続篇  巻之39  〔8〕 白き生き物はどんなものか

 先年浪華にて聞いたのは。
 泉州か河州にて純白の鵩(フクロウ)がいた。
何れより来たかはわからない。

ある人はこれを蒹葭(ケンカ、アシの別称)堂に問えば「これは夜国の鳥です。
極陰の境では物の色はみな白いのです。
万里を凌ぎ来たものでしょう」と答えた。

 近頃また聞いた。
ある人の説に、「富士のふもとに人穴がある。
穴地底へ5間ほど下れば、横に5町ほど往ってみては如何でしょうか。
そこに大きな鍾乳がございます。
5囲ばかりになっていますよ」と云った。

 その奥を極めれば富士川の源であると。
そのためか穴を深く行けば、土中に水鳴が聞こえるとぞ。

 またこの穴の中に小蝙蝠が沢山いるそうだ。
小梟もまたしかり。
みな純白だそうである。
蛇も、蜈蚣(ムカデ)もいて、これまた白色であると。
陰界の物は総じて然りなのか。
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三篇  巻之57  〔9〕 仏法も世法も嘆かわしきことあり

 世には仏法も世法も嘆かわしきこと共あり。

まず増上寺中のわしの宿坊の住持某は、甚だ弁才があって、その坊の修理など結構し、頗る檀家へも功ある僧であるが、寺社奉行より女犯のことが露顕して、遠流に処せられたと聞く。

 またわしの側らに久しく仕えていた女が家に帰り、八丈島に通じる問屋の妻になった。
ある日この婦人が来て
「伊豆の島々の中、新島は一島みな法華であって、他宗はないのですよ。
だから僧が遠流されてこの島に到ると、浄土真言何宗の差別なく、改宗して法華と為ることが、殆ど定法のようで、若しその宗を重んじて否とすれば、一島挙げて関りを持たないのです。
そうなると大抵の人は改宗しますけど。
先年ある僧が、堅くその宗旨を守って法華に従わなかったのですが、竟(きょう、おわりに、遂にの意)に餓死して人が葬ること莫く、野中のものと成ったのですよ」。

 実にこれ仏法の真ではない。
世法の至りと為ったのか。如何に洋中隔島の俗とはいえ、嘆かわしいではないか。

続篇  巻之70  〔17〕 伊達政宗の不凡なりき

 この2月に林氏に逢って疎闊(そかつ、久しく会わなかったこと)を伸べ、種々の物語をする中に、「伊達政宗の豪傑な性質は遍く人が知ることですね」と林は云った。

「御歴代(代々の将軍)に奉仕して、猷廟(家光公のこと)のとき専ら懇遇(こんぐう、心のこもったもてなし)されましてね。
また常に長脇指の大きな鍔(つば)の刀を帯して出仕されましたよ。
折々御酒を給わることがあって、時として酔い倒れて御前に臥すこともありましたが、あるときかの大脇指を御次(の間)に脱ぎ捨て置いたのを、近侍の若者共は言い合わせて、かの怒物(イカモノ、おおげさにこしらえたもの)作りをこのときこそ見なくてはと、窃(ひそか)に抜いて見れば、案外で木身(ボクトウ)だったので、皆々愕然(アキレ)たそうですよ」。

 正宗の胸衿(胸のうち)の並々ならぬこと、この一事でも見えてくる。

続篇  巻之70  〔18〕 林家の家紋について

 この日林子の着ている継肩衣の紋に、見馴れない牡丹がついていた。
この故を問うたら「家先(ここでは先祖)の道春(江戸初期の儒者、林羅山の剃髪後の号)は、はじめ浪人儒者で京住まいの頃、近衛公に召されて眷遇を蒙り、遂に家の牡丹紋をも賜ったのですよ」と云った。

 わしの悪口に、これまで多年の中(多年深い関りがあった)見えなかったが、子(道春の)は新作ならなかったのか。
抑々今の御代所に媚び奉るに非ず等と云って、微笑ましい。
実にその賜紋は古き伝えで、今も家の古器に、杏葉牡丹を蒔絵したものが往々にしてあるというぞ。

続篇  巻之23   〔6〕 富嶽から臨む

 この図は、富嶽の頂上に到って見た所である。
行智がよくよく登って自ら描いた。

 2枚目も同じく。
こちらは山下を臨んで見た所である。
富峰を望むのは、古より詩歌に最多いけれど、ここから下を観て記した者は稀になるだろう。
歌口ある者は、ここに一首を題するのだろうに。

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三篇  巻之59  〔8〕 4月入梅の雨降らず、信仰の浮華群観

 鬼神の霊験と云うのは、半ば人意を以て言うことが多い。
まず当年、その前より日和久しく照り続いたが、4月27日の入梅で、定めし雨は降るだろうと思っていたが、慳雨騒雨は為しがよく降らなかった。
梅も尽くして土用に入った。

 これは固より日が照るべきときに、雨は故より前の如し。
210日〔7月25日〕も荒日(アレビ)だと待っていたら、これも日和よく、8月朔日も同じで、8月4日までの旱魃の色、日数96日〔入梅前はこの数にいれない〕。

 それなのに220日は8月5日で、流石その日よりにしては曇りがちになるし、雨が降って、今日8月13日に至って、日和もあるが、過半は小雨暫雨夜雨朝雨等となって、降り続くこと9日。
それで「その旱魃の色の間を人は『先ごろより浅草寺観音の大堂修営あって、観音の誓いだろうか、修造の間は雨降る事がないんだよ』と人が言う」と云った。
わしは心に、「仏滅にはあるだろうけれど、聖人の御代とは違う」と思っていたが、220日過ぎにしては、また雨が降りつづけるものだが観世音の誓いは表裏あるが如し。
全く人意を以て云いたい。
何如に、何如に、笑うべし、笑うべし。

 ○また云った。

先ごろより大堂修営に就いて、その後への念仏堂とか云う所に遷場があって、詣人も彼処に往くと云うのを聞いた。
本堂参詣の人数は、念仏堂と比べると、過半を減らすと。

 このように人の信仰と云うものは、多くは浮華群観の為で、菩薩請願の故ではなかった。
また仮堂参敬の儕(ともがら、仲間)と雖(いえ)ども、実は好色遊覧の為はのがれじ。
また奈(いかん)。

続篇  巻之98  〔9〕 浜町岸で聞いた流人船のこと

 10月4日朝のこと、わしは浜町へ能を見にゆこうと、大橋を西へ渡った。
召し連れの女中は船で赴くが、早く往ってかの辺りの岸に船を着けている間に望み見たことを語った。

 八丈嶋へ赴く流人が元船の乗っていると誰かが云ったのが聞こえてきた。
上には昇旗(ノボリ)に「遠嶋者御用船」と書いたのを立て、傍には円の中に沢潟(オモダカ)の紋、下(シモ)に菱つなぎの昇を立てている〔これは御船手遠藤近江守の家紋で、この人の標(シルシ)だろう〕。
この船の辺りには引舟10艘いたが、各御用船と書いた小昇が立っていた。

 それより能を見る間だと彼是と話す中、人が言うには、「この遠嶋の者には、御旗本の人も居る、御家人もある。下っては游女の輩、あるいは虚無僧もあって、24人とか聞いた。八丈嶋は冬海で渡り難く、今年は新嶋に往って止まるとか」。

 我より作った罪ではあるが、その艱苦(かんく、辛苦)自ら想い知るのか。また女中が観たのは、元船を繋いだ辺りの岸上に、夥(おびただ)しい見物人と思える中に、(またわしの卑僕が云うには)見送りの人と思える人々が多く集まり、涕泣呼招、悶愁して見えるのは、みな別れを惜しんでいた。
それより元船を漕ぎだすときは、櫓で貝を吹いて、数艘の引舟が曳き出していたと。

 またその辺り万年橋の岸上には、遠藤氏の役屋鋪があって、その所には家紋の幕を打って、厳重に見えた。
これ等はこの辺りの人、またこれに拘わる向き向きは珍しくあるが、わしの儕(ともがら)は見馴れないこの光景に、殊に珍しく思えたのだ。
故にここに録する。

 因って思うには、定めし船中の人は、この時に至っては、別離に堪えられなければ、かの悪行を為さんととき、予めこれを念(おも)わば、このような遠島に赴くこともなかろうに、また虚無僧は、武士の隠れ家など忝(かたじけな)き神祖の御諚もあるのに、引きがえてこのような遠島に赴き、人の凌辱を蒙るも、この御厚志の末にも違える。
天罰を免れたい能よりも因果を目の当たりに見ることよと、思いめぐらせた。

 またこれに就いて云う。
「人の語るには、かの元船を見ていると、御旗本衆の家頼(けらい)と思えるが、主の刀を持って船に従い登った」と。
成るほど遠島に処しても、身分は身分ゆえ、こうも為すべきことではあるが、如何にも人目に恥ずかしいことではないか。
本立て道生ずと、聖者の宣いしも、事物に思い当たる。

 因みに思う。
章廟(7代将軍家継公か)の御時か、大奥の御年寄絵嶋が、淫行のことに罪に問われ、高遠侯〔内藤氏〕にお預けとなった。
あるとき侯の臣預り人に岡島某と云うが、絵島に申して、「定めし徒然に坐(ましま)すように。書を読みたければ云うように」と云えば、「では、『朱子語類』を貸されよ。読みたく(思う)」と云ったのを聞いて〔この絵島は博覧の聞こえあって、文学に長ずる人だった。
因って岡島もこう云ったかと〕、岡島即ち答えるには、「御もと今このような身になられて、『語類』を読まれるのは所謂後謂(おくればせ)ではありませんよ」と云ったと。
右の御旗本の刀を従えるも、この『語類』の比(たぐ)いではなかろう。

 また聞いた。「かの流人の輩は、船中では船底に集め、上の板具の所に錠をしめ、みだりに出ることを免れる事は免れない」と。
これは本当のことだろうか。
ならば男女貴賤同居することか。
また闇室群坐、かつ両便も如何か。
如何に罪人と云っても、不仁ではないか。
また不慈悲と云うべし。
聞き置きたくない事だが、記して事実をまたあらためたい。

巻之2  〔5〕 京の総撿校の神祖(家康公のこと)拝領の御壺

 豊川勾当が話した。
 京の総撿校の所に、嘗て神祖に賜いた御物どもがある。
1つは色ある大壺〔色は忘れた〕に葵の御紋がついていた。
この壺の故は、そのはじめ三宅撿校(その称を忘れたので、正すべし)に賜ったもので、その時撿校は「この壺の名は何と申しますか」と申し上げると、御答えには、「名は無し」。
「今このような治平の世となるならば、泰平の壺とも云うべし」との上意にて、撿校は忝(かたじけな)く拝領している。

 それより今にその御名を伝称して、年首(年のはじめ)の佳儀には、撿校勾当の盲人は、みなこの御物を拝し奉り、中に入っている酒を頂戴して礼飲したと云う。

 また鳴戸と名付けた御琵琶も、同じ撿校賜って、今に伝える。
これも上意には、「戦争の際にはこのようなもの用に立たず。今治安なればこそ、平曲〔平家である〕の如きも心安く聴くべし」。
因って下された。
今に至って総禄所の伝宝となった。
盲人の坐までも御手の届くこと不思議なる計りであった。

続篇  巻之29  〔9〕 遠山左衛門尉隠居

 蕉叟が話した。
 勘定奉行を勤めた遠山左衛門尉景普は、70をはるかに越した人だが、病を以て致仕(官職を辞して隠居すること)した。
飄然(ひょうぜん、のんきでいるさま)として処々を往来している。
年来繫盛忙で疎濶(距離ができること)になって親朋知音等を訪ね、日頃我が宅にも両度(2度)まで到った。
今の熱閙(ねっとう、非常に騒がしい)世界にこのように怗退(てんたい、名誉や利益にこだわらず他人と争わないこと)な人もまた稀なことである。
嗚呼士に至るまで棲々とする俗吏に較べれば、如何ばかりの高下だろうか。
その詩に曰く。

   隠居達志
却して朝衫(朝衣)を脱ぎ身世軽し。
柴門草閣は逢迎少しく。
鳴琴一曲す長の松の下。
自得す古人風月の情け。

 蕉また曰く。
この人赤羽の余流を酌で、未だ乳臭黄吻に近い詩であるけれども、その志の於いて採る当(べ)しと。
この語を聞くと、遠普も晩年不遇になると感じられる。
蕉翁のこれを賞するのもまた等しく。
こう云うわしは、尚自ら棄てた者である。
南無阿弥陀仏。

続篇  巻之29   〔10〕 矢止(ヤドメ)の傘

 前の巻之26に、喜多左京が大坂を去った後、御当家に召し出されたことを云った。
後谷村某〔名は可順。御数奇屋坊主。喜多氏の親類〕の語を聞くと、大阪落城のとき、左京〔この年左京は年34〕が本丸の方へ往ったが、途中で大野修理に遇った。
修理曰く。
「そのもとは早く御櫓に登って、この傘を開き振りなさいと、赤い日傘を与えました。
左京はすぐ櫓の上段に登り、牖(サマ、窓)より傘を出して振れば、間もなく弓炮の音も絶えました。
次第に人は囂(かまびす)しくなくなったので、櫓を下ると、秀頼は生害(自殺の事)と聞いて、急ぎ櫓を出て見ると、はや修理にも逢うことはなかった。

 城内の人みな四方へ逃げ去るさまで、左京も落ちて行こうとしたが、秀頼は落ちて往かれたと云うのを聞いて、随って四国の方に行き、それより九州の黒田氏に寄ったと。

 すると前にわしが考え置いたのもこれに合う。

 また櫓より傘を出す事は、矢止の傘と云うと、落城のしるしであり、古人の軍約とのこと。

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