讃州金比羅神祠に神応があることは世に普く知られている。
8,9年前、阿波の商廻船に荷物を積み入れ、20余人が乗り組んで江戸へと上っていた。
その船の上乗(うわのり)として、船主の子が乗り組み出帆したが、洋中にて船頭と水主(かこ)の頭が話を合わせせ、積み荷を盗みとろうと企んだ。
そこで上乗の子が邪魔になるので、これを害して盗ろうと諜んだ。乃ち子を碇に縛り、夜になって海に投げ入れた。
そのまま船は走り去ったが、この時阿波の商船の船主の宅の戸口に、何か打ち当たる大きな音がしたので、驚き怪しく感じて出て見ると、子を縛り付けた廻船の碇があったのだ。
もとより人事も述べることが出来ぬ体にて、様々介抱した。
ようやく息が落ち着いたので、詳しく尋ねると、その始末をあまり覚えていない。
海中に投げ入れられた後は、夢の様で何事も思い出せないと語った。
因って父の商人はその子を奥に入れて置いて、他に知らせず、かの船の還りを待った。
そうして数日の後、船頭その外が船主の家に到った。
帰着の由を告げた。
「また洋中に於いて颶(つむじ)風に逢い、危急に迫る間、帆綱を切るに及んで、御子息が誤って帆綱にかかって跳ねこまれ、乗り返って救うべく手を尽くしましたが、難風の為、力が及びませんでした。あちこちを捜しましたが叶わず、空しくこうして帰ってきました。何とも申し分けなく恐れ入ります」と申し演(のべ)た。
船主はその知らせに非常に厳しい表情を見せ、「大勢の人命を乗せて恙(つつが)なく還るのはこれに過ぎる幸はないものだが、忰(せがれ)のことは不運ゆえ今更致し方も無い。まずは帰帆の喜びに一杯傾けようではないか」と、船子21人残らず座敷へ通し、酒食を与え、饗し、密かに役所へ届けた。
そして手配りをして、捕手の人に居宅を取り囲ませた。
主人は「今日の興に肴を御目に掛けよう」と云って、奥より忰を連れだした。
坐中これを見た連中は大いに仰天し、逃げ出したが、設け置いていた取手が走り寄って、残らず捕らえたが、如何してか船頭は行方知れず。
これより尋索(たずねもとむ)るが、これを捕えることは出来なかった。
このことは讃州へ参詣した人より聞いたことであった。
即ちその縛り投げた大碇も、報賽として神祠の前に納め置いたのを目撃したと云う。
神の冥助と雖も余りにも不思議なことであった。