三篇  巻之39  〔13〕 知門宮児桃丸に恋慕した娘と飲みかけの茶を争って飲んだ婢女(メシモリ)と

 先年、知門の宮が御下向のとき従った児(チゴ)の桃丸が容色の勝るのは既に記した。
わしのもとにも来て、観楽した。
後宮の御帰洛のとき、桃丸も随って上る道中、大津の駅を過ぎるとき、土地の富農の女(ムスメ)が塗(みち)に出て宮の御通りを拝観したが、桃丸を見て恋慕して、追慕が続く。
遂に病になり瘦せ衰えてしまった。
父母は憂いてそのゆえを問うて、訳を知った。
父母はその事を京師に告げて、ついに女を桃丸へ与えて配嫁させたと。

この事を宮原氏〔高家〕が来たときに、宴中に語る者がいた。
迺(すなわち)宮原は「文政中(1818~1830)とか、鷹司右大将殿〔五摂家の一〕が関東下向の旅次に、大磯とかの駅に宿されたときに、公年20、容色美麗なのを、舎の婢女どもが物蔭より窺って懸想していたんですね。
駕籠が出て、言い合って、この好男子(イロオトコ)の飲みかけと云って、茶盌に残った茶があると争って奪い合って飲んだと云うんですね。
そしてその夜、みな発熱して殆ど今にも狂うのではないかとみえたのです。
宿長は驚いて、術家(ウラナイシャ)に占わせると、『これは上を犯す祟りです』と云ったそうです。
宿長はこれを不審に思って、婢女に質すと、何があったかを告げました。
(そこで)聞いていた者たちは恐怖を感じたということです」。

これは前の話と同じで、その旨相反するのでは。

巻之35  〔3〕 火の子と云えど人力に敵わない

 火災のとき火の子が来るに、人多く屋脊に登って、声を揚げてこれを逐へば、火の子は分れ散って屋に著(つ)くこともない。
人気は火勢をも推し退くものである。

 また平戸などは、秋節に4,5年ばかりに必ず大風ふくことがある。こ
の時も人は多く屋に上って、大声を出して風を逐へば、猛風もこの為に披靡(ひび、乱れなびく、敗走する)して屋にあたらない。

 天の怒気と雖(いえ)ども、人力には敵わない。
これは人は万物の霊なることであろう。


 ※あくまで当時の考え方ですが、驚きました。

三篇  巻之77  〔8〕 蹴鞠の夫

 辛丑(かのとうし、天保12年、1841年)初夏の頃である。
浅草寺観音開帳があって、その時、かの奥山と云う、蹴鞠する者が出て、諸人は見物した。
わしは久しく飛鳥井の門弟で、鞠を蹴るが、身柄ゆえ観に往けなかった。
近従の輩が視た話をここに挙げて録する。

 その一は、足定め(アシサダメ)と云って、数回鞠を蹴る。
 その二は、扇留(ドメ)と云って蹴り上げて扇で止める。図①
 その三は、煙草吃(タバコノミ)と云って、蹴りながら、煙盆を提げつつ出て、煙を吃し終わるまで蹴っている。図②
 その四は、滝流し。蹴って下る鞠を、身に受けつつ、仰臥して下部(ゲブ)に及ぶ。図③
 その五は、襷掛(タスキガケ)と云って、躬(ミ)の前後を襷を掛けるように、鞠躬に添えて廻す。図④⑤
 その六は、八重桜と云って歌あり。八重桜を額にかけて腕ながし雲ゐを通う雁の音の曲。こうしてその肩より鞠を始めて、額で上下させ、それより頭頂で跳ねさせる。
 その七は、生花と云って、蹴りながら花を生ける。図⑥
 その八は負鞠と云って、蹴って背に負いて上下させる。 図⑦
 その九は、揚げる鞠を、その塗(ミチ)で結革を摘む。よって摘鞠(ツマミマリ)と謂う図⑧
 その十は、足皮脱(タビヌギ)と云って、蹴りながら、その片足の足皮を脱ぐ。 図⑨
 その十一は、文字書(モジカキ)と云って、蹴りながら紙上に字を書く。 図⑩
 その十二は、乱杭渡(ラングイワタリ)と云って、地上に並べた杭の頭を歩みながら蹴る。
 〔この杭は、高さ地より3尺許、並ぶ間は2間半になる〕。図⑪
この杭を渡り終えたら、そこに松の垂がり枝を設ける。これを両手に握り、身は地を離れ、空所で蹴る。下り藤と名づけたと。 図⑫
 その十三は、梯子升(ノボリ)と云って、階段を高く搆(かま)えたのを、鞠を蹴って上り下りする。 図⑬
 その十四は、八橋と云って、世に謂う八つ橋と云う済(ワタ)した板の上を蹴りつつ渡っていく。 図⑭ 
その十五は、冠着(カムリヅケ)、摘鞠(ツマミマリ)、指輪(ユビマワリ)と云う。図⑮

  冠づけとは、いつも烏帽子の前にしばし鞠を止める。
これは曲と云うまでもない。
摘鞠は、既に前に云った。
指輪は、鞠指頭に着けて回転する。
平(ヒラ)た蛛(クモ)は、身を伏臥(ハラバイ)して鞠を脊背(セナカ)で受ける。
高鞠は、世の高足である。わしは思うが、前の四曲は何れも高足(コウソク)の鞠、降下(オチクグル)を受けて、このようになるのだろう。
平た蛛は、高足して鞠が降りるのを、直に腹這して受ける。図⑮
この鞠夫が、蹴方の番付と云うのを売るのは、「大阪表より、風流曲手鞠、大夫菊川国丸罷下云々と。
けれど全く蹴鞠であって、手鞠ではない。
これ等は、京師飛鳥井家の責を避けている。
また見よ。鞠に紋を描くのも、蹴鞠の鞠に非ずを示している。
ある人が「江都の鞠弟子が観ると、如何にも上足にして、実に曲鞠と謂うべし。
けれども門の鞠者とはいい難い」と。
それはそうだろう。
また「実は江都京橋辺りの鞠工の子で、蹴鞠を非常に好み、かつ曲蹴りを専らするので、父の勘当を受けて、京へ上ったが、大坂
と称して東下りをした」と。

  要するに、翫覧して眼を喜ばせる用むき。

1_6988_n.jpg(図1)

2_95974_n.jpg(図2)

3_8929_n.jpg(図3)

4_6413_n.jpg(図4)

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7_9116_n.jpg(図7)

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9_7511_n.jpg(図9)

10_4261_n.jpg(図10)

11_2232_n.jpg(図11)

12_1343_n.jpg(図12)

13_8932_n.jpg(図13)

14_8808_n.jpg(図14)

15_4742_n.jpg(図15)




巻之31  〔5〕 桑名老侯の詠に感じ入る

 林氏との文通で、桑名老侯〔楽翁である。改めて封後のことであるが〕の近詠を示して、

     夏 月
   月影は秋にまさごの夜半の霜
        ふらぬ雨きく松の下風

 かの明詠の晴天雨夏夜霜より思いよられたのだろう。
この老侯の才気自在なのはいつもいつも感じ入ることよ。

巻之44  〔20〕 被りものに思う事

 林子曰く。
 この3,4年前、綿で作った色々染めた頭巾を市中に売っていたが、荷物担ぎが運ぶ軽賤の者や武家中間までもその巾を被らない者はない程であった。が1両年いつしか止んだ。

 また近頃披風(ひふ)といって〔真の披風は形製は古雅なもので、裁縫等にのやり方がある。下々の者が用いるものではない〕市中の普通の男女が常衣の上に羽織のように着て風を防ぐのだと云う。

 これも武家にも移ってきて、家中妻子も用いるのをよく見かける。
少女など色々見事に作って用いている。
(だが)これがなくては風の冷たさを凌げないという事もなかろうに。
況や□□は尚更下賤の者はいらざることだ。

 この類はの服はみな妖(えう、よう)と云いたいものだ。
治道に心ある有司は、禁令を下すべきだ。

巻之46  〔23〕 守景の絵

 成嶋東岳の話といって林子が曰く。
 守景(1620~1690、江戸時代前期の狩野派の絵師)の絵は人が賞賛するもので、骨董家などの扱い方はその価は探幽よりも貴し〔静(静山)が聞いた。守景は探幽の婿と云う〕。
だから近来は贋作が多く出て、その本物はあまり見る事は出来ない。
加州には四民の家でこの絵を多く収蔵されている。
如何なる故かと思うと、守景の人と為りは驕れる者で、その師探幽が大内賢聖の障子を描いたのを見て誹り、探幽は怒って破門にした。

 それかた独立して一家を起(た)て京に住んでいたが、画を請う者は常に絶えることはない。
王侯貴人と雖も、描けないときは、歳月を経ても描くことはなかった。

 加州の小松黄門は、その驕り高ぶりを悪く取らず、人を介して金沢に招き一屋舗を与え、朝夕の飲饋(いんせん)を給する迄に日を送った。
守景は「何か画用があるのですか」と問うたが答えはなかった。
やや程経て、帰京を乞うが許されなかった。
3年を歴(へ)て、はじめて金屛風一双を授けて描かせた。

 その画は黄門の意に叶いたので、「何なりと請うものを褒賞しよう」と命じられた。
守景は「3年旅住まいをして家産が殆ど絶えました。願う所は銭を給わりたい」と申すと、「それあとても易いこと、願いの如く取らせましょう」と城内より銭を車に積んで、幾輌ともなく毎日引きもきらず、旅宿に運んだ。
余りにもその数が多くて、為すべきようもない。
「最早ごめん下さいませ」と詫び言を云わせ、ようやく運び車を止めて、帰京を許した。

 これにて守景は、元来の傲りも挫折させられ、驚き入ったとのこと。
その3年滞留の間に、絵を請く者に画き与えて、その謝儀でようやく当座の雑費をまかなっていたので、今その画は加州にだけ多く伝わっている。
加侯の大気も面白いことである。

続篇  巻之23  〔4〕 笛師の森田と一増のはなし

 笛師森田庄兵衛〔近代名人と云われる者〕の宅にて時々笛を吹くの者の近所に一増(いっそ)又六郎(これも笛。熊八郎の父。今の又六郎の祖)も住んでいる。
潜に(一増が)森田の家の後ろの掃溜めの辺りにかくれて聴いているのを、弟子の森田に報告する者があった。
森田が試みること両3度に及び、自ら往ってこれを見て、我が家に連れていき、云った。

「子は固より一家にして、そなたのやっていることをを訊きたい。何の故か教えてほしい」。
一増は「あなたの吹き方は素より更に有りのままですね。わたしの旨とは違うようです。艶曲委婉の志す所であります」。

森田は「それならばどうして我が笛を聞くのか」。
一増は「君の性質の朴なることを聞き、日々に某の文華の種としたいので」と云った。
森田はその執心の切なるを感じ、一増もまた悦んで去っていったと。

 これは清甚兵衛と称する笛家がわしの臣菅沼義一〔留守居。笛を清氏に学んだ〕に語った。
すなわち前に記した小鼓観世新九郎、幸清次郎と不和と同談である。

三篇  巻之7  〔13〕 羽州庄内富豪本間某のはなし

 羽州庄内侯に出入りする商人の話。

 かの侯の領内に坂田と云う処がある。
ここに名高い本間某と称する富豪の家があった。
この家は先年より侯の為に勤労して、禄300石を与え、かの坂田の地を支配令(セ)しめられた。

 それなのに昨今両年凶歳に遭ったので、この坂田一堺はかの本間1人進退して、いささか饑(うえ)の色を表さなかった上、また侯へ1万金を出し、国用に備えたと。
だが近頃庄内侯は、外には強国の聞こえあるが、内では貸借貧諂(ひんてん)の苦しみを免れられないかと。

巻之70  〔14〕 感応寺の住僧海侃

 蕉軒曰く。

 台麓の感応寺は大地である。
境内総坪は4万余に及ぶという。
この両3年前、花の頃、その辺りの林が別業(別荘)より散歩して到った。
折ふし住僧海侃も在していて、物語しながら遠眺して、夕陽の花を愛でながら、その寺地の村民に預けて置いた所々に「今少し花木があれば、よりよさげなものを」と云った。

「ならば指で指されよ」と云われたので、「そこです、ここです」と云って、「花を植えられたらいいですよ」と勧められた。

 その後はこのことを忘れていたが、近頃霜紅(楓、紅葉)を愛でようと、子の檉宇がその詩友とかの寺に至れば、海侃が出て来てもてなした。
そして種々の拙の中、「さきに蕉軒が花木を栽培していることを言い出して、その教えた後、未だ1度も来たらずと、不満意の色をした」と云ったことを檉宇が帰って伝えた。

この僧の性質は朴訥でおおむねかざりけがないというまた。
風騒(風流)の心も持ち合わせている。
今の世には稀なる面白い出家者と言える。
また檉宇への咄に、昨春は楽翁がたずねられたとき主僧は不在で歌を残していかれた。

  春秋の花や紅葉をあるじにて
       こととひかはす山のふる寺

と聞こえてきたとぞ。
これも主僧不満意で、主はあるも無きも構わぬ心得と聞こえて、面白くないことなので、こう返したと、

  とはれなん花やもみじの外に又
       山ほととぎす雪の古寺

それなのにこの春もまた花を訪ねて楽翁が臨まれた(面と向かった)とき、折ふし在寺したりしたが、如何にも面白くないことに思い、そのまま他行(外出)と云わせて偶(あ)わないと語る。

その洒脱な所を讃えたい。
また先年林の哥稿を見たいと云ったことも咄しだし、平生得意の哥15首ばかり自撰して、短冊に書かせたが、半ばで退屈した。
それでそのままで今日に及んでいると云う。

近詠の稿本に人々は付箋紙など付けて、さまざまに批評改竄(かいざん、字や語句を変えること)など有るままの横帳を、檉宇に示して持ち帰り「家翁に見せ給わってくれ」と致声(ちせい、ことづけた)した。
稿中可である詠は有るけれども、鈔出する程には至らない。

只その人と為りを賞する耳(のみ)。

続篇  巻之61  〔18〕 観世休翁が一調を打つはなし

 前にも云ったが、新九郎の先代が隠退して休翁と号した上手と呼ばれた者であるが、人が一調を望んでは、直ちに鼓をうつと聞くと、やはり平常の手つづきゆえ、聴く者は不審に思うらしい。

「一調と云うのは、大小を離れて小ばかりをうつならば、一調とは言えない。
奚(いずく)んぞ(どうして)手を打って、曲節になることがあろうか。
小一調を聴いて賞翫(しょうがん)するゆえ、平常の如く打つのだ。
手を打つと云うのは、大小太鼓相交わって囃(ハヤ)すときは、その拍子をはずさぬように、手を打つ事。
上手とも達者とも謂うべし」云った。

といっても、常に能囃子等には、手を打ち曲を為すこと休翁には自在であるが、一調となれば前のようなこと。
他流の心得とは別段であると。
三沢平七郎が語った〔喜多新組の役者〕。


※一調: いっちょう、謡い手1人と打楽器奏者1人が能の一部分を演奏する

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