巻之16   〔24〕 憲廟の、得廟の士気に思いを馳せる

 憲廟(4代家綱公)の御代、鶴姫君の御用人曲淵市兵衛を御小姓組の番頭に仰せ付けられたとき、その組の面々は、曲淵は甲州の出である、且つ御取立て者だから支配は受けないと、承服しなかった。
そこで市兵衛を寄合に呼び、外相応の者を番頭に仰せ付けられるた由。

 徳廟(家康公)の御時、紀州より召された渋谷隠岐守を番頭に仰せ付けられたとき、これは紀藩で家老筋だから仰せ付けられたと、何れも畏(かしこま)ったという。

この頃迄の士気の盛んなことに想い遣るべき。
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三篇  巻之74  〔20〕 御葬列のはなし

 人の口に鎖(トザシ)もならない。この度御ことを種々いう中、誰が云ったとも知らずに、御柩の重さが甚だしくてなかなか御輿舁(みこしかき、御輿をかつぐ人)が出来ない。
それで御葬行のときは、前例により、町中1番組2番組の鳶共の役目として、悉く出て挽くように云う。
されども音頭や木遣りは慎むように、無声で挽くことにした(近頃御裡(うら)方様が上野へ御葬送のとき、御山に入って、人夫が疲れの為、御柩が進まない。
鳶頭が願いを云った。
甚だ不調子なので、疲困しました。
どうか木遣りを唄えたさせて下さいと警吏に請うた。
が、吏では決められず、何れかへ伺った。そこで一時の計らいだからと、これよりいつもの如く発声して木遣りを唱え、別条なく、御葬坎までの御儀が整ったと云う)。

 またこの挽夫(ヒキフ)は、臨時の訳でと各白張烏帽子を下され着用したと。
またある人が云うには、御柩には下は車をつけた。
上は白帛(キヌ)で覆い、地面まで垂らす造りとした。
輿丁の鳶の輩は、みな覆いの中に入り、身を顕さず御柩を進めた。

 が実は数貫の重さで、中々烏帽子白張の姿では、みな疲労して励めない。
それでかの帛の中では、他の目が及ばないので、鉢巻、両肌脱ぎなど、大石巨木を曳くときと同じに、御柩を曳いたと。
定めしこの覆いの外は厳粛に寂行だったと。

 またある人が云うには、この時鳶頭は、鐸(レイ)を持ち音頭の代わりに1振りすると衆は1挽き、またこうして運ばせて行った。
速やかにするために、鐸を急に重振すれば、御柩もその声(当時は音を声と言い表している様子)と共に早めて、御臨坎のときも、このわけで、遅速はありと云う。

巻之4  〔30〕 宇和嶋少将の御酌を引いた御番衆

 宇和嶋少将(伊達村侯)の壮年の頃だったか。
殿中饗応の御料理を頂戴したとき、御酒の酌に出てきた御番衆に向かって、「御祝儀の御饗礼だから、これで頂戴せよ」と椀を出された。
御給仕の衆は注ぐのを控えたところ、「恩寵だ!是非!」と申すので、酌をしに満椀を一息に飲み干し、今一つと云って2椀まで傾けた。
その御番衆もあきれて御酌を引いたと云う。

巻之4  〔33〕 仮養子の願い書きを取り下げ別人に替えたこと

 わしの親類の一侯が在所(すみか、国もと)往くと、亡父の時にその弟の末家(ばっけ)を継がせる為、仮養子を願い置き立てていた。
が間もなく在所で没した。

 定めて家頼(けらい)などの所為(おこない)か、仮養子の願い書きを御願いして下げてもらい、別人に替えて、没後に某氏が養子になって養父の忌服(きぶく、親族の死にあたり一定の期間喪に服すること)を受けた。

 つまり仮養子の願い書きは自筆調印の例えであるが、印は人も押せる。
自筆は誰が書かせたのか。
近来の新事と云える。

巻之7  〔19〕 天明の大火の際、天子様を守ったもの

 天明の末(1788年1/30~3/9)、京師に大火があった。
延焼して禁闕(きんけつ、皇居の門)の及ぼうとしていた。
速やかに遷幸(天皇が他の場所に移る事)しようと、しばらく鳳輦(ほうれん、鳳凰の飾りがついた天子の車)を出すのを見合わせていたが、四面に火の燃え残りが湧くように、大きさイガのような火が何方からも飛んでくる。

 公卿みな危ぶ中でその燃え残りが内侍所の屋上に墜ちんとする中、屋上から3,4尺の所で砕けて四方に飛散した。

 諸卿はこれを見て、即宸輿(しんよ、天子の乗る輿)を促して宮廷を出ていただいた。
時にみな曰く。
これは内侍所の神霊の所為であろうと。
嘗て目撃した人より聞いた所を記した。

巻之7   〔20〕 無粋は一事が万事

 わしは嘗て勤め仕えていたとき、姫路侯邸の明楽を観に往き、そこに多くの坐客がいた。
その中に今の福山侯もまだ世継ぎの君であられた。
亡き友市橋氏も大番頭であられた。
この外の方々は忘れた。
みな時の文才の人であった。

 その上客は葵章の貴族であられたが、席上に楽舞番づけのあったのを見られ、「玉胡蝶とは『たまこてふ』~たまこちょうなるや」とわしに問われた。
わしは即坐に「然り」と答えた。

 余りに文盲であって、音と訓の差別も無いかと思った次第。
これよりこの侯をひそかに目にしては「たまこてふ」呼んだ。

 ある人曰く。
「この侯はある日、中屋敷に行かれる途中、籃輿(らんよ、簡単な竹作りの駕籠)中の烟架を花やかに飾りたてて喫烟させるのを、行く人の中からずかずかと輿窓へ己の烟管を入れて、火を借りたし」と云われた。

 輿の辺りでは多くの従者もあり、如何して(この侯の動きを)留める事もされなかったと。
定めて風狂人であろうが、その人がその人ならば、このような珍事もあるかと思われる。

巻之16  〔14〕 由井駅の御役人の廻状の内容

 由井駅の本陣に、神祖(家康公)が泊り鷹野に出られた時の御役人の廻状を収蔵している。
その文に、「御秘蔵様御同道に付き御馳走下さいますよう」と云う文言があった。

 その御秘蔵様とは永昌院殿(太田氏。水戸藩祖の御生母である)の事であるとのこと。
如何にも時世古質なことであった。
南竜院殿(紀藩の祖)自筆の屏風もこの本陣にあると聞いた。

巻之4   〔13〕 松平乗邑の茶事

 松平乗邑(のりむら、のりさと、江戸中期の大名・家老 1686~1746)は、茶事を好まれる。
原田順阿弥と云う同朋頭はこれも茶事に詳しいので、(乗邑は)気に入り、折々招かれた。
あるとき茶会にて順阿弥が詰めたとき、会席に柚みそ(ゆみそ)を出された。

その後順阿弥は、「この間は御庭の柚とり立てで、格別の香がします」と云った。
乗邑は「何ゆえ庭の柚と云ったか」と聞くと、「御路地へ入るときと、退去のときと、御庭の柚の実の数が違っております」と答えた。
「油断のならぬ坊主よ」と乗邑は云われた。

それほど懇意であったが、ある時政府で何か茶事の咄があって、乗邑の云われる数奇事(茶の湯の風流の道)を、順阿弥は感じて「さてさて御手に入りまする」と申したのを乗邑は怒られ「不礼である」とのこと。
順阿弥は恐れて、4,5日病と云って籠った。

その後同寮の者に「順阿弥が見えないが、如何にしている」と乗邑が申されると、「順阿弥は病でございます」と答えた。
「最早病もよいのだろう。出るように」とあったので、翌日より出勤したとのこと。
その厳しさ剛さもこの通りの人であった。

続篇  巻之97   〔12〕 御番衆と芸妓の闘拳、訴え出た事のあらまし

 近頃中野石翁が別業を寺嶋寺の堤下(ドテシタ)に構えた。
堤から1町にも満たない所にいる。
それで旗下の雲路を営求(捜し訪問する)する輩は翁の物色を憚って、堤下を行く者が少し。
思うに遊楽に耽るという体面を得ようと慮っている。
故に路を廻り秋葉寺の辺りを経て歓楽している。

 ある日水馬の試(騎手が馬で水流を泳ぎ渡るわざ)より、御番衆5,6人とその辺りの大黒屋七五郎の饌店に入り、芸妓と闘拳をした。
妓は技に熟達していたので衣類佩物(身につけた物)を賭けて争ったが勝つことが出来なかった。
みな妓に与え裸体になった。

 御晩秋は憤って「次の拳は淫事を賭ける」と云った。
妓はこれを認めた。
次の拳は妓が負けた。
番衆は喜び小躍りをして、妓の衣服を解き勢いに任せたが、妓は近隣の農家に逃げた。
番衆たちは酔いが醒め、酒肴の料金を払い帰宅した。

 妓を養う主人が市尹(界隈の長の意)榊原氏に訴え出た。
榊原は妓主に云った。
「汝ら輩は卑しいものである。相手はみな旗下(はたもと)の人である。
対偶を以て論することではない。
若し衣服を盗み取るの類ならば、身高しと云えども、その罪を免れるものではない。
ただの酒による酔狂であらば、罪は重しとはならず。
つまり汝ら輩が、みだりに旗下の御人を罪に落とすならば、人に非ず。
その関係者に話が及び、その末には御上に逮ぶ。
またこれは賤を以て貴を害すこと。
ことは逆である。
己を枉(ま)げて上を憚り、勉めて穏便にすべし。
奈(いか)ん、奈(いか)ん」。

 訴人も理に伏し、内々に済ませた、と。

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