巻之61  [20] 狐の毛玉、雀の毛玉

林子が話す。
日頃営中で、本多豊州[田中候。寺社奉行]に邂逅したときに、「某邸[数寄屋橋内]の稲荷祠を当初午に間に合うように、正一位を勧請しまして、口宣(くぜん、口頭で勅命が伝えられること)到来しましてね。
社壇へ納めた翌朝、壇上に狐の玊があったと持参しました。
その日営中に伺われる面々へ示したのを見ましたが、形はこれまで見たことのある毛玉ではないのです。

ただ珍しいことには、毛色が黒白に斑でした。
いかにもその時に偶中したこと、頗る奇と謂えるでしょう」と言った。

またその坐に大河内肥前守[御普請奉行]がいて、「高井山城守[大阪町奉行]は嘗て御目付を勤めていたとき、肥州殿(静山公の後継)の同僚がその節山州の話をしました。
1日椽先に雀が群れていましたが、何気なく見ていると、1雀が立ちながら片翅を少し開き、嘴で羽虫をとるかに見えましたが、小玉がはらりと落ちたのです。

それで山州が坐を立てば、雀は驚いてみな飛んでいきました。
その跡に毳玊(けばだま)があったのです」。

指の腹ほどにして、色は雀の腹毛と同じようであったと云う。
これまた聞いたことのないただの奇事であったが。
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巻之64 [6] 北隣の東盛寺、桃青、芭蕉縁の地

わしの隠荘の北隣は東盛寺である。
その寺の後ろに小篁(竹やぶ)がある。

ここは嘗て俳人芭蕉が棲んでいた跡と云われる。
曰人(えつじん)[仙台候の中の人。前にこの人のことを出している]の俳道にて伝聞したことは、芭蕉が盤珪禅師(ばんけいぜんじ、江戸前期の臨済宗の僧)に参禅して、専ら禅理を問うたと云う。

これに由てわしは、この頃正眼国師[盤珪の勅号]は天祥公の為に天祥庵に往来があったので、芭蕉も隣を卜(うらない)して棲んだのだろう。

天祥庵は即ち今不動堂の処であるが、かの小篁と相さることわずかに20余歩。
また今東盛寺の中に、芭蕉の像をおく小堂がある。

これは篁中の旧庵を移した所と云う。
また桃青[芭蕉の名を世人の多く知る所]の号を後に東盛に改めたとも云える[桃青、東盛、の方音通じればであるが]。

巻之64 [5] 天海僧正が書き入れた『左卜伝』の妙

高柳草庵は年来東叡山に立ち入る者で、かの王府の蔵書を見ていた。
すると天海僧正自ら書き入れた『左卜伝』があった。

これは僧が正常に好んでよく見られると云う。
その書が入った旨は、「譬(たと)えばこの陣はこの如くなるので敗れると云う。だから云々すれば勝てる」と評されるとのこと。

常人の所見とは異なり、実地より見る故にこのように成ると。
前の人が語った。

巻之52 [3] 深川八幡境内の力自慢

この前行智が来て話した。

今日深川八幡の境内を通ると、仮小屋があったのを取り外していたので、「何故か小屋を解くかや?」と問うた。

「近頃力持ちをする者があって、100貫目の石を頭上にさし上げることを、これも1人じゃなく数人寄って、相撲のように関、関脇、小結とその人々の力量を見せつけていましたがね。諸人も群してこれを観たんですが」。

「これは社に奉納した石でしたし、それをおさめていた小屋でした」。

「またそれを解いた訳は、この程このような群衆の中に、(突如として)年60余とみえる痩せた小おやじがその石の傍に寄って、両手をさしのべ、軽々と目通りに持って、2,3遍上げ下げして向こうに投げました。さてもその場にいた見物人はよく持てるものよと、その場を去りましたよ。力持ちの輩もおののき、この老夫はただ者ではないとその石を上げるのをやめたのです。そして仮屋も取りはずされたのです」
と行智の質問に答えたとのこと。

巻之52 [4] 八幡で力量を試す老夫

行智が来てまた話した。

八幡境内の一老夫は、人が附会(ふかい、こじつけて関係をつけること)した妄説で、実は大石を仰臥して手足で持ち上げたのを、その手がはずれて己の腹に落ちて圧死したとも、
或いは手足で上げたら、傍からかの石の上にまた余計に石を乗せて力量を見せたが、その石をとり落として、仰臥する者に当たり死なせたとも云われていると。

いずれが浮説か、実はわからない。

巻之65 [3] 太平榎のはなし

冠山老侯が江都名勝の題で詩を求めるていると、諸方に募った。
わしには太平榎と云うのを頒かつ。
わしはその樹の所在と由来を知らない。
だから人を通してそれを問わせた。

返り来て曰く。
「この榎は、以前亀井戸の社内脇にあったと聞いて尋ねると、昔は網千榎、神明榎、太平榎とも云ったそうです。
その辺の習書師に問いますと、これは梅屋鋪の某が知っているだろうと答えるので、梅荘に往って尋ねたら、某は答えました。
その樹は正しくこの境内に在ったが、今はありません。
けれどその枯木は残っていて、殆ど20年に及ぶかな。
太平榎と称する訳は、嘗て天下太平四字の形自ら隆起しているからですね。
それで20年前大風雨があったとき、その根が抜けて倒れました。
今では形すら残ってませんよ。
今その在った跡を探すには、梅千漬を納める屋の隅柱の下、それがその跡ですよ。
往古はこの辺に巨大な榎が数本ありましたが、この所の樹かの四字が現れて、水戸光圀卿が見出され、遂に上の方の御耳に入り、嘉瑞なり!と、ある日御成あって上覧に入られたのです。
この話は梅荘の婦人[この婦人はその家の女にして、幼年よりここに住まうと云う]の所伝だと。
婦人が10歳ばかりの頃は枯れた体にあって、上方に字形も少し顕われていて、手を以て示すを考えると、残りの木の高さも1間に余ると思われ、文字は四竪にして下方のみ遺ったそうです。
字の方は1尺に余るとのこと」。

ならば榎の巨大な思いに馳せてみたい。
この婦人はその頃30余と思われるから、かの樹の跡は絶たれただろう。
また『江戸砂子補』には、亀井戸天満宮の条に附して云うが。
大榎があった。
天下太平の文字に虫喰があった。
太平榎というべきかと見える。
これも場所も説もはっきりしないのだが。

またそれからしばらくして、亀戸の町に刻版した『葛飾名所案内』と題したものにそのことが出されなかった。
図を案ずるに、亀井戸天満宮の北角を梅荘として、東を榎木神明と記していた。

ここを以て、別に神明榎の名はあったかや。
されども図によると、神明の境と梅荘は別の所である。
但し境に接することで、嘗てそのように呼ばれたか。

若しくはまた梅荘は、その頃は神明宮の社地に属していたのだろうか。
姑く梅荘の伝わる話に従ってみようと思う。

巻之56 [12] 気転

林子が言った。

姫路侯の世子の住める蠣殻町屋鋪の園に招かれ、園中の茶屋で管弦の宴があった。
わしは立ち上がろとして、座を離れ、次の間の厠のある所に行った。

上下を脱し、戸を開けて入ると、折しも前夜に暴風雨があって、糞窖(ふんこう)中に水をたたえていた。
それで戸外に出て、近くの侍の輩に、「しかじかである」と伝えた。

茶道に申し付けられ、「何かこの中に投じ入れなければ」と申され、居合わせた両3人が周章(あわてふためく)の色だったが、その中の1人が何しらぬ顔で、下へは往かず上の間をさして行くので如何のことかと思っていると、棚に在った料紙箱をささげで来た。

蓋を開き、その中の奉書紙、美濃を残らず出し、片々して糞窖に投げ入れた。
それから「いざいざ入って下され」と云うので、直に厠に入った。
いささかも障りはなかった。
兼ねて案ずべきことにもなかった。

時に咄嗟の気転、誠に感じ入った。
殊にその仕方の上品なこと、如何にも大家近侍の挙動とであった。

わしは侯家と懇意なので、後日にその老臣にこのことを云って賞したが、定めてその人をあちらでも褒め称えた。

続篇  巻之73  〔20〕 堀田摂津守

 辰(1832か)正月29日、若年寄堀田摂津守が40年余りの勤めだったが、老いが極まりその職を退しようと願い、この日願いが通りった。
御賞詞あって時服(朝廷や将軍から毎年春、秋または夏、秋の二季に臣下に賜った衣服)を賜い、かつ別に再び御坐の間に召され、御手自ら御脇差を下されたという。
これまでこのように久しく精勤した若年寄はないほどと世に伝わっている。
御脇差を賜わることは重典で容易(たやす)からぬことであるが、格別の御恩寵と沙汰された。

 また後にある人に聞けば、御佩刀の御目貫御小柄、程乗作の筆墨紋なるとぞ。
その人は文雅を好み、公用典籍のことなど多く奉り、自ら和哥を献じたことによる思し召しなるべしと、人々は上の物事御至り深きを感じ申した。またある人が示すには、

    職を辞せし時の歌並びに短哥  正敦

 おさまれる御代ひさ竪の雲井なす、あふぐも高き我君の、みことかしこみ御はかせを、てづから賜ふおほみこと、何といはねの下草も、もえ出る春の心地して、空を仰ぎつぬかづきつ、朽残りたる老が身に、恵の露のかけまくも、あやにかしこきあふせごと、かうぶることの嬉しさは、みじかき筆に尽されず、深き流の水茎も、いかでか及ばむ幾度か、思ひ出つつ朝な夕な、この世を忍ぶおもひ出にせむ

    反哥
 あきらけき御代ひさ竪の雲井なす
      高き恵をおふぐかしこさ

続篇  巻之73  〔21〕 上賀茂社人、葵献上のこと

 4月朔日の殿中沙汰書に上賀茂社人、葵献上、松下摂津の中小路若狭としるしていた。
これは年々の恒例である。 

 わしも先年親しく見及んでいたが、小さな曲物に植えて披露したのものに、社人は拝礼することになったと。

この草はかの地では葵祭が終わって貢上することになっていたと思っていたが、頃聞けば、今は当地の芸花(植木屋)に頼み植えて置いたのを、社人は東上して曲器に移して出すのだと。

何事も専ら便利を優先して、実意を失うことになるのは今の世の通幣である。

三篇  巻之7  〔7〕 閣老水野羽州が子息に遺言したこと

 ある人が語った。
 故閣老水野羽州〔忠成〕が卒るに臨んで、子息和州〔忠義〕に遺言して曰く。
「我が後を嘗て御役を望むこと勿(なか)れ。御役は家の興廃について云うべからざる旨あり。去りながら支家壱州〔忠実〕は惜しむこと。何とぞ御役につけ度(た)き者であるぞ。因って当羽州〔初大和守〕は世を継いで、権家を奔走して、毎(つね)に壱州を吹挙するように」。

 壱州は故あってわしは別懇(とりわけ親しい)である。ある日語った。
「某の家参政を勤める者は、某以前4代連綿(長くつながり続いて絶えないさま)していると。

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