巻之3   〔15〕 当上さまと諸葛亮の絵と

 当御代、御慰めに紺地に金泥を以て、諸葛亮の像を御筆に画(かか)せられ、御自賛あそばされ、吹上の滝見の御茶屋とかいうものに掛けられた。
御遊びのとき、やや久しくこれをご覧になった。
その後御嘆息の体なので、今はこの様な者が無いとはと上意があった。

 また莞爾(かんじ、喜んでにっこり笑う様子)と御わらい、これもまた上に玄徳なき故にと仰せになった。

 正しく奥勤めの人の御側で窺うことをひそかに聞く。
とても有り難い御事である。

続篇  巻之73   〔7〕 姫路の老臣河合隼之助と沼津侯老臣土方縫殿助、わしが臣長村で世人三助

 河合隼之助は姫路の老臣で、長い事世に多く知られている。
嘗てわしの臣長村がいた頃、沼津侯の老臣土方縫殿助(隠退して祐因と号される)も世に時めく頃で、世人三助と称したと聞く。
祐因はわしが青年の頃より互いに知っているが、隼之助は知らなくて、折あれば面染したく思っていた。
この春金剛大夫の宅に能見物にに往って、金剛の祖は、各別に姫路の恩を受けて一坐に立つ訳に由て、隼之助もその宅に来観したのを、わしの桟敷に招いて初めて会った。
これより後朝川鼎に逢って話に及び、鼎がその折に示したことを以下に挙げる。

 隼之助は姫路領内で、仁寿山と云う山を主人より与えられ、そこに郷学を建てた。山高く近隣10余国を眺臨し、景勝地であると。

 またそこに大碑を竪て、朱子白鹿洞の掲示を刻し、碑陰には今の林祭酒の文を刻したと。

 儒教の者数人を置いて、学頭は、京師猪飼敬所の門人某だと。

 また1年に一会は、敬所あるいは芸の来(らい)徳太郎を邀(むか)え、講学を為す。

 またかの藩の書生も多く教学して、他の邦の学生もまた来習する。

 また旅行の学生の投宿を請えばゆるし、かつ饌(せん、飲食をすすめる)する。

 上郷学の経営等は、隣国伊東侯(備中岡田の領主)の家老浦池左五郎と謀(はか)ってこれを興したと云う。
浦池は経済の才のある人と云う。

 上等のこと、鼎も委しくは知らない。
わしもたまたま耳の底に留まったのを記す耳(のみ)。

巻之22  〔8〕 一目連と一もくさん

 『雑談集』に曰く。
 伊州桑名に一目連と云う山があった(この山の竜片眼の由。依って一目竜と云う所、土俗では一目連と呼んで来た)。
この山から雲が出る時は、必ず暴風迅雨が来る。

 先年この山の片目竜が怒って、尾州熱田の民家数百軒を、大石で圧するように潰した。
熱田明神の一の鳥居は大きさ双抱え程あって、地中へ6,7尺埋め、十文字に貫き通した故、幾千人でも揺るがないが、この時その鳥井を引き抜き、遥か遠くの野まで持ち去った。

 このようなすさまじき物なので、この辺りの者は何があっても速く倒れる事を一目連と云う。
尾勢の里言である(『余禄』)。
世に云う一もくさんと云う物もこの転語である。

巻之22  〔9〕 後藤又兵衛と毒の試し

 後藤又兵衛は大志ある男である。
はじめ黒田長政に仕えたりしていたが、長政が筑前を賜り移封したとき、又兵衛云うには、このような辺鄙に邑する上は大業なる事はないと、黒田家を辞して浪人と為った。

大阪で浪人を集めると聞いて再び秀頼に仕え、軍利あらず遂に討ち死にして身果てた。
大志の弊とでも云うべきか。

また朝鮮へ初めて諸軍渡って上陸すると、辺りの民は悉く逃げてしまい、みな空家になった。
兵卒がその家に入ってみると、壺瓶の類は、酒で一杯だった。
時に何人が言い出したか、「これは毒酒で、人を殺すつもりじゃなかろうか」。
緒人はこれを聞いて恐れて、誰も手を付けなかった。

又兵衛曰く。
「たとい何であれ、喉の渇きを凌げるではないか。若し毒があれば、我が先に飲んで死んでいこう」と次々と飲んでいった。
「美味い!」とは云わず、代わりに舌打ちして居たところが、諸卒この様子を視て、われ先にとみなでわっと飲んでいった。
これで益々鋭気を養えたと云う。

世の諺に謂う「毒の試しとはこれより始まった」のだと。

巻之23  〔32〕 鱧(はも)のかまぼこ

わしが幼い時、久昌夫人が縷々(るる、長く続く様)のたまう。
「わが誠岳公より賜ったかまぼこですよ。長崎の佳き産物なのです。あなたにもあげましょうね」と賜った。

 これは鱧のかまぼこである。
近頃陸璣の草木蟲魚の疏を見るとこの事があった。
はもの形状もよく描いている。
いわく。「鱣(チョウザメ)は江海に出づ。3月の中に河の下あたまを従えり来たり上る。形は竜に似て鋭い頭である。口は領(うなじ)下に在り。背は上、腹下みな甲有り。今盟津の東石磧(かわら)の上に於いて取るのに鉤(かぎ)(を使う)。大なる者は千余斤。蒸して(魚+確-石)と為すべし。

 『説文』には(魚+確-石)は肉羹(あつもの)だと見える。
これはかまぼこでる。
すると和漢同じである。

巻之23  〔33〕 高崎侯の騎射について

 高崎侯の家には、かの先祖の取り立てた騎射の別法がある。
わしの壻(むこ)であって豊洲までよく騎(の)っていた。
わしはその邸に行っては騎射を見るが、今は往事になってしまった。
慨嘆(気が高ぶって心配する)なことだ。
馬場の体、射どめはほくい土山で、いつもかむり笠を伏せている。

 大抵騎人の目通りより余程下になる。
それを1馳に3矢放つ。
1馳に弓手向、馬手向、弓手向、2馳は弓手向、馬手押もじり、弓手向である。
3馳は弓手向、弓手返し等になる。
矢は鏃(やじり)があって、小蟇目(こひきめ)ではない。

 その外馬上で鉄炮も放つ。
太刀で左右のものも斬る。
鉄炮は短筒である。
初め1の的の処で片手うちをする。
それから腰に鉄炮筒を下げていく。
そして刀を抜く。

 馬場の左右に青竹を立ててあるのは、馳ながら左右左と斬る。
太刀は抜き放ち、上段にあげて下段を払いぎりする。

 とても目ざましいことである。
そのときの毛付きなお篋(はこ)の中にあるのを覩(み)て、往時を追感じ下にしるす。

  鹿 毛     豊       洲    月 毛   家頼(けらい)深井閏八
  栃栗毛     家頼  長坂平十郎    青 毛   家頼     堤荘之助
  鹿 毛     家頼 河野新右衛門

    以 上

巻之60   〔8〕 火つけより今賊多し

 近頃は火つきは少ないが、盗みが多くて、所々の町家あるいは寺院に押し入って賊を為している。

浅草の実相寺(法華宗)では、僕と納所の僧と出向いて、僧は棒で賊を打った。
が却って賊に傷つけられた。

また谷中の感応寺塔中の某院でも、院主を傷つけられたとぞ。

巻之60   〔9〕 中根十七郎の唄

 林曰く。
一橋殿の用心、中根七十郎とは旧知である。
はや年齢も耳順(数え年60)を越えたと云う。
この程文通をして。
その答書きの端にこう書いてきたので遺しておく。

   「かの西行が詠の、世を捨て身はなき者と
    思へども、雪の降日は寒くこそあれと社(こそ)、
    承り候へ。

 朝市には隠れる蓑と笠着ても、
    ふぃりくる雨は音ぞかしまし
 など詠捨候ことどもに候」。

流俗中には出塵の想いがあることであった。

巻之100   〔2〕 温泉水の変化

文政10年(1827)春の末、上州伊香保の温泉場に失火があって、一郷焼けてしまった
翌日より温泉みな冷水になった。
10日を過ぎて元に戻ったという。

また文政3年(1820)の頃だったか。
富士山が山荒れして、箱根の温泉が冷泉に変わったという。
地底の火脉(みゃく、血管、すじのこと)が発する為か。

巻之60  〔10〕 旗桜寺の桜の樹

 南道和尚が行脚のとき見たと話す。
 八幡義家朝臣奥州の軍中に用いた旗をその頃桜の樹に結われたのが6本あった。
如何にも年数を歴した程ではなく、2,3尺の囲いの幹で、1根より10の幹が叢生(そうせい)している。

 この樹を傷つけることなく、囲いを設けた。
水府(水戸の異称)よりこれを造ると云う。
この樹の所在は旗桜寺の庭前だと云う。
旗桜寺は水府の先侯を葬る瑞龍寺の近所だと(旗桜寺は今鎌倉円覚寺末。増井の正宗寺の末寺と云う)。

わしは少し調べたが、瑞竜寺は常陸であった。
すると義家朝臣は帰陣の途中であって、ここに旗を立てられということだろう
(巻之11に載せた、武州の大桜とは別の樹である)。

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