめのしほれ草、しほれ草。
  しほれた草をやぐらにあげて、下からみれなぼけの花、ぼけの花
 〇むかふに見えるは躍り子じやなひか。
  躍りがあらばせり合(アヒ)もふそ。
  せり合はりやひまければはぢよ。
  いしでもなげてけがでもすれば、てんでの親のめいわくよ、めいわくよ
〇むかうのお山のすもとり草よ。
  ゑんやらやつとひけばおてはきれる。
  おてのきれたにやお薬りやなひか。
  石々菖蒲大(ヲ)わう根が薬。夫より外にや薬なし、薬なし。
〇むこうのお山に何やらひかる。
  月か星か夜ばいぼしか。
  月でもなひが星でもなひが、しうとめごぜの眼が光る、眼が光る
 右(上)4歌は、わしの邸内に住む角力玉垣の母の臆する所。この婦人は年62。

〇今日此夜御(コンニチコンバンゴ)大儀でござる。
  お宿へ帰つてお休まれ、お休まれ。
  お宿はどこよ、お宿はどこよ。
  一の丸越て、二の丸越て、三の丸さきに堀井ほつて、
  井どは堀井ど釣辺は金(コガネ)、釣辺の竿は大和竹。
  大和の竹に蜻蛉がとまつた。
  やれ飛べ蜻蛉、それ飛べ蜻蛉。
  飛ずば蜘が網(す)をかける、網をかける
〇両国橋や長い、長い。夫より長いはすいぎよう橋よ。
  すいぎよう橋へお船がついて、お船の中に誰々御坐る。
  右近様や左近様や、お中にこざる紅葉様、紅葉様。
  紅葉女郎はきりよふよき女郎。
  きりよふよき女郎に髪ゆて進上、嶋田がよひかから子がよひか、
  嶋田もいやよから子もいやよ、御城ではやるおさげ髪、おさげ髪。
  さげた髪へちどりを付けて、あちらむけ千鳥、こちらむけ千鳥。
  あら面白や花千鳥、花千鳥。
〇今年の盂は目でたい盂よ。
  稲に穂が咲穂に穂がさいて、俄に庫(くら)が15建つ、15建つ。
  15の庫に三女郎さま(サンジョロン)をなご。
  見よたが女子、見よたが女子。
  見よはぬとてもゑんじやもの、ゑんじやもの。
 右(上)3歌は、また邸内の医者の76になる老婦が云う。

続く

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