長村鑑〔内蔵助〕は、少年のとき、わしのそばに左右し、才量があり、学を好んでいた。
長じて京師に遊学し、淇園〔柳沢きえん、江戸中期の文人画家。1703~1758年〕に師事し、学術は長進した。
後擢(ぬきん)出て、家老となった。
年来政治に功労多し。
わしが退隠の後は、平戸に在って専ら心を家譜修撰のことに尽くした。
近年国用不足のことで都に出た。
林氏も従来の相識で、またその器度の非凡を以て、屡邸に招いて懇遇した。
いつも、「諸家の家老を知る者は多いですね。鑑においては屈指三四人に入るのでは」と云っていた。
鏡は近来病勝ちで、久しく都に出るので会って喜んだ。
病後の衰状はないので、旧に仍て力を経済に尽くした。
都下の事を終わらずと雖も、しばらく帰国して事を遂げようとしていた。
それなのに帰途にて発病し、平戸に戻り、次いで没した。
悲しむべし。
途に在って賦所があった。
庚辰の西帰り、関左に黄疸を発し、京に入りて二旬、事を竣(おわ)って南下し、浪華に留むること又二旬余り。
患る所依然。因って賦。
官道轎を馳せて気は騰(あがら)んと欲す、老羸(つかれる、やせるの意)奈ともすること無し病の相憑るを。
液乾いて漸化す黄金仏、心熱て常に思う白玉の氷。
京洛花残して行くに耐えず、浪華も酒美にして喫ること能し難し。
奮然として事就けども事労倦多し、臥して方書を閲して試に自ら徴す。
この詩は鑑が西帰のとき、佐藤坦が請うてその弟子某を従行させた。
不日にして鑑が病んだ。
某はこの詩を録して都におくった。
坦は第三句は詩鑯(しん、するどい、きざむの意)のではないかと懸念した。
後果たして訃報が来た。
わしは初めこの詩を知らなかった。
坦が言うのをはじめて聞き、潜然として涕(なみだ)が落ちた。
因ってふれておきたい。
鑑の下世においては、林氏甚だ痛惜して、「これは一人の不幸では無い、平戸藩の不幸だ」と云った。
鑑の国事の於ける般々の功績があった。
武備のことでは、殊更に苦心して後法を遺すこと多し。
辛未の年(文化8年、1811年か)、津島韓聘の時、上使を初め官の緒有司、わしの壱州(壱岐国)領を経過すれば諸事指揮の為に鑑を壱州に出没させた。
聘事が終わって、林氏が壱州に停泊するとき、風本一組の水軍が演習をして林氏に見せた。
林氏は帰後その事を話して、操練の熟したさま、指麾(しき)の体を得たのを激賞した。
わしは領内のことであるが却って見ず。
林氏の話を聞くのみ。
その日午牌(借指正午か、午後をさすの意か)やや下った頃、林氏は客舎にて喫飯の折で、鑑がやって来た。
元より懇交の者達なので飯中に対面して、鑑が云った。
「水軍の人も舟も備わっている。折よく晴れているので、神皇山に登って見たまえ」。
飯が終わって出ていった。
鑑は一人の大筒打ちを従えて、林氏の従者と共に出て神皇山に抵(あて)た。
この地は風本の湊を眼下に俯観する所である。
かねて幕次を設けた所に林氏は坐した。
鑑は指揮して相図の砲を発させると、遥かのあなたにて答えの砲声が響くと、湊の内の川に用意した軍船の大小とも、次第を追い徐々に漕ぎだし、山右より山左を目指した。
士卒はみな戎(えびす)服して兵器を執り、旌旗(はた)計りは本物を用いなかった。
各色の紙を以て製造していた。
これにて演習の意を表した。
船大小凡そ七八十。
先後の順を違えず、行列を正しくして、山左の海湾に漕いで入り屯した。
扨(さて)海中には船二三艘を舫(もや)い、その上に席を高く張り連ねて、かりの敵船に設けていた。
それを目当てとして、先手船より順々に漕ぎだした。
先手はみな大筒であった。
その玉の行き方、山の見物所の目通りを少し下る程だった。
貫目の有る玉は一塊の黒雲となって発した。
砲声は山海に振う勢い、愉快、云うことなし。
目当へ打ちつけた船は、開いて山右のもとの川へ入り、その跡より段々に出船して打ちかける。
それより小筒の船は数十丸を乱発し、鎗長刀の船は、各その長浜を執って漕ぎよせる。
終りに壱州城代の船、金鼓を具して漕ぎ出るのが結局(最後におちつく様)だった。
各船は湊中に往来して、五彩の旌旗は夕陽に映り、大小の砲の響きは山海も動揺する計りに思えて、このような壮観は未曾有の事だになるといって、林氏は悦んだ。
またこの演習を組み立てて、己は声色をも動かさず、幕次に在りながら、その行き届いた指揮は手足を使う如くは、鑑に非ずんば為す人はあるまじと、林氏は荐(しき)りに賞賛していた。