辛丑(かのとうし、天保12年、1841年)初夏の頃である。
浅草寺観音開帳があって、その時、かの奥山と云う、蹴鞠する者が出て、諸人は見物した。
わしは久しく飛鳥井の門弟で、鞠を蹴るが、身柄ゆえ観に往けなかった。
近従の輩が視た話をここに挙げて録する。
その一は、足定め(アシサダメ)と云って、数回鞠を蹴る。
その二は、扇留(ドメ)と云って蹴り上げて扇で止める。図①
その三は、煙草吃(タバコノミ)と云って、蹴りながら、煙盆を提げつつ出て、煙を吃し終わるまで蹴っている。図②
その四は、滝流し。蹴って下る鞠を、身に受けつつ、仰臥して下部(ゲブ)に及ぶ。図③
その五は、襷掛(タスキガケ)と云って、躬(ミ)の前後を襷を掛けるように、鞠躬に添えて廻す。図④⑤
その六は、八重桜と云って歌あり。八重桜を額にかけて腕ながし雲ゐを通う雁の音の曲。こうしてその肩より鞠を始めて、額で上下させ、それより頭頂で跳ねさせる。
その七は、生花と云って、蹴りながら花を生ける。図⑥
その八は負鞠と云って、蹴って背に負いて上下させる。 図⑦
その九は、揚げる鞠を、その塗(ミチ)で結革を摘む。よって摘鞠(ツマミマリ)と謂う図⑧
その十は、足皮脱(タビヌギ)と云って、蹴りながら、その片足の足皮を脱ぐ。 図⑨
その十一は、文字書(モジカキ)と云って、蹴りながら紙上に字を書く。 図⑩
その十二は、乱杭渡(ラングイワタリ)と云って、地上に並べた杭の頭を歩みながら蹴る。
〔この杭は、高さ地より3尺許、並ぶ間は2間半になる〕。図⑪
この杭を渡り終えたら、そこに松の垂がり枝を設ける。これを両手に握り、身は地を離れ、空所で蹴る。下り藤と名づけたと。 図⑫
その十三は、梯子升(ノボリ)と云って、階段を高く搆(かま)えたのを、鞠を蹴って上り下りする。 図⑬
その十四は、八橋と云って、世に謂う八つ橋と云う済(ワタ)した板の上を蹴りつつ渡っていく。 図⑭
その十五は、冠着(カムリヅケ)、摘鞠(ツマミマリ)、指輪(ユビマワリ)と云う。図⑮
冠づけとは、いつも烏帽子の前にしばし鞠を止める。
これは曲と云うまでもない。
摘鞠は、既に前に云った。
指輪は、鞠指頭に着けて回転する。
平(ヒラ)た蛛(クモ)は、身を伏臥(ハラバイ)して鞠を脊背(セナカ)で受ける。
高鞠は、世の高足である。わしは思うが、前の四曲は何れも高足(コウソク)の鞠、降下(オチクグル)を受けて、このようになるのだろう。
平た蛛は、高足して鞠が降りるのを、直に腹這して受ける。図⑮
この鞠夫が、蹴方の番付と云うのを売るのは、「大阪表より、風流曲手鞠、大夫菊川国丸罷下云々と。
けれど全く蹴鞠であって、手鞠ではない。
これ等は、京師飛鳥井家の責を避けている。
また見よ。鞠に紋を描くのも、蹴鞠の鞠に非ずを示している。
ある人が「江都の鞠弟子が観ると、如何にも上足にして、実に曲鞠と謂うべし。
けれども門の鞠者とはいい難い」と。
それはそうだろう。
また「実は江都京橋辺りの鞠工の子で、蹴鞠を非常に好み、かつ曲蹴りを専らするので、父の勘当を受けて、京へ上ったが、大坂
と称して東下りをした」と。
要するに、翫覧して眼を喜ばせる用むき。

(図1)

(図2)

(図3)

(図4)

(図5)

(図6)

(図7)

(図8)

(図9)

(図10)

(図11)

(図12)

(図13)

(図14)

(図15)