三篇  巻之72  〔10〕 女狐をだましたはなし

 益のない話で書く事も如何なものかと思うが、(書いておこうと思う)。
 先年のこと王子の篠塚村とか云う処の田んぼを、江都の建具屋が行きがかった。
田の畦(ウネ)に狐がいて、何をするのかと見ていたら、やがて女になった。
建具屋は若者で、その後ろより見ていて狐なのは知っているのだが、やはり女だと思ってそころ行き過ぎた。

 狐はそれを知ってか知らずか、建具屋に後ろから「もしもし」と呼んだ。
振り返ると狐が化けた女だった。
よく視ると世の芸者の風体である。
建具屋は「応」と答えると、(狐は)「お客を見失ったので、連れ行き給え」と云う。
建具屋は「心得た」と伴行する。
「で、お前さんの客人は孰(タレ)か」と聞いても答えないままに、錀(カギ)屋とか云う傍の店に入った。

 酒肴など出させ、うちとけて飲んでいたが、折よくと小便するからと出て行った。
(建具屋が)店の様子を窺っていると、店の者は酒肴の代金を女に求めるが、芸者は本性が狐であって、これに答える事が出来ない。
当惑していると店の者は怒り、ぶち始めた。
全身に毛をあらわし走り去る狐をみな追いかけて、「打ち殺せ、打ち殺せ」と罵っている。

 店主は年よりで、急ぎ出て行き、「もしかしたら、稲荷様の御使者かも知れぬ。赦せ」と下知して、狐は助かった。

 如何にも人の上にも心得ているありきたりの話である。
それとも実事だろうか。
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三篇  巻之72   〔11〕 真赤虚談(マッカナウソバナシ)

 閏正月14日の夜のこと。
 元来川端多田薬師の脇隣に、紀侯の用達(ヨウタシ)が居宅していた。
すこぶる富んでいた。
故に押し込みの賊が10人来て、先ず家の者をみな縛り、器財を奪い一旦たち去った。 

 またその隣には浪人が居住しており、その夜は剣技を以て諸国を修行する者が2人、暇乞いをしようと、その家に来ていた。

 賊の騒ぎのときに丁度居合わせたので、持ち合わせの木刀などを3人(浪人と修行の2人)手々に執って賊の脛を薙ぎ払うと、賊は各々倒され残りなく捕らえられた。
家人の縛りも解かれ、奉行所へ訴えた。

 ところが、種々の雑事に取り調べは及んでいくと、店の出金が多い。
幸い近所に同心も(同心は官庁の下吏)居たので、彼(主人)は、(浪人たちの)手で捕らえられる様に、相謀(賊と共謀)をするに落ちてしまったと云う。

 わしは辺りの藝花(ウエキヤ)、市長(オオヤ)等に真相を質問したが、何も知らないと云った。
よってまたはじめに話したことは、信州の農夫が都下に久しく居る者ならば、誰より(事の真相を)聞いているだろうと問うた。
すると近所の少年の某が云ったと。
すると信州の農夫をだましたか。
世に謂う「真赤虚談」である。

  また云うには。
賊の中の3人は刃を持ていた。
7人は赤手(セキシュ、素手)である。
けれど隣の士も、その刃の為に創(キズ)を受けたが、浅疵なので3賊に勝つことが出来たと。
これまた亡説の余である。

巻之57  〔12〕 亥猪の御手餅のはなし

 先代天祥雄香公は勿論、松英公のはじめ迄玄猪に登営があって、御手餅を拝頂された。
爾(その)後は外班に移ったので、当時の慕わしく、今冬はじめ亥の翌日、たまたま林子とわしが茅堂を訪れ、年来の敬上の気持ちの深さに感じられると昨夜拝領の御餅を贈られた(写真)。

 御餅は5色ある。
御前で出る人ごとに御随意に下さるとのこと。
胡麻〔黒色の御餅〕を賜った人は、「めでたし」と自賀していた。
これはいつの頃よりか風習となったと聞いている。

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三篇  巻之62  〔7〕 水戸殿の正月旅出

 水戸殿が英才であられるのは、都下の知る所である〔庚子〕。
この度御願で、水府の発駕は、2月の初旬とか告知があった。
やがて官の御中陰になるべき故か、俄かに正月の末発駕で、甚だとり騒ぎ、弥23日と云うことになった。
某等の千住への御送も堅く停められた。
その深夜さらに発途との告知があって、御見送として、家士を小石川の御第(やしき)へやった。

 時は暁8時になるので、公は馬上で御旅出された。
なるほど先日も御物語のように略装と思え、前行に黒鶏毛(トリゲ)の槍1本、鉄炮17丁、御馬の後より弓3張、従行者の後に牽馬11匹、この余の群士卒は、平常都下従行の人数に違わずとのこと。

 また公は玄関を出給うたあとより、御年10歳ばかりと思われるが、世子鶴千代丸殿とか見え給い、出送り給うた。
伽も児輩10余人随従なったと。

巻之40   〔7〕 美濃国

 朝川鼎が語った。
 美濃国は古三野(みの)と謂って曠原(ひろはら)三処ある故である。
後に音通で文字は替わった。
三野の1は大野と云って大野郡である。
1は青野と云って不破郡にある。
1は各務野と云って各務郡にある。

 大野は今既に聚楽となっている。
青野は青墓とも云い、猶広野である。
各務野は東西6里ばかり、南北5里ばかりであるが、ここは古墳が多い。
土人或は墓を発(あば)くと勾玉、古鏡の類が出てくることが多い。

三宅村に三宅村長と云う人があって、発掘の古物が出ると聞くとすなわちその家に蔵(おさ)める。だから人も(古物を)見付けるとみなそこへ来てあげると。
同国加納藩の吉田東一郎の話すところ。

 この野は古人墳塋(ふんえい)の所と見える。古代の制の通りか。
また青墓の称も多墓の言い方からの転訛か。
あを墓、おほ墓に通じる。

巻之40  〔8〕 4つ切りの小菊紙

 わしは先年鈴木門三郎と云って美濃郡代の人と知り合った。
或る月夙(はや)く松平防州〔閣老〕の邸に赴きこの人も居て2人になった。
そして西東種々の話をする中に、門三が云うのは、濃紙の内、世に小菊と呼ぶものは元は大幅の紙であるが、それを4つに断ち、通用の小菊紙になったと語った。
知らぬ者は小菊は小幅のものと思っていると云う。

 林曰く。
甲州より半紙の大幅なのを出した。
それは便利なものとして世に回っている。
その実は、尋常の半紙はその大幅紙を4つに切って出している。
この様な事もいくらかあるだろう。

巻之12  〔17〕 赤沢山

 伊豆に往く人が云ったこと。

 世に謂う赤沢山は右は深山で左は絶壁数丈(1丈は3.0303㍍)である。
その間に道があって往来する。
その断岸の下には山の樹は群だち、ここから臨むと樹の梢が緑をいよいよ深くしている。

 そのさきは海であり、蒼波の中に豆のようなものが点々と見えている。
これを審らかにすると蜑(あま)が海底に入って蚫を取り、波の上に頭を出しているのだと云う。

 また往来の道の狭く危うい処に1軒の小茅屋がある。
老夫が麤茶(そちゃ)を煎(に)て行く人に与え、それを暮らしの糧にしていると、聞くと如何にも僻境である。
蛭が小嶋も今は海あせて地続きになって、既に耕して田地になったと云う。

巻之12  〔11〕 御上と天の空模様

 6月山王の祭礼はいつも賑わしいことである。
去る庚辰の年見物に往ったがかねて何処からか内意があるからと花麗なることで、諸人が近年になく壮観だと云っていた。

 それなのにこの壬午年の祭礼にはわしは出向かなかったが、人が云うにのは当年の祭礼は質素に心得よと予め町役より申し付けられたので、町方の諸人もその心組で、美麗の装飾も差略したいた。
が、そのみぎりになって何処よりか指図と云って祭礼に出る者に対し華美と云うではない、身分相応に見分よくするようにとの沙汰があった。

 それで祭礼に出る者は俄かに心組の方向を違え、止められた装束も再び忽(たちま)ち飾りなおした。
こうして大いに混雑したことであった。

 天上風雲の変化界の難言(なんという)ところであろうか。

三篇  巻之66  〔3〕 刀の鍔に刻まれたものは?

 故浜田侯はわしの(女)婿であったが卒して後、嗣子鋭之助より、遺物として大小の両刀を贈られた。
その大刀の鍔は双竜珠を弄(と)った状(カタチ)を彫ってある。
鍔、柄の下の銘には平戸国重と刻してある。
これは世に謂う、平戸竜と呼ぶ、以前わしが城下の坊作(マチツクリ)の者である。
その製は全て竜紋であり、他はない。

 今その図をここに挙げた(写真参照)。

 両鍔の廻りに蛮文を刻している。
読み難い。萩長に見せるとこう云った。
「左の傍には蛮語の鍔らしく、右傍は蛮称蜥蜴でしょうか。このものは竜の属でして、おそらくは竜の謂でしょうか。上下四隅の字は判読できません。思うに作者の氏名でしょうか」。

 わしは因みに司天館在勤の紅毛通辞、荒木某に読ませたがみな蛮語ではないという。
だから漫(わけもなく、そぞろに)に蛮字を廻書して、鍔の模様として彫ったものかと。

 拠れば長崎通辞が言うには、「姑(しばら)くこれを信としましょう」。

またこの鍔を製作した頃は、わしの城下の辺りには、紅毛(オランダ)、諳厄利亜(イギリス)船舶等、年々来港していましたので、工商の徒も、しばらく蛮文を用いていたのだろう。

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巻之57  〔13〕 国替えのときの諸士の屋鋪の受け取り顛末

1日東漸院に詣でたとき、その院代静明房が出迎えてくれた。
「久しく遭わなかったなあ」と云うと、「某は桑名の産まれで、この程所用があってこちらに赴きました。
それでこうして待っているのです」と答えた。

わしは「ならば近頃の国替えのことを聞かせていただきたいですな。
今の桑名侯はわしの子の婿家なので」と語り、「さてかの城やら諸士の屋鋪は如何にして受け取るか」と聞くと、「その時は甚だ賑やかで、大いに混雑することでしょう。城の受け取り渡しはもとよりでしょう」と云った。

諸士の屋鋪は先ず面々に明け除き、城下の町を南北と両方を分けて借り切って、南方は新侯の諸士の寄宿にして、北方は旧侯の諸士の退宿として、それよりその屋鋪はみなでかかって役人立ち合いで受け取ります。
これより諸士出散の後手数あって、各屋鋪に入るとのこと。

定めし先々よりこのように為してきたと思われる

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