巻之56 〔19〕 聖堂の鬼犾頭を見て~おとし話

 思い出せば寛政中(1789~1801年)聖堂御再建の頃は、人才も多く、文藻(ぶんそう、文才)も盛んであった。
また思うに、この頃は坊間の鄙事さえ文事の多いのも政化に由るだろう。
その一事は聖廟の制で、明人朱氏〔舜水〕の作った木図に拠ると、屋脊の上に鬼犾頭(きぎんとう、城の屋根の棟に置く、しゃちほこと同類の魔除け)といって、飛竜魚のようなものが殊に高くそびえたものが並んでいる。
緒人には見馴れぬものゆえ、口実に渉り、その時の所謂おとし話に、ある日鳩が来て、鬼犾頭に止まった。
廟吏がこれを咎め、新営は未だ日が経っていないので、「ここに集まることは如何なものか」と責めた。
鳩は「私には三枝の御札があります。何としてもここにやって来て学びたいものです」と答えた。
吏は服した。

 時にまた烏がやって来た。
吏はまた咎めた。
烏は「我の様な烏にも反哺(はんぽ、親に養育の恩を返すこと)の孝があるのです。何としても学ぶためにやって来ました」と答えた。
吏はまた服した。

 今度は雀がやって来て群がり止った。
吏はまた責めた。
雀達は「勧学院の雀は『蒙求』をさえずるのです」といった。
吏はまた服した。

 さて今度は梟が来た。
吏は乃ち責めるが、梟は答えない。
再三吏は詰問するが答えない。
とうとう吏は怒ってしまった。
「御前は不祥の禽だ。何ぞここに来て汚すか」。
そして竿で打った。
梟は棟より地に墜ちて、鳴いて云った。
「夜が明けたら詩を作ろう」〔俗に曰く。梟は昼寝て夜寤(さ)める。因って巣を成す事は出来ない。故に常に夜が明けたら巣を作らうと云って、衆鳥に不能を匿す〕。

 戯註。
『本草』集解、鴞(ふくろう)は即ち梟なり。
この鳥は盛午(午の刻、11時から13時)には物を見られず。
夜は即ち飛行す。
『周礼』に哲蔟氏は、夭(わかい)鳥の巣を覆ることを掌る。
註に云く(いわく)。
悪鳴の鳥、鴞鵩(ミミズク)鬼車(きしゃ、中国に伝わる怪鳥の属の若(ごと)し。
『広志』に云く。
鴞は楚(イバラ)鳩の生きる所なり。
慈乳すること能は、騾(ラバ、雄のロバと雌の馬との交雑種)や〔馬巨〕驢(キョキョ、雄の馬と雌のロバとの交雑種)の如しと焉(いずく)んぞ。
然れども梟長じれば則ち母を食うと。
これ自ら能く孳(つながる、しげる)乳すればなりかや。
抑(よく)も食う所の者は即ち鳩や。
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巻之56 〔22〕 日蓮の謝状

 世に伝う。
日蓮『安国論』を著するに由って罪を得た。
北条時宗は由井浜に於いて斬ろうとした。
時に怪異がしばしば現れるのでこれを免じるに至った。
その日は文永八年(1271年)九月十二日であった。
然るに鎌倉建長寺の所伝は、かの開山大覚寺禅師、この時に当てて、その刑死を憐れみ、命を乞いて脱ることが出来た。

 日蓮はその厚意を謝する為に法華八巻を自書して、禅師の恩に報いた〔禅師の名は道隆。冉(ゼン)氏にして宋人である。寛元四年(1246年)帰化した。即ち建長寺の開祖〕。

 今現にこの経〔紺地金泥〕は建長寺に蔵(おさ)むと。

 また聞く。
建長寺に開山禅師遺物の名鏡がある。
かの日蓮自書の八軸と並んで宝物として秘蔵して、人が見ることを許されず。
毎年七月廿四日の禅師の示寂(菩薩や有徳の僧の死)の日に仏殿に出して、終日観拝が許されている。

 それなのに塔頭(たっちゅう)の主僧が側らの護持して、猓に近づいて見ることは出来ない。
これは嘗て、日蓮の徒が奪おうとしたことがあった由である〔また日連はもと天台宗に学んだが、また大覚寺に就いて、禅機をも問うたと伝わる〕。

 また聞いた。
禅師の為に日蓮は刑死を脱したとき、その芳恩を謝するの書があった。
今建長寺に伝わる。その文。

 昨日拙僧浜辺に於いて、断罪にすべしの処、大禅師の御慈愛を以て、死罪一等減じ、遠流を被るべし処となりました。
誠禅師の大恩、生々世々忘れ難いものであります。
昨日御慈悲の賢使者の無きときは、日蓮並びに門徒の滅亡は疑い無しでございました。
後日露命ある者として、どうしてその恩に報い奉らぬことができましょうか。
右の通り侍者の中より上達請いたく宜しく御願い申し上げます。

   文永三年九月十四日       日蓮 (押)
     建長寺方丈大和尚

 この書を得たのは、天祥寺前の薬店柏屋と云うが、この七月廿四日に鎌倉にて往って、建長に詣拝して覧を請うた。
そして日蓮自書の八軸は、恒例に依って見ることを得たけれども、かの謝状は一山の衆議なくては見ることが出来ず空しく還った。
因って船橋の社家某と懇意にしているので、このことを語った。
社家の写しを蔵む所の寺社奉行所にある控えの模写を借りて写してくれると。

 そうすれば目撃(実物)のものではないが、それを読むことが出来る。
また調べていくと、ここに書する年月を照らすと、日蓮が難に遭ったのは八年だが、ここには三年と記してある。
この罪を蒙ることは、かの宗の年録にも載せてあって事実である。
それではどうしてその前に恩を謝することが出来ようか。
また月日の如きも九月十二日なるが、謝状には十四日となっている。
これは赦免の後にして謝するの理然りである。
謝状また妙典を写することはなかった。

この経典は不日(近いうちに)に成るものではなかろう。
日を積み贈れるもので、あろう。
これ謝状の無き故である。
また日蓮の時実、『別頭仏祖統記』後作『紀念録』等を見ると、この刑を免れる前後、天変怪異がしばしばあった。
ここを以て然りと。
これは実伝であり、還って信じがたい。
謝状に拠れば、禅師の憐寃と云う者、世の通情である。
また両録に刑免の後、日蓮は佐州に謫(たく)される(配流さる)と云う者、どうして北条氏の悔悟して、当然のことがあるのだろうか。
謝状の死罪一等減ずる、遠流を被るべき処の文に拠るのだろう。
ただ年日の違うものは、しばしば伝写して誤る所かや。

また文永三年(1262年)は禅師謫所より鎌倉に帰る年であって、日蓮は『統記』に母の病に侍ると云っている。
するとともにその事あったのではないか。

また八年は禅師が建長に在って、弘安元年(1278年)を以て寂し〔年六十六〕、蓮は五年に逝する〔年六十一〕。

続篇 巻之5 〔5〕 林子、隅田川の桜をうたう

 林子曰く。
 花の頃 隅田川へ朝とく(朝早く)行って、人の来ぬ間に花下を徘徊しつつ口吟すれば、

     うへ添し年はよそぢ(四十)を過し来て
     堤の桜花も老いけり

腰折れるばかりの鄙調は云うまでもないが、今この詠みを解す人さえ稀であろう。
老懐は物ごとに感深くぞと覚えけると云々。

 但しこれはこの地の桜、享保(1716~1736年)の御時新たに栽えられたが、年を経て老朽するものも少なからず。
寛政(1789~1801年)のはじめまた栽継を命じられ、その木さえも今は多くのものが老木となってしまった。
ここにて林氏が感懐を興したのは、花のみならぬまた言外の寄托やと、わしはこれの為に感念に堪えられず。
〔林子、角田川百首とて、先年より詠い出した歌を積て数百に及んだと聞いた。未だこれを見ていないが〕。

巻之80 〔2〕 大君の御ことば

 ある奥向を勤める人の物語に、
 西城の大奥へ大君の御成りがあった折ふし、若君様を御自ら抱かれ御寵愛になった。
御抱守の婦人の手をあけるまま、御本丸御末子様方一二御側に在られて向かわれた。
何やかやと御相そうなど申し上げたが、やがて若君様を御抱守に返そうと召されたが、その者か御末子様へ申し上げることの半ばとて、その言ばを終わろうとされて、某等に構うことがなかった。
早く若君を抱き奉れとの仰せで渡された。
これよりその者は抱き奉った。
そしてその辺を歩いていると、御末子様方の御抱守も同じようにしている。
若君様に続こうとすると、「その方共は居るように」との仰せであった。

 御嫡庶の御弁別をこう迄、御立てになるかと、その場にあった輩は感じ奉った。

 また常々御末子様など御自ら抱かせ給うことはなかったので、若君様をばいつもこう抱かせ給うたとのこと。
御襁褓(おぶいひも)の時より御威光を添えられた深き御旨なるべしと、ひそかに人々は申し合わせたとぞ〔林話〕。

続篇 巻之34 〔2〕 巴、山吹の女武者

 この程巴の能を見た。
狂言が間(アイ)の語りに、木曽殿には、巴、山吹と云う二人の女武者があったが、山吹は砺波山(となみさん)の合戦に討ち死に、巴は粟津の戦にも従っていたと云うので、わしは不審が起こるままに、帰って文などを見た。

 『平家物語』にいう。
木曽は信濃を出てから、巴、山吹とて二人の美女を具(とも)された。山吹は労わって都に留まった。
中にも巴は、色白く髪長く、容顔まことに美麗である。
究境(きゅうきょう、非常に好都合なこと)の荒馬のりの、悪処を墜し、弓矢打ち物取りでは、如何なる鬼にも神にも合うと云って、一人当り千の兵であった。

 それで戦と云う時は、実(サネ)善き鎧を着せ、強(ツヨ)弓、大横刀を持たせて、一方の大将に向けられて、度々の功名に肩を並べる者はいなう。
すると今度も多くの者を落失させ討たれる中に、七騎までも、巴は討たれてしまった。

 『源平盛衰記』にいう。
巴は七騎の中にあった。
生年二十八。
身の盛な女である。
さる剛の者であったそうだが、北国度々の合戦にも手をも負わず、百余騎の中にも、七駒になるまで附いていた。
(中略)巴、七騎の先陣に進んで打ってでるが、何を思ったのか、兜を脱ぎ、長けに余る黒髪を後ろへさとうち越して、額に天がんを当てて、白打出の笠を着し、眉目(ミメ)も容(カタチ)も優れている。

 ここに遠江の国の住人内田の三郎家吉と名乗って、三十五騎の勢いで巴女に行き会った。
内田は敵を見て、「天晴れ武者の形気(ケイキ)かな。但し女か童か覚束(おぼつか)ないが」と問いかけた。
郎等よくよく見て「女でございます」と答える。
内田十分に聞きもせず、「なるほどもっともなことだ」。
木曽殿には葵、巴とて二人の女将軍がいる。
葵は去年の春、砺波山の合戦で討たれた。
巴は未だ在だと聞く」。

これは強弓の精兵、空き間の数え上手だと見える。
とすると山吹と云ったり、葵と云ったり一定ならず。
また山吹は労に依って都に留まると云えば、討ち死にはしなかっただろう。
山吹とは云わないが、葵の砺波戦死のことを云えば、狂言の語りはこれに拠るのだろう。
巴女と内田合戦のことは、尚委しく前記にしるし、憤慨に余りあれど、事長ければここに略す。

続篇 巻之56 〔8〕 辛卯の彗星(1831年)

 この〔辛卯、天保二年〕正月に檉宇書を与えた。
中に一図を附した。
書背に記して曰う。
「旧冬彗星の図。天文方出役より示された」、と。
写真参照。

 わしは嘗て知らなかった。
因って左右に(侍る者達に)質(ただ)すが、みな知らなかった。
小臣に見た者があった。
曰く。
「四更(夜間を五等分した時。現在の午前一時から三時のごろ。丑の刻)の過ぎた五更のはじめに、東方に見えた」と。
すると全くこれではないか。
見た者は二人のみ。

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巻之88 〔9〕 南宋の農民熊飛

 『孔雀楼筆記』に、南宋亡くなる時、東莞の農民熊飛と云う者が、義兵を起し、元兵と数十戦う。
忠男の鋒(切っ先)が剛ではあるけれども、終に戦死した。事『宋元通艦綱目続編』にも見られる。
熊飛の婦翁(ふおう、岳父)は儒者にして、家財に豊かであるが、田宅とともに婿の軍用の資とした。
その身は吾国に渡り、平戸に居住し国人に教授した。
国人は甚だ敬愛し、遂に吾国で病死した。
柩を唐土へ返し葬り、吾国の人数十人も送っていった。
かの地にて吾国の葬式を用い祀った。
冠服、鼓楽、唱曲は今に伝わって吾国の式を用いるとあった。
右(下)二条は『広東新語』に出ていると見える。

 『綱目続編』に云う。徳祐二年(中国南宋の恭帝の治世に使用された元号。1276年)九月、元の分軍道閩寇(あだ)する。
広東の莞民熊飛、兵を起こし趙潽に会う、韶(つ)いで広州に復す。
冬十月、元の呂師夔等兵将梅嶺度(わた)り、遂に韶で州に入る。
熊飛これにて死す。

 『広東新語』に云う。
東莞李竹隠先生、宋末当り、その婿熊飛は兵を起こし(王を勤め)使う。
而身は海に浮き日本に至り、詩書を以て教授す。
日本の人、多くその化を被る。
称して夫子曰く。
死に比(あ)い鼓吹一部を以て、喪を送り里へ返す。
今に至って莞人は喪を送るに、皆日本鼓吹を用ゆ。
過て洋楽と号す。
楽人皆倭衣、倭帽、以て之に象す。

三篇 巻之11 〔6〕 人世の変は不測なるものか

 ある人〔たぶん林先生か〕曰く。
 人世の変ほど不測のものは無し。
この春一時専権の田沼相下世の所、その後領分の山崩れで、余程の損耗が起こって、殊に永荒になった処もあったという。

 また名高い家老の土方某、急に病を得て死した。

 また近頃大川橋の別荘へ盗人入り、その地に貯えていた物件を残らず持ち去ったと。
昨冬まで経営絶え間なかった程であったが、僅か一周年にこうも移り替わるは、不可思議なことである。
凡そ盛んの極まるものは衰えるも、また速やかなる天運なのだろう。

 〔註〕高田の別荘も、数年営築に骨を折られた地であった。
今の嗣候の意見は更に別にして、故侯の事を好まず。
その荘の半分を割って彦根侯に引き渡した。
これ等も事急ぎすぎではないか。
嗣候は三年(ある程度の長い年月や期間の比喩)改まらずと云う文を知らなかったのだろう。

 また近頃故侯の蔵する楽器も、売りさばいて散逸させたという。
その候家は窮乏しているわけでもないのに。
全く新候は諸事を反する故のつもりなのかと、世人は批判した。

三篇 巻之38 〔8〕 薩州安徳帝の御事跡

 高安彦太郎〔脇仕〕が語るは、
 薩州の臣會昌遒〔故栄翁どののとき、會昌遒と云う臣は本草に委ねる。
わしも時には文通したが、蓋しその子か。昌桂は既に没す〕、
その人記文に委しく、録する者は多い。
ある日語った。
安徳帝の御事跡はかの地にては殊に秘することがあったと。
彦太はあるとき、侯の狂言鷺健次郎に託して問うたら、曰く。
「かの地に古社があります。この社内に古文書がありましたが、今は城下に送って、社にはございません。
この余、かの少帝の記というものがある趣です」。彦太は借りたくと云ったが、未だ手にしていない。
如何にも薩の辺りに平(タイラ)の縁のあると思えて来る。ゆかしき物語である。聞いてみたい。

 〇右古社の古文書のことである。〔丁酉、天保八年、1837年か〕十一月、健次郎の兄仁右衛門が来て、四方山の物語をする中に、仁右が云った。
薩州辺鄙の社中に、古代より嘗て啓(ひら)かれたことのない箱がある。
栄翁殿の時、「くるしからず発(ひら)くべし」と、視られたら、安徳帝の時の文書であったと。栄翁も驚かれ、再び元通りに緘(しめ)られたと。前の話と異なって〔わしは思うが、栄翁故の如せられたことは公義へ憚れることがあるのか、またその家に故あってか、そのことは訝しい〕。

 〇仁右はこの話を云いだした故は、仁右衛門の家は、はじめ南部に住していて、観世大夫、鼓者新九郎などの輩と、東山殿の頃よりの者である。
因って豊太閤の頃も、狂言師にて、朝鮮陣のときは、名護屋までも随いて往き、今家紋とする五徳(印は末尾の写真にて参照)の紋は、かの地に於いて、神祖(家康公)は御戯れに剪形(キリカタ)を為(せ)られ、「この形は汝に与える」といわれた。
遂に「家紋と為(せ)し」と云った。それなのにまた、古くより家に伝う箱が、長さ一尺二寸余りもあろうか、横四寸ばかり、嘗て啓かぬようにと言い伝わるものがあった。
よく考えれば、何れ二重箱と思えるが、「ガラガラ」と音がする。
先祖よりの言伝えとなるが、啓いて視たい。
いかが宜しいかと、酒中の問いなので、わしは「慥(たしか)には定め難いが、六平太の家に、その祖先より伝える、『松君子』と云い、元日謡初めの小謡があった」と答えた。
また家例人日の囃子初めに、三番〔『難波』『江口』『猩猩』〕を舞った。
その謡は、みな御当家に不吉の文句がある。
わしははじめて見出した。
子孫も知らなかった。
その家の秘箱も、察するに、豊太閤の懇遇(こんぐう、心のこもった丁寧なもてなし)の文書等なのだろう。
因って焼印も、旧恩に戻れば為し難く、また既に御当家に随従奉れば、人に出し示すも憚恥多ければ、極めてこの様に誡(いましめ)とするかと云えば、仁右は拍手し、貴慮然るべしと、また酌で盃を傾け、笑談に遷った。

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三篇 巻之10 〔5〕 京の貴布禰(きふね)とは

 ある人が語る、京の貴布禰の社壇の内御神体のある処には、ただ井があって、神体というものはないと。
わしは「『論語』李氏泰山に於いて旅するの註にも、旅もまた泰山の神に因って主と為して、以て于(ここに)上帝に致す者の、故に先ず泰山を以て言うなり。
また子仲弓を謂う。
用いること勿(なから)んと欲すと謂えども、山川それ緒を舎(すて)んやの註にも、山川とは、山川の神なりなどとある如く、世の神体と云う土偶木像を、誠実に神と崇仰すべくも非ず。
貴布禰は、本水の御神なれば、それこそと思う耳(のみ)」と答えた。

 『古史系図』に〔伊邪那岐神、伊邪那美神〕の御子、
〔志那都比古神(シナツヒコノカミ)、志那都比売神(シナツヒメノカミ)〕は風神、
火産霊(ホムスビノ)神は火の神、
〔金山毘古(カナヤマビコノ)神、金山毘売(カナヤマビメノ)神〕は、金神、
弥都波能売(ミツハノメノ)神は水の神、
埴山毘売(ハニヤマビメノ)神は土の神。

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