巻之69  〔4〕 水戸殿、秋の庭見にて出されたる品々

 浜松候〔水野左近将監大坂御城代〕に邂逅したときのこと。
近頃水戸殿の庭見に往き、茶屋にて出された品の噺があった。
茶を設けず、湯に菓肴の取り合わせであったと云う。
浜松候はその雅趣を賞して品目を請うて、尋ねたら贈られたと云う。
林子はこれをわしに教えてくれた。

  湯     同紛
  菓子    四季     外居 襲
  上盛    薄桜     花びし
  下盛    宮城野    しの原
肴 盛坏居十六夜台
  蒲の穂  椎たけ裏白  山葵蓮根
皆具色七種
  惣絵様   萩  外居甲立等  芒花  大坏
  皆敷 生葉   葛  外居花楊枝  撫子  坏
  亀束  女郎花  帖紙  藤袴  粉包
  朝顔

 時は八月の初旬なので、秋草にて思いを寄せられたのだろう。

巻之65 〔1〕 文政大嘗会の記文

今上帝(仁孝天皇)は文化十四年(1817年)の御即位あって、翌年改元、文政と号した。
その十一月に大嘗会があった。
そのとき京師より来たれる記文があって、この頃篋(はこ、竹で作られた箱)の中に得られたのでここに挙げる(以下原文ママ)。

抑(そもそも)大嘗会と申奉るは、かけまくもかしこき代々の皇(すべらぎ)御位しろしめして行はせたまふ御事とかや。
しかはあれど、中ごろ後土御門院(1442~1500年)より二百年余り中絶侍りしに、貞享(じょうきょう、日本の元号の一つ、1684~1668年)のころほひ、東山院(東山天皇、1657~1710年)之御宇に絶たるをつぎ、すたれたるを起しおはしまして、今はた元文みつの霜降月に執(とり)行はせ給う。
いともかしこき御恵や。
いでや秋のなかばのころ、卜定(亀卜により占い物事を定めること)とて、大内にして、ははかの木を焼て亀の甲を炮(あぶ)り、抜穂(大嘗祭の神饌の料とするため悠記主基(ゆきすき)の斎田の穂を抜きとること)の所を定む。
神祗官卜部朝臣、是を勤む。
古哥に

 香久山の葉若がもとにうらとけて
      かたぬく鹿の妻恋なせそ

などよめり。
実や治る時に近江の国志賀郡、丹波の国桑田郡を悠記主基(ゆきすき、大嘗祭における祭儀に関する名称)の国と定て、抜穂の使あり。
夫より荒見川の御祓(おはらい)有。
都の西紙屋川にて行はせたまふ。
又御禊とは、天子、関白御身を清め給ふ事とかや。
さてまた由の奉幣は伊勢、石清水、賀茂下上の御社へ奉幣使有。
さて紫宸殿の御前に皮付の柱にかやふきわたしたる神殿二所宮作ります。
是なむ天津神の宮をば悠記殿と崇め、国津神の宮をば主基殿と申奉るとかや。
内侍所の御前に廻立殿立、天子御湯をめさせ給ふ所也。
宜陽殿、月花門の腋に柏屋をかまへ、是は神供の膳家也。
卜部、忌部の官人は幣帛を捧て祝詞申、兵庫寮は御戟(ほこ)を立、主水司(もひとりのつかさ)は水を設け、主殿助(とのものすけ)は斎火を挑げ、内膳の官人は神膳を調(ととのへ)、その外さまざまにつかふまつる。
御神事は中の卯の日也。天子出御ならせたまへば、前行大臣、中臣、忌部の官人、御巫猿女御先にすすみ、近衛農次将は剣璽(けんじ、天子の象徴としての剣と印象)をささげ、車持の朝臣は官蓋(かんかい、スゲで作って長柄につけ、背後からさしかけるかさ。
大嘗祭のとき、悠紀殿、・主基殿へ行幸する天皇の頭上にさしかけるもの)をかざし、宮内輔は葉薦をもて、筵道をしき奉る。
次に関白供奉せさせ給ふ。
小忌の公卿は、冠に心葉をさし、日影のかつらをかけ、庭上に参向し、月卿雲客列をただし、天子渡御有、悠記主基の殿へ入らせ給ひて、天子自神饌を献奉られしとかや。
亥の時始(午後21時)より寅のとき(午前4時前後)終迄に御神事はじめ給ふとぞ。
さてその後悠記主基の節会、寿詞奏、清暑堂の御神楽、豊の明の節会、南面の高御座をまふけ、いろいろの御遊有。
群臣に御酒をたまふ。
田舞、風俗、吉志舞を奏し、楽人は楽器を調、伶人(れいじん、楽人)は袖を返しまふとかや。
寔(まこと)に上なき御神事也。
むべ成かな、御裳濯川(みもすそがわ、伊勢神宮の内宮神域内を流れる五十鈴川の異称)の流たえず、正木のかつら永き代かけて、めでたき御こと也。

三篇 巻之2 〔10〕 江戸の俄かに起こった火事に接した阿蘭陀人の様子

 今年(甲午、天保5年、1834年か)は例の五年目なので、阿蘭陀人が参府した。
上巳(じょうし、旧暦三月の最初の巳の日)前には到着するらしい。
わしは思った。
「近日の大火定めて旅宿の長崎屋も焼失したのだろうか?」。
ある人が「この度は浅草寺中に寓(対応する、対偶する等の意)するらしいですね」と云った。
それでわしは「先年渠(かれ、彼と同じ意)の旅宿が類焼したとき浅草寺中に寓していたな」と憶った。
わしもその時ひそかに往って阿蘭陀人に会った。
甲比丹は「テッチンギ」とか云うらしい。

 またわしが「洋人に焼野原の見苦しさを見せるより、被災前に来たならば猛火の烈勢を見せるのに」と云えば、側に長崎人忠行がいてこう云った。
「先年蘭人がこの都市に旅寓する中、俄かに出火して騒がしいとき、蘭客は大混乱して合戦が始まるのかと甚だ愕き、恐怖ただならぬと云った様子でありました。
かの国は石造ありまして、たとえ火事があっても屋内のみ焼けて類焼の憂いはありません。
都下の延焼の広大なるを見ては非常に驚くのでしょう」と言った。

 それで思ったのは、「洋人は色んなことをよく知っているので兼ねてよくわかる事に関しては落ち着いているが、知らぬことに至ってはこのようなものなのか」と歎息しつつそう思ったのだった。

三篇 巻之5 〔15〕 うらみから老中に落書きした件 

 六月十九日(甲午、天保5年、1834年か)のことになる。
飯倉に囃子を見ようと出かけた。
早朝に河に従って下り左傍に、宮津候〔閣老〕の修営された別荘の新門長舎までも美々しく観える中、槻(ケヤキ)で素木(シラキ)で出来た門の左柱と扉の左右に、最大の字で『火付大名』と書き付けてあった。

 定めし路行く者が書いたのだろうが、権貴(けんき、権力を持ち貴い身分のこと)の方へ如何に憚るべきことなるを!!
このような故は先達の火災後、はじめよりかの別荘は修造され綺麗になっていたが、一方で物価が上がり商いが滞ってしまい、商人の侠の輩が、侯に恨みごととして書いたのだろう。

 これ等も臣下の周施に依って、君の恥をさらすのか(扉の左右、火付大名の字、後日に門の前を通ると能く見ると、消されていた。がまた陰画がありありとわかるほどに画かれていたが、仮名字で、「火付らうしう」と六文字だった。
下文字四字は老中のことで、ますます老中当人を揶揄していた)。

巻之5 〔17〕 松平防州の持する鎗のはなし

 松平防州〔康任。石州浜田城主〕に会した次手に、わしは「その家の持鎗青貝柄の方は、世に神祖御手の形など云うそうだが、そんなものか」と問うた。
答えは否だった。
「その刃はこの絵の如くで、嘗て賜ったものである」とのこと。

 国本に秘かに蔵にしまっている。
柄は二間半だと云う。
当時持するものはその写しで、柄は二間だと云う。

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巻之5 〔21〕 また林氏の云ったことと河村寿菴の云ったこと

 後日ふと前条の事を林公鑑に語ったら、公鑑は「従来六玉川と配称することは、後世拙ない俗の所為であって、取るに足らないこと。
高野大師の歌は仮托なので、その時世の語言風格ではない」ときっぱり云った。

 またこれについておかしな噺があって、公鑑の云うことには、「河村寿菴〔南部の産まれ〕と云う町医者は風雅人で、その人は名山を好んで諸国を登って廻っていた。
一年高野山に登ったとき、道案内の者が毒水玉川を指でさし示し、側へ寄ったら毒に触れますぞ。
近づかないで避けて行きましょうや」などとおどろおどろしく怖がらせようと云ったのだ。

 だが寿菴は、聞かないようにして水岸に立って、やがて人がいないからと水中へ入ると、道案内人はあきれ果てて一言も話さなかったと云う。

続篇 巻之50 〔3〕 四辻公説卿、風韵高き人と為り

 林子曰く。
 四辻大納言公説卿は、堂上衆の中にて分けても風韵高き人である。わしは常に楽道の事にて往復するついでに、他の余多(あまた)の事に(話題は)わたるが、何時もその文体は貴人の身柄相応なること耳(のみ)なるのは、毎度感じ入る。
 この秋、かの家頼(家来)に用向きを持たせ、東へ下った。
その者は我が邸の小舎(ナガヤ)に少しの間客としてもてなし、用事が終わって帰ろうとするに託して、消息を卿におくった。
その返答がこの頃到ったが、この度の大地震のあと未だ治っていない(復旧していない)。
日々三四度も震する由聞こえてくるが、その書中に一言もこの震災のことにふれていない。

 わしが問うた弾箏(ダンチャン、ベトナムの弦楽器)の答えのみ詳しく応えてくれている。
請うた譜面も写して越し、かつ家頼がわしの元にいた時の謝辞、この外懇切な文にて、わしが集めた楽器の数々を家頼が見て話した上で、我が執心浅からぬと殊に悦ばれた。
何にしてもその器どもを見たいが、「それは叶わぬことである」などと、歎き云われる長文であったが、一言も地震のことに及ばぬは、誠にこの上もなく感じ入った。

 そして思う。
『徒然草』に、雪の面白く降った朝、人云うベきことが有って文を遣ると、雪のことを何とも云わぬ返事に、「この雪如何見る」と、一筆も触れぬ程であった。

 人の仰ること聞き入れるべきは、返す返すも口惜しいおん心と云うことこそ、可笑しいと戴く類であり、これは雪を云わぬにて見落としている。

 公説卿は地震を云わぬで、感仰するのだ。
文通は仮初の様であるけれども、人品心術の高下、ここに顕るものなのだ。

巻之69 〔5〕 小便所の結構

 ある人が語った。

 某の別荘に茶亭を造り、結構を尽くした。
それで小便所の受筒を黒漆にして、内を金でほどこしている。

 ある客を招いたときのこと。
その客が立ちあがり便所に行った。

 立ち止まって付き添いの主の家の家頼に、「別に便所にあるだろう。案内しておくれ」と云って、何知らぬ体にて別所へ往き、用たして復(また)坐したと云う。

 主家は頗る恥じ入ったとのこと。

続篇 巻之70 〔6〕 申楽の家より、御旗本や大名になるはなし

 申楽の中には御旗本に召し出された者が多くいる。
小鼓観世新九郎家より佐藤大吉郎が召し出された。
今百五十石の御小姓組である。
この外にも佐藤亀之助と云うものがある。
これも新九郎より出た。
だが今は新九郎、大吉郎ともに不通も同然とのこと。

大吉郎の方は今に新九郎を本家と称して、かの家に新九郎が往っても本家あしらいであるという。
また先年は観世権八郎、服部佐平治も召し出されたが、これは何ごとか、今は家が絶えたという。

また川勝氏両家が御旗本にあるのは、今春大夫より出て同姓であると。
因って今春の後絶えれば、両家の中より嗣ぐことになる。

今春、川勝のことは、既に続巻之六十一に見える。
また間部、中条は喜多より出る。

その外申楽より出身した者はくわえて多し。

三篇 巻之74 〔6〕 南畝(大田、蜀山人(1749~1823年))の狂歌

 南畝は一家の狂歌仙である。
あるとき友輩と北里〔吉原町〕に遊んだ。
帰路長堤を過ぎると、傍の店に指懸(サシカケ)という標示があった。
南畝の輩はここで休もうとしたが、人が多くいて床几(コシカケ)がなかった。

 店主はすぐにこの輩の為に別にこれを設けた。
几は古くて危なっかしい。
輩がこれに腰掛ければ、忽ち壊れた。
友輩は南畝にこれを指して「一首!」と需(もと)めた。
南畝即ち吟ず。

  店の名  店
  さしかけの見せの       床几(しょうぎ)のよはければ
  将棋の為半(サシカケ)にとる 将棋       弱
         ひしやとつぶれてかくは成けり
         飛車      角行

また堀内〔日蓮上人の堂の在る処〕にて狂歌の会があるとき、南畝は遅れて往った。
連人は久しく待った。
遠路だったので、南畝は着いて草鞋を脱ごうとした。
一人が、「先生、来るのが遅いですよ。そうならば狂吟も未だ成りませんでしょう」と云えば、

       歌の難題
  どのよふな難題目をだされても
       蓮宗の題目
         歌の妙
 そこが妙法蓮華歌狂師
   蓮宗の妙法 経

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