巻之80  〔21〕 夜の虹

 『詩集伝』蝃蝀(テイトウ、虹)の章、蝃蝀東に在りの註に、蝃蝀は虹である。
日雨を与え交わり、倐(シュク、たちまちの意)然として質を成す。
血気の有るの類に似たり。
乃(そこで)陰陽の気が交じり当たらず而交わるものは、蓋し天地の淫気(淫らな気)である。
東に在るものとは暮の虹である。
故に朝は西に而暮は東であると見える。

 つまりこの6月20日の夜亥の刻(午後10時ごろ)、納涼して端に居たが、虧月(きけつ、欠けつつある月)が東方に皎(こう、白く清らかなさま)らかで、西天に白虹が空を亘る。
わしは左右のその状態を審(つまびらか)にさせた。

報告して曰く。白虹の中、青紅が相交じった、と。
すると夜の虹は月に映って形を為すことは昼の日に映るのと同じ。
左右の数人はみな未だかつて夜の虹を見たことはない。
1人はかつて見たことがあると云う。
詩註は昼の虹を云っていた。
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三篇  巻之19  〈8〉 身体の白い人、白昼に見る事が苦手、暗夜に行動をする件

 前に『三代実録』を引いて、その身体は純白で雪の如し、因って暗夜に見る事を得て、白日に向かうこと能わずとあるのも、この二言を理解し難く思えるが、今もこれと同じことがあって、わしの邸の辺りの市中に、久しく住んでいる者がいる、

これは世に謂う白子(シラコ)で、今は80有余の歳を重ね、遄(はや)くに道心者となり、志も堅固なので、人を憐れんで財物をも与えるが、貧苦とも思わず、即今は坊中の者なので、門前の不動を守る僧ではない。

またその人を知る者が語るには、この人幼年の時より、膚の色は総体白かったが、髪は赤く、歳を歴るになって、綃々髪も赤くなっていく。
すると今の赤い髪の童も後々に白髪になるか。

また門前の白き人も、奇行の人で、年毎の寒い中、夜に入れば晴雨を分かたず、鉦を打っつ。
東は千住の刑場、西は遠く鈴ヶ森に到り、迷える魂をとむらい、往来に市中を巡行する。
鶏鳴に至って居にかえる。
因ってこれを知る者は、その意を不便(ふびん)に思い、米銭その余りをも施し与えるので、不自由ではないという。

また白人、このように夜行を厭(いと)わずも、畢竟(ひっきょう、結局)暗夜と見えずと謂うので、夜中は眼気清爽なのに似ている。

それゆえ知る人が云うのは、白昼には途中に逢うが、常人と異にして、眼は疾病の人のようで、目力曚々、且つ屢々(しばしば)瞬きをする、朗見の状態ではないようだ。
これ等『実録』白日に向かうこと能わずと云うのと同じなので、『実録』に所載の白人と、昔も今も違いはないかと思う。

巻之29  〔14〕 封筒の製作

 天瀑子曰く。

 世の中の物好きと云うものも、その時時に色々変遷していく。
20年前、手紙は全幅または反幅の紙で、斜に封する以外になかった。

 中流以下の所では、略して封筒を製作して、蝶鳥また七宝の形、紗綾(卍を崩してつないだ模様などを織りだした、つやのある絹織物)形などの絵を題面の四方に色刷りにしてたまに用いることもあるものだが、中流以上の人が用いることはない。

 あるとき橘千蔭(加藤千蔭、1735~1808、江戸時代中期から後期にかけての国文学者・歌人・書家)が草画の雁に雲をあしらった封筒を作ってわしに贈ったが、形や製が清雅なので、朋友の往復にも用いた。またわしは双鯉紋と蕉紋とを新雕(しんちょう、新たに刻む、彫る)して用いて、かれこれと取りはやす中、都下の上下、貴賤、僧女一同に封筒を用いることとなった。
今日に至っては、その絵様の変化千万を以て数えることにしよう。
これは瑣(さ、ささいな)小事といっても、目前にここ迄移ろうのもおかしなことに思われる。

  天瀑子より静叟(静山公)はやや長ぜり。
この封筒は、先大人世に坐(ましま)せし頃〔思うに明和(1764~1772)の末か〕既にありたり。
然ども暫時世に出て織る人も鮮(すくな)くして、尋(つい)で沈没せり。
かかるに近世の繁昌殆ど常行の物となれり。
これに拠れば天瀑の興るとせしは、隠顕三回してのことなるなり。

巻之29  〔15〕 藻がつみ紋のはなし

 また曰く。
 藻がつみの紋〔世に花がつみと云うもの〕は古い形であった。が廃れて世に伝わらなかった。
故の田安黄門君〔悠然院殿〕は好古(こうこ、古い時代のものを好むこと)なので、様々の旧事どもを穿鑿(センサク、穴をうがち掘ること、細やかなところまで根ほり葉ほりたずねること)されたので、人物古画を得られて服章にこの紋があったのを愛賞(あいしょう、気に入って賞美すること)され、新しい織を命じられることになった。
因って故の松山侯と今の桑名老侯〔楽翁と云う。
近頃転封させられたゆえである。
ともに悠然院殿の御子である〕とはこの紋を用いられたが、世に知る人もない。

 これは20余年も前のことである。
わしはたまたまこの紋を見て、その古雅なのを愛し、新製作の鎧の金具も染め革も残らずかつみ紋にした。

 中古の風にかつと云う縁語を借りて、かつ色(紺よりもさらに濃い暗い藍色)の、かつお虫(人間には寄生しないが鰹の刺身についた米粒のようなテンタクラリアという寄生虫)と謂うもの、武具に用いることになったが、余り人真似のうるささから、新しくこのかつみに換えて用いた。
模様や柄がよいので、馬具にも用い、その末には雑具に用いる絹布の類の染形にも多く用いることになっていった。
形製も数種変えて用いる内に、遂にはわしの家の物のようになった。

 さて年月を経る中に、如何なることか、世の中一般にこの紋を用いるようになり、婦女の衣帯をはじめ、卑賎、俳優が用いる品までもこの紋がならざるようになっていった。
わしもまたあきれるばかりである。

 ある人はあまりに世に流行するので、わしにこの紋を用いることを留る者が在ったが、従来古紋なので用いるものだから、世の行不行に関わるものではないので、自若として元のように家紋同様に用いる内に、流行りは移ろい易きもの、早やこの3,4年は流行が止み、用いる人も稀になった。

世事は思いもよらぬことが有るものだ。

巻之29  〔16〕 専阿弥形の煙袋

 前の封筒のことに続き思い出すことを書き付けよう。
 先年専阿弥形と云う煙袋がことに流行した〔この煙袋の形は、底を広くいれ、袋の四方の角をおとし、亀甲形のような製品である〕。
またこの専阿弥と云うのは、平井専阿弥といって、天明(1781~1789)の末より寛政(1789~1801)にかけて時めきのあった御同朋の頭である。
その子を友阿弥と云って、わしも度々物語をした相手である。
父が没して職を継ぎ、名も父の名をあらためた。
これも寛政の末から享和(1801~1804)文化のはじめまで用いられたものであった。

 さてその煙袋はわしの18、9ばかりのとき思いがけず買ったが、その形と同じものを見て、便利な品と思った。
そして普段使いにその形で造らせ、他に行くときも懐に入れた。
1年子の方の専阿弥がわしのこの品を再現したが、他に流伝の品があったのだ。

 彼も同じものを持っていたが、やがて蹁蝠(フクロウ)と壽字をあからさまではないが、染木綿に多く製造した。
常々交流する者にひたすら贈った。

 それからというものこの製品は世でよく見られるようになり、わしがはじめに用いたと言う人もなかった。
専阿弥形と世に言いふらして広く行き渡った。
次いで専阿弥も病没して星霜(年月)が移ろい、今はこの形も廃され知る人も稀になった。

巻之45  〔16〕 威権の輩の失態が露わになった騒動

 この2月朔日晡時(ひぐれどき)すぎに神田橋御門外三川町1丁目より火が出た。
小田原町の川岸迄延焼して、翌2日の明け方に至って鎮まった。
火が起こりは御門内と言いふらされていた。

 その朔日の晩に、わしの(位の)中の士が鳥越邸より帰るとき大川橋を渡っていたら、都下の習いで行路の人が騒動して走っていた。
その中、橋北の別荘新築の主侯と見えたが、乗輿を陸尺(ろくしゃく)2人でかつぎ、駕脇には士が2人付き添い、その後から手廻り体の者が1人馳せ帰る様子であった。
それを引き続いて御用取次ぎ衆と見える人が追い老い2人、これも馳せ帰る体であった。

 各それぞれの家紋のついた継肩衣で歩き、従士に、「出火は何れか、よもや御郭内にはかなろうな」などと云って走っていく。
とりどり体を失ったことどもである。

 ある人が云うには、「当日はかの侯の新別荘で蹴鞠の宴があって、この人々は集会していた〔新荘に鞠場も構が作ってあった。壮麗であるが橋上よりよく見える〕」。

 その昼、明暁院〔上野鐘楼の庵僧。蹴鞠をよくする〕と云う僧も相手に赴き、わしの隠荘中に来て、集会のことを語ったという。
一時威権赫々の輩が、衆目の視る所でこのような失体周章の振舞、さぞ気の毒に思う者をあっただろう。
あと愉快だと笑う人もいただろう。

巻之9  〔12〕 大坂御城中夜中の喧噪

 新庄駿河守直規〔常州麻生領主、1万石〕と云う人はわしの縁者で、活達直情な人である。
寛政(1789~1801)中抜きんでて大番頭となった。

その話に、大坂在番に往って御城の中に居ると、深夜など騒騒然と音があった。
松風かと戸を開いて聞けば、そうではなかった。

正しくは人馬喧噪、乱争の声が遠くから聞こえてくるようなものだった。
しばらくして止む。

時々このようなことが続いた。
相伝ってきた。
当時の戦没の人の魂気が遺ったのではないだろうか。

わしは奇聞と思って、その後在番する人に問えば、その事は知らないと云った。

駿州は虚誕を云う人ではない。
心ない輩は何事も気がつかないものらしい。

巻之61  〔10〕 朝鮮攻め後、仙台に伝わるはなし

 正月20日隣家で、仙台の家士隠居、俳名を曰人(えつじん)と云う人にあった〔俗称は遠藤伊豆之介、600石を領する。今法躰である。年66と云う〕。
この人は頗る学才があって、武心もある矍鑠(かくしゃく)たる翁である。
彼等と話す中、かの藩侯の祖政宗が朝鮮攻のとき渡海したが、彼と対陣のとき、諸手より物見を出したが、6騎以上みな、明兵の鳥銃に打たれて還らなかった。
因ってかの陣を察することは出来ない。
已に敗陣に及ぼうとしていたが夜、暴雨で四方が明らかならず、双方物分れになった、と。
これは何れの時の軍になるだろう。
このことのみ聞いた〔以上、仙台の伝説の旨〕。

 また釜山浦の事と云うが〔これも上に同じく伝説である〕。
政宗の手に朝鮮の王子と王女とを捕らえた。王子は6歳、王女は7歳になっていた。
政宗は(この子らを)陣中に置くが食欲がない。
政宗は困って、何か食べさせようとあれこれ心を配るが、吾が俗と異なるので、その食する物がわからない。
因って官妃の、虜となった者に尋ねて、先に清正が捕らえた宮女を放還(ときかえ)らせるとき、兵卒の姦を防ぐ為に、その(清正の)髻(もとどり)に紙札をつけ、「加藤清正、これを免じる」と書いて放出した。
故に吾が兵はこの女を見ても、淫犯する者もなく、逃げ散じたので、この輩に(王子たちの食のことを)聞くことは出来なかった。

因って市坊の婦女に(王子と王女の食べられるのを)尋ね、その食物をきいて、ようやく帰帆迄養うことが出来た。
帰陣のうえ、政宗より太閤〔秀吉〕に王子王女を献じれば、太閤は「わしには用のない子たちである。
政宗、勝手にすべし」と云った。

それで政宗は本国につれ還り、妻女の小姓侍従〔四字は仙台の称呼で、世の小姓禿である〕として使った〔これを驪(レイ)氏と云うと。驪は李氏か。またその母氏の姓か〕、この女は敏恵でやや和語に通じて、また貞烈な性質である。政宗の妻が卒去のとき、自殺して殉(したが)ったと。

今その墓は、妻女の墓の後ろに在る。
因ってその後ろに祠を立て、山岡総右衛門と称し、300石を領する。王子は政宗の藩士となって、岡本定右衛門と称する。
今は又十郎と云うと。

さてこの孫は宝暦5年(1755年)の頃までは、官の御許しがあって朝鮮と連絡を取っていた。
その書は漢文で、はじめは羅山、後は仁斎等を書していた、と。

後仙台に火災があったとき、かの士の家は焼失して、その例記を失った。
これより官その願いを取り上げられなかった。
事遂に止まったという。
奇事である。

巻之61  〔11〕 曰人の語る義経の往跡

 また前の曰人(ゑつじん)の語る中に、義経が高館にて自害したと『東鑑』等に記してあるが、奥州の所伝は、かの処より正法山の山路、黒石を通って、けせん、相さり〔みな地名〕から南部越え、六角牛(ロッカウシ)山、甲子(カッチ)町、大槌浜に宿し、これより船に乗って満州に到ったというぞ〔義経の自害は文治5年(1189年)。この時宋の淳熙16年〕。

 この時秀衡曰く。
「源家は我が主君である」。
それならば今鎌倉に頼朝坐せば、その跡絶えたと云うべからず。
すると義経の身の安全を願うと、満州に使いを遣わし、船200艘に5斗入りの米100俵ずつを積み、これを資財として義経を彼に託したとぞ。
また義経の安泰を祈るがために、湯殿山に祈誓して、秀衡自ら肉食媱酒を断ったというぞ。

 この時奥羽二国の山伏も共にこれをやったが、妻帯酒魚等は堪(た)えられず、後弛(ゆる)んでいったけれども、今に鳥獣の肉は堅く禁じて食していない。
若し食する者があれば、必ず神罰あって即死に至るとぞ。

 また大槌浜の人家には、昔義経が宿した家があり、また弁慶が宿した、亀井が宿して、片岡が宿した抔(など)、処々にその往跡を伝える、と。

 また蝦夷の地では義経と云う言葉をヲキグルミと云うこと、みな人の知る所である。
この余、義経の跡処々に有ると云えば、異邦に往ったことは事実なのだろう。

続篇  巻之73  〔6〕 『四席懐石誌』

 ある人が『四席懐石誌』と標した2冊子をわしに示した。
視ると吾が天祥院殿(松浦家29代鎮信公)が選び給うたもの。
終りに元禄九子(1696年)9月と書かれていて、御諱があった。
わしの家には却ってこれを伝えていない。

 またここに『四席懐石』と題したのは、思うに公がお銘じになったことではなく、外人の御選著を得て、このような表題にしたのだろう。

 また懐石と云えば、こう銘じたのだろう〔この書は、魚類の部、正月膳附の部、同汁の部、同煮物の部など、四季を次第した〕。
またこの年代を考えると、元禄9年は、公退老の年より8年後で、御年75。
すると隠後の御選である。

またかつて聞いたことである。
カボチャ(菜実の名)、トウナス、薩摩芋等は、今専ら世に食用するものだが、その世間に出たばかりの頃は、人はみな毒物として食用することが無かった、と。
これに就き云うには、公の御書未に記されたことは、

『肴、焼物、珍しい作意品々が有るべし。勘弁すべし。
併(あわせ)ながら、性の宜しからず物カボチャ、唐ナス、薩摩芋の類、紅粉茸(ベニタケ)等、一切用いらず、である。
この外にも性の宜しからず物、餅の類、料理に忌むこと、である。
人の知る物であるので、風流を料理候こと第一である』
と見える。

するとこの頃までは、彼等の品を毒物とみなしていたのだ。元禄9年より、今天保3年(1832年)に至って、137年。

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