巻之30 〔19〕 人生の幸とは

 わしが少年の時より見聞に自記が存在している。
その冊中に奇草異木の状態を挙げているが紀州に紅花の水仙があると松平熊蔵が語ったと載せている。
たまたまその旧冊を翻して今再び人に問えば、『怡顔斎蘭品』に見えるとの答えであった。

 だから思えば、当初互いに青年であったが、殆ど四十余年を経て両老翁となった。
歳月が流れる様に、嘆いてしまう。
その間に故旧親戚の凋謝(ちょうしゃ、人が死ぬこと)すること枚挙に遑(いとま)あらず。

 この様に四十年前のことを今になって受け答えするは、人生の幸とでも云える。
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巻之30  〔20〕 姫路城に出たヲサカベ

 世に云う。
 姫路の城中にヲサカベと云う妖魅(ようみ、妖怪)があった。
城中に永年住んでいると云う。
またこうも云う。
天守櫓の上層に居て、常に人が出入りすることを嫌う。
年に一度、その城主だけがこの者に対面すると。他の者は怯(おそ)れて登らず。

城主が体面する時、妖魅の表すその形は老婆だと云う。
わしはかつて、雅楽頭忠以朝臣にこの事を問うた。

「成るほど世にはそのような者の話はあるけれども、天守の上別に替ることはありませんね。
よく上る者もいますよ。
そうではありますが、器物を置くには不便であるので、何もそこには置かないですよね。
ほとんどの人は行かない、行く人は稀ですよ。
上層には昔より日の丸の付いた胴丸(日本の鎧の形式の一つ)が壱つあります。
これのみしかありませんよ」と語られた。

その後己酉の東覲が姫路に一宿した時、宿主にまたこのことを問わせると、
「城中には左様なこともございますね。
ここではヲサカベとは言わず、ハツテンドウと申します。
天守櫓の脇にこの祠がありますが、社僧が居てその神につかえておりますよ。
城主も尊仰せでございます」とのこと

〔寛政『東行筆記』是予嘗録所下此傚〕。

続篇 巻之56 〔15〕 いつもと違う天保二年の初春

天保二年(西暦1831年、初春頃は1830年)の春のことと林子が文で云ってきた。
世の中の様はさても移り変わっていくもの。
この春も例の様に、年礼として朝回より所々の権家へ往くと、例年と替わっていて混雑が甚だ少ない。
大身(刃が長くて大きい事)の面々は供廻りもいかつい感じが少しも無く、互いに路を譲っていて真に穏やかなことになっている。

尤も近年供廻りの事については、しばしば令される旨もあるが、それも元より無きことでもない。
いかほど令が下っても、紛擾(ふんじょう、ごたごた)する事し、人々は威張り、怒(イカ)めしくがさつなのが常だが、この春ほど静謐なのは無い。
これ好事(よきこと)のようだが、何となく人気(ひとけ)が衰えたように思われる。

また家々の松飾りも、いつもなら旧の様に大造に造っていたが、多くのものは減少して、見所も無い飾りが多くなっている。
これ等は言い合いする事でもないので、何かなるようになった結果であろうか。総じて道路の往来も寡(すく)なく、込み合うような勢いも見られない。
かといって、拝年を止める人もない。
こう何かが変わっていこうとしているようだ。

また市井を行くと、初春はさまざまの売り物を手にしてあるくのを見ることもなく、店先に扇子箱をはじめ、年札の贈り物を積み重ねたものも見ない。
いつも男児は風巾(いかのぼり)、女児は毬(いが)羽板を持って、往来の妨げになるばかりであったが、釈然としてその様子もない。
鳥追い、太神楽なども、あるかないかと思う程で、年頭の往還らしくない。
いつもの道路とそう変わらない風情である。

また昆比羅、薬師の縁日へ往く人の咄を聞くと、盆花その他これまで夥(おびただ)しい売り物も、この春は稀少で、往来の人も込み合っていない。
ひそひそとしている。

こう何となく総体に見ていると衰えている感じがして、不思議千万である。
況や昨冬より連晴美日多いし、雨雪もなく風もなく、尚更人も多く出てもよさそうなのに、如何したことか。
この世の中、より人気のない方に向かうのだろうか。
我も六十余年を経る中に、このような初春を視たことも聴いたことも、更になしと云々。

巻之49  〔29〕 神祖、御馬上で十念を受けられた神影

 この三四年前、永昌寺の住持が言った。
 神祖(家康公)の御影を御在世のとき正しく書写した者があった。
故あって、近頃某の処に持って来ると。
因ってわしは秘かにこれを排覧して模写した。
記した文を添える。

 『筑前の国福岡の城下、照福山円応寺に蔵奉る、東照大権現の尊影御由緒は往昔(むかし)秀吉公朝鮮攻めの頃、神君も西国え御発向、筑前の国黒埼駅に御宿在ら被し候とき御仰せには、本国出馬せし以来、久敷く十念(浄土教において南無阿弥陀仏を十回称える作法のこと)の受持を遠ざかりぬ。
此辺りに浄土鎮西派の僧有らば十念を受んとの御言なりければ、同国遠賀の郡穴生村弘善寺の住持信誉存道〔増上の中興観智国師の弟子である〕、名誉の聞こえ有るゆゑ、宿駅の人その由を存道和尚に告ぐ。
和尚速やかに飛錫(ひしゃく、僧が諸国を遍歴修業すること)しに、はや御宿所御出馬の後ゆゑ、御跡をしたひ茶屋ヶ原と云う所にて追つき奉り、近扈(こ、けらいの意)の輩に憑(より)てこのよしを言ふ。
神祖聞き召て、馬上ながら,十念御受有るべき旨仰あり。存道申し奉るには、仏法にも規則あり。
法水は順流のものなれば、御下馬候で御受け有度と云う。
左右このよし申上かね猶予の体を御覧ありて、和尚如何にと仰なり。
存道乃ちその由を申す。
上意に、至極尤もなり。
さりながら旅中殊に出陣のとき、武門にも亦た法有りとの仰にて、道の傍なる岩の上に存道を立せられ、神祖は御馬上にして十念御授りなされ、御満足の御気色ありて、当坐の布施なり迚(とて)、めされたる御短刀を賜はる。
是よりしてこの岩を呼んで十念石と云う。
今又この岩を大日尊と云て、村民立願のことあれば霊験多しとなり。
存道はその後福岡円応寺に転住して、かの茶屋ヶ原にて十念を授け奉りしことども思出し、その時の尊状を画者を招て図写せしめ、賜う所の短刀と共に襲蔵し置ぬ(本文ママ)』。

 画図を観ると、神祖が御馬上に在られ、御具足、羽織は紫色、葵の総御紋である。
御後には厭離穢土(おんりえど)の四半昇(のぼり)、金扇の御馬標(うまじるし)、白の昇御旗、並びに白吹貫、虎尾の御槍あって、徒従の人々はみな団扇の指物である。

 また一人は歯朶(しだ)の御兜を持っている。
御向に存道和尚あって、御刀拝領の体である。
下に筑陽鳳井写の五字があった。
また二印があった。
一は門麻呂、一は鳳井の文である。
添え書きの文に拠れば、存道の円応に住してこの図を作る、何れの年とする。
その画様を考えると、全く近世のもので、京師応挙の風である。
鳳井と号する者、時世まだ詳しく知れていない〔この原図の摸作は楽歳堂蔵書の中に収めている〕。

巻之49 〔30〕 大洲侯よりの贈り物とうた

 林が話す。
 大洲侯より贈り物があったときのこと。
庭池の紅の荷花(はすのはな)に蒲に百道があるのを折り添え、筒に插して来た。
縞のある蒲は殊に珍しいと思った。
佗日(たじつ、他日)、分根を所望すると、速やかに分けて下さった。
また泥菖(でいしょう、蒲のような葉)の緑葉間白なのをまた大洲より取り寄せて植えおかれた。
これをもまた盆植えして送り越された。

その時の文の端に、

  今日よりは君に引かれてあやめ草いく万代の色やそふらん

とあった。

時にとって感浅からざり木。

巻之13 〔14〕 鍛冶真了の人となり

 わしの国の鍛冶に土肥真了と云う者がいる。
そのはじめは井上真改の弟子で代々その名を継いでいる。

世の人もこの鍛工のことを知る者は多い。
真了は代々奇人で、近代の真了も奇行をする。

子が無いので養子をとったが、後に気に入らず離縁することにした。
そして親類と話し合い、養子を呼び出して皆で会って、離別の準備をはじめた。

真了はそこで養子に「父子の対面は今日までとする。因って飯を喰わそう。沢山食べるがよい」と自身で盛って与えた。

養子は「かしこましりました」といって真了に与えるままに何椀も食した。
汁やその余も言う程にして辞した。

それを見た真了は「いやいや、気が変わった。その方とは離縁しない。今日よりまた養う」と云って、そこにいた親類にそう伝え、皆を還した。

またこの者は年来勤める役馬廻りと云う格を申し付けた。

その日例によって家老の宅に回勤するとき、長村内蔵助の所で免謁(めんかつ、貴人に会うこと)して「今日の事忝(かたじけな)く存じます。さながら鍛冶に不用の立身でございます」と云って去ったと。

その人となりはこの如く。

人は笑い且つ誉めた。

巻之13 〔15〕 林子、世の変化に思う事

 林氏が云う。

 人事の世に従って変わっていくのは勿論である。
疾病もその時世によることはその一つである。

年若きものの陽症は発狂の如く、陰症は健忘労瘵の如く、一種の疾あるのを押しなべて癇症とすることは近世の事である。
また中年以上の人の類の中の如く名状し難い疾を得るのを、俗称してよいよい病と云う、これまた近世の事である。
貴賤男女この病に罹るもの今は夥(おびただ)しい。

一時の流行の如くだが、自然と世風につれて疾も時々で変わっていくものと見える。

疱瘡なども以前は流行の時は総じて受けるけれども、いつもは絶えて無きことだが、近世は流行もそうはげしくなく、だが年々ちらほらとではあるが、絶えずある。

温疫(熱病、中風、傷寒、湿温、温病の五つの傷寒と総称する)なども、一般流行の勢いは無く、これも年々あちこちに少しずつ絶えずある。

しかしこれ等は時世に従うも理である。
不思議なのは夕立の模様の変化である。

以前は雨も雷も激しく、一霎(いちしょう、小雨、霧雨のこと)過ぎれば忽ち晴れて後は涼しくなったものであった。
が、近世は雷も雨もこの有り様で激しくも無く、悠々と刻限を移して、後もむしむしと暑くなるのが常となっている。
時世に従い天気まで違うも奇々妙々のことになっている。

至治(しち、天下が極めてよく治まること)の極みで人心和悦する時は甘露の降ること疑うべからず。
天人一里の所よくよく味わうべきである。

これ思うに林子の思う所あって云っているのだろう。
諷(ふう、風刺)のみ。

三篇 巻之74 〔25〕 神祖(家康公)御法の勝利散のはなし

 わしの荘に遠からずに軽い御旗本人が在る。
何か年有って、勝利散と云うのを緒人に施している。
この薬は神祖(家康公)の御法として、故有ってかの家に伝わると。
この御薬を懐にする者は、怪我する事嘗て無しと。

わしが知る人が語る。
某の内の者が庫(クラ)を造る足場の高い処から滑り落ちたが、御薬を懐にしていた故か、少しの怪我もしなかったと。
正しいことだろう。

近年も同じ様な事が有って施すときには、元より施工なければ、代銭の沙汰はないが、受ける者の捧げものに、少々の納銭に二千金を積んだと聞く。
わしは還って失念したが、某の幼年の時に有ったなどと云っている。

またこれに就いて、笑うべく、かつ天理が存在することを知った。
ある所で、六七輩が無尽蔵講を組んで、他はみな利運のため、各々御薬を懐中していた。
一人だけしていなかった。
そうしてかの講策(コウクジ)を探(ト)るとき、御薬の懐中なき者に当たった。
他のみなは愕然としていた。
因って砌に御薬の験なきを怨み、或いは懐中なき者は如何なる神の祐かなどと云っていたと聞いた。

が根拠のないことだった。
畢竟、諸人一同御薬を持てば、功験はすべてにわたることであり、偏ることなどない。
因ってその一人(当たった者)は、却って御薬を懐中にしなかった故に幸を得たのだった。
すれば、己が利を求めると、天は私心無き者に与(クミ)し給うものか。

続篇 巻之38 〔15〕 関八州の外山囲む

 一日ある人が云うには。 
 古より関東八か国と分けたのは故があるからである。
それ八とは、相州、武州、房州、総州上下、常州、野州上下である。
豆州はこの辺りとする。
右(上)八州の地勢を考えると、豆より常に至り、皆山を界として、その内八国あり。
これは関内八州とする所以である。
関とは山を以て境とする意である。

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巻之30 〔32〕 不二山に登った者のはなしから

 不二山に登る事、世の人が云う所、且つ書き記す事もあれど、わしの園中に来る芸花戸が今年登った話を聞いたので略(あらまし)をしるす。

 山に上がる路はいく処もあれど、一つは甲州吉田と云う所から上がる。
三里程はつま先で上がると云う。
その先十里ばかりは坂でけわしいと云う。

 山頂は大きな穴で、見渡し二三町余ある。
深さは七丈余とも云えるだろう。
晴れたときはその底より見えるが、すり鉢の様である。
その穴の廻りは一里だと云う。

 山はみな世に黒ぼくと云う石の一握りばかりの焼石のみである。

 下山の路も所々ある。
焼石のころころした上を草履を二重に履いて滑って下るので、行く事は甚だ速い。
こごめば倒れんとするので、なるたけそって行く事である。
若し倒れんとするときは後へ仰向けになる。
そうすれば無難である。

 山上より、下方よりのぼる日の出を見る。
世に阿弥陀の来迎と云うのは、日輪が現れようとする前に後光の様なものが三筋ばかりぱっと立ちのぼる。
そこから日輪が見える。

 山に上る路、一合二合とのぼるに従ってに云う。
その五合より上に木は生えていない。
木のある所に発芽が多い。
大木も見える。
草はすきまなく一面に生えている。

 山上には水のある所はない。
ただ頂上に水のある処が一ヶ所ある。
廻り二尺ばかり、深さも二尺ばかりと見える。
澄み切った水である。
登る者は祈祷の為と、樽桶にくみ入れている者もいる。
幾人くんでも水が尽きる事はない。

 八合より上は六月暑気の時にも、布子(木綿の綿入れ)を着て上る。
日の出を拝するときは袖より出した手がこごえる。

 登山の道は甲州小仏峠の関所、帰りは箱根の関を通る。
山上する者は笠の印をつくる。
それで関を越えるときは、予めその宿屋より何人とことわれば、関では笠印を見て切手なしで通ることが出来る。

 頂上より下方も見えるが、何方も原の様にしている。
江嶋は豆の様に見える。

 須走と云う下り口は、七里程はごりごりとしていてすべって下る。
相州の関本と云う所に出る。

 大宮口と云う所は原吉原〔東海道駅路〕に下る。
上がるもここからである。
この他に聞いた事余多あるが、記す暇がない。
因って略した。

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