巻之10   〔11〕 盈(み)つるもの虧(かく)ある

 前に太郎稲荷のことを云った。
 かれ繁昌の末か、その辺を日々往来する肴売りは時々に魚を失った。
察するに狐の所為だろうと、1日魚を餌にして狐を打ち殺した。
その大きさに人々は驚くばかりだった。

 これより稲荷の事漸々(ぜんぜん、徐々に)衰えて遂に流行が止んだ。

 その打ち殺された狐は、乃(だい)太郎稲荷と称されたものだったと云う。
盈つるもの虧あるは天の道であって、妖狐も免れなかったということ。
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巻之10  〔12〕 言笑自若(どのようなことがあっても、平然としているたとえ) 

 今の角力、大関に玉垣額之助と云う剛強な男である。
1年瘡癤(そうせつ、太ももにできる腫物)を患ったとき、その弟子角力に云った。
ここを膿血を強く押し出してくれないか、そうすれば速やかに癒えるから、と。
だが弟子は強く押すに忍びず、柔らかく押したら、玉垣は怒ってしまった。
この役に立たぬ奴め、わしの申し付けに違わばお前の頭を打ち砕くぞと云うと、弟子共は怖れて、力を極めて膿血を捺(お)し出し、乃疾は癒えたと云う。

 蜀(ショク)関羽が臂(ひじ)をきった類の話で、壮士の気度ありと云う
(名将伝に云う。羽嘗て流失を為す所の中、その左臂を貫く。
後瘡は癒えたといい、陰雨に至る毎に、骨嘗て(以前から今まで)疼痛していた。
医曰く。矢鑲鏃(やじり)毒が有った。毒が于骨に入っていた。
骨を刮(けず)って毒を去り、瘡(きず、かさ)を作った(ところに)臂を破って当てて、然るに後此の患を除いたのみ。
羽便臂を伸ばし医に令しこれを劈(さ)いた。
時羽適諸将に請い飲食を相対した。
臂から血流は離れた。
于(ここに)盤(おおざら)器が盈(み)ちた。
而して羽灸を割き、酒を引き、言笑自若)。

巻之46  〔24〕 山と川の名の由来

林子を天瀑山人或は天瀑山樵などと称することは、かの実家の領邑美濃のな恵那郡に、屹然と特抜した山があって天瀑山と云う。
この山は幽深の絶境で土地の者は魔処と唱えて往来する者もない所であると聞く。

 また近頃糸川漁翁と云う別号を用いているので、その由来と問うた。
癸未に加恩のあった上総国賜村の辺に、一帯の長流があってここを小糸川と呼ぶ。
因ってその(名前を)用いるとぞ。
両事とも面白い。

巻之46   〔25〕 物の顕晦(けんくわい、けんかい、顕れること隠れること)は時のあるものである

また林子が云った。
物の顕晦は時のあるものである。
天瀑、と云う山が濃州にあることは普通の書冊もの見えない。
人の口から聞いた事もない。
余一度その名を号としたから、世を挙げて濃州の名山であることを知った。

これに加え、往年唐山に失って本朝にのみ残る書を合併して『佚存叢書』と名づけ、まず六帙六十本として、唐山へも渡した。
その叢書1種ごとにあとがきがあるが、天瀑山人と題して匿名にした。
その後飽廷博『知不足斎叢書』第28集の中に、佚存より抜き取り、『五行大義』を印出した。
天瀑の跋(ふむ)をそのまま添えて刻んだ。

また呉省蘭の『芸海珠塵』に中にも、『左氏蒙求』を佚存本にて刻入して、同じく天瀑のあとがきを載せている。
天瀑の山、美濃国にあることは開闢以来のことになるから、数千年を経て本朝の人さえ知る者もない。
然るに時を得れば、その名人たること国人が知るのみならず、唐山でも刻布するに至るは、かの山もまた幸いなるかな。

続篇  巻之61  〔4〕 摂州港川楠氏墓地の今昔

 摂州港川楠氏碑堂の地景を、去年肥州(静山公の御子息)の西帰(平戸藩)に托し、写生して寄越すように伝えた。
肥州はかの地より郵便で贈ってきた。
このことは既に続篇巻之7に、故執政古河侯林氏問答の旨を伸べて、その事は顕然であるが、この図のその詳しさを観るべく、ここに出す。図~写真参照。

 またわしがかの地を通行したことを回顧すること30年程。
その頃は樹木とて1本もなく、碑石には上屋がある耳(のみ)で、田の中にポツリと立っていた。
また道傍に亭舎の類が1軒もなかったが、この図を見れば、如何にも盛んなこととなっている。

 今人は昔よりこのような形勢と思われるので、すなわちその往事をここに詳しく載せる。

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続篇  巻之61   〔3〕 盲人城喜世が杖と傘を間違えたこと

 松英公の時より、針治療で仕えた城喜世と云う盲人は、わしの幼少時まで元気にしていた、ある時の咄に、城喜世が若年の時に、ある日(手にしたものが傘ではあるが)杖だと心得、傘の柄を持っていったが、半途にして杖が重く覚え、探ってみるとそれは傘だった。

 これより心細く覚えて、行き先が分からなくなってしまった。

 初めは杖だと思っている間は行き先は明るかったが、傘だと思ってからは不案内になってしまった。

 何(イカ)さま斯(カク)も有りつらめ。
『蒙求』、前漢の李広は、隴西成紀の人。
世々射法を受く。武帝の時、右北平太守を拝す。
匈奴号して漢の飛将軍と曰て数之を避け、界に入らず。
広出猟す。
草中の石を見て、虎と為し以て、而して之を射る。
石に中(あて)て、矢を没す(矢入ること深ふして羽を呑言う)。
之を視れば石なり。
他日射るに、終に入ること能わず。

巻之53  〔15〕 閏月の中秋を語る

 楼上から遠方の花火を見るにつき、わしが主人に云うには、都下におぇる炮術の定めは4月をはじめとして7月を限りとする。
大窪にある官の教場斗(ばかり)は8月を限りとする。

 また煙戯(はなび)をゆるされるのは、5月をはじめとして8月を終わりとする。
つまり当月は閏(暦と季節のくい違いを調節するために日数または月数をふつうの年より多くすること)だけれども、同月になるので、やはり構えなく煙火はありと、その商人が云った。

 また田付氏の与力に問うた。
かの官場は8月迄の定めならば、今秋の閏も8月なので構わないと云える。
答えるに、8月迄の定めならば、閏月はもはや用いる必要はなかろうと。

 このように武事と戯観と異なるは如何なることかと、共に云ったことだった。

巻之53  〔16〕 ② 閏月の中秋に語る

また月下に管弦のことに(話題は)及び、折しも林家の楽生に故障があって、この夜催しがたいと云ってきた。

 それよりわしの作意した白拍子のことを語る次いでに、世にも心得がたいことがあるとある人が云った。
福井侯の家法は厳しく世の芸妓なる者も後房に入ることを禁じ、遊場俳優の輩は猶更、ただ瞽(ご、めしいの意)師の筝曲のみだったと云う。
この公侯の家は尤もであろう。

 つまり後房の置所の侍妾小玉の輩は、唄哥起舞するのは、みな遊場の哥舞である。
すると遊場の人は禁じて、その哥舞を行わせる。

 所謂50歩で100歩を笑うのではない。
是と云うのも、世絶えて採り得る哥舞なくして、都下に洋々たるは俳優の哥舞のみであるからだ。
故山田險校(やまだけんぎょう、1757~1817、江戸中期から後期に活躍した筝曲音楽家)自ら一家の哥を作って、侯家の宴席に興じた。
これは山田の所見がある。

 わしは白技(白拍子)を興じても、古を慕うのみだはなく、いささか別に微志があってなど云って笑い、主人もまた一笑した。

続篇   巻之41  〔3〕 医師多紀安長

 梅塢は話した。
 多紀安長(元簡もとやす、1755~1810、江戸後期の医師)が済寿館の総宰の時、東京肉桂(シナモン)の舶来が少なく、価格もまた騰がった。
館は都下窮民の治療を仰せ付けられているので、かの局定額の御入用に限りがあって、俗事役大野某は、舶桂に倭根皮を半分加えて、薬料にあてた。

安長はこれを聞いて怒って曰く。
「既に上命あるのは官の御薬種のみ。民を救う御盛意は格別である。邑人は根皮の桂でも治療すべきだろうが、御盛旨に背くことはあってはならない。私財で高価な唐桂を買うから、根皮は入るぬように」。 

またわしはかつて聞いたのは、安長の塾の中に諸方の医生が来ていて、師の手が及ばないので代診として遣わした。
一門医が帰ってきて、安長にその病状を告げ処方を伝えた。
高価な薬品を代薬するように言った。
長曰く。
「医は治療を専とするのだ。なんぞ薬価の卑高を論ずるな」と。
みな長の私財を以てした。
言った者大いに恥ずかしいと云ったと。

続篇  巻之41  〔4〕 新田大光院、自殺の事

 前に記した増上寺の1件のとき、新田大光院が自殺をした。
後に某なる者はその事実を見て人が語るには、切腹しようと為って、刀を執り、利剣即是弥陀号と唱え(般舟讃の句下同じ)、腹を掻き切り、其刀で、一声称念罪皆除と唱え、喉に突き立てるが死ななかった。

 曰く。いまだ声が出るなら、側より刺してくれと云うが、傍の人の手は震えて刺すことができなかった。
ようようと刺し通し息絶えたと。

 何にも武夫にも勝る僧だった。
善導大師の捨身往生にも恥ずかしくない。

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