2023/04/12
三篇 巻之7 〔16〕 平戸鎌田大浦某の鋳物の獅子のはなし
わしの身内の者頭に山本氏と云う者がいる。これが集めた図の巻軸がある。
その中に平戸鎌田と云う所の者大浦某の家にある鋳物の獅子がある。
その図(写真)と記。
彦右衛門の家先(かせん)は、飛脚番を勤め、御用を帯びて下関に行って帰る夜のこと、「明くる日に頭の元へ帰る頃、田平渡海にて宝を授かる」と云う夢を見た。依って船に乗る時、船頭に約束して、今日もし何によらず、海より上がるものがあれば、必ずわれに渡してくれ」と言った。
果たして碇をあげようとすれば、重くて揚がらずない。
この人が思うに、「夢の告は当てにならないかな」。
猶も心に強く念じ、碇綱する船頭に加勢し、かろうじて引き起こした。
それは光っており海中でかがやき、同じ船の者どもはみな驚いていた。
やがて引き揚げて見れば、この物であった。
約束の通り我が家に持ち帰り庭に置くことになって久しい。
後にまた夢を見ると「庭においていることを残念に思う。家の内に置くべし」と云っている。
これより家に納め、神の如く崇敬して今に伝えている。
景興ことし文政七年甲申(1824年)の春この家に至り、この物を見るに、在家の焼火(たくひ)に煤(すす)が付いて黒くなっていて、地の色が見えない。
けれどもよくよく見れば、おのずから金色の耀きが顕れている。
奇なる物なので、図に画いて帰った。
この物を顧みると、重さようやく一人でかかえる程である。
按(あん)ずるに慶長の頃より阿蘭陀人が平戸へやって来た。
この時の物で、尾の方が欠けて見えるのは仏像連座の下に獅形を出しかけた物か。
鋳る物でこれほどの物はないだろうと見える。 山本景興
わしはここで考えるに、先年御数奇屋坊主善佐が〔善佐はすこぶる学才がある。傍ら仏学に通じ、且つ画を能くやっている〕写した竺物曼陀羅の仏像のある、みなこの獅子の様子である。
且つわしの領、昔年蛮人が渡来して、過半は天主の徒であった。
法印(松浦鎮信公、平戸藩初代藩主、1549~1614年)公は堅くその教えを禁じられたこと今に伝わる。
蓋しその頃かの徒の崇像が海底に沈んだものか。
抑々天竺の正仏が文殊の古像に具した獅子の遺体か。
余は山本の記を読んで知っておきたいものよ。
霊夢等のことわしの文と併せて見ること。
