三篇 巻之25 〔3〕 西湖の柳のはなし

 この三四年まえ、東に上がるわしのもとの医生が柳の樹の芽を携えてきて、わしに上げた。
わしは「これは如何なる柳だろうか」と問うた。
「これは西土西湖のこのでございます」と答えた。
この西湖とは浙江蘇州府にして、かの国の名高い柳の樹の勝地である〔かの医生がこの柳を得たのは、そのはじめ長崎の通詞が渡来した清商に託して、親しく西湖の産を持ってきたのを通詞宅に植えて育てていたのを、医生がその枝を携えわしに上げたのだ〕。

 わしは因って愛重して、園中の池辺に移植した。
それが年々茂っていき、今では多くの花が吐(ヒラ)く。

 ある朝、園中を散歩すると、柳の樹の下に到ると、霜が地上に敷かれたように拡がっていた。
わしは従者に「時は既に三月の季(すえ)として、この様に霜が降ったみたいになっている。
若しくは夜にわずかな雪が降ったのだろうかね。
それならば時候にそぐわないなあ」と云った。
従者は「空中散歩する者は、正しく柳絮(リョウジュ、絮はわたげの意)となるのでしょう」と云ったのに、心づいて、顧みれば絮(わた)飛んで軽雪の翻るが如し。
だからさきに地に敷いたに見えるは、絮が散り落ちて、霜に見えたのだ。

 『本草啓蒙』に云う。凡そ柳は春に葉の出る前に花が咲く。
六分許り、穂をなして黄色である。
後実を結んで少し絮が出てくる。
柳絮である。
けれども和産は絮が少ししか出てこない。漢種は多い。
俗に絮柳と云う。柳華という名を柳絮とは云わない。
花は黄色である。
絮は子に次いで生じる。

 『食物本草』に、柳華とは黄色の蘂(しべ)の事を指す。
絮が飛ぶ、すなわち華の後に結実すると云う。

 書いてあるように、わしの園にある近頃の漢種ならば、多くの絮は前の説と見合う。

 また以下の言質を見れば、異邦の柳は同種でもその風土に同化していくのか。
わしの園の西湖樹は、飛絮もさほどには無い。
但しこれも未だ新木なるゆえか。

 『本網』時珍が曰く。
楊柳は、春の初め柔かい荑(つばな)を生ず。
即ち黄蘂花を開く。春の晩に至り、葉長に成った後、花中に細黒子を結ぶ、蘂落ちて而(しか)も絮出づ。
白絨(ジュウ、毛織物のこと)の如し。
風によって而して飛ぶ。
子の衣物に着く。
〇弘景が曰く。
柳華熟す時、風に随う状は飛雪の如し。
当にその未だ舒(の)びぬものを用いるべし。
子また花に随いて飛ぶ。
〇臓器は曰く。
『本経』、柳絮を以て花と為す、その誤り甚だしいかな。花は即ち初めて発する時黄蘂、その子は乃飛蘂なり。
〇承が曰く。
柳絮は、羊毛に以て氈(せん、毛織物)に代ゆ捍(ふせ)ぐ可(べし)。茵褥と為して、柔軟性涼やか、宜しく小児に与えて臥しむ宜べし。尤も佳し。
〇宗奭が曰く。
柳花の、黄蘂乾く時絮方に出づ。これを収て灸瘡に貼すれば良なり。

  多絮の柳到て稀なるものであります。
拙は元来柳好きであります。
絮を吹く種はとかく少ないですね。
来春正月の末この御園の柳の枝数本を御恵み下さるべく、念を押したく思います。
くれぐれも御忘なきようお願い申し上げます。頓首(敬具)。

      四   十四
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三篇 巻之18 〔6〕 歌舞伎草履打

 当世劇場(シバキ)にて、草履打と称する歌舞伎を為す。婦女が観て、みな感慨していた。
趣きは某の老女岩藤、同じ中老尾上、この下女はつといって、その云々は、人の普く知る所なのでここは略する。

わしは一日備前の儒士湯浅新兵衛(『人物志』に云う。
湯浅、名は元楨。字子祥。備前人。
岡山候の世臣。常山はその号。業を南郭(くるわ)に受ける。
松崎維時と交善し。
年七十四で没す)が録した『常山紀談』を見て、その事があった。
曰く。

  (原文ママ)大久保長門守教寛の内所に奉公せし女中、或時心得違せし事を、奥の年寄大に怒り、罵て打擲に及びぬ。
中老親にもたたかれし事はなきよと独言して部屋に帰り、文書て下女二人にもたせ親のもとにやりぬ。
一人の女一人はのこりなむと云を、大事のこといひやる文なりとておして二人出しぬ。
道にて、怪しき事よ、常に二人一度に出されし事も覚へず、顔色も只ならぬ有しとて、文を披らき見るに、しかじかの事にて自害するなりと書戴たり。
扠(さて)こそあるべけれとて、一人のはしたものにはとく行れよ、吾帰りておし止むべしとて、急ぎ帰りて見るに、はや自害してありしを、夜の物打かけ、小脇差の血を拭ひ、吾が懐にさして、さあらぬ体にて年寄の部屋に行、語申度事の候。
只今部屋に来られよと云しに、程なく行べしと云ければ、帰りて又行、数度に及びしかば、年寄来て夜るの物あくれば、朱に染て中老は死してあり。
其時、女、是は今日の事にてかくは自害に及びたるなり。
主の仇よと云もあへず、小脇差を抽て刺殺しけり。
両人を殺したるならむと捕へて糺し問るるに、懐より文を取出し、証拠は是に候と詳に云述て、主の仇をば討留ぬ。
思置事も無く候とて騒ぐけしきもなし。
長門守、女中残らず揃へて、彼中老の下女の事いかが思にやと尋らるるに、忠義といひ、けなげなると云、驚き入たるよし口を揃へて云けるに、さらばいかがせむ、各存候旨を申べしとありしかば、何れか存寄たる事の候べきと申す。
さらば此度の次第を褒るに詞なしと云べきなり。年寄の死して事もかけぬれば、則年寄に取立然るべからんとて呼出し賞せられけるとぞ。

 右(上)の大久保教寛は、今の閣老加州の支家、雲州の祖先である。
『続藩翰譜』を閲覧して云う。
門守藤原教寛は、加賀守忠朝の二男、延宝三年(1675年)六月始めて御目見え、天和元年(1681年)中奥御小姓、元禄五年(1692年)御小姓組頭、五位下長門守に任叙する。
この年御側衆、宝永三年(1706年)西城若年寄、禄は万石になる。
享保十五年(1730年)まで仕え、元文二年(1737年)卒す、年八十一と見える。
するとかの義女の復仇は、この間のことと知った。

 また近頃貸本に、『松岡義女鏡』と云うものがあった。
云うにはこの事は松平防州康豊後宮のことで、享保九年(1724年)の四月だという。
防州の妻は、亀井隠州茲親の妹で、老女沢野年六十余〔この婦人は亀井氏臣の女と云う〕。
側女於道、年二十一〔父は岡崎候の浪人、正木氏〕。
その部屋女佐都(サツ)、年廿二〔長府の毛利甲州、家中の者と云う〕。
これ等の云々にて、沢野は間違いを怒り、長局の廊下草履を以て、於道に蹴り当たって、於道自殺した。
因ってその部屋女〔佐都〕、沢野を於道の部屋にて、その死骸の側に刺殺の旨、事明らかと雖も、その文は鄙びて俗で、ほとんど今の世の浄瑠璃と伯仲している。
されども湯浅の記と比べれば、その事実に似て、侯邸もまた異である。
今執がこれを分かたず。

 また云う。
佐都は一旦人を殺して、その本に帰され、後遂に防州の屋敷へ入れて、奥中老と為し、名を松岡と改むる。
これは戯場に中老とする所以。
また云う。於道の辞世の哥を載せる。曰く。

   藤の花長き短かき世の中に
        ちり行かふぞ思ひしらるる

これも戯場に、老女を岩藤とする所以。

巻之47 〔34〕 長刀の奇男子

 五月朔日の朝、鳥越邸に往く途中、天文台の方より倉前通りを行く人、
その姿中背小面にして色の白い、竹皮笠を深く戴き、黒い羽織をまいて、
島の袴を着ているが、脇差は柄の方ばかりで、鞘が見えないのは短いせいだろう。

刀の長いこと四尺に超えているか、胴金いれたのを半おとしに指している。

定めて剣技に達した人だろうか。

世間に奇男子もあるものである。

巻之47 〔35〕 鉄炮に中(あた)りながら死せざる農夫

 緋縅(ひおどし、武家の鎧甲冑の腕の部分)を語ったのは、某の在所芸州に狩りがあるとき、士分の者が鉄炮を早落して、鉛子(たま)が農夫の背に中ったが、三の穴所より乳上三寸ばかりの所をぬけた。

けれどもその人は死ななかった。

珍しいので、緋縅も立ち寄って、念を入れて見たと云う。

如何なる腧(しゅ、ツボ)なのか、こうして障りがなかった。

尚尋ねてみたい。

三篇 巻之70 〔7〕 ある普門律師のはなし

今緑山の宿坊雲晴院の住持は、因幡の人である。
また過ぎた世に聞こえる普門律師と云うのは、同国の産まれで、雲晴の来歴をよく知りたく、その語るままにここに記そうと思う。

 律師はかの国鳥取の城下に生まれた。
俗親は長谷寿庵と云って医者であり、その三男である。
幼年のとき城下の日蓮宗妙要寺の弟子になった。
この寺は因候の家老鵜殿大隅が開基して、今も檀家百五十軒ほどある。

 普門は年三十二三の頃までこの寺に住持していた。
これより改宗して、天台伯耆の大仙寺に移住した。
居ること七年、京の比叡山に到って留まった。
その後高野山にて居ること七年、真言の密部を学修して、再び叡山に還り、星霜十三年歴し、その間撰に値(あ)い、京師荘厳院宮の御師範である。

 そうして五年の後、仙洞様在位のときであったか、太子無きことを憂い給い叡山に内勅され、仏法力に依って皇子まし坐すの修行あるよう旨に就いて、一山評議した。
護所童子と云う大法、その余も当時に於いて、普門精密なのでと、これを勅答にすれば、すなわち普門を御所に召された。
関白殿より直門あって「内妃のお妊りあれば、皇子、皇女何れか」と尋ねられた。
御答えには「一七日修法の上しか、御答え成り難し」と申した。

これより七日の修行が終わり、参内して、「極めて皇子でありましょう」と申し上げた。」
「また万一皇女になるのであれば、変定男子の法を以て、必ず皇子降誕まし坐すべし」と堅く答え奉った。
それから身籠りし妃は十月を満たし、皇子の降誕坐ました。

次いで十五歳に至らせ給うまで、月毎に三たび参内して、御長久を禱(いの)り奉った。
この皇子すなわち今上帝にて坐す。
因って、御即位あった後は、普門関東に下り、専ら仏法の天文暦道、弘通を心願した。
最初の上野の御門主に願い出ると、聞いている。

だが司天館の方、暦法に故障あって、表立弘通の成り難さ、但々釈家は構なく、その暦書のように、俗間への売買を禁じられる。
つまりその頃緑山には教誉僧正が在職にて、かの才を挙げられ、大方丈に於いて、仏法暦書を講釈した。
因って山内三嶋谷なる空寮に住み、宝誉僧正の代に、恵照院に住職する。
天保五年(1834年)九月七日、その院に寂す。

 恵照院は律院である。
またわしが律師とはじめて相見たのは、天祥の南道の介に依って、駒込の済松寺に往き、天文の聴講に交わった。
これより識人となって、芝に遷ってもしばしば恵照を訪れては、その説を聴聞して、歓喜しては還った。

 ある年律師が上京した。
そして噂が流れて来て、東帰は無かろうと。
わしはすなわち真田信州が師となるよう懇願していると悟ったので、往って律師に(東に)帰るよう説いた。
かつ江戸に入ると品川に送った。

 雲晴の当住持は、このときに入り初めとなった。
因って律師は再び関東に還ってきた。

 これ等のことは後輩の為に貽記した。
律師の没ることは殊に痛惜する。
因ってその葬墓の所に就いて、親しく香華を供えた。
墓地は吾が雲晴夫人の御墓所同域の辺りである。

続篇 巻之47 〔3〕 平戸で見つかった異蛇考察

 一日平戸より、臣等の消息のついでに異物の図を示した。写真を参照のこと。

 文政十年(1827年)丁亥六月八日、辰時(午前8時前後2時間)過ぎ、普門寺庭前の喬松に羣鴉(群れるカラスの意)が集まって騒いでいる。
小僧が往ってこれを見ると、蛇の者の如くが有って、枝上より落ちた。
死んだ蛇だった。
上顎は傷つきしなっており図の如し。
腹頸の二か所傷つき破れていた。
その傷跡を視るに、日を経ない者の如くである。
蓋し鴉の害する所の者か。
蛇の長さ四尺ばかり、頸の囲一寸余り、背腹まあ大きいというか。
囲五寸余り、腹下隆起して、魚鬛(ギョリョウ)に似ている。図の如し。尾は鱣魚の如し、鱗の大きさは図の如し。皆六角である。疵口の肉は色赤く、下顎の中僅(わずか)に縫い針の頭の如きもの二条有り。
寸余。図の如し。

 異蛇を考える  阿部友之進喜
この蛇は薩州に産まれる永良部鰻である。
永良部は南海の地名である。
この地の海中の多く産する。
土地の者がよく食すると云う。
この蛇は死んでたまたま海岸にいたものだろう。
清周煌『琉球国志略』に云う。
海蛇。
国王に安天使に必ず海蛇一束具えるように云った。
長さ二三尺、僵直朽索(くちなわが倒れた)如く、黒色で猙獰(トウドウ、荒々しく憎らしい)な憎むべし。
国人は饌(そなえ)を為すと云う。
性質は熱く、能く痼疾(こしつ、ながく治らない病気)、癘(えやみ、悪質の流行病)の治しに療する。

また『奔走』水蛇の集解に云う。
水中の一種の泥蛇、黒色、穴に居り群を成す。
人を噛み、毒が有る。
この説また永良部鰻のことを云うのでしょうか。

かつて占春の説に、琉球人またこれを海蛇と云う。
薩州南海永良部の地に産まれると云う。
世俗利水の効ありと用いる人もある。

喜父春菴はいつもこの蛇を一二条たくわえ、いつもこの効を試みていて、小児諸病、凡そ元陽の虚ろなる人によし。
腎気不足、あるいは淋病茎中の痛みに用いる。
小児に遺る尿等にいつも用いると甚だ効あり。
しかしながら目を損なう憂いもある。
これはその油脂の甚だしさの為か。

右(上)、はじめの平戸の小記、且つ終りの考説に云えども、その実状を聞くと、かの蛇はじめ樹梢に懸かったときには、首もあって未だ死んでいなかったのだろうと。
普門寺の沙弥等は目撃したと人は語る。
するとこの物は、この辺の海中にも居ることあるのか。

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続篇  巻之92  〔21〕 『当時随筆珍事録』の実否確かめの旨畏承せり

檉宇に答える。
先日給わった『当時随筆珍事録』の二冊をしばらく預かり、且つ示された所の実否をか確かめるようにとの旨、畏承した。
まず全文を挙げて事実を開示したい。
ここを以てその回答としたい。
穴賢。
『当時随筆珍事録』    壱州の狸の話

 平戸侯〔松浦氏肥前守〕藩菅沼生〔通称量平〕の物語に、壱岐国には狸が有って、野狐は絶えている。
狸は狐のようにさまざまに変化して人を訛かす。
壱州に中に平戸領も有って、代官が平戸よりはるばる在役している。
家族を伴い在任している。
今より少し前のこと、代官が新たに替わり、庄官(領主から任命され荘園内の年貢の取り立て、治安維持などをつかさどった)の家に招待したら、新代官は妻子を連れて来た。
田舎だが、こうして心を尽くして饗応し、ことさらに恭敬した。

 時に庄官に家へよくやって来る一商人があったが、その日に来て、門よりうかがっている。
賓客のある体なので、内へ入りかねて、垣の外より座敷の様子を窺い見ると、主の庄官はじめ給仕の男女どもが膝行頓首して客を饗応し恭敬を尽くしている。
客は如何なる人かと見ると、これはまあ、どうしたことか、みな狸で、並んで蕎麦切りを貪って食っている。

 商人は大いに驚き、且つ怪しく思い、そこを少し離れ、生け垣の隙間より覗きみた。
上座は代官のようだ。
その次は妻女で美しく装い、次に男女児と思われる七人が並んで、蕎麦切りを食っている。
商人は戸惑い、再び垣の隙より窺った。
やはり狸だったので、急ぎ庄官の厨の中へ入り、奴僕の中のおとなびたものに、かくとささやいて、庄官に伝えた。

 庄官は大いに憤り、商人を叱りとばした。
「大切な賓客を饗応しているところに、このような誠なきことをささやき、もし客に洩れ聞こえたら、どのような罪を得るかも計り知れないではないか」。そして僕に命じて、商人をつまみ出した。

 ところが商人は懲りずにまた、かの僕を無体に伴い、垣の隙より窺わせた。僕も疑いながら、商人の云う通りに再三うかがい見れば、やはり狸だった。
僕は大いに驚き、急ぎ主人に告げようとしたが、商人は押しとどめ、「このあたりの犬を集めてこい。そして時期を待っていろ」と云い合わせた。商人は犬を呼んだ〔犬を呼ぶのに壱州の方言がある〕。忽ち犬は四五疋やって来た。

 賓客を饗する座敷の庭口より四つ(原文ママ)の犬を入れた。
狸どもはうろたえ、逃げ出そうとした。
そこを犬どもは床の上に飛びあがり、散々に噛んだ。
狸四疋はかみ殺され、残る三疋はほうほうの体で逃げ出した。

 これよりさき庄官の持地の巣穴があったが、作物を荒らされたので、その巣穴に草を積んで火をかけて、燻したと云う。
そして文は、なぜこのような仇討ちをしなければならなかったかと評している。
壱州は素より仏法を信じる土地柄だ。その下
より窺いみると、狸が正体を現し、その外の隙より覗きみると賓客の体に見えたのだと。

この事はきき伝え、いよいよ仏を信じることとぞ。
はじめ商人が垣の隙より窺った所に、その垣の辺りに百万遍の念仏の札を竹竿に挟んでたてている。

一、 菅沼と云うのは二代目良平で、名乗り義一と云う。
江戸生まれで、平戸のことは不案内である。
因って咄も重聞(マタギキ)ゆえ相違も多く、また伝え聞く記者の誤りも半に過ぎると思える。

一、 壱岐国には狸はいて、野狐は絶えていないと云うことは、大いなる誤りである。
壱岐には狐は最多し。
同領内であれど、平戸の者の壱岐の者を嘲笑う言葉に、「壱州に多き者は、てんたて〔黄鼠(テン)である。たてとは壱岐の俗信〕、ゆてた〔鼬(イタチ)である。ゆてたも同上〕、畦(アゼ)走るくつね〔くつねもまた俗信。けれど吾が邦古言の存する〕と云う。これを以て狐が多くいることを知っておきたい〔これに就いて云うことがあって、壱州の狐は余所の狐と違い、かつて人の目に入ることなく、またたぶらかし、人にとりつくこと嘗てない。わしの傍に事(つか)う茶堂は壱岐の人であるが、この祖父の時、その家の床下に狐が子を産んだ。つまり赤子はよく見えるが、この狐は目にしない。されど居るのは確かで、赤子に食を与えると、いつの間にか食い物は無くなっている。すると牝狐はこれを食して、その姿は人に見せないのだろう〕。

一、 狸の、狐の如くさまざまに変化して人を誑かすと云うこと、壱岐の人の数輩の当地在勤しているのに問えば、狸は世間でよく聞くように人を欺くが、さまざまなものに変化することは無いと。すると随筆は、虚言である。

一、 壱州の中に平戸領もあると云うこと、伝聞の誤りである。壱岐は一国で吾が領分ゆえ、平戸領と云うことあるべからず。五嶋大和守の領内には、互いに先祖以来の訳があって、かの領内に平戸領のある所もあり。この間違いなるや。

一、 代官が平戸よりかわるがわる在役すると云うことも、壱岐は一国ゆえ、平戸よりかわるがわる在役は赴かない。因って家族と云うことも誤りだと知っておきたい。

一、 それならば、次の狸話は、虚妄かと云えばそうではない。これは先年平戸の中、下方と云う所でのことである。それを聞き間違えて壱岐のことに附会(こじつけて関係をつけること)した。重複するが、その狸談の実を後に述べる。

   曰く。牧山権右衛門と云う者の祖父が、平戸郡代だった時、下方と云う所の庄屋、権右衛門へ蕎麦を振舞おうとかねがね云っていた。
ある日不意に権右衛門並びに家内一同参るべしといって、使いが来れば、庄屋では約束と云い、殊更郡代のことなので、俄かにその用意して待つ処に、家内の子どもまで連れてくれば、庄屋も格別に馳走する中、庄屋の下男が草刈りに往った帰りがけ、草を負いながら垣の外より窺いみると、座敷には狸が大小並んで食物を喰う体ゆえ、驚き、内々に筆取(筆取とは、庄屋の下役である)へそのことを告げて、連れてきて見せると、狸ではなく権右衛門家内並んでいる体なので、下男に粗忽のことを申したと、筆取は出たのだ。

下男はどうしても不審が晴れなかった。
先程、草を負うている時に見れば、狸の形に見える。
今一応最前のようにして見ようと、また草を負うて窺ってみると、全くの狸である。
因って再び筆取を呼んで、このようにして見せると、これもまた狸に見えたので、庄屋にも内々に申し見せた処、これも狸に見えた。庄屋も疑い、先ず試そうと座敷へ出た。
「今日は御子さま方何の御慰めもありません。幸い我等仔犬を飼っておりますので、御慰めに出して、芸でもさせましょう」と云えば、客は「犬は何れも一同甚だしく嫌うので、無用でございます」と答えた。
けれども推して「犬を出しましょう」と云えば、みな色を損じたように訝しく思った。
その前に近辺の猟師へふれ回した犬どもを座敷中へ放したら、忽ちに狸は正体を顕し逃げまどい、中にはかみ殺されたものもいたと云う。
その後不思議に思えば、刈ってきた草をよく見ると、その中に村祈祷の守札〔この守札とは云うのは、百万篇念仏の札で、総て田畠野辺へもたて置くのを、かの刈草に計らずも入り込んいたと〕交わりがあったこそ、定めてこの奇特にて、怪物も本体を露顕したかと、人みな云い合った。

続篇 巻之57 〔6〕 甲州恵林寺を詣でて

 印宗の記に、甲州恵林寺に詣で開山夢窓国師の像を拝して、額に刀疵があった。
そこで訳を聞いた。
信長焼き討ちのとき、僧徒がこの像を持って逃れて、軍卒がどこまでも追うので、像を山林の中に置き、筵を覆っていたのを人と見誤って、信長はこれを斬ったと伝わる。

 〇また不動の像があった。信玄は生前のその髪を植えたと云う。殊に威容のある像である。
 〇別に不動の小像が厨子の中に安ず。甲冑を着せている。堂頭和尚の導きで拝したと。
 〇また信玄の甲冑もあった。涎掛け、小手、脛当、草摺等、黒糸威黒塗、古色あり。
 〇信玄寄附の證文一通。寺領の事一ッ書にして四五ヶ条。年号永禄七年(1564年)かと思う。快川和尚に侍者禅師信玄押字。
 〇また二つ折りの状に、何か造営のことが五六行ばかりの草書もあった。信玄の朱印。
   ↑の二通は、黒塗長文箱に納めてあった〔文箱内に金梨子地〕。表に金粉銘。信玄公
   證文恵林寺の八字を記す。
 〇右(上)に挙げる信玄の甲冑と云うものは、わしは先年、恵林の住持を携えて、この都に出しとき、市谷の月桂寺に往き、住持に逢った〔恵林寺は、天祥院殿(松浦家第四代松浦慎信公)以来、わしの家に往来する。因って住持に逢った〕。
親しく会い、且つ函工春田丹波にその形を写させた。
その状を書き留めて置いたが、戌寅(文政1年、1818年か)の災いに悉く烏有(うゆう、まったく無いこと)となった。
またこの甲冑は信玄の遺物ではない。
神祖(家康公)御一統の後寄附されたと云う。
ゆえは、この甲冑は、神祖が久しく持ち給いしが、かの寺は信玄縁の所なので、恵林に寄附された。
代々の住持は麁略(そりゃく)にすべからずとの御旨を、時の老中の添翰(てんかん、文書などにそえる手紙)があった。
これも写しとどめたが、甲冑の図と共に焼失した。
これ等の御盛徳、不窮に伝えて金石よりも堅し。

 〇院宗が恵林に寓(かりずまい)したときの目撃。
居間書院 掛幅  騰竜(あがりりゅう)   陳所翁筆
また       虎            林良筆
         〔乳児したがう〕
表書院  三幅対 中観音〔左右十六羅漢〕
         中可翁〔左右〕牧渓
次の間      李白観滝図        探雪筆
〔この図は、憲廟(第四代将軍家綱公)が柳沢氏へ御成りのとき雪を書かせたと云う〕
方丈東西二間床  大幅唐画〔花鳥〕

方丈玄関の両所は、唐破風。霊屋、仏殿、書院、浴室、何れもひはだ葺(しゅう、茅や板、瓦ろうで屋根をおおうこと)。

  右(上)印が見る所。しかしながら林良は明人なので時代は近い。
所翁、可翁、牧渓らは珍賞したいもの。但し恐らくは模写だろう。
またこれは世に聞こえないので人は知らぬままなのか。
抑々(そもそも)仰信玄の旧物だったのか。

続篇 巻之70 〔8〕 隅田川堤の木の梢に都鳥が現れた

 この頃〔天保三年、1832年〕、近里隅田川の辺りの人が版木で刷った一紙がある。
都鳥の姿が木の梢に現れた由である。
好事の世とはなったけれども、ただ都鳥と云う評判の高いままに、種々の話の種を為している。

 また既に一世の後に至れば、この編述の文ぞ、都鳥の木径をまた後世の談としよう。
角田堤樅の古木暴風の為に都鳥の姿をあらわす図(写真)。

 凧をあげる小児は風のないのを恨めしく思い、箔を置く職人は風のさいのを悦ぶ。
さいつ頃の暴風に、隅田堤の樅(もみ)の古木を吹き折って、折れ口に都鳥の姿をのこしたのは奇といえるだろう。

 そもそも風のこの姿を世に出そうと自ら発したかや、はた樅が風を発したかや、どうだかと思いきや、ここにしてこの発端があろうとは。

 そうれその樹の高うして、知る人が稀なので、こたびそのあらましを記して、四方の君子に知らせようとする。
昔、在原業平は、水中に彼を詠め、僕は提にこれを見る。
唯その歌と男ぶりの劣れるのみ。

     こと問はん樅のふる木の都鳥
          世に知る人はありやなしやと

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