巻之71  〔3〕 桜花三十六品

 この春北村師の方より桜花の絵一幀を示して、いう。

 この画は京人名和花隠と云うものである〔この人は名和長年の裔孫だという〕。
桜花を永い年月愛している。
かつこの花の真写(物事をありのままに写しとること)に妙(不可思議なほどすぐれている)である。
因って花の数品を図し、各家の歌を募り、すなわちその花筵(むしろ)の図を併せ贈った。
わしもまたその撰によれば、蜂腰一首を詠じた。

       花筵並びに詠花の図  写真①
     さくらさくころはそらさへ心して
          かぜしづかなる花の夕栄
                      静山
       桜花三十六品写生各軸展観餝附
  夕栄の二字は、原(もと)よりその図に題した。

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三篇  巻之5   〔5〕 大久保八郎左衛門が檀寺再興のこと

 世の諺に九十大久保百酒井とか云うように、就中大久保氏の多い事はかの先祖の志とかだと。ある人がいった。
 先年のことだが、御使番〔七百石〕の大久保八郎左衛門と称する人は、奇才であったが、かの寺教学院が破壊したので、修復を檀家が請うた。
大家の面々は時節柄抔(など)と云って難しく、小家の衆中は猶更なので、和尚はこのことを八郎左衛門に語って、曰く。
「苦々しいことだ。これほどのことは我ら一人が少々ずつの寄進は往々やるべきだ。況や大家に頼もうと大家の邸に往って説したが、誰も肯かない」。

八郎左衛門曰く。
さらば素志(そし、平素からのこころざし)の如く我一人の力では助けるのは無理だが、各方から御支(つかえ)してもらえば」と云った。
それを聞いたその臣等みな思った。
「小禄の彼のこの大言なんぞ採るに足らず」と。
内々は嘲って支えぬ旨を答えた。

すると八郎また同氏の面々を残りなくふれ廻った。
檀家へ到って、雨戸を一枚かの門前に竪て、その戸に大書して曰く。
「当院は大破に及んだので、檀家同氏中へ修復申請した処、各勝手向うの訳を以て断るので、拙者一人に而再興仕えるものである。大久保八郎左衛門」
と記したら、同氏の中の者がこの大書したものをひそかに取り除いた。
が、またその大書を再び建てては取り除き、また建てては取り除きが続いた。

このため氏一統の者達は外見を憚り、かの氏一統が出金することと成って、遂に修復を終えたという。

続篇  巻之12  〔23〕 その1 縁者の高家を訪ねて、聞いたはなし

 この正月中旬、縁者の高家の邸にいって語る中、種々聞いたことを帰った後に録した。
 京より土御門家が出府した。上の御身固(みがため、身支度をすること)をするには、御左右の御掌に何か呪文をかき、御胸の処を推し奉るとのこと。
高家御太刀の役のとき、まのあたりで見奉ったと。また高家御衣裳紋に下向、御前に出て、御装束の端を上より下に一とならぬばかりだったとぞ。

 今の花園侍従〔実路〕は、わしの聟(むこ)園宰相中将〔基茂〕の弟である。
去々年だったか、管弦の役に出府した。
当年もまた管弦につき出府と聞く。
昨日の咄には、容儀殊更に好き人で美男子だが、甚だ吃(ドモリ)で言う事が難しく、また家は窮している。
されども廉潔な気質で、嘗て非義(道理にはずれること)はなく、公家には珍しい風である。
それゆえこのように貧しいと。

 今大名の家紋に、二つ引をつくる家がある。
わしの家も足利拝領なのでこの如しである。
因って細川氏の紋に二つ引をつくることを問えば、「かの家はもと足利同氏にあって、吉良、畠山、今川と一つ源氏であった。二つ引は家紋なので素より」と答えた。
今まで知らなかった〔この細川の家紋の事、前篇巻之八にも云っている。
これと異なる。
そうではあるがこのことだろう〕。

 伝奏参向のとき、御馳走の面々は、いつも熨斗目、麻上下であるが、出火の節はその上に火事羽織ばかりを着ている。
また先年の火事のとき伝奏立退があっても、広橋殿は狩衣であったと。
公家には火事の服というものはない。

 高家の面々は何れも、正月御謡初の夜は登城はなし。
表高家も同前だと。わしは「この御祝儀は遠く三遠の御時よりと聞く。因って高家の面々は旧家なので、この頃は御祝儀に拘らない。その余風だろう」。

 紅葉山に神祖(家康公)帆着用の御具足があった。
革包みとか聞いたが、御胴のあたりに銃丸の痕十一か所あって、その中には丸(たま)を已(すで)に抜いたものもありと。
御勇武とは申しながら、今念(おも)えば勿体ないことであった。

 高家由良氏は義貞の後裔である。
この家には栗毛の馬を忌む。
その故は、義貞討ち死にのとき、乗っていた者が栗毛の馬であったという。
因って由良の先代の中、強いてこの毛の馬で駆けたが忽ち落馬したとぞ。
また今の由良播州は養子であるが、今に至って言っては詮無きことで、栗毛馬を求めて乗るが凶事もなかったと宮原が哂(わら)う。

 今小普請衆か小知(しょうち、うわべだけにしか触れていない浅はかな知恵)の人の中、清康様の御後がある。
家紋には一つ引を付く。
この家はいつもは何たることはないけれども、不幸があって跡目仰せ付けられるときは、必ず吊(とむらい)料として金子百金かを賜っているとのこと(林子曰く、妄節かと)。

続く

続篇  巻之12  〔23〕  その2 縁者の高家を訪ねて、聞いたはなし

 高家大沢右京大夫基之と云う者は、わしも殊に懇な人であったが、今は没した。またこの家は、神祖御血判の御誓紙まで持ち伝えたことは、既に前篇〔巻之廿七〕に云っている。
また宮原が大沢の言った事と前於いて云っているが、某の家は先々より菊の間(江戸城の面座敷の一つ)に席があった。
それより高家へのみ出づると、今までは故なかったが、若し時流があって菊の間より大番頭等に出ることがあれば、番頭を退役するときは、その身は寄合に入る。すると、また菊の間に復(カエ)ることは難しい、と。
今も右京大夫基昭といってまた高家である(なるほど基之未だ年若なので、高家に出る前は右京と称し、菊の間衆大名の上席になったのを、わしもよく覚えている。
このときは寛政(1789~1801年)の頃で、殊に菊の間大名と申し分あって、家格の故を以て遂に大沢は勝利にてその如くなったが、程なく高家に出た)。

 久しく徳嶋侯の中に、阿波の公方と号するものがあった。
近頃の公方の子を又太郎と称したと聞く。
この公方のことを咄出すと、「これも初めは某等の同族です。またこの又太郎は今も存命で、年は八十に余るとか聞きました」と答えた。
それにつきこの公方のことは、これまで彼是の人より聞いたが、はじめは尊氏正統の胤であったが、蜂須賀氏未だ家を興す前、遂に世の隙を窺い一旗挙げるとき、寒門では人心服せざるを慮り、将軍の種を擁して、己の家を耀(かがや)す為に匿って置いたが、神君の御盛輝に光を消し、蜂須賀も御徳沢を蒙り、云いだすもあらで、歳月の移ろいに従いはじめの尊崇のようにはならず、自ずから公方も意の如くならで、後には屢々(しばしば)不足を云い出した。
横須賀も家に不自由なければ、ろくろく阿公の望みを取り協えず。
阿公は定めし蜂氏は我を留むべしと、出て居所を去ったが、思いの外、蜂氏も今は厄介なので止めることもしない〔宮原の咄では、このとき蜂氏より出奔の届けを官にしたとぞ。
またこれの前、蜂氏の参勤とか帰国とかのときは、定例金四百両とかを土産として贈ったとか〕。
この体なので、阿公も心当てが違い、遂に還らず、京か大阪かの政所に出訴したゆえ、関東の伺いとなったが、今になっては、喜連川をはじめとして足利氏も多く御養のことなので、最早御用にもなければ、取りあげはなかった。

阿公も詮方なく、やや流浪の身となりつつ所々を漂い、食すべき道はなく、縁(ゆかり)の処なので相国寺を頼んで身を寄せたけれども、阿公はその子又太郎、女某等数人のことゆえ、相国寺も困って、十三代の魂舎(タマヤ)の院々を順番にして食住させて、あるとき等持院の番で、この院にうち集まっていたが、家内より失火した。
持伝えた尊氏の甲冑、後醍醐帝の綸旨(りんじ、勅命により蔵人が自分の署名で発行する奉書形式の文書)、大塔宮の令旨等、古文書、旧来の武具等、悉く焼失させたとぞ。
正しい尊氏の後胤とした所もあるだろうに、等持院にあって自火をだし、これらの物が焼失したのは、その鬼の怒りか、或はまた南帝の御祟りか。またこの又太郎と云うのは、身の長け六尺をこえ、勇力あってよく勁弓(強い弓の意)を引く。女は容色すぐれて和歌に達し、かつ技舞をよくする。ある人曰く。
流零の日、華洛(にぎやかな街、京都の称)の間に徘徊してこの技を為した、と。或は言う。「歌学の師をなして児女に教えたこともあった」と。

今はどう過ごしているのだろうか。

終わり

続篇   巻之25  〔18〕 琉球国の国王よりの進上目録

 琉球は吾が国の属国とは云いながら、よくも吾が国ぶりに習っている。
薩侯の菩提寺大円寺の住持の蔵(おさ)める、薩侯夫人へかの国王よりの進上目録を見た。
これはかの国の官婢の書にして、付札はかの国の表祐筆(貴人のそばに仕える書記)をつとめる男子の書である、と。
官称も表祐筆と云う。

    摸字     大御前様え
           邦丸様御事御嫡子御届被ㇾ為
           ㇾ済、若殿様と奉ㇾ称候御祝儀付 
しん上
寿帯かう           十はこ
いしの二重香合しやん餅入付    二
あをがい御れう紙硯箱     一とをり
いろしゆす           三ぼん
ちりめん           二十まき
  内くれなゐ  十まき
さあや            二十まき
  内くれない  十まき
たいへい布           十ぴき
もうせん            五まい
ちんきん御重箱         一くみ
あはもり酒           十壺
以上                                                
       中山王
         しやう灝

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巻之64  〔3〕 『守護神は天狗なり』と言い伝う

 享保辛酉(享保年間に辛酉が見られない。
参考までに丁酉享保二年1717年、辛丑享保六年1721年、己酉享保十四年1729年)の夏、鎌倉円覚寺の誠拙和尚は京都南禅寺の招きに依って上京淹留(長い間滞在すること)した。
つまり和尚は淹留中、晴天月夜などには、時々深更に及んで峰頂にいき数人笛を吹き、鼓を鳴らし、歌舞遊楽の声が頻(しきりに)数刻していた。

 この峰頂は尋常は人が至る処ではない。
因ってはじめは従徒もあやしんで驚いていたが、山中の古老が言うには「この山中は古代より吉事がある時は、必ず峰頂に於いて歌舞音曲の声があった。
これは守護神が歓喜していることだ。
守護神は天狗であると言い伝うということだ」〔印宗和尚の話〕。

 『高僧伝』に曰く。
「正応の間、亀山の上皇竜山の離宮に在すに、妖怪荐(しきり)に作り、妃婿媵嬙(君主の妻である各階級の女性)しばしば魅惑に遭う。
上皇大いにこれを悪み、乃し群臣を集めてこの事を議す。
みな曰く。この地の妖怪これを聞く事久しいなあ。
仏法の力に非ずんば、決して治むべからず。
これに於いて南北の高徳に命ず。
百計効無し。
時に西大寺睿尊律師戒行の誉有り。
勅して宮闈に棲む。
尊沙門二十員を率い、昼夜鈴を振り咒を誦う。
三月を閲るに至る。
而妖魅尚驕り、飛礫於護摩壇に投ず。
尊辞せずして而退く。
群臣門の徳望を奏す〔釈の普門号無関と。
東福の開山聖一国師の弟子なり。
逝る年八十。嘉元の間、勅して仏心禅師と諡す。
元亨三年、加えて大明国師と賜う〕。
乃し外宮に召す。且つ宣して曰く。
卿能く居ん乎。門奏して曰く。
妖は徳に勝たず。
世書に尚これ有り。
況や釈氏を乎。
釈子ここに居る。
何の怪かこれ有ん。
上皇その言を壮とし、有司に勅して門をして宮に入ら俾(し)む。
門但し衆与安居禅坐し、更に他事無し。
爾し自宮怪永く息む。
上皇大いに悦び、乃し心を宗門に傾け、弟子の札を執り、座禅を習い衣鉢を受く。
因って宮を革め寺と為す。
梵制未だを備らずと雖ども、特に勅門開山の祖と為す。
後来伽藍体を具う。
太平興国南禅禅寺と号す。」

 そんなわけで怪は当時有ったわけだが。
今は還って穏やかなのは太平の世、由る所あり。

巻之64  〔4〕 薬玉乃梅、袖之梅

 前に玉之梅と云う薬のことを云った。
この頃、多紀安元に問うたが、「袖乃梅、玉乃梅のことを承りました。袖乃梅の方は兼ねて記して置いたけれども、玉乃梅は未だ存じておりません」と答えた。

 因って一方のみ申した。
但し神祖の御方と申すことは聞いてなかった。
また日本橋駿河町に、古松軒と云う薬舗にて玉之梅が売られているという。
これは、富山侯にて製された百花香と同方だろう。
百花香はわしが知っているかのように云い越してきたが、侯はわしも懇意していて、毎度この薬も得ているが、同方なるかはわからない。
また若しくは古松軒と云うのは、かの中村七三郎の所か。
住吉町と駿河町とは近き処である。

袖之梅の方
藿香五分  陳皮一匁  桂皮一匁  縮砂五分
葛根一匁  黄連三匁  大黄五分  木香二分
甘草一分
上九味剉細し、水で煎じまたは湯泡を用いる。
主治  停食宿酒脾胃の不和が治る(効能が期待できる)

巻之69  〔20〕 剞劂(キケツ、版木屋、彫刻師等)江川八左衛門のはなし

林氏の物語に、凡そ都下の剞劂多しと雖も、その精工は、根岸に住む江川八左衛門と云う者に過ぎるはいない。
且つ人と為りも質朴正直なる者である。
因って昌平学の官版みなその手に成る。
また林氏私用の雕梓(チョウシ、彫る、版木等の意)も彼に命じたとぞ。
水府で『日本史』開刻の挙の時、かの有司より林氏に問い合わせて、これもその者に命じられることになった、と。

今ここに〔乙酉、文政八、1825年か〕行年(ぎょうねん、こうねん、この世に生まれて何歳まで生きたかをあらわす言葉、娑婆で行を積んだ年数)八十五。
夏の頃篤疾(とくしつ、重病)ですでに殞(しな)んとしていた。
林氏の臣に請いて曰く。

「某の業の師を関根某と云って、精工であります。
某はその指授を得て当業を励んで、飢寒を免れたばかりか、今は家累数口を養い、余貲(たから)のある身であります。
師恩(師匠から受ける恩)甚だ大きいものでありますが、恨むらくは、関根の後なくして家が絶えてしまったことです。
某が死ねば劣子に遺嘱して、別に関根の家を興し、その祭を絶やさずにいましょう。
請い願わくは、以来関根、江川の両家をして永代学板の官用を命じて下さいませ。
これは私の没前の至願でございます」。

林氏はこれを聞いて、その志を感じて、「必ず情願の如くなるから」と諾した、と。
また八左衛門辞世の歌を作ったと一覧を請うた。
林氏は視て、立志の着実を褒めた。
その後、はや世に思い残すことは無いと、静に終焉を待つ事数日。
計らずも漸々(ぜんぜん、徐々)に病止んで、仲秋に及んで全癒した。

この上は己の業のことなのでと、かの辞世の歌を自刻して墨本として病起の後はじめて林氏に呈した、と。
如何にも矍鑠(かくしゃく)たる老人であると林氏はまた語った。

  歌云
人となる人になる身になにがなる
     こころの花がさいてみになる
            八十五歳江川美啓
              写真参照

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巻之69  〔21〕 天平革の不動尊

 近頃鎧を制しようと、貯め置いた天平革を出して函工に示して、その料に当てようと謀(はか)って云々のこと言う次いで、函工曰く。

「革紋の中、不動尊二童子を出せる所はその紋中に裁刀を容れることで出来ませぬ。
誤って刀が及べば、必ず怪我をします」。

 工も懼(おそ)れて弦走(つるばしり)外他用に当たることは無いと。
奇聞である。

三篇  巻之46  〔8〕 口口の評論あるか、と

 去月(戊戌三月、天保九年、1884年か)廿八日、年頭として参向の勅使院使、並びに御下向の知恩院宮門跡、西本願寺門跡登城で、御饗応があった。
全体かの門跡は魚肉を用いられるので、この度もこう有るのを、西門跡より「この度は何とぞ精進に成して下さいますように」と願いが有った。が、協わず、饗応は魚肉になった、と。

 人が察するには、この宗では、「当日は開基上人の正忌であり、本山より一宗大精進して、厳しく魚肉を禁ずるので、知門宮も登営あると、同じく精進を用いられる旨とのこと。が関東の御勢では古例は更給わずのことであるという」。

 だから勅使その余に類して(関東の)いつもの食膳になった、と。
これ等を恥、且つ僧道を守るの意を示されしかなどと、口口の評論あるか、と。

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