巻之13 〔11〕 筑前の狐を捕る士のはなし

 筑前博多門宗寺の主僧は、婦人が病死の後顔色が悪く色は憔悴しきる。
人は訝って訳を問うが何も答えなかった。やがてその姿は枯れ果てていった。

 また問うにやっと云ったことには、夜過ぎし頃より亡妻が出て来て、自分と毎夜語っているという。
因って眠れない。そうしてこの様になってしまったと。

 その徒は為すべきことがない折から、領主の臣に狐を捕ることをやっている士があったので〔これは侯の家製に烏犀円(家康の家康による家康の為の調合薬)で、解決の方法があることに気付いた。
この薬剤の中には狐の胆があるのだと、捕狐職掌の者があると云う〕。
 「我に所存があります」とその亡霊を見て云った。
人はかの士を寺に伴った。
士は夜その家の床下に隠れて様子を窺った。
果たして亡霊はやって来た。

 士は「よし、我に術あり!」と云って、翌夜狐を捕るわなを持って亡霊の通り道に仕掛けた。
霊は来てわなにある餌の香りに蕩心して、遂にこれに掛かって死んだ。
視ると一大老狐だったと。
これ自ら主僧の病はようやく快復したとぞ。

続篇 巻之15 〔13〕 鷹司殿参向行列

宮原が語った。

去年鷹司殿参向のとき、前に行く諸大夫を騎馬にしようと請われた。

が後に続く騎馬は差しさわりは無いが、前に行く騎馬は成らずと云って、御許しがなかった。

因って何れも徒歩して前を進んでいったとぞ。

巻之14 〔17〕 狐を苦しめた村の婦人のはなし

 平戸の郷に玄丹と云う医師があった。
ある時病人があると云って呼びに来た者がいた。
村家のことで病を得た婦人が自ら薬箱を持って且つ嚮導(きょうどう、先に立って案内する)した。
玄丹は即ち出ていった。

途中狐が臥せて居るのが見えた。
婦人が云った。
「狐や、お前を苦しめようか」。
玄丹は「ろくでもない事を!やめよ」。
婦人は乃ち手で己の咽をしめた。
すると向うで臥せっていた狐は驚いて起き上がり苦しんでいた。
婦人はまた「今少し苦しみな」と云って、両手で(己の)咽を強くしめた。
すると狐はますます苦しみ、息も出来ぬ体であった。
それより婦人は、またまた己が息が出来ないほどに咽をしめると、狐は即ち悶絶した。
玄丹笑って、病人を診て薬を与えて還った。

それから四五日してまた同所より病人有りと云って呼びにきた。
玄丹は先日の病が再発したかと思って往って診ると、今度は婦人が発狂していた。
話を聞くと狐がついていて、さまざまのうわ言を云っていた。

「先に我が寝ていたのに、種々に苦しめたね。悶絶までさせたよね。その後近所の人に語って笑っただろ。今その怨みに報いて、汝をとり殺してやるよ」。

玄丹も覚えがある事ゆえ、驚いて聞いていたと云う。

その後の事はわからないが。

巻之62 〔11〕 寛文の精勤した老者に御賞

林丈が語った。
古記に寛文五年(1665年)十月、大目付兼松下総守七十七、先手頭小野麻右衛門七十六、各精勤したと、下総守は金十枚、麻右衛門は金五枚、いずれも紅裏(もみうら、紅絹(もみ)を着物の裏地に使うこと)小袖三、羽折一ずつ添えて下さるよし見えた。

この頃は御役人に古稀の者の少ないと見える。
それでこの様な特恩もあるのだろう。

今(甲子夜話の書かれたのは1821~1841年)は古希以上の有司の夥しいことである。
これ等は太平の人瑞(特に長寿の人)とも云えるかと。

外の賜りはなくとも、紅裏は許されたし者である。
既に諸藩の役人には高年の者は少ない。
それなのに直参衆(主君に直接仕える家来)に高齢多くあるのは、殊にめでたいことでもない。

営中に紅裏の人多くあるならば、如何ばかりか見事なことになるであろう。

三篇 巻之74 〔24〕 その家の運不運は生き物に拠るところか

 (辛丑、天保十二年、1841年か)今の久留米侯〔有馬氏〕の祖父か、曾祖父〔はじめて少将となった人〕か、わしも若年の頃面識のあった人で、安靖公はわけて懇意の仲であった。

 この侯は地犬(ジイヌ)を好まれ、いつも数疋側に置いて愛された。
それ故か、「かの家には訳ある怪があって、夜分は犬でなければその妖を避けることが出来ない。だから犬はいなければならない」と世に謂われた。
「成るほどそうだろう」と思うのは、わしが子どもの頃久昌夫人(静山公の御祖母君)について函根(はこね)の温泉に浴されたとき、相の小田原に在って、かの侯の西下に遭った。
それなのに地犬三四疋を各々大きな板箱に入れて、担いで連れていった。
人は「侯の宿所には、毎夜犬が交番して夜を守る。これはかの怪の故というが」と云った。

 因ってわしの所の輩も前の事は事実だと云って余人に語っているので、この頃当侯に出入りする者に聞くと、当侯は「世間では、わが家で犬を置くのは家に祟怪があるとからと謂われているが、これは先君が犬を愛して集められた事に尾ひれの様に付いた話だ。
どうして家に伝妖があろうか。
因ってわしに於いてはこの事実を捻じ曲げて伝わった話を払うために、一切犬を飼わない」と云われた。

 ほんとうにと思われるのは、坐側庭裡は勿論、邸の中でさえ、地犬の徘徊を見ないこと。
これに拠れば、世に謂う、「かの家には必ず犬を飼う」と云う説は非ずである。

 〇 因みに云う。
我が家にも、以前は平戸の城中に山猿が来ることは、家の凶事として、城下の諸寺に命じて、「悪を去る」の祓いを為した。
それよりは『祝なおす』と云う俗習に従って、群臣に宴を賜った。
その頃は、偶々策が来れば必ず凶事があった。
これよりわしの代となって、家譜を修撰するに当たって、この凶事の起こる所を質(ただ)すと、先世に於けるものは見られなくなった。
因みに無根のこととして、猿の祝いもやめたが、それより猿が来ることがあっても、俗言を搆わぬで一向に頓着しないでおいた。
それから凶があることはなし。
先後、事違いこそあれ、有馬侯の犬と同じ。

 〇 また一事は、
坊主衆可順が、「某の宅には、油虫が出ると、必ず吉事あって、みなそれが出ると、吉事を喜んで待っていた。
それなのにこの頃は度々転宅する故か、油虫が出る事は以前より多くなったが、吉事は絶えてなし」と咲(わら)って云った。

続篇 巻之50 〔9〕 大和室生寺

 八月十五日の殿中沙汰書に、住職の御礼和州宝生寺と見えたので、わしは思った。

「四座の宝生大夫は和州の産まれ、若しくはその祖の開基の寺かなど人に聞いた」。

だからそれを知る人もなかったが、専筑〔もと僧で摂門と号する〕に逢ったときに訊ねると「これは書き誤りで、室生(ムロオ)寺です。
沙汰書は書き損じのものが多いですね。
この室生寺も、弘法大師開基の場であり、大きな寺です。
高野と相類しています。されど今は新義真言です」と答えた。

大師の歌と云って伝わるのは

    我身をば高野の山に留(トド)むれど
         心は室に有明の月

 室生寺は、初瀬より東へ一り半に、灰原と云う宿がある。

それよりおよそ三里東北、田丸越より入って、阿保越へ出て、通りぬけて〔これも嘗て専筑行脚のときの語〕、そうであるから知らぬことは人にでも訊くこと。

 『大和志』に、室生寺は宇陀郡に在す。

曰く。
室生山、旧竜穴神宮寺を為す。僧空海建てる。

今仏堂五宇、五層の浮図、十三級の石塔有り。
小祠五前、僧院三宇、高岳の後ろに聳(そび)え、清流前に漲(みな)ぎるり、秀麗奇絶、風致闃寂(げきせき、ひっそりと静まり、さびしいさま)。

三篇 巻之64 〔5〕 台廟の御鎧の痕のはなし

 前に、増上寺暴涼(ムシボシ)のとき、台廟(秀忠公の廟)の御具足を出された。
その御鎧に銃丸の痕が所々あることを云う。
わしは台廟が御戦場で、このように銃を蒙り給うことは無いと疑う。

それなのに後、軍講者宗耕に会った。
因ってこのことを話した。

耕曰く。
「不審に思われることは尤もでございます。
それは関原御合戦のとき、小山御陣で、台廟は御物見として通り給われ、真田が山上より銃を連ね撃ったときのことで、この時御側の衆には、討ち死にの人両三輩もあったそうです」。

わしは聞いていて、嘆息し恐れ入った。

これ等天山が伝えた所の、道器一致の旨に協う。

三篇 巻之46 〔1〕 勅使姉小路殿帰途の行列の状

 この秋(丁酉、天保8年、1837年)、上様の御昇進に就き、勅使下向する。このとき大宮使として、姉小路中納言〔公遂〕も参向あった。
この卿はその少年の頃より蔓縁あって遂に聟としたが、わしも尋で(次いで)隠退して武都に在ったので、数年の間、まだ相見ることもなかったが、はからず東下したので、官請して、滞留の中わしの荘を訪ねて来て積年の歓びを為したりした。

 忽ち一別の期となって、手を分かって還っていった。


その時左右の者に命じて、帰途の状を見せた。
それなのに行装の盛んなさま、意外である。
それで門前の賑いや市估(商い)喜びを観てわしもまた悦びにつつまれた(行列の図、以下写真参照のこと)。

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続篇 巻之73 〔12〕 古狸の礫投げのはなし

 過ぎし文政六七年(1823、1824年)の頃か、六月三日の暮れ六半(午後7時)頃であろうか。浅草寺の東、馬道と云う街の東に真珠庵と称する寺僧の隠宅があった。
この宅地の中貸長舎(カシナガヤ)があるが、その屋根を小石を投げてよこす多く、その石は貸舎(カシヤ)の向う、街の西側の鰻屋の看板燈籠(アンドウ)を打ち破った、はじめは店主も気づかないので、何者かと詈(ののし)っていたが、繁く石が投げられてくるので、人を傷つけるからと戸を閉めたりした。

 これが連夜続くようになった。
あるいは晩景(夕方)に、または初更(午後7~9時)に起こったが、その数は三四五回に過ぎなかった。
石の多くは水に濡れ、或いは半ば濡れていた。
因って後は市尹(市の長)より、町吏を使って、見物の群集を禁止した。
それでわしも怪しく思って、秘かに人を遣わして見せると、その人は暮れ時より初夜(そや、午後8時、宵の口)の頃までは窺っているが、その夜は石が投げられることはなくて還ってきた。

ただ町吏が守っている挑燈が五六張りもあって、これ等を見ると、家主庄七と云う者に投石を見せてくれるよう請うと、尹から令があって人に示すことを禁じると云う。
が、強いて乞うと、秘かにその二つをくれた(写真参照のこと)。

後に聞くと、かの真珠庵の中にて古狸を生け捕ったが、それよりこの投礫は止んだという。
わしも先にこの庵には故あって往って見たが、市坊(まち)には似つかわしくない園地があって、山水をつくり樹木を植え、巨石どもを重ねて置いていた。
すると狸も、この園の巌間に住むものかや。

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巻之14 〔18〕 佐渡奉行と金山をはなす

 高橋越前守ははじめ三平と云った。
勘定局の小吏より松前奉行に属して段々と出世して、納戸頭で布衣(ほい、江戸時代武士の大紋に次ぐ4番目の礼服)となった。
それから佐渡奉行に歴任し、このたびまた長崎奉行になってその地に赴いた。
もともと知っている人なので、わしの領分から近く、この頃招いて話をした。
その折佐州(佐渡)金堀のことを訊いた。
種々の奇事異聞もあった。
今金壙(きんこう)と海水を対比させると、数丈(1丈は約3㍍)掘り下げることは違いなきことだった。

 但し奉行より組頭など迄も穴の中に入ることは無いと。
広間役より入ると云う。
中々奉行など入るべき処ではないと話した。
また金堀の人夫の千辛万苦は聞いても甚だ憐れに思う。
とすると世の翫器(がんき、玩ぶ道具等)など、金銀で造ることは天地の咎めもあるだろう。
諺に云う『知らぬが仏』で、知らぬうちはともあれ、知らなくてもいいことではないか。

 また金堀はみな佐州の地元民で罪人ではない。
罪人は水替えと云うものに使っているという。
また越州が言うには、慶長(1596~1615年)以来の御定法に金堀は大道間切(ダイドウカンギリ、間切は探鉱坑道のこと)と云ってこれを守るように。

 その後一たびこれを廃したが、享保(1716~1736年)中よりまた再興されて今に迄(いた)る。
これは金の蔓を掘り当てるには何処と云い当てることもなく掘るので、中(あた)ることも中らずのこともある。
だからといってその目当ての道は捨てず、やはり日々の御入目を件の見込んだ道に用いて、金は有っても無くてもそれが出る処迄堀りつくすことであると云う。

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