三篇  巻之7  〔8〕 鶴九皐(九皐は深山の沢のこと)に鳴いて声天に聞こゆ

 ある人曰く。
 羽州戸沢侯の領分が凶歳(農作物が不作の年)なので、領主は帰国して、下と艱難を同じくすることは既に云った。
津軽侯も封邑が甚だしく餓えて、庶民困迫の由も追々聞いて、眉を顰(ひそ)めるに至った。

 それなのに、両侯の江都に置く留守居は、殊に浮華奢侈にしていて、游里に金銀を遣い捨て、中んづく津軽の留守はこれに勝って、同役を誘い、従はない者への凌辱を与える等のことがあると。

 またある人曰く。
この事は公辺(公儀)に聞こえたならば、徒(タダ)では済むないと云う。
わしは思う。
公辺は上天である。鶴九皐に鳴かば奈(い)かん。

巻之26  〔11〕 鹿が数十で連なり海を渡るさまを見て

 ある人が語ったのは。

 佐渡の嶋より、越後の地に年に1度、2度とか鹿が海を渡ることがあるというぞ。
その様は1疋の鹿が先に泳ぎ、浮力は(体が)重いのかその頭と脊のみ見えると。

後に続く鹿は、その頤(あご)を前の鹿の尾の上にもたげて浮力を祐(たす)け、このようにして数十の鹿が陸続きと連なり行くので、遠望には大な竜が海を泳ぐかと思われたとなった。

巻之26   〔12〕 吾藩の臣治五平の語る『天草陳』の話

 高崎侯の臣一学が語った。
 昔吾藩の臣に治五平と云う長寿の人がいた。
90余で、天草陳のことを覚えていて話した。
その話の中に我の身内の者の事もあった。
そのときに者頭を勤める某と云う者があって、曰く。

 「『今宵城中より夜討ちをかけるぞ。そのときは決して立ち騒ぐでない。何れも我が陣処の垣ぎわに後ろをむき、敵方を背にして坐すように。仮令(たとい)敵が来ても向かうことはならぬ。 また刀の鋒(切先)3,4寸を残して、その余りを木綿などでよく包んで置くのだ』と指示しましてね。 

敵が来たらばかくかくと云って待っていたら、果たして敵は夜襲をやりましたよ。
我が兵はその体ゆえに、後ろへ近寄り切り掛けましたが、具足だからかちかちと云うのみで(的を)通しませんでした。
兵卒どもは構え持つ刀を肩にかついで、鋒に敵をひっかけ、背負い投げに前にはねましたね。

夜のことだから敵は何が起こっているかわかってなかったと思います。
幾人も来てこうなるのを、来る度にはねましたが、敵は寄って来ます。
我は坐して動かないで、数十人を討ち取りました。
味方も夜のことなので、その手際は見分けがつかず、松浦の手の者は、人は礫(つぶて、石粒)を投げたと沙汰しましたよ」。

これは伝聞の実説になるが、わしは初めて聞いた話だ。
治五平と云うのは誰の先祖に当たるだろう。
先祖の武功を他人より聞くと云う俳句は、このことであろう。

巻之5  〔6〕 天井の呼び方、角赤という器

 小笠原常方〔平兵衛〕に聞いたのは。

 今世に天井と謂うものは『塵除(ジンショウ)』と唱うべき。
天上と謂うのは格組(ゴウグミ)にしたものである。
総じて家居は水の縁を取るので、天上の名も水に由ると云う。

 また御厨子(みづし)棚に備わる箱の中に、布をきせ赤漆にした四方黒漆なるものがある。
その名を角赤(スミアカ)と云う。
もと婦人の下結を納める箱である〔下結とはふんどしである〕。
だから今官家御婚礼御用に、小笠原氏より五色の服紗を納め上(たてまつ)る。
これ則ち下結をいれる遺風と云う。

巻之31 〔18〕 古代転換して失うのもまた都下である

 秤工守随彦太郎と云うのは一家ものである。
その業のことで諸国へ行く。
ある年長崎へ往って、そこで唐商の踊りといって専ら人がもて遊ぶ(興じ楽しむ)のを見た。
『カンカンノウ』と云う唱哥で〔この踊りは東都に流行したことは以前にも云った〕珍しい踊りである。

 また守随はすこぶる三弦の技を心得ており、習得て還っては遠方の土産にした。
且つ江都の歓楽に誇ろうとして、はるばると帰府して知音(ちいん、よく知っている)の人々に示そうとした。
帰都して未だ我が家に入らないのに、はやこの踊りは都下にて流行して、処々でその声を聞いた。
守随は大いに失望したと、三弦工石村栄作が語った。

 総じて江都の繁昌は、四方の輻輳(ふくそう、いろいろなものが同じ箇所に集中して混雑する状況のこと)は、事物流行の速やかなこと、これで知るべき。

 またこの栄作は世に謂う三弦の名工古近江と称する者の子孫であり、今は官の箏工である。
栄作が云うには、このような流行の速きも都下だから。
古代のことを転変して失い逝くのもまた都下であると。

 すこぶる名言だといえよう。
これは曩日(のうじつ、先日)、わしは古代の三弦を製作させたが、その製は審らかに為されなかった。
だからしばしばこの栄作に訊問することとなった。

続篇  巻之70  〔12〕 石翁の川柳

林叟曰く。
ある人の説に、近頃まで御小納戸頭取を勤めた中野播磨守は病身となって隠居を願った。
落髪して石翁と改称した。
その後しばしば出仕して、遂に三番泊まで勤めた。
珍しい御役人である。
世の中では、陽は隠居になったけれども、陰は権家の如く、勢名もまた藉甚(せきじん、名声が世に広まること)である。
頃聞けば、何者であろうか。

  猪の隼太鵺を捕へて当番日

如何にも口の速いことではないか。
亥寅巳申の日を諳記して、雲路(鳥などが飛ぶ、空中のみち)に志ある者はその人に邂逅することだとのこと。

         亥             申   巳    寅

註(チュウ)に、猪の隼太曰く。
鵺の状は、頭は猿、尾は蛇、足手は虎の如くなり。

三篇 巻之10  〔4〕 偽りの泪を露わにする

 能の狂言に『墨塗』と称するものがある。
その趣はある顕者(富貴な人)があって、加恩(禄などを増し与えること)のことに依ってその邑を去って主君の許(もと)に赴く。
愛妾があってその別れを惜しみ、落涙すること数行、顕者もまた視てこれを憐れみ、ともに涕を流した。

 太郎冠者が後にあってよくこれを見ていると、妾は窃かに鬢(ビン)水入れを置いて、その水を眼辺に浸し涙にして欺いていた。
顕者はこれを知らないものだから、増々情深く思う。
太郎冠者はこの状態を告げた。
顕者は信じず愈々悲しんだ。

 冠者が漸々とこれを示していくと、迺(すなわち)冠者の言う通りだった。
顕者は心の内で怒りを覚えた。
それで冠者の策に従って、かの水入れに窃かに墨汁を入れた。

 妾はそんなことは及びもつかない。
涕(ナ)くこと切実であり、眼辺は悉く黒くなり、顕者及び冠者は大いに笑った。
妾は2人が笑う訳が分からない。
却ってその笑いを無情だと益々泣く。

 顕者曰く。
「わしは、はからず遠くに行くが、その間の形見として、汝に我朝夕の鏡を授けよう。わしを見るようにするとよい」。
妾はこれを聞いて、「あなた様の心が離れてしまうのが堪えられません」と声を上げて泣く。
顔色は黔黒(くろぐろ)している。
そしてその鏡を見ると、面は烏の如し。
妾は即冠者の所為なのを怒り、かの水入れの汁を冠者の面に塗り、更に顕者にも塗った。

 それで3人の顔は、悉く墨痕斑汙の状態であった。
顕者冠者は走って逃げる。
妾は追って幕に入る。
観客はみな拍手をせずにはいられない。
後、『源氏忍草』と題する近作の書があるのを閲覧すると、末摘花の巻に、
「此平ちう(仲)といふ人、女ばうにあはれみ泣体をしてみするとて、硯の水を目に塗りてたらしけるを、女ばう心得て、其水入の中へ墨を摺入て置しを、平ちう夢にもしらで目に付ければ、顔うち墨になる。其時女、平ちうに鏡を見せて、

  我にこそつらき心をみすなれど
       人にすみつく顔のけしきよ

 とよみしとなり」。
〔源氏の正文には、「へいちう(平仲)がやうに色どりそへ給な。あか(紅)からんはあへなんとたはふれ給さま」とのみあって委しからず〕墨塗りの狂言は、
この源氏が本拠になると思う。

○『湖月鈔』の頭書に、平仲は平貞文が字(アザナ)である。
儒者になると、字といって名を付けることがある。
氏の片字を取ってつけるのだ。
『河海抄』に、『宇治大納言物語』に云う。
貞文がある女の許に行って、泣きまねをして硯の水を懐に持って目を濡らしている。
女が心得て、墨を磨(ス)って入れられたのを知らず、また濡らしたので、女は鏡を見せて読む。

    我に社(こそ)つらさは君が見すれども
              人に墨つく顔の景色よ

 『大和物語』にもこのことがあると云々。
『弄花抄』河内守本には、硯水を紙に濡(ひた)してとある云々。

巻之8  〔8〕 鳥越袋町に起こった事(雷獣)

 この2月15日の朝、俄かに雷雨があって、鳥越袋町に雷が落ちた。
処は丹波小左衛門と云う人〔千石〕の屋敷門と云う。
その時門番の者が見ていると、一火団(一火の塊)が地へ墜(お)ちるとひとしく雲が降りてきて、火団はその中へ入って空に昇った。

 その後獣が残っていたが、門番は6尺棒に打った。
すると獣は走ってにげ門の続く長屋へ往き、またその次の長屋へ走りこんだ。
そこの住人は有り合わせの物を投げつけた。
獣はその男の頬をかきさき逃げうせた。

 それで毒気に中(あた)るなか、男はそのままそこに打ちふせた。
またはじめ落雷したとき、かの獣は6,7もあったと思うと門番人は云ったが、猫より大きく、払林狗(ふつりんく、払林は中国の史書にみえる地名)のようで、鼠色で腹は白いと。

 震墜の門柱3本に爪痕があった。
このことを聞いた通行人が群れて集まり、いつもは静かな袋町も忽ち喧噪な状態になった。
その屋舗は同姓勢州の隣で、わずかに隔たっているので、雷が落ちた頃は別して(特別)雨が強く、門内の鋪石の上に水がたたえられ火が映じて門内一面に火団が走るかと思えたが、(見物人集団の)声もやましく番士3人思いもかけずうつ状になった。
外向きに居た者は顔に物が当たるように思われ、半時(1時間)計(ばか)り心地悪く感じたと、勢州の家人が物語った。

巻之8  〔9〕 飯田侯の祖先が憲廟より拝領した御麻上下のこと

 林子が云った。

 飯田侯堀大和守の家に、憲廟(4代将軍家綱公のこと)から拝賜された御麻上下がある。
曩日(先日)請うて、拝瞻(はいせん、拝顔)すると、肩の巾は至って狭く、袴腰の木を一幅の麻で包み、腰ぎは幾重にも捻って、その先左右を細かく畳んで紐にしている。

 後、佐野肥後守に話すと、その祖先が伏見討ち死にしてから3代目に当たる人が着た上下を蔵しているが、その製も同じ事であると。

 すると昔は尊卑ともみなこのように製(つく)っていたと見える。
捻った所は見苦しいなどと云うより、(それが時と共に)今の形に変わってきたと見た方がいいだろう。

巻之15  〔12〕 大阪御陣の絵

 先年浪華で蒹葭堂(けんかどう)を訪ねたとき、版刻の一小紙を見た。
主人は「これは大阪御陣のとき御陣場の辺りを売りあるき、従軍の卒など買い求めたものよ」と云った。

 今山王神田の祭礼に市陌(みち)を売りあるく、番付と云うものの類である。
僅かの歳月200年余りで、時風の違うことがこの版本を見て想うもの。
これは平野、堺などを専ら売り歩いたと云う。
もと大小2幅あると聞く。
今印刷して出されたものは、小幅の方と云う。
大きな方は久世三四郎の家に伝わると云う。
先年その人に問うたが、答えも無く過ぎた。

 この図(写真)はわしが嘗て蒹葭の所蔵を模して置いたのを失ってしまったので、今年ある人からその小幅を得た。
絵の様は以前持っていたものと違いはない。

 但し2ヶ所に黒版のものがある。
原本には一は大御所様とある。
一は将軍様と書いてある。
神祖と台廟とを申すので、模刻にはこれを避けたようである。

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