巻之6  〔11〕 御留守居依田豊前守のこと

依田豊前守は名高い人である。
町奉行に勤める頃、世人の口碑に伝わる話が多くある。
晩年は御留守居を勤めた。

いつも親戚に「我等はやがて老いてゆくのだから、その時は早く知らせてくれ。親類の好(よし)みであるから」と諄々と言った。
先朝の時、松島と云う大年寄が権威を後房(ここでは大奥)に振い、誰もそれを咎めることはなかった。
その頃、素人狂言をする者等を女乗物(身分の高い女性が乗た駕っ籠)に乗せて大奥に入れて、劇場の真似をさせて楽しんでいた。
老女の断りある女乗物は、御広敷(武家の奥向に仕えた女性)御門も出入りのたやいすものだった。
ある日のこと、松島の続合(つづきあい)の女であると云って、かの狂言する輩を乗せた乗物二十挺が、御広敷の門に入ろうとした。
その日は豊州の当直だったが、番の頭を呼んで、松島の親類書を持って来るようにと云った。
番の頭がその書付を持ち出し、開いて見れば、松島の従弟までの続ある女は三人のみだった。

「女乗物の三挺は通せ。その他は追い返せ」と苦々しく指図したら十七挺の乗物が御門に入れなかった。
その日の催しは空しくなってしまったと云う。

また老職田沼氏の妾、御内證の方〔津田氏、後蓮光院と号さる〕へ御安否をたずねようと出ることがあったとき、田沼氏に阿附(へつらい従うこと)する輩はその取扱いを上に通そうとしなかった。
豊州はこのときも重く受け止め許さなかった。

これ等の事より内外の首尾がよくない方になったので、遂に同僚より内沙汰のより、「老病を以て辞職するように」と云う事になった。

豊州は近親を招いて、「かねがねより我等が老いれば、早く知らせよと頼んでいたではないか。だのに、そうはしなかった。果たして老いさらばえて罪を作ろうとしている。親族の甲斐も無きことよ」と、嘆息して、己を挙げたことを生涯を云わなくなってしまった。
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巻之6  〔12〕 続、御留守居依田豊前守のこと

 この豊州の近親がある日早朝に急用があって、豊州の家に行き謁(えつ、目上の人にあってもらう)を乞うた。
直に「奥に通りなさい」との答えだったので、寝間の次まで来ると、豊州は古い白小袖を着たまま出て来て対面した。

 用談が終わって、その人(近親の者)は「いつも白無垢(高貴な者の寝巻)を着られないのですか」と(豊州に)云った。

豊州は「夜中は火事その他いかなる急忙なる事もあるだろう。白小袖を着れば、いざという時に雑人(ぞうにん、身分の低い者)と区別がつかないからな」と答えた。

その気性の気高さ、かくの如しである。

巻之5  〔19〕 帰化した朱舜水の言葉

朱舜水(1600~1682 明の儒学者 江戸初期に来日)が帰化して年月久しくなった後は、邦語を用いるが、児の言葉の様であったと云う。

ある日ある人が朱舜水と路で逢ったので「何れへ行かれますか?」と問うた。

すると朱舜水は「あす覚兵衛(飯田直景、1562~1632 安土~江戸前期の武将)祝儀、肴かいゆく(買いに行く)」と答えたと。

また禁廷より内々に揮筆(きひつ、筆をふるうこと)を命じられたことがあって、綿を賜わり、「御所様綿くれた」と人に語りよし。

さも有るべきことである。

巻之5  〔18〕 大阪城の張付の大猷院の御筆

 大阪城中御殿の張付は、金地に秋草の絵がなされている。

長押(なげし)の上にも金張付で、ひとところ猷廟(三代将軍家光公)の御筆にて、鶏の墨画が描かれている。

御戯れの筆であろう。

 またあき御殿なので、畳は敷かれていないが、かの御筆の前にだけ一畳敷いてある。

人がそこに至れば、御筆を拝すと云う。

三篇  巻之61  〔4〕 御鷹野のはなし

 放鷹は武門の一事だが、わしは若年のとき試しただけなので、一向の不案内で恥じ入っている。
されども聞いたことは記憶していて捨てがたい。

 この度右大将様の御鷹野があって、それに孫も御供するし、御拳(おこぶし、江戸時代、将軍が冬季に江戸近郊へ出て自ら鷹を拳にとまらせて、鶴などを捕えさせること)も有って、後彼是(かれこれ)の御鷹話をしたのでここに書きしるす。
これはこの度の御場には限らない。

 雁は群の中に御鷹をかくれば、他はみな飛び去るが、一羽御鷹に押えられたら、飛び去ったものは、戻って御鷹を打つ。
因って御鷹は獲物を放すので、(雁が)戻ってくると見ると、御鷹匠は馳せて御鷹を助ける。
こういうわけで雁がまた飛び去れば御獲物になる。
他の禽(きん、とり)はこのようなことはない。

 鷺は賢く、御鷹がすばやく向かっていくと、そのとき首を縮めるので、御鷹は飛び過ぎて捕らえられない。
そうではないものは捕らえられる。

 五位鷺は、昼は眼が明かないのだろうか、飛ぶのが遅く捕まる。
そこでわしは「この禽の嘴は長くて大きな鋒(ほこさき)のようだが、どんな性質だろうか」と云った。
すると「この禽は眼がよく見えないので、凶貌な性質で愚かなものではないでしょうか」と答えた。

 鳬(けり、千鳥科の鳥)は、羽合わせが速くて、御鷹は難しいと。

 また〔己亥、つちのとい、天保10年、1839年〕晩冬の五日、早昧石翁を訪ねていくと、霜朝の苦労云々の挨拶より早速御鷹の話に及んだ。
「この頃の御鷹は何の鳥になるや(捕らえられますか)」と聞けば、
「この頃は鶴の御成だから、御獲物は禁廷(宮廷)へ御進献になります。御場に御獲物なければ、(上様の)御成が幾度にも及びます。御鷹も四居(しきょ、四羽)で、御拳で非ずとも、捕らえることができますよね。が、御拳でないと御進献になりません。因って必ず御拳をなさるのです。その御鷹は黄鷹ですが、四居中二居(二羽の鷹で)で二羽の鶴を得ることもあり、四居で三羽の鶴を得るときもあり、四居でみな捕まえることが出来ないこともございます」と答えた。

 二羽鶴ならば、今上仙洞へ御進献。
三つならば、この余りの一は大御所自身の御披ありと云う。
この御場前、必ず御小納戸頭取御鳥見を従え、御場、禽栖(きんせい、鳥の住み処)の様を窺い観て、言上し、御場を定める。
大抵二場には御獲物がある。
御鷹場は十一処あるが、鳥の寄り着き方なので御成は無い。

 そのために前びろ右の両役の下見分を為して、禽の居着を観て、そこに御成になると。
これ等、かの翁が以前に自歴した話である。

石翁がまた語るには、「聞くにこの御進献の鳥は、上方にても殊に御賞歓あって、一度ならず、御貯して何か供御(オンアガリ)をなされていますよ」とのこと。

巻之17  〔18〕 老狸が紡車に化けた顛末

 領内で猟師が暁前に山野に鹿を打ちに出かけた。
折しも待っている間に向うを見ると、一婦人が紡車を廻している。
木綿を引く体だった。

 猟師はその辺りに人家がないし日の出前なので怪しく思った。
女子の居るような場ではなかったからだ。

 「これは妖だ」と持っている鳥銃でその女を打った。
胸の辺りに中(あた)ったが倒れたりせず、まだ車を廻している。
それでまた二発撃って中るが前の如しであった。
因って猟師は所存(考え)を替え、紡車を狙い撃ちにした。
物音がして倒れた。

 走って確かめるには、大きな老狸で鉛に中って倒れて、その傍らに石を立っていた。
女と見えたのは石で、狸は紡車に幻じて(猟師を)欺いていたのだ。

三篇  巻之20  〔2〕 寺嶋隠居に備前焼を贈り、隠の翁の荘で語る

 世に謂う寺嶋隠居に、かねて約束していた備前焼の巨(おお)獅子が年を経てここに届いた。
また久しく懇意の仲で同所の芸花(植木屋)平作に言いつけて、かの翁の持っていくように託した。
八月十九日に晴雨ともに贈るのがよろしいでしょうと平作が云って来た。

それでその日に八、九人に担わせ遣わした。
途中心もとなく、その警(戒め、備え)には非ずして、別に平作のもとに赴いた。
時は早爽に出ると、空は細雨が降って、長堤河畔の眺望は殊に心胸を洗う例えのまま、眼裡は甚だよろこばしい。

それから平作に到り、日々の間遠を述べて、雨の中閑然と故旧を語っていたら、隠翁より人を遣して曰く。
「少し前(さき)に堤上を行く駕がありました。人を使わして聞くと静山さまでございました。これを幸と存じます。拙荘を訪ねて下さいますよう、お願い申し上げます」。
わしは答えた。「連れと離れた場に往き、更に往きここに到っておるので、互いに行き合うたとはいえ、遠慮したい」と固辞した。
が使いがまたやって来たので、「ならば訪ね申す」と、雨の中隠翁の居へ行った。
到ると主の翁が迎え出た。
また久しくしていたと挨拶を述べた。
先ずその堂に坐し、それから楼上に登った。

晶障をへだてて外を観ると、長堤にて咫尺(しせき、貴人の前近くに出て御目にかかること)、人行が目の辺りにある。
その壮麗美構が言うに比なし。

金器玉翫は坐に満ちて、眺望佳勝を尽くし、草木水石の珍を聚(あつ)めている。
思うにみな寄せ集めの品物だろう。
主翁と楼上に並んで坐して、林泉の設を賞した。
またその話の中にて、「川向うの臨楼辺舎は、所謂仮宅であろうか」と問うた。
翁が答えるには、「そうでございます。されどもこの向う岸は仮宅はそう多くはないですね。山宿(やまのしゅく)聖天町のあたりが最も連なって御座います」。
わしが「某の菩提寺は、下谷広徳禅林の近所だが、ここに参詣のとき、しばしば浅草辺の仮宅の前を過ぎるな」と云えば、
翁が云う。「某あたりは殊に人行が多いけれども、山宿山谷(さんや)の路は人行のが少のうございます。されどもかの賑う浅草辺より、山谷あたりの寥地では還って飄客(花柳界で遊ぶ客)の遊来は昌(さか)んですね」と。
わしも拍掌して聞いた。

これより後の刻を述べて、辞し去った。翁もまた留めず。

雨も少々晴れた色を呈して、辰の刻(午前8時前後)荘に帰った。

三篇  巻之20  〔4〕 八丈島は二をたっとぶ

 ある人が曰く。
 八丈島には二を尚(たっと)ぶ俗がある。
因って何事も、二枚二反二俵など、総じてこの数を用いる。

 また浮田(宇喜田秀家、八丈島に配流された)の孫は今にかの嶋に於いて巨家を為した。
すなわち以前好(よし)みの故か。
前田候(加州、加賀国)毛利候(萩)よりは、白米二百俵宛てを両氏の孫に隔年贈る。

 それなのにかの島は南方の熱い土地ゆえ、白米に暖気がかかりムシがついて迷惑をしていると。
わしは「かの流孫、なんぞ不足を述べて益を請うているのか」と云った。
答えは「否」。

 かの孫の輩は積年の久しく行っている米を贈ることを減らすとか停めることを恐慮しているのだと。
因ってなかなか益を乞うどころではなく、尊敬と阿諛(あゆ、おべっかを使うこと)で両氏を重んじていると。
思えば浮田は両侯によくも旧を忘れず、その仁を保っておらるることを。

巻之5  〔20〕 浴恩老侯の妙解、高野玉川の歌

 六玉川(むたまがわ、歌枕に使用された全国の六ケ所ある玉川)の歌に、高野の玉川は高野大師の歌で、

  忘れても汲(くみ)やしつらん旅人の
           高野の奥の玉川の水

 この川は毒水なのでこのように詠じたと云う。
けれども不審ではないだろうか。哥詞の中毒水のことはなく、また六名勝の中に一つ毒水の入るべきようもない。
その上高野の辺りの人は、常にかの玉川の水を飲む。
だから毒ある水ではないはずだ。

 歌の意は、このような名水を旅人のことゆえ、忘れて常の水と思って汲やしつらんと、その水を賞(ほめ)て詠じたのだと、浴恩老侯の語られた妙解と云うこと。

巻之31 〔9〕 殿中管弦にて北村季文の歌

 この春、殿中管弦の時北村季文の歌で、文政六年(1823年)弥生二日、御とのの内に御遊びがあった。
上達部、殿上人、その道の御方々、またかしそのともがらまで召し集えられて、大変めずらしいことである。
その日の御事を伝え承って詠む。

   呂 安名尊
皆人のことにぞけふのたうとさを
     よそに聞さへたのしかりけり

   鳥 破
おりしもあれ春も弥生の花ざかり
     まだ見ぬ鳥の声ぞ聞ゆる

   席 田(むしろだ)
めづらしきけふの御あへのむしろ田は
     おりかへしてもあかじとぞ思ふ

   鳥 急  残楽のこころを
春の日のそらにまぎれぬものの音の
     のどかに御代はしづまりにけり

   胡飲酒
世は春のかぜの調に呉竹の
     この国人も酔をすすめて

   律 伊勢海
いせの海清きなぎさのなのりその
     なのりも高し雲の上人

    万歳楽
昔きく南のやまの山びこも
     けふのひびきにいかでまさらむ

    五常楽
糸竹のこゑのうちにもおのづから
     人の道ある世はしられけり

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