巻之24  〔8〕 安芸、薩摩の士、川崎大師の川原にて勝負、その顛末

 癸未(1823か)の春、川崎大師河原に開扉があって、人が大勢で参った。
3月28日のことだったか、大森の露店に薩摩侯の士3人、安芸侯の士が1人いた。
その間に衝立(ついたて)を立て、隔てがあって、芸士の刀を古法の如く立てかけておいた。
ところが如何したのか、刀の鞘尻が薩士の当たってしまった。
薩士は立腹して、色々悪口を言っていたが、芸士はこれを詫びた。
しかし薩士は聞き入れない。
それで芸士が申すには、「この上は是非に及ばず、お相手に立ちましょう。されどここは如何なものでしょう。鈴ヶ森まで往って打ち果たしましょう」と互いにそこを去った。
またその店に尾張の士が1人いたが、最初から次第を聞いていて、2人と同じく立出、双方をなだめた。
けれども薩士が聞き入れない。
 「この上は為方なし!某が証人となって見届けましょう」と芸士に加担して、一同鈴ヶ森に往った。
双方は立ち向かったが、薩士が3人1列に並ぶのを、尾士より「1人に3人でかかるのは無法ですね」と言われて、1人立ち向かった。
双方しばし挑(いど)み合う中、芸士は左手に薄手を負うたち見えた。
が一際(ひときわ)はげんで、薩士の右手を半分ほど切った。
これをみてまた1人が立ち代わり、しばし切り結んだと見えたが、袈裟に切られて(刀で一方の肩から斜めにわきの下へかけて斬り下げること)死んだ。

また1人が立ち向かったが、真向を切られて倒れ死んだ。
この間に、はじめに右手を切られた者は、はや逃げていなかった。
これより芸士は切腹の体に見えたので、尾士は立出て云うには、「いまだ切腹の期に非ず。某が何分にも進退いたそう」と、同行して薩侯の邸に往って、この事を申し入れた。
するとこの如き士はこの方には無しと答えて取り合わなかった。
それで尾芸の両士ともそこよりひ引き取った。

三篇  巻之50   〔5〕 土岐豊前守、危篤の時口占(クチズサミ)する

 戊戌(1838か)土岐豊前守(邸神田橋内、7千石)と称する人は、御側御用取次ぎで、大御所当任のときより、忠謀の聞こえ高かったが、御退職のときも、当将軍様へ御附きがあった人であった(わしが勤めていた頃は、御用御取次もは、安否寒暑にも訪ねず、当肥州(静山公御子息)の代には、専らこの人には尋問したが、わしは退隠の後なので、親しく接見はしなかった)、既に近頃浪華騒ぎのとき、塩賊(大塩平八郎の乱)の狂書を、大御所の上覧に入れたのはこの人であった。

 その余直情を以て仕え、志奉公の道に甚だしき性質であったと。
然るに夏の頃か、殿中より卒中風にて退出があったと聞こえるが、遂に泉下に赴いたと云う(年63)、わしの如き外班の隠倫(世をのがれて隠れ住むこと)さえ、輔粥(天皇の行為としてなされるべき等について進言すること)の臣のこのようなことは痛惜に余りある。また頃聞く。
病危篤に及んだとき、一句を口占たと。

    時は今医者がかけよる気つけかな

 その言は卑しく思われたが、この人の優容(寛容にもてなす)さをここに知って欲しいと思う。
曾(かつて)子が孟敬に応ずるにも恥ずかしく思われる。
またこれ明智の信長の暴勇を悪くとり、愛宕山の連歌に拠りたが、 窃(ひそか)に察するに、その人は年来以勧の志だが、ここに至って絶えるべきは、天なるや命なりと、時世を歎くものであったことよ。
噫(おくび)。

巻之59  〔22〕 無辺無極という槍の流派

 都下は広いので、武芸にも未だ見ず、かざることなどもある。
この程伊丹勝次郎が来て話す中、かの子息の槍流を問うと、その師は御籏本衆で番町に宅があると云う。
この槍術は至って烈しく、敵と同寸の直槍で、柄の長さは2間2尺と云う。
また十文字薙刀なども使うらしい。
かの槍柄は大抵径(さしわた)りが3寸ばかりで、握りは指に余る程。
槍末は1寸2,3歩径りもあるだろうか。
革頭(ボタン)の大きさは径り3寸ばかりとのこと。
かの師の槍はまた右の大槍より太くて、柄の径りも4寸もあるようだ、これを麻(お)がらを振るように廻し、殊に手軽に見えるとぞ。

 この人の槍場は普段から人の出入りが多く、もはや5か年程も続けられていると云う。
この場の法は、門弟をその術の優劣によって階級を立てている。
その次は某々と次第して専ら他流の者が来るのを待っている。
他流の者が来れば、すなわち仕合をして勝敗を決める。
因って他流の者が来れば、その位次で段々と出ては勝負をつける。
また他流と仕合するときは、予め日限を定め、他門或は誰人といえどもみな見物を許す。
故にその日は来る者甚だ多く、群れをなすと。

 先ごろある藩士が両人来て仕合をしたが、その1人は一刀流で、飛び揚がる術を持つ者で、槍合のとき1間も上に飛び上がって、入り込んで勝ったと云う。
この仕合のとき、初級の弟子両3輩は飛術に負けたが、6級目の弟子は遂に勝った。

 この6級の弟子は、その師と対抗するのに、弟子は一向槍の構えをせずにいられないと云う。
師の術はこれで測り知るべきであろう。

 さてそのような太槍なので、握りは自由にならない。
因って左掌に藁を握り込んで、槍柄をすり出して、突きと引きを迅速にするのだと云う。
珍しき稽古ぞ。
よって伊丹に明くる春は必ず子息の技を見せ給われと、堅く約束してきた。
その流名を無辺無極と云うのだと。

巻之63  〔14〕 御成りの町のようす

 4月27日観世大夫の宅で能があると聞き、夜べより往って観ようと思い、日が出る頃出立した。
その日は西城より羅漢寺へ御成りがあって、川筋を支えれば、卯の半(午前6時)邸を出て急いで行くと、弥勒寺橋、大橋、永久橋は障りもなく渡った。
箱崎町に及ころにはや御成りと告げられた。
中途に停められ、小坊の横路に避けると、木戸を閉じた。

 すなわちその内に駕籠をすえて、待つ間に思ったことは、都下の広きも、この人停め等所々の厳格に到る所大道は勿論、小巷に及ぶまで、工家、庄屋の法、手がとどいていることである。
すれば上に賢相すれば、下の流行する挙直錯枉の言も実に然るべしである。

 待つ事久しくこのこと思いながら、輿の中で記す。
その日のあらましを記す。
三股の川端通り邸前に行くと、橋ある辺の辻番所には、足軽体の者が並んでおり、士分は物頭など見える者が詰めていた。
これは通御の前後、人通りの進止を見計る役なのだろう。
行く所の邸前みな然り。

 町に入れば、町毎の木戸に町役の者が4,5輩、または2,3輩立ち、番屋にも固めていて、はや川を通御ある前には、網を横に張って、人を停める。
貴賤みな然する。

 木戸を塞いでその外に床机を設け、これに2,3輩が腰をかけ守っている。
木戸の開閉を鳶の者がやっていた。

 なかなか私事は許されない。
こうして通御を思える物はみな机を下りて地に伏せた。
因って聞くに、その辺も正しく御見通しではなかった。
御見通しの所より注進すれば、相伝えてこうなると。

 さてその綱を弛めるには、出張の御徒士方より指図あって人を放つと云う。
またどの家の戸口毎の前に子ども1人ずつ屈んでいた。
子どもの事ゆえ、度々代わりつつ1人は必ずいた。
後に聞けば、家の主が居るべきところ、主は職業等閑がなく、子どもを代わりとするとのこと。
度々代わりながら、慰み半分と見えるが、寸時も曽(かつ)て居ないことはなかった。
小事だが、大法よく行われる、観るに足ることであった。


巻之60  〔5〕 祖の兜談

 前に(巻之59)赤穂侯の祖(森三左衛門可成)と任王寺侯の祖(市橋下総守長勝)の兜に銃鉛の痕があることを言った。
後で聞くと津侯(藤堂氏)の祖高虎は、大阪陣のとき着していた兜をその家に伝えている。

 形はとっぱい(兜の鉢に頂の尖ったもの)にしていて、その高さは1尺をこえている。
目立つ兜だが鉢に鉛が2つ中(あた)った痕もある。
1つは鉛が射通しているとぞ。
かの侯の臣が正しく見た話である。

巻之60  〔6〕 左もあるべき事也

わしの身内に近頃仕える吉田氏は、弓術を故主の国で修行していたとき、陣笠を着け、或は指物をさし、また立物ある兜を着けた者と立ち別れて射合いをしていた。
が、ともすると兜に大きな物があるか、または目立つものがあれば、それに目移りして越矢になって射外すものである。
また目を惑わして射にくくなる。
すると古人の、なし打とっぱい兜、或は目立つ立て物張り掛け等、総じて前立て、脇立て、後立てなども見分けの威貌ばかりでもなく、趣味もあってのことかと。

さもあるような事ぞ。

巻之42   〔14〕 ここに誨(おし)えに背く

 世には(話題の)種がいくらでもあるものだ。
この夏か。
福井町大六天の祠の裏に、藁くずなど多くを捨てた。
ある晨(あした、夜明け)に下男がかの辺りを掃除して、また用があって往ってみると、藁が散乱している。
不審に思って視るとそこに赤子がいる。
男は「今しがた掃除をしたのに。合点がゆかぬ」とそこに佇んでいると、傍らの雪隠より子どもの声がする。
「おかあ、出よう、出よう」。
何だと思い戸をあけると、1人の婦が3歳になる児をおぶっていた。
何者か、何れの人かと尋ねても答えない。
ただその場を逃れたい様子がみられるので、「さらば赤子は己が捨てたかや」と云った。
婦は「許したまえ」といよいよ逃げようとする。
この婦が産んだ赤子だろうと、取揚婆を呼んで介抱させ、駕籠に赤子とともに乗せて送ったと云う。
この婦は、3歳の児を負いながら、密に藁の中で子を産み置いて、厠の中で産後のかたづけをしていたが、背の子が「出よう、出よう」と云っていて、外に洩れたと。
穏婆が語った。

  刪(さん、削るの意)に曰く。是は数にもならず、異聞にもあらず。
  下賤の者の事にて筆墨を汚す可からず。

しかしながら、高貴には卑下の状態をわからずともいいという風潮だ。
それでここに誨えに背く。

巻之42  〔15〕 ふたたび盗人浜島庄兵衛

 巻之1に、盗人浜島庄兵衛(世に謂う日本左右衛門)のことを記した。
この頃林子は、また人に聞いたと話した。

 庄兵衛は何処へ盗みに入るときも、自身の手を下すことはない。
手下の者を働かせ、己は床几に腰掛けて指図すると云う。
駿州で夜盗に入ったとき、土地の町奉行属(づ)きの同心が夜回りして怪しく思ってみれば、手下が刃を抜いてかかってきた。
同心も心得たりと抜き合い、しばし扣(たた)き合っていたが、庄兵衛は腰掛けながら立つことなく、(同心の)手下は後ろより(この男を)組み留めた。
さてさて気丈な男だよ。
職分を守り、死を決して戦うこと、感心する。このようなけなげな者に怪我をさせたと、束縛して傍らに置いて、いづれも盗みの業を終わって立ち退きとなった。
また自ら訴え出た後に、懐中の物を探るとその中に正真極品の朝鮮人参数根あった。
吟味の与力が「これは何づ方で盗み取ったか」と問うと、大いに笑って、「吾輩とて多くの手下を持てば、もし手を負い出血するときは、独参湯でなくては救いがたいものよ。
その用意にわざと買っていたのよ」と答えたと。
またいつも己の紋をつけた黒二重の服を着て、雑色の衣服を用いなかった、よ。
如何にも気象(気性)高きことである。
太平に生まれ遭えばこそ、盗魁(とうかい、魁はさきがけの意)で終わるのか。
乱日に遭ったなら、大国をも領すべき盗質であったろう(林話す)。

巻之100  〔1〕 本多随翁が催す尚歯会(老人を尊敬し高齢を祝うために催す宴)の図

 過ぎし文政4年(1821)冬11月甲子の日、林子が訪問する。
夜話に契った書冊の功が空しく、10年夏6月に遂に10と10(100のこと)の成数をなした。
年は7歳を経るが、月は凡そ70月になるのだ。
全く5年10月に100冊を成したのだ。

 因ってまた続集をしようと思い企てていたところ、文化中(1804~1818)神戸老侯本多随翁(元伊予守、丹後守)が尚歯会を催したときの図を得た。
それでみなの肖像を写した。

 わしは今年68。
林叟(翁の意)もまた耳順(じじゅん、数え年60歳)。
この後復旧契りを廃せず、続篇の功を為さねばと思う寄寓であり、祝賀の意を以てこれを巻首(巻頭)に置き、尚他年の成功を期する耳(のみ)。

 原図に題をつけた。
文化13丙子年(1816)3月18日、喜亭に於ける尚歯会の図。
下屋鋪高輪庚申堂横町。執事藤堂忠憲。

 随翁は、徂徠(荻生徂徠、江戸中期の儒学者、1666~1728)門人猗蘭(きらん、本多1691~1757)侯忠統の子。
名は忠永。
忠憲は随翁の季子、甲馬と称される人である。

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巻之71  〔5〕 旅する俳人(芭蕉)の見たまま感じたままの歌に賞嘆する

 世に芭蕉の句といって俳人は賞嘆するが、わしの意にはとかく連歌の句作りは勝る人だと思う。
その上蕉翁の句を俳人は解しているのかと思う。
わしは試しにその思う所をを述べてみたい。

     山里は万歳おそし梅の花

 この句は何を言っているのか。
わしは1年東に上がるので、3月の初め遠州の山越え、気賀に到り投宿する。
時に日が高いので、独坐していると、向こうの家に万歳と言って来る謡う声がする。
わしは思った。時すでに暮春である。
万歳は初春のものである。
「何かや」と宿の者に問うと、「さようでございますが、このあたりはいつもこの頃に梅の花が咲くのでございます。
正月の頃は咲かないのです」と云った。

 さては万歳も梅花もともに春の初めのものだが、片山里は寒気深く、梅も晩春の頃に開くので、万歳と比して口占(くちずさみ)するとのこと。
俳人はただ句の言うままに聞いたと思われる。また、

     くたびれて宿かる頃や藤の花

 この句もわしの説は、藤は春深く咲いて、長日(夏の日、昼の時間の長い日)の頃だろう。
また旅行も短晷(たんき、陰)に路を急ぐに、藤の花の頃は日は永いので、里程に行きつかず、足がくたびれて投宿した。
藤の花もまたその棚底に下がっている状態、長くて見事なのを賞して、このように言ったのだろう。

 俳人の意問はこうでありたいと思う。
また曰く。芭蕉は北村氏の元祖季吟の門人で、憲廟(4代家綱公)のときに生きた。
近き世の人だ。
世人は殊の外に古の人と思う輩が多いと感じる。

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百合の若

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