巻の15  〔14〕 嘆くべし、近年の世習

 先年一橋一位殿にてしばしば申楽があったとき、小鼓の観世豊綿(新九郎)は殊に優命を受けた。
一橋殿の領地の内、日光山道中幸手駅の辺にある。
豊綿もまたその辺に先祖より賜った知(もてなし、待遇など)があって、地は相隣になっている。

 ある時双方の農夫が田を争って公事(くじ)となって、奉行所に訴え出た。
奉行所の下吏はその事を豊綿に告げた。
豊綿は狼狽してその事を問うに及ばず、即一橋の屋形に走り曰く。

 不届の次第、偏に恐れ入ってただただ詫びた。
 この事を聴くに入ると、双方引き合いもあって、その農民はまず豊綿の手前に置こうという事になった。
それでその者を入牢もさせたく思うが、もとよりその施設もないし、台所の釜の前にいましめ置いた。

 やがて奉行所の裁判になったが、一橋殿領の方は非分となって、豊綿の農が勝利した。

林子曰く。
この頃までは奉行所の断案光明正大なること。凡そこの如くも多かった。
ところがいつしか歳月荏苒(じんぜん、物事がはかどらずのびのびになること)と移ろい、近年の世習となっていく。
嘆くべし、嘆くべし。

巻之96  〔21〕 松平信礼の秀逸なる歌

 また林子曰く(〔20〕からの続き)。
 楽翁(静山公の妻の父、松平信礼、松平伊豆系大河内松平家6代)の歌は今の世に比類なきようだ。
秀逸の数多なることは人も皆知るところである。

 さて寛政中(1789~1801)伊豆相模辺の浦々巡見に行かれた。
何処かの海浜で富士山が殊に広大に見えたのを、連れの官員も家臣もとりどりに、いや高し、いや大なるなどと言っていた。
その時らく楽翁が矢立(携帯用筆記用具)を出して、懐の紙に一首を書いた。

   いや高き君がめぐみにくらぶれば
        ちりひぢなれや雪の富士のね

 その時つき従う御目付の森山源五郎孝盛が、年月も経て齢もたけ、御先手頭となって勤め、ある人をもて翁に富士山扇面の揮翰(筆をとってもの書けばの意か)を乞うと、

   浦々の波のよそめを立こめて
        みしは昔の春のふじのね

として贈られたという。
如何にも実情も風致も備わる面白さだが、感ずるも余りあって云々。

巻之96  〔24〕 弘前侯の門

 かの門に画くまえ、老侯の邸前を両度か通行したが、はじめは門を閉じたりしたが(描いた門ではない。邸の本門である)、頃日は門のくぐりは明けてあって、外の合印し着いた者が番をしていた。
そのきわの長屋も、これ1軒分は外垣も鎖をせずいつもの通り。
わしは不審に思って、彼是と尋ねると、この邸はもと酒井信州の別邸を転換させて、二方ばかりでなく、大小所々幾万替えと云う事らしい。
その談が熟してきて、未だ官裁を経ずして引き継がれたらしい。
それではじめは門を閉ざしたが、後は元主の看板を着けた足軽などを、わざと往来に見えるようにして等取沙汰したとのこと。
これも時節にて、何もかも好まざることども輻湊(ふくそう、方々から集まってくること)すること耳(のみ)。

三篇  巻之70  〔14〕 神祖の御駕に銃丸の成り行き

 前巻59に今の林祭酒が、日光御蔵なる神祖(家康公)の御山駕拝見したの条に、この御駕(カゴ)の屋根より、銃丸の打ち貫きがあったことを云ったが、何者か斬る被逆の所為だと、念が止まず、近頃宗耕に、この事如何なものかと問うた。
曰く。
 『武徳大成』に、慶長19年寅年(1614)10月21日、彦根松原にて、神祖の御駕籠へ鉄炮打ち入る者があった。
御目付山本新五郎衛門が吟味した処、真田家来日下部五郎左衛門と申す者であったと、言上致した」。

 これに依れば、大坂御陣のときと見える。
真田の奸計は、これにはじまらぬことながら、彦根の松原は、御味方随一の地なので、ここに姦伏(ガマリ)をこう出したのは流石真田である。
されど御当家の御剛運は、神明諸仏も加護があれば、如何なる真田も、とても及ぶ所ではなかろう。
その上可咲(おか)しきは、こう打ち損じれば、人々は驚き即捜索するだろうに、木の上に居たというのは、逃遁(ニゲノガ)ることも出来ずして、忽ち生け捕りに為されたと云う。
筆記するも笑っているが、また然るべきことか。
喜々燦々。

 ○また、これは別件だが、前の御山駕の御紋は散らしに葵と酸醤(カタバミ)を交えて出して、不審に思って、また宗耕に問うた。
曰く。
これは御紋を今俗の所謂、陰日向(かげひなた)につけたもので、然りとす当(べ)し。
今酒井氏の家紋と思っているのは、考えざるの過(アヤマリ)である。

三篇  巻之70  〔15〕 出丸を築いた信綱

この頃(庚子、1840か)、武州川越、越後長岡、羽州庄内の3所に国替えの命があった。
極月(師走)3日天祥寺へ詣て談話の中、鶏林和尚が云った。
川越は、中頃松平信綱(伊豆守)の居城だったが、その頃肥後天草一揆のとき、上使いとして往かれ、かの賊の出丸(城から飛び出した場所等に、つくった独立した曲輪のこと、出曲輪ともいう)を攻めあぐねたので、帰陣の後その居城にも新たに出丸を築いたと。

雞林(大韓民国のキョンジュ市の史跡)も先年かの地へ往くとき、その処をよく見たものだが、大手の前に土手を設け、何か迷路が多くあると。
偖(さて)、信綱はこの出丸を築いたことを官旨に触れ、封を遷されて某の地に赴いた。

右(上)何に依ることかあるだろうが、もと浮図氏の話で、かつ年代も定かではない。
だからここにその言を採て、本当の処を後人の研究を待とう。

続篇  巻之14  〔10〕 讃岐院

 また曰く。
 世に八天宮の法と云うものがある。
これは肥前佐賀領分に安置する神である。
その八神の随一を寿徳院金毘羅坊と云う。
これは定めて崇徳院を寿徳院と誤ったものであろう。
殊に崇徳の尊号は、崇道天皇などと同じ例で、崇徳院と称せず、崇徳天皇と唱える方御追尊の義たるものだけど、九州中にて八天宮と祭る時も寿徳院といえば、崇徳院と唱えるのも最も古かろう。

 これは枝葉の論だが、崇徳院と唱えるも最も古いだろうと云う事、諸書を見ると、『日本史』、六部の書に依って修文して曰く。
治承元年(1177)7月追謚して崇徳天皇と曰うと見える。この年は崩後14年になる。

 また『新古今集』左京大夫顕輔の歌の(秋風にたなびく雲のたえ間より)詞書には、崇徳院に100首哥奉られたと見える。
この集は元久2年(1205)3月、いな後鳥羽院の院宣によって撰進すると聞こえるので、この年は天皇の追謚より29年の後になる。

 またこの顕輔は『詞花集』の撰者である。
この集の中、崇徳帝の御歌を出せるには新院御製とあって(瀬をはやみ岩にせかるる滝川の)。

 また『袋草子』(顕輔の子の清輔作)には、崇徳院退位させたのちの勅によって、左京大夫顕輔の撰、天養元年(1144)6月にうけられ、仁平年中(1151~1154)の奏とある。
この年々は保元(1156~1159)以前ので、帝はいまだ讃岐にうつられる前、既に(永治元年、1141)太政天皇と申されていた後である。
さればその頃より崇徳院とは称されていたのだろう。

巻之60  〔1〕 『耳嚢』

『耳嚢』(町奉行根岸肥州作と云う)と云う書にあったと伝聞している。
徳廟(家康公)が、ある夏の夜に左右侍る人に命じて蚊を多く捕らせられ、定めし膿を吸うかどうか。
試すべしとの上意ゆえ、これを試しに、果たして験能があったとぞ。
明理の御聖慮であったのだなあ。

巻之60   〔2〕 松平近鎮の実直なる歌

 延宝8年(1680)5月厳廟(家綱公)薨じられた時、常に近く侍られ、恩眷深き輩はみな落髪して御送葬に供することを許された。
中奥小姓の松平主計頭(かずへのかみ)近鎮は、その列に漏れたことを悔やみ、我籠眷を蒙る身の、落髪のこと誰にか遅れないようにと、自ら謷(そしり)を戴き、

     露の身の消ぬこそあれみだれ髪の
          わけては独り何残らめや

と詠しが、その後は籠去して、人にも交ざらないとぞ。
如何にも感じた志である。
実意に出る歌は格別の者であり、大した節もない哥だけれども、今よんでも感吟させられるものだ(林語る)。

巻之98  〔9〕 小原女の戴く台輪

 八瀬小原の薪売りの事は世の人が識るところである。
小原女が物を頭に戴いて運送するときの台輪の図と示す物がある。
題記がある。
    小原女の戴く台輪

 大きさ差し渡し5寸許、高さ2寸3分許、厚さ1寸7分許ある。
惣躰(そうたい)は藁のはかまの節をとって、糸の様に細くなるまで打って、家戸に用いる釜敷の如く拵(こしらえ)る。
薪こる(梱包)時は、樹の皮などに懸けておき、かりそめにも席上や地上におくことはない。

 小原女はこれを(頭に)いただいて、その外に薪はしり(水ながしのこと)、れん木、梯子様のものをのせて歩く。
正月の御修法の護摩義をも矢背(八瀬)よりさし上げるに、これにのせていただいて大内にさし上げるという。

 只今はこの台輪を頭痛のまじないに請‘(うけて)するものもあるよし。

 ○ある人が見て、釜敷によい云って乞うと、小原女は殊の外に怒り、そんなものに用いるものではないと、叱責したこともあるとのこと。

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巻之60   〔15〕 僧と儒士

  足利学校は、今は寺だけれども寺号はなく、ただ学校とのみ称し、堂の本尊は仏ではなくて、孔子の像だと云う。
今学校の住持は、以前流学の間天祥寺に納所(なっしょ、年貢(など)を納入する所)をしている人で、今年来訪して咄したと云う。
ただ恨むのは、僧を儒士にかえたことである。

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