今上帝(仁孝天皇)は文化十四年(1817年)の御即位あって、翌年改元、文政と号した。
その十一月に大嘗会があった。
そのとき京師より来たれる記文があって、この頃篋(はこ、竹で作られた箱)の中に得られたのでここに挙げる(以下原文ママ)。
抑(そもそも)大嘗会と申奉るは、かけまくもかしこき代々の皇(すべらぎ)御位しろしめして行はせたまふ御事とかや。
しかはあれど、中ごろ後土御門院(1442~1500年)より二百年余り中絶侍りしに、貞享(じょうきょう、日本の元号の一つ、1684~1668年)のころほひ、東山院(東山天皇、1657~1710年)之御宇に絶たるをつぎ、すたれたるを起しおはしまして、今はた元文みつの霜降月に執(とり)行はせ給う。
いともかしこき御恵や。
いでや秋のなかばのころ、卜定(亀卜により占い物事を定めること)とて、大内にして、ははかの木を焼て亀の甲を炮(あぶ)り、抜穂(大嘗祭の神饌の料とするため悠記主基(ゆきすき)の斎田の穂を抜きとること)の所を定む。
神祗官卜部朝臣、是を勤む。
古哥に
香久山の葉若がもとにうらとけて
かたぬく鹿の妻恋なせそ
などよめり。
実や治る時に近江の国志賀郡、丹波の国桑田郡を悠記主基(ゆきすき、大嘗祭における祭儀に関する名称)の国と定て、抜穂の使あり。
夫より荒見川の御祓(おはらい)有。
都の西紙屋川にて行はせたまふ。
又御禊とは、天子、関白御身を清め給ふ事とかや。
さてまた由の奉幣は伊勢、石清水、賀茂下上の御社へ奉幣使有。
さて紫宸殿の御前に皮付の柱にかやふきわたしたる神殿二所宮作ります。
是なむ天津神の宮をば悠記殿と崇め、国津神の宮をば主基殿と申奉るとかや。
内侍所の御前に廻立殿立、天子御湯をめさせ給ふ所也。
宜陽殿、月花門の腋に柏屋をかまへ、是は神供の膳家也。
卜部、忌部の官人は幣帛を捧て祝詞申、兵庫寮は御戟(ほこ)を立、主水司(もひとりのつかさ)は水を設け、主殿助(とのものすけ)は斎火を挑げ、内膳の官人は神膳を調(ととのへ)、その外さまざまにつかふまつる。
御神事は中の卯の日也。天子出御ならせたまへば、前行大臣、中臣、忌部の官人、御巫猿女御先にすすみ、近衛農次将は剣璽(けんじ、天子の象徴としての剣と印象)をささげ、車持の朝臣は官蓋(かんかい、スゲで作って長柄につけ、背後からさしかけるかさ。
大嘗祭のとき、悠紀殿、・主基殿へ行幸する天皇の頭上にさしかけるもの)をかざし、宮内輔は葉薦をもて、筵道をしき奉る。
次に関白供奉せさせ給ふ。
小忌の公卿は、冠に心葉をさし、日影のかつらをかけ、庭上に参向し、月卿雲客列をただし、天子渡御有、悠記主基の殿へ入らせ給ひて、天子自神饌を献奉られしとかや。
亥の時始(午後21時)より寅のとき(午前4時前後)終迄に御神事はじめ給ふとぞ。
さてその後悠記主基の節会、寿詞奏、清暑堂の御神楽、豊の明の節会、南面の高御座をまふけ、いろいろの御遊有。
群臣に御酒をたまふ。
田舞、風俗、吉志舞を奏し、楽人は楽器を調、伶人(れいじん、楽人)は袖を返しまふとかや。
寔(まこと)に上なき御神事也。
むべ成かな、御裳濯川(みもすそがわ、伊勢神宮の内宮神域内を流れる五十鈴川の異称)の流たえず、正木のかつら永き代かけて、めでたき御こと也。