巻之23 〔24〕成島氏の祖

 成島道築の実父は平井金右衛門と云って、今の桑名侯松平下総守の祖の白川を領していたときの臣にて、武具奉行であったとか。

 五男子あって家は清貧であったので、その子の片付け手当も届かずして、第五男は止むことを得ず坊主衆の養子にやったのが道築であった。
 
 それで今その平井家は絶え、所々へ片付いた子孫も絶えたが、成島氏のみ直参の儒臣として栄えること不思議なことである。

 金右衛門の人となり、貧であるが武辺形気の男で、常に我着料の具足に諸子の着具を揃えて一室に陳列している。
 
 人がこれを嗤えば、

「武士たるものは何時急用あるべきも知らざればこうすると云っても改めるものではない。
藩侯白川より福山へ転封したとき、その遷徒(移ること)は甚だ急遽であって、闔藩(こうはん、藩全体)が狼狽した。金右衛門はかの室中の着具えお取り揃え、家内一同従容として立ち去るのを、人々は見て、平日の心掛けに感服したものよ」

と云った。

 これは憲庿(廟)の末より文庿(廟)の頃に係った時であった。

 この頃の武士はまた別段のことであったと、今の邦之助は語った〔林語る〕。


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巻之21 〔20〕若年寄衆の火事の際の頭巾 

 若年寄衆の火事出馬のときの頭巾は、陣笠のしころ(かぶと・ずきんの左右や後ろにたれてくびを覆うもの)に惺々緋(しょうじょうひ、緋色の中でも特に強い黄みがかった朱色)をつけてある。

 その長けは肩に及ぶばかり。

 これが目印となる。古風なる体である。
 
 閣老方も同じと云う。

巻之21 〔21〕播磨灘を渡る

 『余禄』に云う。
 
 播磨灘を渡るに、船中にて平家合戦の事を語れば必ず風波の難に遇うと云える。これは昔時戦死の亡魂が感怒すると。この事は奇怪で、信じられぬ。

  以前、わしが東観の船行に、早暁に室の港を船出し、午時(うまどき)と思われる頃、須磨の辺りを過ぎた。わしはかねて舟人のかの物語を戒ることを知っているが、信用するに足らぬと、平氏西敗の時一の谷の破れ、須磨の合戦のことなど、侍臣等に指さして云い合った。すると八つ頃(午後2~4時)より次第に風が起こり、波が高くなって、後は小雨まさりになって風が吹き出て、日も暮れていき、四方は見えず暗闇にて今にも船は沈みそうになった。

  余りに船がゆれるので、船行いか程になるかを問うに、「いまだ須磨の汀をはなれておりません」と答えた。この言に大いに驚き、舟子に命じて櫓を漕がせて、兎に角奮闘するうち、余程押しのび、兵庫の和田の崎と云う所に逮(およ)んだ。この時の風はいよいよつよく、船の揺れはまことに波の上を転倒するかの如くであった。

  余りに恐ろしく思われ、小船をよせて移ろうとすると、乗っている船は大きく、小船を寄せようとするに、互いに浮沈する。高い時は5,6尺、低いときは6,7尺。その間4,5間もあって、乗り移ることが出来ない。近く寄せようとするが、船は相ぶつかり今にも砕けようとする。
 
 これを見ると目も眩み、心は消え入る計であった。されどもそのまま居ると苦しいばかりであった。船屋形の口より小船の揚がるのを待ち、小船より水竿を出して取り付け、一斉に飛び移った。

  その危難は今思い出すのも恐ろしい。これにつれて思い思いに4,5人飛び移った。跡にその船の間を顧みると3間許もあったろうか。
 
 それより小船を押し行くと、雨はしきりに降り、風は強かった。火を灯すことなど出来なかった。冥黒の海上に押しいくこと故、一向に向かうあてなどなかった。濤(なみ)は山の如く、押しならべた船を見ると、山上に登り、或は谷中に入ろうと思われた。それよりようやく兵庫の浦に橙の見えるのを目当てに押しいった。

  已に汀に及ぶ頃に、余りに波の寄せがつよく、左の脇に押していた船は転覆していた。そのうちに、わしの船は汀へ打ち上げられ、水手(かこ)はみな海へ飛び込んで、船をかかえて引き揚げた。この時ようやく蘇生の心地がした。

  それよりこの港の旅舎、網屋某の処に抵って、宿するのを依頼した。時は八つ半を過ぎていた。この日はじめに風が起こった時、船ども沖の方を乗っていたものは散り散りになって行方知れずになったが、方々の港や沖に繫留などして、明くる日には寄り合い、無事でいたことを云う計であった。災いは一事もなかった。如何にも時節にてあるけれども、平氏物語の禁を犯した所と云い、不思議なことであった。

  その後聞くに、わしの身内の醸泉翁という者が、若い時播磨灘を船行するに、かの平氏の物語をしたのを、船人はこれを戒めたという。醸泉翁は心の剛なる男で、いかで風波が起こることがあろうかと止めなかった。すると風浪しきりに起こり、激濤山の如くに大いに困難であったと。

 その時杉の苗木を束ねたのを船の口に置いていたが、船に当たる浪にて向いの口へ打ちぬけたとぞ。風浪のすさまじさをことに知っておきたい。

 翁老は後に人に語って、人のするものでないと云う事はするものでないぞと云ったと。

 かの剛なる男も怖ろしく思ったとぞ。わしのことと同じ次第であったが、実は風浪の起ころうとする時あったのであろうが、また誣(し)いるべきでないこともあるのだ。

 重ねて試みたまえと申さぬし、誰も何も得られるものはないと思う。

巻之35 〔24〕日に向て弓を引かぬ事

 古人は日に向ては弓を引かない。

 今は狩りなどに出て獲物をみては東西に構わず、畏敬なきの至りであると。
 
 『保元物語』に、下野守義朝は白河殿に寄せようと、二条を東へ向かい出発した。

 安芸守清盛も同じく続けて寄ろうとして、明ければ11日東塞がりになるうえ、朝日に向かって弓を引こうとする恐れがあったので、三条へ打ち下り、河原を駆けて渡った。そうして東の堤に北へ向けて歩まれた。

 また『盛衰記』に、那須与一が屋島の軍に扇を射しようとする時に、扇の紙には日を出した恐れがあったそうだ。

 要めの程と志して兵だが放った。

 思う矢所は違うことはなかったという〔『余禄』〕。

巻之35  〔27〕律詩、塡詞(てんし、中国における韻文形式の一つ)


 一斎が語ったと伝い聞く。
 
 詩は律詩にいたってはじめて平仄(ひょうそく、順序やつじつまを合わせる)がある。
 
 塡詞に至ってはじめて四声がある。

 塡詞は一字一音に尽(つ)き絲竹に諧(かな)えて甚だつつしむ。

 三字句あり、数字句あり。

 平韻、仄韻並び用いて厳かである。

 律詩の中李青蓮の清平調、第二首、第三首、共に起句、落句の第四字韻を押す。

 艶燕国北これこそである。やや塡詞の如し。また第一首の起句、裳容韻に於いて通じる。

 これ等の体は、もと教坊に清平調があれば、それに協えて作り出せる者にこそ、塡詞の鼻祖(元祖)とも云える。

 また云う。

 今人は書を写すに、多く省文を用いる。

 言家、台家の僧がその書を写のを見ると、略字を用いる。菩薩を省して()と書する類はこれである。

 漢土には肖立半字を以て『国』『策』をうつせることは劉向の文に見える。

 肖は逍の半字である。立は斉の半字である。古今人事異ならぬ、この如く。

巻之30 〔39〕信州須原宿の一女

 庚戌(寛政2年1790年か)の下国の木蘇を経て、3月6日に信州須原に宿した

 駅路であったが、蘇渓の中の田舎であった。

 その夜閑を慰めて、紙筆を出して戯れに画を描いた。

 左右の者達が囲い観る中、且つその画を賜わりたいと請うてくる。

 小臣藤佐もまた描いたが、共に蘇の中の山川を景色を図していた。

 時に傍の屏風を開く者がいた。

 見れば一女である。

 年は28計り、画を観たいようす。
 
 それを左右の者は叱って退(ひ)くように云った。
 
 わしは「叱るでない。名とその主を尋ねよ」と云った。

 侍者は乃ちこれを問うた。
 
女は主人の名を知らなかった。

 乃ち退てまた来て「承りました、主人の名は某と申します」と云った。

 それから女の名を問うたが、咲(わら)って云わない。
 
 垢面蓬髻、腰囲臼の如く。

 帯を曳き躬を屈め、謹慎の態にふと咲いがおこる。
 
 わしは再びその名を問えば、徐(おもむろ)にして「ちょう(ちやう)」と答えた。

 わしは乃ち藤佐に命じてその画を与えた。

 女は顔に喜色をあらわし退いた。

 程あってまた来て言った。「

 結構な御画を下され、辱しう存じます」。

 満座は大いに咲った。

 その鄙野の状が見られた。

 後に聞くに、女は画を持っていき主人に示すと、家人みな集まって見たと。

 女の口上は主人の云う儘を承り云ったのだと、従行の庖(くりや)の者が語った〔筆記〕。

巻之30 〔40〕備後の今津宿の陰陽石

 また曰く。
 
 備後国今津宿のはずれの田中に石群れて転がっていた。
 
 その中に2つ大石があって相対していた。
 
 形は男子と女陰の如し。

 また2石の傍に紙の小旗が多くあった。

 その故を問うに、男女陰処に病ある者が祈って験あればこの旗を立てると云う。

 『煙霞綺談』に云う。安芸、備後の国境、田中に自然石の男根、陰戸の形、男は備後、女は安芸に属すると云う。

 陰陽石
     陰陽は二石の名。于今津の西路傍の田中に在り。その形一は陽茎に似て、一は陰戸に似たり。
     対偶相向かう、因ってこの名有り。
  
  陰陽儼(おごそか)として相向かう。毎に路人の嘲を惹く。左右に孫子多し。何れの時か接交を恣にせし。

巻之28 〔17〕目の不自由な人の発句

 俳書に目の不自由な人の発句を載せていた。如何にもその人達の情を能く言いのべたと愛(め)で思うままに書きつけた。
   
    能因や鐘に花散る證拠人       望  一
 
    行あたる壁にもさぞなけふの月    作者不知
 
    川音や心をぼえの山ざくら      祗  峰
 
    散ればこそ我にもかかれ花の露    一  種

  またわしはかねて杉山検校の歌とて聞いている。ここにしるそう。杉山は元禄中(1688~1704年)の人である。
    
    見てはさぞ聞しにまさる年月の
         心につもる富士の白雪
 
 この事を話し出すと、蕉窻(ばそう、芭蕉か)の言うのは、先年故塙検校へ、「生涯の歌を何によらずみな目をなくしてその境地に叶うように読みだして、一集をなさば、後世に伝えて面白きことなるべし」と勧めた。

 塙はそんなに聞き入れることはない様子だったが、今は過去のこととなった。

 目の不自由な人にまたは塙ほど和哥の出来る者も多くは生まれないだろうし、惜しむべきこととなったと語った。
 
  

巻之28 〔18〕唄の読み違い

 祖先君がたの夫人の侍婢であったと聞く。夫人の慰めとして『前太平記』を読まされる中、綱君の鬼の腕をきって納置(いれおか)れたのを、鬼の老女に変化して来て、奪い取ってたち去るの段に、
  
 一じようばかりのあつきとなりてはふをけやぶり出にける  

と書いたのを、『一升ばかりの小豆となって頰を蹴破り出にける』と読んで、人々は大いに咲(わら)ったという。

 またこの頃ある人が語るには、何の方のことかと有ったのだろう、

  長閑 成  霞  野辺 匂
  のどかなるかすみぞのべのにほひかな

 と云う句を、『咽が鳴る糟味噌の屁の臭いかな』と唄っていると云う。

 これまた咲(わら)える。
 

巻之26 〔13〕摂州能勢郡の居屋から出てきた書文

 文化14年10月のことだと。

 摂州能勢郡出納村の農夫勘兵衛はその居屋の葺き替えとしようと見れば、棟に竹筒があった。
 筒口を水銀ではってあって、心得ず思い開いてみたら、書文が入っていた。
 
 その大筋は、
「寿永年中(1182~1184年)安徳帝降誕のとき、知盛卿の所にも子どもが生まれた。
面貌は帝と似ているので、帝が西狩りのとき二位禅尼はこの子どもを帝と称して、幼帝は延臣等4人が潜に守護して摂州に隠れ居たるに、偽帝が入水し、建礼門院は源氏にとらわれた。延臣等時節を待って回復を計った。
が幼帝は病で夭崩ましませば、その葬地に宮を建て、若宮八幡と唱えた。
4人の臣の3人が次いで没し、我1人残ったので、後代に及んでこの宮を軽く扱い廃することなかれ」
との遺書であった。
 
 建保(1213~1219年)の月日があって、右中将経房と書いて押字も記してあったと云う。
 
 真に異聞であったことよ。
 〔調べてみると、この頃藤経房という者があった。
 『日本史』の云う。藤原経房は、養和寿永の間参議に任ず。
建久中民部卿に遷り、正二位権の大納言に至る。経房の人と為りは公正にして操を守有り。
世の為に推服せ所る。
静海の驕暴と雖ども、またこれを憚る。
朝のこれ大事に至れば、毎に焉を諮詢す。
平氏滅るに及びて源頼朝遥かに朝政を執る。
廷臣多く通問して修敬す。平氏の姻党と雖も皆然らずこと莫(なかれ)。
唯々経房は介立して阿附(あふ、へつらい従うこと)せず。
頼朝も夙(つと)にその人と為りを聞き特にこれを重んず。
正治2年(1200年)薨ず。年58。これに拠れば経房はこの人か。
けれども建保の号を以てすれば、経房の没する14年の後にしてこの事はありえない。
若し経房がこれを記すとすれば、建保は建久であるはずの伝聞を誤ったか。
抑また遺文と云うものは後の人の偽造する所だろうか〕。

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