その2
この流沙河と云うのは、唐土と天竺との間に南海へ差し出た所である。
所謂シヤロムである。その南の岬二股に分かれた所より流れる大河がある。
それを舟人の語るに流沙と云いならわしたのだ。
実に天竺近邦にして、真に天竺には非ずと。
この暹羅国王は吾が邦伊勢山田御師の手代に山田仁左衛門と云う者が有って(山田氏のこと、この説は違う。山田は駿河の人。
そのことかの地浅間の社の画額に顕然する)、事の子細あってこの国へ渡り、この地の戦争に功あって国王の婿となり、終にその統を継いで王となる。
名をナヤカウホンと呼ぶのはこの山田のことである。
居城をハンテイビヤと云う。
この所より二十七里川上に懸り笹と云う城がある〔懸り笹の名は考え難いが〕。
これより廿五里川上にダイカイと云う都がある。
これより流沙川へ七十五里あって、暹羅国にビヤタイと云う寺がある。
須達長者の屋敷あともある〔例の舟人の俗伝である〕。
摩訶陀国の内テイヒヤタイより七里にして、長さ廿里つづく堂が三所ある。
但し一宇にて日本道二百町ずつある。本尊は何れも釈迦如来を安置し、東向きなるは立像、南表は坐像、北は涅槃像にて、各土塑の像である。
仏体の大きさは計り難し。
山を彫って像に造ったものである。
仏の手の大きさは厚さ三間余りもあるだろう。
堂の柱は十人も手と手を引き合って十五廻り余りあるだろう。
堂の軒の下は八十間余りある。
町家もある。
釈迦堂町と云う〔逗留の日本人が付けた名だろう〕。
堂の高さ廿里ばかり。
海上よりこの堂を目当てに乗り入れることになる。
祇園精舎の堂〔これも例の舟人の云い伝えである〕、右の三の堂よりは劣れる。
大きさも京の大仏堂四つ許り合わせた程である。
摩訶陀国の都は四十二里河上、霊鷲山がある〔これも例の伝説にて決して真の霊鷲ではない〕。
山の高さは一里ほどある。
大きさ八丁、長さ十六丁、この山の岩の上にて釈迦如来説法がされることがある〔これも同前である。但し釈迦遊化の迹は無いと云うべきでない〕。
巌の高い所に釈迦仏の坐像がある。
御手洗(ミタラシ)あり。
この辺り四十二里の間町がつづくので、毎年三月末より四月中比(ころ)まで市町がたって、緒人が大そう集まる。霊鷲山より四十二里川上、流沙川の中は霞がかって、その中に坐禅石と云う処もある。
二里河下にカキ川と云う河がある。
この所よりは中天竺のカボチヤと云う所である。
カボチヤは真臘のことである。
「マラカ」と境が近い。
暹羅の近郊である。
中天竺にカボチヤと云う所はない。
霊鷲山も祇園精舎も流沙もみな暹羅国中にて云う事であった。
真に天竺のとは違う。
二里河下にカギ川と云う川口がある。
長さ千二百里程の河である。
日本道にて二百里もあろうか〔カキ川、もしくは安日(アンゲル)河の下流を云うとか〕。
流沙の川上に檀特山がある〔例の虚名〕。
〇右(上)の外、舟人の記した所が数余りある。
何れもうけられぬことが多い。
但し里数と風土を云うとは、実見実聞のことだから、疑うべきでない。
右(上)の外天竺の路程のことは、わしは別に考え置くものである。
事は長いので略記する耳(のみ)。
文政壬午(文政五年、1822年)冬十月十八日夜子刻、蓬生宿燈下に書する。
行智〔蓬生宿とはわしの隣地の弊舎に居したときのことである〕。
終わり