この三四年前、永昌寺の住持が言った。
神祖(家康公)の御影を御在世のとき正しく書写した者があった。
故あって、近頃某の処に持って来ると。
因ってわしは秘かにこれを排覧して模写した。
記した文を添える。
『筑前の国福岡の城下、照福山円応寺に蔵奉る、東照大権現の尊影御由緒は往昔(むかし)秀吉公朝鮮攻めの頃、神君も西国え御発向、筑前の国黒埼駅に御宿在ら被し候とき御仰せには、本国出馬せし以来、久敷く十念(浄土教において南無阿弥陀仏を十回称える作法のこと)の受持を遠ざかりぬ。
此辺りに浄土鎮西派の僧有らば十念を受んとの御言なりければ、同国遠賀の郡穴生村弘善寺の住持信誉存道〔増上の中興観智国師の弟子である〕、名誉の聞こえ有るゆゑ、宿駅の人その由を存道和尚に告ぐ。
和尚速やかに飛錫(ひしゃく、僧が諸国を遍歴修業すること)しに、はや御宿所御出馬の後ゆゑ、御跡をしたひ茶屋ヶ原と云う所にて追つき奉り、近扈(こ、けらいの意)の輩に憑(より)てこのよしを言ふ。
神祖聞き召て、馬上ながら,十念御受有るべき旨仰あり。存道申し奉るには、仏法にも規則あり。
法水は順流のものなれば、御下馬候で御受け有度と云う。
左右このよし申上かね猶予の体を御覧ありて、和尚如何にと仰なり。
存道乃ちその由を申す。
上意に、至極尤もなり。
さりながら旅中殊に出陣のとき、武門にも亦た法有りとの仰にて、道の傍なる岩の上に存道を立せられ、神祖は御馬上にして十念御授りなされ、御満足の御気色ありて、当坐の布施なり迚(とて)、めされたる御短刀を賜はる。
是よりしてこの岩を呼んで十念石と云う。
今又この岩を大日尊と云て、村民立願のことあれば霊験多しとなり。
存道はその後福岡円応寺に転住して、かの茶屋ヶ原にて十念を授け奉りしことども思出し、その時の尊状を画者を招て図写せしめ、賜う所の短刀と共に襲蔵し置ぬ(本文ママ)』。
画図を観ると、神祖が御馬上に在られ、御具足、羽織は紫色、葵の総御紋である。
御後には厭離穢土(おんりえど)の四半昇(のぼり)、金扇の御馬標(うまじるし)、白の昇御旗、並びに白吹貫、虎尾の御槍あって、徒従の人々はみな団扇の指物である。
また一人は歯朶(しだ)の御兜を持っている。
御向に存道和尚あって、御刀拝領の体である。
下に筑陽鳳井写の五字があった。
また二印があった。
一は門麻呂、一は鳳井の文である。
添え書きの文に拠れば、存道の円応に住してこの図を作る、何れの年とする。
その画様を考えると、全く近世のもので、京師応挙の風である。
鳳井と号する者、時世まだ詳しく知れていない〔この原図の摸作は楽歳堂蔵書の中に収めている〕。