『余禄』に云う。
播磨灘を渡るに、船中にて平家合戦の事を語れば必ず風波の難に遇うと云える。これは昔時戦死の亡魂が感怒すると。この事は奇怪で、信じられぬ。
以前、わしが東観の船行に、早暁に室の港を船出し、午時(うまどき)と思われる頃、須磨の辺りを過ぎた。わしはかねて舟人のかの物語を戒ることを知っているが、信用するに足らぬと、平氏西敗の時一の谷の破れ、須磨の合戦のことなど、侍臣等に指さして云い合った。すると八つ頃(午後2~4時)より次第に風が起こり、波が高くなって、後は小雨まさりになって風が吹き出て、日も暮れていき、四方は見えず暗闇にて今にも船は沈みそうになった。
余りに船がゆれるので、船行いか程になるかを問うに、「いまだ須磨の汀をはなれておりません」と答えた。この言に大いに驚き、舟子に命じて櫓を漕がせて、兎に角奮闘するうち、余程押しのび、兵庫の和田の崎と云う所に逮(およ)んだ。この時の風はいよいよつよく、船の揺れはまことに波の上を転倒するかの如くであった。
余りに恐ろしく思われ、小船をよせて移ろうとすると、乗っている船は大きく、小船を寄せようとするに、互いに浮沈する。高い時は5,6尺、低いときは6,7尺。その間4,5間もあって、乗り移ることが出来ない。近く寄せようとするが、船は相ぶつかり今にも砕けようとする。
これを見ると目も眩み、心は消え入る計であった。されどもそのまま居ると苦しいばかりであった。船屋形の口より小船の揚がるのを待ち、小船より水竿を出して取り付け、一斉に飛び移った。
その危難は今思い出すのも恐ろしい。これにつれて思い思いに4,5人飛び移った。跡にその船の間を顧みると3間許もあったろうか。
それより小船を押し行くと、雨はしきりに降り、風は強かった。火を灯すことなど出来なかった。冥黒の海上に押しいくこと故、一向に向かうあてなどなかった。濤(なみ)は山の如く、押しならべた船を見ると、山上に登り、或は谷中に入ろうと思われた。それよりようやく兵庫の浦に橙の見えるのを目当てに押しいった。
已に汀に及ぶ頃に、余りに波の寄せがつよく、左の脇に押していた船は転覆していた。そのうちに、わしの船は汀へ打ち上げられ、水手(かこ)はみな海へ飛び込んで、船をかかえて引き揚げた。この時ようやく蘇生の心地がした。
それよりこの港の旅舎、網屋某の処に抵って、宿するのを依頼した。時は八つ半を過ぎていた。この日はじめに風が起こった時、船ども沖の方を乗っていたものは散り散りになって行方知れずになったが、方々の港や沖に繫留などして、明くる日には寄り合い、無事でいたことを云う計であった。災いは一事もなかった。如何にも時節にてあるけれども、平氏物語の禁を犯した所と云い、不思議なことであった。
その後聞くに、わしの身内の醸泉翁という者が、若い時播磨灘を船行するに、かの平氏の物語をしたのを、船人はこれを戒めたという。醸泉翁は心の剛なる男で、いかで風波が起こることがあろうかと止めなかった。すると風浪しきりに起こり、激濤山の如くに大いに困難であったと。
その時杉の苗木を束ねたのを船の口に置いていたが、船に当たる浪にて向いの口へ打ちぬけたとぞ。風浪のすさまじさをことに知っておきたい。
翁老は後に人に語って、人のするものでないと云う事はするものでないぞと云ったと。
かの剛なる男も怖ろしく思ったとぞ。わしのことと同じ次第であったが、実は風浪の起ころうとする時あったのであろうが、また誣(し)いるべきでないこともあるのだ。
重ねて試みたまえと申さぬし、誰も何も得られるものはないと思う。