巻之10 〔17〕 大嶋近江守の父、古心のはなし

 蕉軒が云った。
 享保年中(1716~1736年)の小姓であった大嶋近江守の父古心と云う人は、紀藩より召し連れられてきた人である。
世に聞こえる器量ものにて、紀藩にては奉行を勤めたと云う。
召し連れられてきた後、勘定奉行にもと思召されたが、古心は御旨を窺い悟り、内々取次ぎ衆迄願うには、

「年来の御恩眷を蒙り、殊に召し連れられた有り難さは申すべきもありません。
たとえ如何なる御奉公たりとも命のままでございますが、御役を務める上にては、却って御為の事申し上げたく存じます。
何卒このままに」
とて再勤もせず隠居にて在ったという。

 ならばその子の立身にても心を掛けようかと見えたるが、江州(近江守)は多病にて、いろいろ勤めに馴れ乍ら胒近(じっこん、親しむ)するのみで、中々立身は出来ぬ人であったと。
古心は常々内密啓沃(けいよく、心を啓いて、他人のことを隠さずに主君に申し上げること)の功さぞ数々になったであろうが、一つとして人の知ることはなかった。

 只御足高(八代将軍吉宗が人材登用の為、低い家禄の者が高い職についた際、在職中にかぎってその不足額を増給した、その補給高をいう)を以て人才を用いられる新法は、古心の建白(上役に自分の意見を申し立てること)する所だと世に伝わるまで。
これこそ真の赤忠と云うべき人であったことよ。
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巻之10 〔18〕 郡山侯と岡崎候の足軽の口論

 郡山侯の供の足軽と、岡崎候〔本多中書〕のこれも供の足軽と下馬にて口論したとき、後は双方声高になって言い合った。

岡崎の足軽が、
「汝等の主人は御治世後のなり上りにて大名になられたが、我等の主人は三河以来鎗先の大名であるぞ。
我等僅(わずか)の給扶持を貰って居るのも、みな槍先にて取った宛行(あてがい)だ。
何条汝等と同じであるわけはない」
と云うと、
「流石道理」と云って、外々の供廻り岡崎の足軽に荷担の色があったので、郡山の方はおめおめとして無言になったと云う。

頗る婾快の咄である。

巻之7 〔10〕 長村鑑のこと、林氏壱岐の水軍演習を見る

 長村鑑〔内蔵助〕は、少年のとき、わしのそばに左右し、才量があり、学を好んでいた。
長じて京師に遊学し、淇園〔柳沢きえん、江戸中期の文人画家。1703~1758年〕に師事し、学術は長進した。
後擢(ぬきん)出て、家老となった。
年来政治に功労多し。
わしが退隠の後は、平戸に在って専ら心を家譜修撰のことに尽くした。
近年国用不足のことで都に出た。
林氏も従来の相識で、またその器度の非凡を以て、屡邸に招いて懇遇した。
いつも、「諸家の家老を知る者は多いですね。鑑においては屈指三四人に入るのでは」と云っていた。

 鏡は近来病勝ちで、久しく都に出るので会って喜んだ。
病後の衰状はないので、旧に仍て力を経済に尽くした。
都下の事を終わらずと雖も、しばらく帰国して事を遂げようとしていた。
それなのに帰途にて発病し、平戸に戻り、次いで没した。
悲しむべし。
途に在って賦所があった。

 庚辰の西帰り、関左に黄疸を発し、京に入りて二旬、事を竣(おわ)って南下し、浪華に留むること又二旬余り。
患る所依然。因って賦。

 官道轎を馳せて気は騰(あがら)んと欲す、老羸(つかれる、やせるの意)奈ともすること無し病の相憑るを。
液乾いて漸化す黄金仏、心熱て常に思う白玉の氷。
京洛花残して行くに耐えず、浪華も酒美にして喫ること能し難し。
奮然として事就けども事労倦多し、臥して方書を閲して試に自ら徴す。

 この詩は鑑が西帰のとき、佐藤坦が請うてその弟子某を従行させた。
不日にして鑑が病んだ。
某はこの詩を録して都におくった。
坦は第三句は詩鑯(しん、するどい、きざむの意)のではないかと懸念した。
後果たして訃報が来た。
わしは初めこの詩を知らなかった。
坦が言うのをはじめて聞き、潜然として涕(なみだ)が落ちた。

因ってふれておきたい。
鑑の下世においては、林氏甚だ痛惜して、「これは一人の不幸では無い、平戸藩の不幸だ」と云った。
鑑の国事の於ける般々の功績があった。
武備のことでは、殊更に苦心して後法を遺すこと多し。
辛未の年(文化8年、1811年か)、津島韓聘の時、上使を初め官の緒有司、わしの壱州(壱岐国)領を経過すれば諸事指揮の為に鑑を壱州に出没させた。
聘事が終わって、林氏が壱州に停泊するとき、風本一組の水軍が演習をして林氏に見せた。
林氏は帰後その事を話して、操練の熟したさま、指麾(しき)の体を得たのを激賞した。
わしは領内のことであるが却って見ず。
林氏の話を聞くのみ。
その日午牌(借指正午か、午後をさすの意か)やや下った頃、林氏は客舎にて喫飯の折で、鑑がやって来た。
元より懇交の者達なので飯中に対面して、鑑が云った。
「水軍の人も舟も備わっている。折よく晴れているので、神皇山に登って見たまえ」。
飯が終わって出ていった。
鑑は一人の大筒打ちを従えて、林氏の従者と共に出て神皇山に抵(あて)た。
この地は風本の湊を眼下に俯観する所である。
かねて幕次を設けた所に林氏は坐した。
鑑は指揮して相図の砲を発させると、遥かのあなたにて答えの砲声が響くと、湊の内の川に用意した軍船の大小とも、次第を追い徐々に漕ぎだし、山右より山左を目指した。
士卒はみな戎(えびす)服して兵器を執り、旌旗(はた)計りは本物を用いなかった。
各色の紙を以て製造していた。
これにて演習の意を表した。
船大小凡そ七八十。
先後の順を違えず、行列を正しくして、山左の海湾に漕いで入り屯した。

 扨(さて)海中には船二三艘を舫(もや)い、その上に席を高く張り連ねて、かりの敵船に設けていた。
それを目当てとして、先手船より順々に漕ぎだした。
先手はみな大筒であった。
その玉の行き方、山の見物所の目通りを少し下る程だった。
貫目の有る玉は一塊の黒雲となって発した。
砲声は山海に振う勢い、愉快、云うことなし。
目当へ打ちつけた船は、開いて山右のもとの川へ入り、その跡より段々に出船して打ちかける。
それより小筒の船は数十丸を乱発し、鎗長刀の船は、各その長浜を執って漕ぎよせる。
終りに壱州城代の船、金鼓を具して漕ぎ出るのが結局(最後におちつく様)だった。

 各船は湊中に往来して、五彩の旌旗は夕陽に映り、大小の砲の響きは山海も動揺する計りに思えて、このような壮観は未曾有の事だになるといって、林氏は悦んだ。

 またこの演習を組み立てて、己は声色をも動かさず、幕次に在りながら、その行き届いた指揮は手足を使う如くは、鑑に非ずんば為す人はあるまじと、林氏は荐(しき)りに賞賛していた。

巻之10 〔3 〕 亀岡城とり立のとき墜ちた者を助けたはなしと老夫婦の縄を納めたはなし

 吾が先祖公が元禄中(1668~1704年)に亀岡の城のとり立のとき、二丸に三重櫓を建てられた。
ここは元来小高い陵なので、一しお高く聳(そびえ)ていた。
この造作のとき、足代を高くかけて普請していたが、その上段より誤って墜ちた者がいた。
下の人々はあれあれと言う中、一人つとその下に行って待っていた。
かの者がその前まで墜ちたてきたとき、走り寄って向うへ衝(つ)けば、乃ち地上に倒れただけで済んで、恙(つつが)なしであったと。
これは高所より直下する勢いを横へ衝いたので、その衝いた所の高さより倒れたことに相当するという。

 またこの櫓とり建てあるらしいと聞いた頃のこと、小給人の夫婦、年老いた者二人であったが、二人して縄をない始めた。
何ごとかと人は訝ったが、やがて数千条の縄を役所に持って行き、「志でございます。御櫓の御用に為して下さい」と申した。
祖公はその志を好ましく思い、かの入用に当てられた。
三重櫓完成まで入用の縄は、この老夫婦の所作にて足りたと云う。
誠意は匹婦(身分の低いもの)にても達するということであった。

巻之87 〔4〕 蛇塚

 丙戌〔文政9年、1826年か〕六月廿五日、小石川三百坂にて蛇が多く集まり、重累して桶の様だった。
往来の人は歩みを留めて見ている。
その辺りの田安殿の小十人高橋百助の十四歳になる子千吉が云うには、「この如く蛇の重なる中には必ず宝があると聞きます。いざ、取らん」と云って、袖をかかげ、右手を累蛇の中にさし入れた。
肱(ひじ)が没したが、やや探して果て銭一を得た。
見ると篆文の元祐通宝銭である。
これより蛇は散っていき行方しれずと。奇異と云うべし。
〔蛇塚の写真参照〕

 因みにわしは『泉貨鑑』に載るものを附けておきたい〔写真参照〕。

 追記する。
田舎ではこれを蛇塚と云って、往々あることとのこと。

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続篇 巻之92 〔19〕 須磨勝福寺の下馬牌を模写

 檉宇が示した文書の中に、古い下馬牌の模したものがあった。
今用いるものとは異なり、古雅なる物である。
宇は傍に、摂州須磨勝福寺と記した。
石華墨にて刻字を摺ったものである。
後に聞けば、林子が辛未〔文化8年、1811年か〕の西役の頃に、途中にて摺った所と云う。

 『摂津志』を按ずる(調べる)と、この寺は大手村に在るという。
僧院三区とのこと。
また寺蔵に享徳二年(1453年)、文明十六年(1484年)、延徳二年(1490年)、永正十三年(1516年)、大永五年(1525年)、天正六年(1578年)等の古文書ありと。
すると古蹟の地なので、この小札も伝わる物だろう。

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巻之96 〔15〕 能舞台舞台、その分に応じて関わること

 わしの隠荘近所の番場に、御倉前の札串(サシ)松屋貞吉の別宅がある。
町の裏家であるがその中に能舞台を建てて時々能興行をしている。
大名の能、または座の大夫等が興行するほどの勢いである。
一体町人は能をすることは成らぬので、観世大夫が連の日吉市十郎の名目を仮り、日吉舞台と称して興行している。
わしも往って見物したが、頗る盛んなる体である。

 また朝川鼎は小泉町の借地を、門人景山と云う者また借地になっている地に、東儀左兵衛とて、上方楽人が流浪して神田於玉が池に住む者、出張稽古所と称して舞台を設け、月に両度ずつ、楽人も素人もうち寄って踊楽数曲あるという。

実は深川住居の乾(ほしか)魚問屋須原三九郎と云う者は楽好きで、和泉町の沙糖問屋河内屋孫左衛門、日本橋一丁目書林須原屋茂兵衛等が、組合内證をして、表向きは左兵衛の分にするということ。
これも町人は舞楽ならぬ故であるから。

また或者より聞いたのは、この起こりはかの松屋が能を立派にするので、それに負けては成らぬとて、楽舞台をたて、舞楽張行するのだとよ。

その筋々にておつな所に張り合いのある者である。
これに就いて思うに、世の中はみな間違うこと多きものということ。

某侯等は大名の身分にして、舞楽も能も嫌っていて、卑賎なる哥舞技狂言を常に事とされ、松屋は商売の身として、哥舞技狂言はせず、候伯のもてあそぶ能を忍んでやり、須原は打ち越し、楽舞台を造営して、舞楽を張行する等、みな各その分に応ぜざる負えないのだ。

これが迺(すなわち)世態(世の中のありさま)ということ。

巻之96 〔16〕 松王、梅王、桜丸

 浄瑠璃謡に『天神記』と云うものがある。
これに菅丞相の童に松王、梅王、桜丸とて兄弟の者を謂う。

 この頃『遠碧軒記』〔黒川道祐〕を読んで、云う。

 北野社五百石は松梅院一人して進退した。
今より三四代以前までは清僧であったが、途絶えて今は梅津と梅宮との間の竹の一村ある所の真言宗より、松梅院をもする事も有ったと見える。
この寺に松梅院よりの入用の帳など残って有ったいう。
妙蔵院はこれよりふるい。
徳松院は松梅院一代の隠居である。

 さて村上天皇のときに十河吉道と云う者が別当になった。
この者に子が四人あった。
召し連れて参内していた。
この者ども三方に笹の葉をしき末広を下被り、この四人の末は今の宮司にて能瑞常〔或紹と有る〕敬と云って四姓の通字の者、家の紋は笹の葉に末広をのせた物である。

 扨(さて)文子と云うもの、天神がのりうつらせ給うて程無く死んだ。
即ち天神にいわいて今の文子天神とて、西京の御供所のある西の側町の並んだ所に松木二三本ある内に小社がある。
今某所ではないが、神楽をすすむる神子を代々文子と云って来たのだ。

 扨西京の主典松王とて菅神の車副(そえ)の舎人の子孫がある。
白装束に髪をからわに結っている。
今にその末両人あって、末社の散木散銭をとる事であった。
文子社は狩野縫殿助殿の裏町の西側、今意山と云う医者の屋敷前である。
宮司は延宝九(1681年)のころは八十人余あった。

 これに云う所の松王より浄瑠璃の作者が取った。
かの所作の中に、時平大臣の車を、この三人の童が輓(ひ)き争う体あるが、松王は時平方、梅桜二人は菅氏方である。
これは狂言の仕なしである。
またこのときの出立は三人とも白丁、烏帽子着て総角(あげまき)の体である。
かたがた前記の云う所と符す。

巻之12 〔10〕 徳廟御放鷹のとき叱る老農に、褒美を授く

また御鷹場先にて、すべて御手軽い御事となる。
これも何方へか御放鷹の時、附き従う人両三人にて、ある農家に庭に至らせると、米が四五俵積んであった。
そこに腰を掛けて御休憩あらせられた。
するとその家の勝手より老農が出て、目をいからし大声にて、「公方様へ御年貢に上がる米俵に尻を掛けるは掛けるは何者ぞ。勿体なきことよ」と大いに罵り、速やかに立ち去らせた。

その跡から供奉の人々が大勢来て、「もし(公方様が)この辺りに在せらるるや」と尋ね奉る様子を見て、老農ははじめて驚き、「今罵りし御方は公方様よ」と思いより、真に恐れ入った。

二三日経て御代官伊奈半左衛門より老農は呼び出された。
「これはこの程の事にて、いかなる罪にか陥るだろう」と案事を悩(わずら)いせん方なく、家内に暇乞いして泣く泣く出ていった。

伊奈氏が申し渡すには、「御年貢米の事大切に心得て、奇特の至りである。因って御褒美下さる」とて、白銀若干賜ったということ。
誠に隅より隅まで御行届の御政とて人々は感じ入ったという。
これは公鑑もの語である。

清(御自分)これを記すに及んで涕(なみだ)がつたい止まらぬ。

巻之12 〔9〕 家康公を観た人相見

 徳廟(家康公)が葛西の辺りで御放鷹のとき、ある農家に立ち寄った。
その家の農はかねて人相をよく観るとて近郷に称された者であった。

徳廟はそのとき御鷹場にて御足は泥にまみれ汚れ給いしゆえ、洗われたくなって、従い奉る者が、
「そこの人や、水を参らせてくれ」と云えば、
農は即ち出て来て御傍により、御足に水を濯ぎながら、仰いで御顔を見奉り、
「おまえは扨々上なき御人相だな」と云った。

大いに笑わせ玉い、「かれは上手な人相見だな。
褒めてやれ」と云って出て行かれた。

 左右へ褒めてやれと上意あったので、乃ち御賞美の物を下さる事になったと云う。

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