三篇 巻之7 〔16〕 平戸鎌田大浦某の鋳物の獅子のはなし

わしの身内の者頭に山本氏と云う者がいる。
これが集めた図の巻軸がある。
その中に平戸鎌田と云う所の者大浦某の家にある鋳物の獅子がある。
その図(写真)と記。

彦右衛門の家先(かせん)は、飛脚番を勤め、御用を帯びて下関に行って帰る夜のこと、「明くる日に頭の元へ帰る頃、田平渡海にて宝を授かる」と云う夢を見た。依って船に乗る時、船頭に約束して、今日もし何によらず、海より上がるものがあれば、必ずわれに渡してくれ」と言った。

果たして碇をあげようとすれば、重くて揚がらずない。
この人が思うに、「夢の告は当てにならないかな」。
猶も心に強く念じ、碇綱する船頭に加勢し、かろうじて引き起こした。
それは光っており海中でかがやき、同じ船の者どもはみな驚いていた。
やがて引き揚げて見れば、この物であった。
約束の通り我が家に持ち帰り庭に置くことになって久しい。

後にまた夢を見ると「庭においていることを残念に思う。家の内に置くべし」と云っている。
これより家に納め、神の如く崇敬して今に伝えている。

景興ことし文政七年甲申(1824年)の春この家に至り、この物を見るに、在家の焼火(たくひ)に煤(すす)が付いて黒くなっていて、地の色が見えない。
けれどもよくよく見れば、おのずから金色の耀きが顕れている。
奇なる物なので、図に画いて帰った。

この物を顧みると、重さようやく一人でかかえる程である。
按(あん)ずるに慶長の頃より阿蘭陀人が平戸へやって来た。
この時の物で、尾の方が欠けて見えるのは仏像連座の下に獅形を出しかけた物か。
鋳る物でこれほどの物はないだろうと見える。  山本景興

わしはここで考えるに、先年御数奇屋坊主善佐が〔善佐はすこぶる学才がある。傍ら仏学に通じ、且つ画を能くやっている〕写した竺物曼陀羅の仏像のある、みなこの獅子の様子である。

且つわしの領、昔年蛮人が渡来して、過半は天主の徒であった。
法印(松浦鎮信公、平戸藩初代藩主、1549~1614年)公は堅くその教えを禁じられたこと今に伝わる。
蓋しその頃かの徒の崇像が海底に沈んだものか。

抑々天竺の正仏が文殊の古像に具した獅子の遺体か。
余は山本の記を読んで知っておきたいものよ。
霊夢等のことわしの文と併せて見ること。

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続篇 巻之73 〔11〕 稲花雌雄蘂(しべ)の図を観ながら

 ある人が話す。
この頃浪華にて稲花の弁を成し、且つ顕微鏡でその姿を写し、図を作った。
今ここに再び写す。
委(くわし)くは図解を観てほしい。
その図は蛮制の銅板で版行したので、ここに模したものはその大小を改めて写したので原本に違うものもある。
けれども稲草は少しも異ならない。

 稲花雌雄蘂の図(写真参照①)
  図解      大蔵永常述

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(一) 籾の大きさの写真である(原図、天地52ミリ)。
(二) 籾の口を開き雄蕊の出た図。籾は大小二つのものを合わせて出来たもので、先の方で口を開いている。
(三) 籾の小さい方に雌蕊と雄蕊と米となるべき実を孕む。
(四) 二の図と三の図と合わせて別に大きくして画いた。米やや大きくなれば、雄蕊の茎かれていよいよ細い〔四の図の符七の図と同じ〕。
(五) 雌蕊の頭、細い枝多し。精(こまか)くみれば、ことごとく黄色の粉がついている。
(六) 雄蕊の頭、蓮の葉が外へまくようになっている。これに兼ねて黄粉を含み開いて吐き出し、裏がえしに巻いている。「甲」の印は黄紛である。
(七) 雄蕊、雌蕊と米となるべき実と、連属した図。「甲」雄蕊五つある。「乙」雌蕊二つある。「丙」米となるべき実。「丁」臺(ウテナ)。
(八) 黄紛、これは黄色の至極細小の球にして周面(グルリ)に細いものがついて、状(かた)ちは金平糖のごとし。
これはまたまた至極精油を帯びた粉末がついている。
この黄紛は花の精気にして、雄蕊より吹き出す。雌蕊はこれを招き、その頭につけて、またまたその至極の精気を実の内に伝えて、生力を起こさせるものである。
(九) 米となってその籾殻をみると、米の頭に雌蕊の枯れたものが、なおある。
〇米をもって生命を続(ツ)ぐものの中にも、米商人はその年々の豊凶を予め察するものであって欲しくない。
抑(そもそも)稲は二百十日を花の盛りとする。
その時図にある所の雄蕊より精気を吹き出し、雌蕊はこれを吸いとり、実に伝えて米を孕むものなので、その時雨がふり、また風つよければ、雄蕊が籾の中へ引きこみ、籾の口閉じて外気を通じさせない。
雨風なくとも、夜は常に自然になるようになるものだ。
誠に情(ココロ)あるものの仕業のように不思議なる霊草である。
若しこの花が盛りのとき長雨だと、長く口を閉じ、雄蕊の出ることなくして、天日の光をうけて陽気を保つこと少なく、日陰に生える草木と同じく実入りはよくない。
また暴風のときは籾の内にこたえ、また破れて蘂を損じるので実りは少しになる。
これ等の理を推して豊凶を考えるならば、百に一つの過なし。
世に専ら稲に雌穂、雄穂あれば、選んで植えるべしという説があるが、これは雌雄のいわれにあらず。
かならずしも信じることのないよう。
くわしいことはまた種方の附録に記す。

書林  大坂心斎橋通博労町北へ入る
             河内屋長兵衛〈印、写真参照②〉

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三篇 巻之16 〔12〕 御連哥席の菅神像を再度模す

 前に柳営御連哥の御床に掛ける菅像のことを委(ゆだ)ねた。
けれどその真色を挙げさせると、筑の説の当否がわからない。
因って連歌師阪(ばんの)昌成にもとめて、毎例柳営に設ける菅影の写しを再び模して、且つここに移した。
それなのに築の云う所の誣(ふ、ごまかし)の気配はない。

 清(静山公)が愚眼を以て(観ても)、信(マコト)に吉野先帝の尊容を想い奉る。
余は当時の有り様に拠って、『太平記』諸書を参考にすれば、自ら亮然(はっきりしているさま)を得武(む、武は得むの意味を強調しているか)。

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三篇 巻之16 〔13〕 欲、ホッスの字について

 わしが壮年の頃仕えていた医師に、章甫と呼ぶ者があった。
これが在京の間、桂秋斎と云う和学者に従って学んでいた。
聞いたことが、吾が邦にて欲の字の訓を「ホッス」と云うが、「ホリス」と云うことにして、その思いの先へ入り込むものだと云ったと語った。
わしはその後、これを本にして考えるに、

 ◎『和訓栞』に、
〇「ほっす」。書にて欲字をよめる。「ほりす」を転じた物である。
〇「ほりす」。『万葉集』に、「みまくほりすれな」とみえ、欲の字をよめる。
今「ホッス」といえる。
字書に「貪なり」、「願なり」と注している。
〇これ等でも、真実には解らない。
(『虚字解』。[欲]それをこの方に得たく思うこと。[貪]やむべきをやまぬこと)

 ◎『字典』に云う。
『説文』貪欲なり。
徐曰く。欲とはもの、貪欲、欲の言は続くなり。
貪而してしきりに起こる。
 これに拠れば、和訓の義も思われて、秋斎の説いたことは宜しい。
掘(ホル)と云うも、地なれば土を下へ下へと穿(うが)たねば、掘るとは云わぬ。
穿(ホル)も物を物もて、さきへさきへと穿(ウガタ)ねば、ほるにはならず。
繾綣(ホレル)のことも、その懐情の止めがたきを云えば、欲(ホリス)の字訓は、よく思いしれぬ。

 ◎貪は、『説文』に物を欲すとあるのは、欲の字義を明らかにしなければ、解せぬ。

続篇 巻之10 〔14〕 駿州榛原郡長泉院の鐘を持ち去った者のはなし

 梅塢曰く。
 駿州榛原郡長泉院と云う曹洞宗の寺に、昔雲游の僧が来て願いを乞うた。
折ふし住持は棊(ご)を打っていたが、言うには「この寺は素より窮乏なので、一銭の貯えもない。
有るものはただ撞鐘しかない。
これでも持っていくか」と答えた。
僧はこれを聞いて、持っていた錫杖にその鐘を掛けて、雲を凌いで飛び去った。
この僧は役行者の神変であって、この鐘は大峯深山の灌頂堂に今もあるということ。
即ち榛原郡長泉院と銘はそのままであると。

 その後代を歴(へ)て、この寺の鐘を鋳たが、月日がたっても音が出ない。
このことは承応(1652~1655年)の頃であって、安永(1772~1781年)の頃までこのようであったので、時の住持は思い興し、役行者の堂を建立し、その堂に懸かる鐘を鋳ることを行者に誓い祈ったら、霊夢を見た。

 因ってその告にまかせて、寺の境内を掘っってみると、応永(1394~1428年)年中この寺の前住が鋳た鐘を感得した。
この鐘は今行者堂の鐘として、この寺の法事祭事に用いると云う〔この話は、梅塢が門人村岡修理なる者が親しく見たと〕。

 行智曰く。
 金峯山の高峯を鐘掛と云う。
絶頂の平坦に堂がある。山上堂と云う。
これは金嶽(カネノミタケ)の神社にして、堂には金剛蔵王権現を安置する。
堂内の梁に鐘一口を懸けた〔行智が見る所は、大抵高さ三尺許りあるようだ〕。
銘あり、曰く。

    遠江国佐野(サヤ)の郡原田荘長福寺
    天慶七年(944年)六月二日

 昔遠州原田荘に長福寺と云う所があった。
一夕山伏が来て、斎(トキ)料を乞うた。
住持は時に碁を打っていたので、立ちあがって物を施すのも懶(ものう)く、居ながら山伏を顧みた。
「この寺は貧にして、布施に供ずる物はない。ただ堂上に巨鐘があるので、よかったら持って行けばよい」と言った。
山伏はこれを聞いて、預掌して直に鐘堂に登って釣鐘を下ろして、持ってきた錫杖を竜頭にとおして、 軽々と肩にかけて担い去っていった。

住持は大いに駭(おどろ)き、即ち人を走らせて山伏のあとを追い掛けさせた。
だが疾風のようであったので、及ぶことは出来なかった。
遂にその跡を見失ってしまった。 
また後に大峯より還った山伏の物語に云う。かの山上、巌石の出た所に、この寺の鐘の掛かっているのを見たと。
因って住持は、「これは役行者の眷属などの所為だろう」と暁(さと)った。
そしてこれを悔いて、大いに恐れ、寺中に役行者の堂を建ててこれを祀った。
後また寺を捨て、金峯に入って修行し、山伏の徒となったと云う。

それよりかの山嶺を鐘掛と呼ぶようになったと〔行智曰く。『峯中縁記』に見える。また『行者霊験記』に出したのは少なく異説と聞こえる。また近くは『東海道名所図会』にも載っている〕。

右(上)長福寺と云うのは、東海道掛川駅より二里許り秋葉山へ往く道の傍に在る。
真言宗で、門前に、大峯鐘掛役行者旧跡とある榜(たてふだ)を竪てた。
寺中に行者堂が今もある。
この寺に爾来鐘を置くことはない。
たまたま鋳ることになっても成らない。
また他より求めて来て置くときは、必ず災異がある。
依って今に鐘を寺内に禁じると云える。
この二説ひとしからず。
要するに奇異な事である。

三篇 巻之3 〔4〕 小倉候別邸の数具足のはなし

 前に当年(甲午、天保5年、1834年か)二月火災云々の中に、両国橋に向かう小倉候の別邸にて数具足が焼け失ったことを話していた。

 この数具足と云うのは、往年福嶋氏が改易(官職や身分を罪によってとりあげられること)せられてとき、かの家の散佚(さんいつ)した物は小倉候に収めとなった。
因ってその具足はみな福嶋氏の家紋があったという。

 福嶋は豊太閤のはじめより神祖(家康公)御成業のとき迄、剛勇武功人であったのを人みな知っている所である。
その遺物がこのような亡くなるのは、誠に痛惜に堪えたり。

三篇 巻之3 〔5〕 この頃の世の中を俳句に口占(くちずさ)む

 この頃世の中の事を何者かが俳句に口占んだ。

 水がひきかが出てこまる林町

 (この林町とは云うのは、参政はじめ旗本の家でここに住んでいた所である。開都の頃ゆえその地を林町と呼ぶ。今は御城辺りに移り旧宅になっている。神祖(家康公)竜興の御時、兔の御吸い物を献じた林藤助は、この祖である。また林町は川畔の地、因って水涸(ヒク)の句をなす)

 (水)は水野である。羽州を指す。
(ひ)(き)は涸(ヒク)であり、また退(ヒク)なので、死去となる。
(加)は蚊であり、加と通じる。
(が)は助字で、賀である。
(加)(賀)は大久保である。
(こ)(ま)(る)は困である。
(林)(町)は本庄の地名で、蚊の多い処。
また林氏と通じる、林参政である。
羽州と相倶(とも)に御勝手御用を勤めた。
以下は以心伝心である。

また後『赤壁賦』を戯言することがあって、曰く。

   米高く餅小そうに、水落石満(ミツ)。

これは、江流声有り断岸千尺なり、山高く月小に、水落石出づにて、(米)(高)くは、去年来の粒価騰貴となって、当春の火変より益甚なるを謂う。
(水)(落)は、水野没故してよりの意味。
(石)(満)は石翁十分を為す当(べ)しとの意味である。
免。

三篇 巻之3 〔6〕 三つ倉御宝物の笙の竹と琵琶のはなし

前に話した日野卿の物語る中、三つ倉御宝物の中に、笙の竹があって長さが二三尺にも及ぶと。
これは亜相親しく視たものではなく、その事に与えた人が語った事を伝えているのだと云う。
珍しい物である。

また琵琶に螺鈿(アラガイ、ラデン)を入れた物が有ると云う。
これは甲の部分に入れたのだろう。

音楽に詳しくないので、聞いたままをここに記した。

三篇 巻之3 〔7〕 御宝物の中に阿蘭陀の陶器と同じものがあること

 また語られたことには、阿蘭陀の陶器(やきもの)の土柔(デッチヤワラカ)にして薬色の純白なので、紺青の紋があるものがある。
近頃勅封を啓かれ御宝物を改められる中に、蘭陶に同じ物があると。
聖武の頃は洋客の沙汰は無い時であるが、如何にしてこのような器があるや。
若しくは上古洋物の舶来したことがあったか。

三篇 巻之8 〔1〕 幼児期の灸と久昌夫人とのやり取り

 わしは幼少より久昌院殿(御祖母様)の鍾愛(深い愛情)を頂くこと他にないほど、いま古稀に余り、その教誨(教戒)の御言葉の止善(善を求めてやまない)ぞ、日時に胸に浮かぶ不思議よ。
因って思う。
七八歳のときか、わしは病弱で月々に灸治療を受けていた。
わしはその火痛が堪えられず、あるとき夫人に「(この頃は通旅食町に、三舛屋平右衛門と称する乾艾(ほしもぐさ)を売る巨家があった)、通旅食町の三舛屋は、商売と云いながら、かの為に都下の幾ばくかの小児が灸治療の難に遭っています。
私は大きくなって、人衆を率いる身に至れば、(わしはこのとき匹夫(ただの人)だが、山代某と称して、乳婦の外に市平と呼ぶ従者の僕がいた)、第一にかの三舛屋を討ちなくして、都下の小児の厄を除こう」と云った。
すると夫人は御涙を催され、「よくぞいった。我は、君を養育する他にはないのだ。やがて将師の任を執られることを冀(こいねがう)のみ。今そなたの言葉こそその任に堪たるの徴(しるし)である」と仰せられた。
後不肖ながらも、思わず壱肥両州の守に至り、姑(しばらく)柳班の権を執り、寛政(1789~1801年)有道のときに穀し、無事に今このような退老の身となった。
夫人の御教導の忝(かたじけな)さ、更に尚残骨に徹する。

 (林子曰く)、久昌夫人君御懐旧の条、艾店を攻め落とそうと仰るの事、実に格別の事、御一生の雄志はここに兆しを見せ、感心いたしております。
これは何巻目であっても、
  一之巻のはじめに相応しく存じ奉ります。
冊の中には、おおげさには申さずに。。。

  〇また幼児のことを思い出すままに記歳の頃か、いす。
十余つも久昌院殿の御側に置かれていた佐野と呼ぶ老婆をわしの守として附けていた。
毎(つね)にわしを教誨する中、とかく提刀(こがたな)を持ちたがり、手指を疵つけるからと佐野はこれを患としていた。
ある日『家内教草』とか題する、単語を一句ずつ連録した小冊があって、佐野はこれを読んで久昌院殿へ
「見て下さいませ。この句の中に童(ワランベ)の小刀使いと有りますのは、英(ヒデ)君(わしの幼名)のことを申します。
頃向きは無用に為されますように御命じ下さいませ」と申し上げた。

わしは無念に心得て、「その冊を与えよ」と云って、取って回読した。
そして「これを視よ。老人(トシヨリ)の仏頂面とあるぞ。これぞ汝のことを謂うのではないか」と言い返した。
院君は微笑み、「この子は秀才にて坐(おわ)しける」と云って、殊に喜色見え奉った。
今に至って想えば、老涙に堪えかねる。

因みに思う。
林子もまた幼年の頃より院殿の知り給う所で、敬信夫人に養い育てられた頃は、松平熊蔵と称し、聡敏な小児であった。
院殿はいつも「熊蔵、性質をよく養うように。善くなれば最も善い人になろう」と仰った。
果たして後は忠良の人にして、公に私に見ていることが多くある。
院殿の識鑑(しきかん、事物の良否を見分けること)、わしの輩をして感動させるに至る。
林子もまた常にわしと往時を語る時、院殿は母儀の徳坐すことを賞し申す。

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