巻之49  〔17〕 どうしたら、こうなる?

今年遊行上人が携えて来た文書を視ようと旅宿の浅草日輪寺に到った。
慧充と云う学頭の寮で四方山の話をする中で聞いたことは、その55代の上人他阿(今の上人の先代)が越後に在って化益あったとき、坐後に刺客がいた。
時宗の結衆にまぎれ、匕首(あいくち)を懐にして上人を襲おうとしていたが、その人は乱心のよしに取り成して、事なく済ませた。
が、実は偏執の者で、日蓮、親鸞の僧徒の中から為したところという。
宗派の帰依からこの様になるのも不思議なもの。
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巻之49  〔18〕 時世に随い降りて行くものとは。

 府の俳優坂東彦三郎(今は楽善と云う)が若い時、これも俳優で名人と云われた富十郎(慶子号する者。
その頃年は既に70になっていたかと)が、京都より下るのに、芸の事を問う中、富十郎曰く。
「この地の人の舞を見ると、扇を開くに右手ではっと披(ひら)く。左手に何もない時、右手だけを振って披くのはいかがか。我等の舞は右手に扇を持って、左手で開いたものだが」と。

 流石上手と呼ばれた人、古風な穏当なことよと思うし、今も忘れられないと、彦三郎老後に物語ったと。
このような俳優も昔人は優美である。
何事も時世に随い降りて行くものである。

巻之49  〔19〕 風韻というものは

 林が語る。
 この頃堅田侯へ往くと対面の席床にかけた墨跡を見て、これは「御実家親類方の筆迹(あと)にや」と問うた。
主人は「何ゆえそのように思われるか」との挨拶だった。
「失礼ながらよい書き物とも云えないが、貴人の書とも思えるので、そのように申しました」と答えた。
主人は(この答えに)感心して、「よくそのように云われた」と云った。
実は水府黄門卿の書かれたものだが、そうとも云えない。
風韻(趣がある)と云うものは、いや違うとも云われぬし、何ごとにも(そこはかとない違いは)あるものである
またその席で主人が話すには、実家の祖綱村(仙台侯)と云うものが、慰めに側の者に俳諧をした。
ある時、

   誰か在る今のはたしか郭公(ほととぎす)

と云う句をして、家臣等の句と一同に点者に示したら、点者はこの句を見て、頭に拝し、(外の家臣の)句を見たと云う。

 なるほどこの句作り、貴人の風骨があって鄙賤ならない姿である。

続篇  巻之61 〔11〕 こうあるべきを押し通して

仙台侯が江都をたち、到着のとき、先例で数挺の鉄炮を従えられたのは、都人はみな知るところであった。
ある人の話に、かの家老片倉小十郎も、また家格として鉄炮を従え旅行した。
何年のことか、出府のときこうして浅草御門に入ろうとした。
番士は出てきて(これを)遏(とど)めた。
片倉はその先格があると言うが、番士は御番所の諚(おおせ)を云って、通さない。
遂に勤番の人より老中へ伺のうえ、指図済みとして御門を通したとぞ。
その落着までの間、枡形に莚を鋪き、その鉄炮足軽等数人を置いていたと。
なるほど柳橋、和泉橋などもあれど、流石行きがかり上、この所で引き返すことはなくとも、片倉方には不本意に思えたろう。
御番所ではこれを弁(わきまえ)つつ推し止めたのも、互いにこうあるべきということであった。
その頃人々申し合わせたとなったと。

続篇  巻之61  〔12〕 ありきたりが善き

 観世の弟子の某が語るには。
 大納言様には、当観世大夫に御相手を仕るよう仰せ付けられた。
御付衆の中、これまで宝生流の者に改流すべき由を内々に相国様が聞き召され、仰せに、何ごともありきたりの儘が善き。
どうして改流をするのか。
我も幼年より宝生流だが、今更観世に改めることはないだろうとのお言葉だった。

 これは定めて奥向きの門弟より聞いた話である。

巻之61   〔24〕 先さまの念いにふれて泪する

 古るきことを思い出すままに冊中に書いておきたい。
 我がまだ若年であったころ祖君誠嶽侯の嗣子となった。
その冬叙爵(叙位されること)すべきになったとき、祖母君(久昌夫人)がある日、清(静山公)を近づけ、宣(のべ)られたことには
「私は患(うれい)ております。汝はこの冬叙爵すれば、旧に依って壱州に任じられるでしょう。伯父本覚君は壱岐殿として26にて卒され、父公政功君もついで任じられ、37歳にて卒された。汝を合わせて3人です。だから他に任ずべきでしょうが、家の先の例に違わないのではと。ただただこれのみ憂いがあるのです」
と染々(しみじみ)と宣べられた。

 この時わしは未だ若年で、深慮もなく、祖母の御患を休めようという計りで、申し上げた。
「人は生き死にこそ計り難いものですが、壱岐守がどうして忌むことなのでしょう」と慰め申し上げると、祖母君は御涙を浮かべ、「善かった」と申された。
我が念いは晴れた瞬間だった。
これぞ生涯の大慶と仰せられたが、顧みれば、それより幾春を秋を歴て、今既に耳順(じじゅん、数え年60歳)を踰(こ)えた。
思えばこのような世に長らえたのは、誠に祖母夫人への孝であって、先の言葉ではない。
尚更夫人の忝(かたじけ)なきことに念いが増していく。

『帰敬録』と云う増上寺の蔵書に、大樹寺の登誉上人が神君(家康公)に申し上げた言葉に、「御祖父清康公は25歳にて卒し、御父広忠公も24歳にて逝去された。
すると君は短命の統類ならば、明後日討ち死にと決定し、最前申す如く急度意地を御窮(きわ)め、阿弥陀如来の御本願に任せ、称名念仏の利剣を以て、悪人を退治せんと思し召し、うんぬん」と見える。

  清は按(おさえ、調べるの意)るに、広忠公の卒去のとき神祖8歳にて坐(ましま)し、この登誉上人がこのように申したことは元禄3年(1690)なので、御年19になられていたと。
つまり御終年を考えれば、父祖公に踰得られ、古稀の御齢に余りになった。
されば尊卑(身分の高い者と低い者)こそあれ。
これ等も同じ御ことにぞ。
○林蕉亭曰く。
この前条を読み過ごして懐旧に堪えず。
数点の泪をそえていた。

巻之61  〔25〕 川越の名の由来

 近邑の川越の名の由来を知らない。
それでかの地の人に問えば、上方より奥羽へ下る者は中山道を経て熊谷駅より右に入り、松山を過ぎ、入間川を渡る。
その川向うの地なので、こう云うとぞ。
今の川越の城邑は、川を距てること1里半である。

巻之61 〔27〕 銭湯の辞

 ある人の話に、銭湯の辞と云う。
何人の口占なのか。

「雀は藪に入ってたけと呼び、鶯は谷を出てうめよと云う。
あつしとて灼(や)けるにも非ず。
ぬるしとて凍えるにも非ず。
とかくむつかしきはゆの中よ。
あかの他人を入り込みにして」。

巻之10   〔41〕 紀伊の太真殿の大井河渉り

紀伊の太真殿が大井河を渡られたこと。
わしの先年帰国の途中、大井河に往きかかり霖雨(長雨)の後満水して中々渡れなかった。
それで10日余りも嶋田駅に滞留していた。

この時日々河の許に出て水勢を観に、川越の者も出あい、彼等と話していた。
すると虎平、強、。右衛門と云う2人が何れも俠者(きょうしゃ、弱者を助け強者をくじく)で川越の魁であったが、云うには、1両年前河の水が満ちて渡り難きとき、この公(太真殿)が御行かかり、御渉のことの御尋ねがあった。

中々渉りがたいとの由申し上げたら、さらば御自身で御渉りしようと御衣服を脱がれ、われら両人に伊達なる3尺手拭いを下され、両人裸身に襷をかけ、太真公はわれらを左右に率えられ、水中の瀬踏みをさせ、この襷を執らせられ、漲(みなぎ)り下っていく奔流の中を横切り、遂に向うの岸に至り、怖ろしくも猛き殿さまで、かの俠夫の2人も舌を巻いたと。

この体なので、従行の人馬も我劣らじと、衆力を与え、ゑい声を出して、必死の勢いで渡ったとのこと。

巻之16   〔3〕 放達の者たち

 蕉軒が云う。

 詩人の放達(気ままで物事にこだわらないこと)は留まるところがない。
3尺の童子も知る李太白、杜子美は詩人の勘弁ならずや。
その詩句にて云うのは、「李が狂歌孔丘笑う、杜が儒術我に于(ここに)何か有り哉、孔丘盗跖(中国の古文献に登場する春秋時代魯の盗賊団の親分)倶(とも)に塵埃」と云うように、名教の罪人と謂うべし。

 近時、勢州の和学者本居宣長は、強いて我が国のことを主張しようと、孔子に名云うも、ますます知らないことの甚だしさである。

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