巻之49 〔15〕 白牛、醍醐、人参、砂糖、白魚、椋鳥、鯰の出身地を知る者

 前条のことを話すと、林丈が言うには、

「享保の御深仁が永く後世に伝わることを挙げて数えるものではない。
牛酪もまたその中の一つである。
しかしその第一は御種人参であろう。
はじめは朝鮮より種子をお取り寄せにて様々の御せはなったが、日光山辺の地の性に叶って今は夥しく出来るようになって、邦人はこの物にこと欠くことが無いばかりでなく、その末唐船に買って帰るほどのことになった。
砂糖も種々御されたが思うように出来ないので、近来は諸国に蔓延して、紀州、遠州、房州などにもこれの為に民産の倍になること幾ばくと云うのを知らなかった。
白魚は勢州より取り寄せられ、種を品川に蒔かれ、鯰も紀州より取り寄せられ、関八州の池沼に移しかえるなど、人の知らぬ所でこのようことが甚だ多い。
椋鳥(むくどり)も唐産なのだが放たれられ、今は巣立ちの頃は千百群を成して飛行する。だが、人々の中でその元々いた処を解るものは少ない」。

真に造物の大手段と感仰され、危坐(きちんとすわること)正色して語りけり。
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巻之49 〔16〕 高崎侯の祖輝貞の肩衣

 高崎侯の祖輝貞は、厳廟(第四代将軍家綱)の御時よりの人の着用した上下とて、かの家臣に伝わったのを聞くと、今の制の、肩衣のへりに鯨のひげを入れた所に、より苧(そ、からむしの繊維をよったもの)を入れた〔四枚ばりの風鳶(たこ)の糸ほどある〕。

 袴のすそにもまた同じようなより苧を縫ってみた。
地は麁(そ、あらい)な麻の幅のせまいものであるというぞ。
袴により苧を入れたものは、立ち廻りのときにけやぶらぬ作りになっていると、かの家臣が語った。

続篇 巻之97 〔8〕 顕微鏡を初めてみた長崎通詞、吉雄のはなし

 顕微鏡(ムシノメガネ)にも種々あると聞こえて、先年長崎の人が、当地に来て話したのを、わしの左右の者が聞いた。
それでここに記しておこうと思う。

 通詞吉雄が所蔵する微鏡(メガネ)とて、まずこれを置く処を闇黒に閉じて、鏡の向うに燈を置く。
その光を鏡に受ければ、鏡内の納まる細蟲(むし)の類を火光に映すと壁に映し出される。
影は甚だ巨大になり、人目の知り及ばぬものが、みな明らかになる。

 そのとき蚤(ノミ)を鏡中に置いて窺う。
壁の影は馬を二疋を合わせたように巨大に映っている。
蚤の毛髪、腹皮の息動、悉く全てが見える。

 また水を一滴いれて窺うと、僅かに一滴の水中には虫が無数にいる。
各五六寸で游泳している。
その鮮やかな徴の明らかな事、大率その如しと。

 蛮人の巧みな技術、無益にも思えるが、人の知らぬことを知るのは、殆ど迦尊の天眼にも比すると云える。

続篇 巻之97 〔9〕 備後国の舟旅をして、神の火光に護られる

 先年旅行した頃、備後国裏海(イリウミ)辺りに糸崎八幡と云う宮居があった。
訪ねる毎にこの社頭にて駕を休ませる。
この社司の梓行した縁記があった。
この中にあったのを今思い出してみる。
備後国に木梨という所がある。
その海中に陰火を生じた。
里人を呼んで『たくらふ』と云う。
肥後の不知火と同じ。
それで舟人はこの火処を認めて海岸に達(イタ)ることが出来たと。

 昔後醍醐帝が隠州へ遷行の後、あるとき逃れ出て、中国を指して渡られるとき、夜の闇深くその地方を述べること莫(な)し。
遥に火光がある。
帝の船はこれを臨んで行くと、人ではなかった。
『たくらふ』だったが、即ち備後に到ることが出来た。
帝はここで一首の和歌を詠じられた。

  オキ タクヒ   タカ
  沖の国焼火の浦に焼ぬ火の
       備後の木梨に今ぞたくらふ

 『和漢三才図』に云う。
隠岐国、離火(タクヒ)権現、海部の郡島前に在り。
祭神比奈麻治比売神、又の名は大日孁貴(オオヒルメノムチ)、禁裏内侍所三十番神の第一に離火の神有り。これなり。

 『日本後紀』〔桓武〕延暦十八丙辰〔十三日〕、前遺渤海使外従五位下内宿禰賀茂麻呂等言う。
この日郷へ帰る、海中夜暗し、東西に掣曳き、着く所を識らず。
時于遠くに火光有り。
逐その光を尋ね、忽ち嶋浜に到る。
これを訪ね隠岐国智夫郡、その処人居の有ることもない。
或者が云う。
比奈麻治比売神の霊験常に有り。
商売の輩、宕海中を漂い、必ず火光が揚がる。
これを頼り全てを得た者、勝数をすべからず。
神の祐助、良き喜報とすべし。
伏望幣例を預かり奉る。
これを許す。

 『図会』に又云う。
これ乃ち天照太神の垂跡同一にして、而今に於いて船舶多く漂災免る者は、神火の光因れり。
最も疑うべからず。

続篇 巻之12 〔12〕 若君様の御伽にでた男児のことば

 麻布の光林寺はわしの縁の所である。
彼等は籏下(はたもと)の人の檀家が多い。
その内の分部某の、寺にて語ったと聞く。

 その子息、六歳、官年十一にて若君様の御伽にでた。
ある日大君の上意に、「何歳になるや」とあった。
「ほんの年は六つ」と答え奉った。
「また明日もでるか」とあったが、「明日は非番」と率直に申し上げたのを御聴きになって、殊に御気色が宜しかったとのこと。

 小児は真率なものである。
併せて成人しても人臣はこうあって欲しいもの。

続篇 巻之12 〔13〕 越州桐谷の椎木、再々

 越州椎谷の漂木の峨眉山云々の五字あるもの、既に前冊巻之五、巻之七に載せた。
つまりまたこの頃、林氏が浪花の人が寄せたと、刻梓印刷の紙片を贈ってきた。
小異もあればまた載せる。

   漂流橋杭の記(本文ママ)
 ことし文政ひのとの亥(文政十年、1827年か)の年卯月十日あまり二日、堀近江の君のしろしめす、こしの国苅羽の郡椎谷の海づらに流きたれるものあり。
そのはじめは海原にただよひて光かがやきしかば、うら人大にあやしみ、扁舟に棹さしてこぎよせみれば、絵図のごとき朽木なり。
そが木理は杉ともみゆ。
またをれくちはうすき鼠いろにして、橋上の器材ならば擬宝珠ともいふべきものゝ、そのくちきに峨眉山下橋といえる五文字をふかく彫きざめり。
うらびととりあげ、郡守へさゝげければ、此よしおほやけへ聞へあげたまふとつたへきゝ侍りてよめる。

   浪華      琴寉主人源海亀□
 名にたかき山のふもとのはしばしら
      ながれてこゝにみるもめずらし

 右(上)の五もじを起句にもちひて七絶のから歌をつくれる事、左(下)の如し。

  峨眉山橋を断ち去りて  蜻蜒(ヤンマ)洲前浪に漂ひ来る
  朽木千年名朽ちず    風流長に一奇材と作す

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巻之63 〔13〕 『西航記聞(天竺海路)』

その1
行智は梵学に通じた者で、因って自ら竺土の案内にも通じている。
暇な日に記したと、僅かに小冊を携えて来た。
視ると『西行記聞』と表題している。云う。

天竺海路
本邦より南印に行くには、海路より行くことになる。
今はその往来も絶っているけれども、寛永(1624〜1644年)の比(ころ)までは、なお通商のためこの国の人も行っていた。
その路程は、肥の長崎を出発して、台湾島を過ぎ、唐土福州浙江の海上を経て、阿媽港、広南、南の海湾にそい、真臘、暹羅(シャムロ)、満刺加(マラッカ)、亜刺敢(アラカン)、瑟牛(ペグウ)より、直に傍葛刺(ベンガラ)海に達し、南印度に入ることである。
その地方の名も、この国舟夫から聞いて記するが、覚え難い所がある。
けれども大様を知りたいもの。

左(下)に記す。
長崎より九十六里、未申の方に当て女島男島。
〇それより南へ六百五十里にして、高砂島。
これは大湾のことである。
〇この嶋の沖にウクウ、ダテンと云う二島がある。
この処は、東北に琉球国がある。
未の方に福州を見る。
〇ここより六百五十里にして、西の方に広東の港口がある。
この所は、諸国幅輳の地にして、殊の外繁花の地である。
海岸に諸国商舶の旅館があって、館前に各国の記号(メジルシ)の旌(はた)を立て、目記とする。

 また庁舎の前に制札がある。
諸国の文字を以て各国の人が読める様に書いてある。
日本人が読むには日本流の書体文言にて書いた制札がある。
この辺りに天川(アッカワ)と云う所がある。
媽港だろう。
海底深さ九百八十尋と云う(舟子の俗説だろう)。
長崎よりこの処迄は北斗の星〔北辰極星のことである〕を目あてに磁石を立て乗る。
ここよりは北斗政星は見えず〔南方へ出る故に北極を見る事が出来ない〕。

次に南の方にて大クルス、小クルスと云う二星を目あてに船を走らせる。
右の天川の三里程南にヒロウハナと云う所。
〇これより西の方へ三百里行って、カウチ〔交趾国である〕、トロンガダケと云う山がある。
西へつづく大山である。
この所、達磨大師誕生の地と云う〔但し俗説である〕。
〇また四百里行って、ホルンコントウロウと云う島を過ぎる。
この柬埔塞(カンボチヤ)の地方である。
〇これよりまた八百里ほど、北表の隅へ走ると、摩訶陀国の入り口流砂河に至る〔摩訶陀国は中印度である。
流沙は北方にある。
共にこの所にあるわけではない。
但し舟夫の口伝えによる俗説である。
しかし舟乗りの方では、この様に覚えなければ、舟行便りはあしきことになる〕。
これ迄船路長崎より三千八百里と云う。
日本の里数にして六百三十里許になる。
この流沙河は暹羅(シャムロ)国の境で、この処の舟番所があって、舟切手を改める。

巻之1 〔50〕  那須与一の扇的をかの玉虫が詠じた歌

 一日小笠原平兵衛と会って四方の話で、わしは那須与一が扇の的を射たことを云い出した。
小笠原は「この時かの玉虫が詠じた歌がありました」と云った。
「何に出てますか」と聞けば、『盛衰記』にあると云う。

 乃ちこれを見て曰く。
「源氏は、あ、射たり射たりと誉めれば、船にもとよみにて詠じた」。
紅の扇の水に漂う面白さに、玉虫は、

 時ならぬはなやもみぢを見つるかな
      芳野はつせの麓ならねど

そのあとに義経はこの賞と云って、与一に引き出ものをやったことを記して、与一は弓矢とる身の面目が、八嶋の浦にきわめたと。
近い代の人は、

 あふぎをばうみのみくづとなすの殿
      ゆみの上手は与一とぞきく

戦軍の中、女もやさしいものである。
狂哥も今時の詠とは違って優れていることだ。

『盛衰記』は誰人も見るものだが、見ぬ人は知らじと書き付けた。

巻之63 〔13〕 『西航記聞(天竺海路)』

その2
この流沙河と云うのは、唐土と天竺との間に南海へ差し出た所である。
所謂シヤロムである。その南の岬二股に分かれた所より流れる大河がある。
それを舟人の語るに流沙と云いならわしたのだ。
実に天竺近邦にして、真に天竺には非ずと。

この暹羅国王は吾が邦伊勢山田御師の手代に山田仁左衛門と云う者が有って(山田氏のこと、この説は違う。山田は駿河の人。
そのことかの地浅間の社の画額に顕然する)、事の子細あってこの国へ渡り、この地の戦争に功あって国王の婿となり、終にその統を継いで王となる。
名をナヤカウホンと呼ぶのはこの山田のことである。
居城をハンテイビヤと云う。

この所より二十七里川上に懸り笹と云う城がある〔懸り笹の名は考え難いが〕。
これより廿五里川上にダイカイと云う都がある。

 これより流沙川へ七十五里あって、暹羅国にビヤタイと云う寺がある。
須達長者の屋敷あともある〔例の舟人の俗伝である〕。
摩訶陀国の内テイヒヤタイより七里にして、長さ廿里つづく堂が三所ある。

 但し一宇にて日本道二百町ずつある。本尊は何れも釈迦如来を安置し、東向きなるは立像、南表は坐像、北は涅槃像にて、各土塑の像である。
仏体の大きさは計り難し。
山を彫って像に造ったものである。

 仏の手の大きさは厚さ三間余りもあるだろう。
堂の柱は十人も手と手を引き合って十五廻り余りあるだろう。
堂の軒の下は八十間余りある。
町家もある。
釈迦堂町と云う〔逗留の日本人が付けた名だろう〕。
堂の高さ廿里ばかり。
海上よりこの堂を目当てに乗り入れることになる。

 祇園精舎の堂〔これも例の舟人の云い伝えである〕、右の三の堂よりは劣れる。
大きさも京の大仏堂四つ許り合わせた程である。
摩訶陀国の都は四十二里河上、霊鷲山がある〔これも例の伝説にて決して真の霊鷲ではない〕。
山の高さは一里ほどある。
大きさ八丁、長さ十六丁、この山の岩の上にて釈迦如来説法がされることがある〔これも同前である。但し釈迦遊化の迹は無いと云うべきでない〕。
巌の高い所に釈迦仏の坐像がある。
御手洗(ミタラシ)あり。
この辺り四十二里の間町がつづくので、毎年三月末より四月中比(ころ)まで市町がたって、緒人が大そう集まる。霊鷲山より四十二里川上、流沙川の中は霞がかって、その中に坐禅石と云う処もある。

 二里河下にカキ川と云う河がある。
この所よりは中天竺のカボチヤと云う所である。
カボチヤは真臘のことである。
「マラカ」と境が近い。
暹羅の近郊である。
中天竺にカボチヤと云う所はない。
霊鷲山も祇園精舎も流沙もみな暹羅国中にて云う事であった。
真に天竺のとは違う。

 二里河下にカギ川と云う川口がある。
長さ千二百里程の河である。
日本道にて二百里もあろうか〔カキ川、もしくは安日(アンゲル)河の下流を云うとか〕。
流沙の川上に檀特山がある〔例の虚名〕。

 〇右(上)の外、舟人の記した所が数余りある。
何れもうけられぬことが多い。
但し里数と風土を云うとは、実見実聞のことだから、疑うべきでない。
右(上)の外天竺の路程のことは、わしは別に考え置くものである。
事は長いので略記する耳(のみ)。
文政壬午(文政五年、1822年)冬十月十八日夜子刻、蓬生宿燈下に書する。
行智〔蓬生宿とはわしの隣地の弊舎に居したときのことである〕。

終わり

巻之1〔14〕 那須与一が源平合戦の後、予州に住んだと

 下野の黒羽根侯〔大関土佐守〕は、伊予の大洲侯〔加藤遠江守〕より義子に往かれたという。この侯が話されたことは
 
 那須与一宗隆は、源平合戦のとき、扇の的を射た褒賞として伊州を賜わり、かしこに住まれたと。
今に宮寺の建立した所、または寄納した武器仏具など、所々に存在している。
 
 また野州にて某社〔神名を忘れる〕は、与一本国の氏神とて、予州より材木を運ばせ造った。
今に至ってその営作のままであると。

 わしは問うた。
「その様な時は宗隆予州に在れば、野州は如何に」。
答えるには「その時は父の太郎資隆が住んでいた」と。

異聞と謂うべし。

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