続篇 巻之61 〔22〕粟田焼の陶鈴

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この春、京都より浜岡道泉と云う〔淇園の姪〕大経師が官用あって出府した。
それでわしに土産として陶鈴を贈った。粟田焼である。
 
讃岐国の某が家蔵を摸った由。
且つ記文を添えた。
わしは先にこの鈴の図を得て平戸に蔵めた。
題して曰う。
かの国国の蔵と、全く同じ物である。
すると重複に同じだけれど、記文に、寛政(1789~1801年)の御幸鳳輦につけられたと有れば、その事をば伝えるべきだ。
それでここに図を併せて録した。
  
  鈴図並びに記文
 讃岐之国の某が家に秘蔵せる駅路の鈴あり。
 いつの世より伝えしものか。
 寛政二年(1790年)十一月上皇御遷幸の御時、これをめしうつし鋳させられて、御鳳輦の綱に附たまいしを、洛東粟田口の陶器師にものしうつしありしを、又こたび同じ所にて製しうつせしを奉ることしかり。
 
 いにしへのむまやのすずのふるきねを
         ゆめにきくともたれかこたゑむ
 
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巻之100 〔5〕狐珠牛珠

 林子の文通に、先に云った、3年ばかり前、営中にて寺社奉行本遠州が、狐珠であるとて、旋毛の物を持ってきて人に見せた。
 わしもその中にいたので、喜色満顔になって、人みな戯れて必ず吉兆が起こると、とりどり云い合った。 
 幾程もなく遠州が参政に進んだ。
 笑うべし。
 
 またこの〔丁亥〕6月10日、我が身内の赤名孝馬と云う者が、金毘羅参詣とて土橋を行き、路上に狐珠を獲た。
 これは純白毛であった。
 就(つい)ては狐珠の話を人々が言うのを聞くに、この正月上野にて、これも我が身内の門倉伴助の親類の医師が拾い得たという。
 
 また同所にて5月の事、御用部屋坊主本間伊覚の次男も拾ったという。
 この頃寄合の肝煎(人の世話をすること)、大久保四郎左衛門の話に、某家来の親類が、これも5月上野にて得たという。

 また同月、中奥御番設楽市左衛門〔林の婿〕が、下谷の途中にて骨董店にあったのを買い得た。
 これ等近い所でこの類の話が多いのも不審である。
 知らぬ所に幾ばく有るというのか。

 ある人は曰う。
 「天晴風和する日には、牛は毛珠を吐くことがあるものです。白牛は白、黒牛は黒です。世に狐珠と云うものとこれと少しも違うことは無いのでは。尚まだ何かあれば博物家に尋ねて下さい」。

巻之5 〔25〕落首〔風刺・批判・あざけりの意を含めた匿名のざれ歌〕堀田荒四郎

 神尾若狭守春央は、享保中(1716~1736年)の勘定奉行にて、人なり才智があって威厳あったので、国用を述べるにおいて功績が多かったという。
 1年諸国を巡見することがあったが、その威名が聞き伝わり、いかなる苛刻(かこく。きびしく残酷)の事があるかと、土地の人々は安き心地はせず、道すがら輿中より見渡すばかりで経過した。
 
 それなのに隠し田ある所は、自ら訴え出て来る。沃土の免が低いと、自ら免を上げて申し出てくるので、多くの国益とはなっていた。
 
 若州は嘗て堀江荒四郎を薦めて、これにも所所巡察させて、賦税(課税)を増益することが多かったとか。

 その頃中国にてこうして落首された。
    
      雁 
   東からかんの若狭が飛で来て
      神尾 
              四郎
     野をも山をも堀江荒しろ

  この荒四郎は農民より出て御徒組に入り、遂に御旗本に列されたと云う。

巻之29 〔8〕吉兵衛の老誨(古い教え)

 天祥公(松浦重信、平戸藩の第4代藩主(1622~1703年))の『武功雑記』を作られるあり、未だ若年にて筆録に与(あずか)った鶴田吉兵衛と云う者が年老いて、それより4,50年前まで存在していた。

 わしの隠荘に仕える人で、少年の頃この鶴田を覚えている者があって、云った。

 鶴田は(武士の)児の輩が群れて戯れる処を通ると足を止めて、「脇差は片時(へんし)も身を離し申されるな。牛には角があってつく。馬は角がなければ、足にて踏み踏みもし、犬は口にて噛む。人は身に手足のほかはなし。脇差は人の角と心得られよ。小児とて武士は武士の子よ。人不義不動あれば、必ず角にてつかれよ」と事ある毎に老誨を示したという。

  この時世に人の気性、この類を見るべきこと多し。

巻之5 〔24〕九鬼松翁、物語る

 享保の頃(1716~1736年)は、大広間一同御礼のとき、降夏祁冬などの折は、御大声にて時気の御諚(御仰せ)あった。
 いずれもさわりが無かったりしたという。
 
 今の九鬼泉州(降国、摂津三田藩の第10代藩主)の祖父松翁〔長門守、隆邑〕は91歳にて去々年終わったが、その人など玉音を承ったとて語られたという。

 御晩年西城にて薨御の後、本城へ御機嫌伺い登城のとき、殿中の静かなこと、まるで人がいないように静かだったという。
 これは出仕の人々が御徳を仰慕して哀悼に堪えられなかった故だと云う。

 これも90翁の物語であったと聞こえた。

巻之5 〔26〕大阪、しめの内

 先に門松のことを云った。
 
 後に聞いたこと。
 大阪は門松がない。町家はじめ縄を戸口に張るという。

 因って七草迄の間を松の内とは云わず、しめの内と云う。

 また松を飾るも、小松を戸口の柱に打ち付けておくばかりと云う。

巻之23 〔31〕金比羅の霊護、及び船魂を祀る

 泉州の回船が何処の沖にて夜中颶風(つむじかぜ)に逢った。
 船が覆り人はみな沈んでしまった。
 この中の1人の男が、小板の浮いているのを見つけて、これに掴まり、遊泳していると天明が見えた。
 けれどもどの方向を目指しているのかわからなかった。それで気疲れして、飢えもあって殆ど死ぬばかりであった。
 
 それでも夢の如く、誰かが現れて「漂う所の藻くずを食べれば飢える事はない」と告げた。
 即ちこの通りして漂っていけば、海巌に至った。
 喜んで上がろうとすると、忽ち披髪の童子が集まってきて、竿でつき、上がることを拒んでいる。
 
 また沖に泳ぎだすと、徐々に風がおさまり天は晴れた。
 そうして幸いにも本船の帆を張って走っているのに逢った。
 乃ち手を挙げて知らせれば、端舟(はしけ)を下ろして救いあげられた。
 命拾いした心地した。

 ほっとして頼みにした板を見ると、金毘羅権現の守札であった。
 
 はじめてその霊の助けを思い知り尊仰の念が湧いてきた。
 そしてこの体験をあちこちで語ると、聞きつけた船頭達は誰もこの札を求めた。
 男も救恩黙止の情から札を授かった。
 船頭は即ちこれを船魂として祭り、船を金毘羅丸と名付けた。
 
 また破船した船と同国の船の船主はこの霊奇を感仰し、かの夫が帰るのを待って、船を改めて造り、また金比羅丸と名付けた。

 いよいよ信心深く、速やかに祠に報賽し、別に守札を請うて、その船もまた船魂とし祭った。
 両船は今猶活躍していると云う。

 また先に海巌に漂っていったとき、異童のやったことは、思うに若しあの時巌に登れば、怒濤にうたれ、角にぶつかり痛手を負うか、或は濤に曳かれて海に沈んでいたかも知れない。

 よって神に冥護されたと、涙があふれてきた。

 金比羅の金比羅の霊応は総じて不思議が多しとぞ〔前巻22に、阿波の商船の霊異を記す。確認されたし〕。

巻之23 〔35〕安満岳の猫神が忌むもの

 平戸安満岳の山上には諱事が多い。
 これは山神の忌む点だと云う。
 中でも婦女並びに鶏が猫の山に存在するのを忌む。
 
 除夜には山上の寺坊に人が集まり、終宵の真似をして笑う遊ぶことを例年やっていた。
 それなのに烏が啼く、狗は吠える等の騒ぎは何も起こらず、静かである。
 けれども鶏の声がすれば大騒ぎとなった。だからあえて大騒ぎになることは誰もやらない。

 また猫は固より寺坊にて飼うことは禁じられていた。
 春日(安満岳の麓の集落)遊覧の人と雖も、若し三弦を弾ずる者があれば、神が怒ると。
 これは猫の皮を用いて張った楽器を嫌う為。

 話を聞いていくとこんなこともあったそうだ。
 
 嘗て山上の寺坊修営のとき、平戸の役所より多くの工匠を派遣して作事をしていた。
 工匠は山上の空き地に仮屋をつくって、ここに宿して営作した。
 ある日麓より参詣として婦女が来ることが有った。
 時は日暮れになって、且つ工匠の中にその婦女と通じる者がいた。
 それで婦を仮屋の中に潜に宿させた。
 果たしてこの夜中鳴動が起こり、それは止まなかった。

 社の僧は大いに驚き修法誦経した。
 それでも鳴動は止まなかった。
 僧は益々驚き怪しく思い、寺坊の中に何か穢れがあるかと糺(ただ)すが、何も出てこない。
 
 詮かたなくして工匠の仮屋を見ると、1婦を見付けた。
 且つその状を聞いて、即ち深夜に僧侶に監督させて、2,3人の僕を従えて、婦を下山させた。
 婦人が山の下に到るにつれて鳴動が止んだと。
 山の霊威この如しである。

 また士の某は、晴れた日に家人を従えて登山した。
 山上の芝生に集まって、行厨(べんとう)をひらき飲食した。
 時に盂(はち)を傾けたような暴雨が起こった。
 家人等は大いに騒ぎ、行厨を持ってみな下山した。
 すると身体は濡れていなかった 。
 麓に至ると雨は忽ち晴れ晴れとなった。
 みな、目の前で起こった事が信じられず、行厨を見れば、中に鶏卵が入っていた、と。
 そこにいた人は顔に恐怖の色を浮かべた。

巻之22 〔32〕讃州金比羅の神祠の霊応

 讃州金比羅神祠に神応があることは世に普く知られている。

 8,9年前、阿波の商廻船に荷物を積み入れ、20余人が乗り組んで江戸へと上っていた。
 その船の上乗(うわのり)として、船主の子が乗り組み出帆したが、洋中にて船頭と水主(かこ)の頭が話を合わせせ、積み荷を盗みとろうと企んだ。
 そこで上乗の子が邪魔になるので、これを害して盗ろうと諜んだ。乃ち子を碇に縛り、夜になって海に投げ入れた。
 
 そのまま船は走り去ったが、この時阿波の商船の船主の宅の戸口に、何か打ち当たる大きな音がしたので、驚き怪しく感じて出て見ると、子を縛り付けた廻船の碇があったのだ。
 もとより人事も述べることが出来ぬ体にて、様々介抱した。
 ようやく息が落ち着いたので、詳しく尋ねると、その始末をあまり覚えていない。
 海中に投げ入れられた後は、夢の様で何事も思い出せないと語った。

 因って父の商人はその子を奥に入れて置いて、他に知らせず、かの船の還りを待った。
 
 そうして数日の後、船頭その外が船主の家に到った。
 帰着の由を告げた。
 「また洋中に於いて颶(つむじ)風に逢い、危急に迫る間、帆綱を切るに及んで、御子息が誤って帆綱にかかって跳ねこまれ、乗り返って救うべく手を尽くしましたが、難風の為、力が及びませんでした。あちこちを捜しましたが叶わず、空しくこうして帰ってきました。何とも申し分けなく恐れ入ります」と申し演(のべ)た。
 
 船主はその知らせに非常に厳しい表情を見せ、「大勢の人命を乗せて恙(つつが)なく還るのはこれに過ぎる幸はないものだが、忰(せがれ)のことは不運ゆえ今更致し方も無い。まずは帰帆の喜びに一杯傾けようではないか」と、船子21人残らず座敷へ通し、酒食を与え、饗し、密かに役所へ届けた。
 そして手配りをして、捕手の人に居宅を取り囲ませた。

 主人は「今日の興に肴を御目に掛けよう」と云って、奥より忰を連れだした。
 
 坐中これを見た連中は大いに仰天し、逃げ出したが、設け置いていた取手が走り寄って、残らず捕らえたが、如何してか船頭は行方知れず。
 これより尋索(たずねもとむ)るが、これを捕えることは出来なかった。

 このことは讃州へ参詣した人より聞いたことであった。

  即ちその縛り投げた大碇も、報賽として神祠の前に納め置いたのを目撃したと云う。

 神の冥助と雖も余りにも不思議なことであった。

巻之90 〔7〕猷廟(家光公)の御満悦

 猷廟の御時、申楽観世大夫を堪能あったとき、猷廟が柳生但馬守に仰せになった。
「観世の所作を見よ。若し彼の心に透間があって、ここを斬るべきと思わば、申すべし」。

 但州、畏れて所作を見終わると、上意に、「如何あるや」と問われれば、但州は答え奉った。
 「初めより心をつけるに、少しも斬るべき際(あい)だなくございました。しかし舞の中で、大臣柱(客席から舞台を見たときの、左側。舞台前面の左右(かみ・しも)にある柱)の方にて隅をとるとき少し透間がございました。あの所にて斬るならば、斬りおおせるかと」と言上した(申し上げた)。

 また観世は楽屋に入って「今日見物の中に1人、我が所作を見ていた男があった。何者か」と云った。

 傍らより「あれこそ名高き柳生殿よ。剣術の達人だよ」と云うのを聞いて、観世は云った。

 「されば社(こそ)我が所作を目もはなさず観ておられたが、舞の中に隅をとった所にて少し気をぬいたとき、莞爾(かんじ、喜んでにっこり笑う)と咲(わら)れたが、心得なかったことよと思ったね。果たして剣術の達人にぞあられる」と云った。

 後に猷廟はこれを聞き召して御満悦であったと。

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