三篇 巻之22 〔12〕逼塞(ひっそく、江戸時代武士又は僧侶に科せられた刑罰)


 
 松防州も何か気の毒なことになってしまった。

 霜月23日のことだが、ある御勘定が来て飲宴の席にて、昨22日より、評定所へ仙石氏の家頼(家来)の呼び出しがあって、41人が御吟味ありと語った。

 わしは戯れて、赤穂は47人、出石は41人、6人足らぬと言ったが、笑いが起こった。

 また防州の医師に外宅(本宅のほかに作った家)した者、朝鼎の懇意の人があった。

 それを言うとて、去る13日御目付印封の物を持参して御尋ねがあった。

 因って慎んでこれの在る旨の達しがあったと。

 それなのに、門の出入りは固より、逼塞の体である。

 そうしている間に家頼の出入りも成らなくなり、かの医師も昼は入ることは出来ず、夜更けて潜に門を通り、また翌日の夜更けに出たということ。

 かの宅も外宅であるが侯の臣なので、同じく門戸を閉め、療用の外出も為されぬとぞ。
 
 この体ゆえ、ある留守居が語るには、侯の縁家近親諸々、松平釆女正、稲葉備中、亀井能登、溝口信濃、永井飛騨、阿部能登6家の留守は夜分8時代にして、浜田の邸に往って、その出入りに就き、連人の趣にしてかの邸中の食物、その余什器等の用を明らかにするというぞ。
 
 また聞く。

 この如き所以は先年長崎の港に異国船乱入のとき、佐嘉侯逼塞を仰せ付けられたときは(佐賀藩は長崎の港の警備を担当していた)、江戸邸の出入りはこの度の様であったが、内々は隣邸の界塀を穿ち、隣邸に頼み、隣人の如くして、隣邸の門より佐嘉侯の人は出入りしていたが、この度防州の邸は、四侯を一区として、四端はみな通り道であった。
 
 浜田の艮(うしとら、北東、鬼門)隣は閣老水越州、乾(いぬい、北西)隣は参政森川氏、東隣は溜詰松総州ゆえ、三隣の界塀を穿つに由なくして、相談は調わなかった。因って止めたことを得ずに、親類の留守をこう頼んだと思われる。

 またかの近親の留守が、わしの留守(の者に)に語ったのは、先日御目付御印封書を持参、御尋ねの筋があった所、一々恐れ入る旨御請に就き、早速差し控えを伺われたが、それには及ばず、慎みあるべき旨を仰渡に依り、嫡子某の式日登城等も伺われるので、これは遠慮するべきとの御達にて、今にては父子慎んで、外向の応対は一向成らずと。
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三篇 巻之3 〔9〕火の見櫓番が地震の時鼓を鳴らすこと、凌雲台の高さ構えのこと 

 駿台(スルガダイ)〔金三郎宅〕の宴会のとき地震があった。

 わしは坐を立って「地震は殊に嫌だ」と云っていたら、火消屋鋪にて合図を打っていた。

 みな驚き四方みると煙の気配はない。

 金弥〔族末忠右衛門の子〕は「某は先年ある火消屋鋪の火の見櫓に登って諸所を臨視する中、不図思いつき、櫓番の者に地震のとき櫓士は如何にと聞いたのです」と云うた。
 
 「番者は『動きが甚だしくて、櫓の柱をただ揺るがすだけでしたので、なかなか生きた心地がしませんでした。櫓は今にも傾き倒れようとしていました』と答えのです」と(金弥は)云うた。

 金弥は地震で怖い思いをしたことを思い出したのだろう、ここで地震の話題を止めた。

 だから知動(ジシン)が起こり、堪え難きときは鼓を鳴らすらしい。

 こうしてその日の鼓はこの通りであったと。 

 また火の見櫓の造り方は、この様な時自由に揺らぐのでなければ、材木は折れ砕かれてしまう。

 これまた知っておきたいことである。
 
 これは別事だが似ているので記しておきたい。

 『世説』に凌雲台の楼観精巧なり、先ず平して衆木の軽重を称す、然後造構すれば、乃錙銖の相い負くこと無し、台を掲げること高峻(けわし)にして常に風に随て揺動すと雖も、而終に傾倒の理無し、魏の明帝台に登り、その勢の危きを懼(おそ)れ、別に大材を以て、これを持するに扶(たす)け、楼即ち頽壊すと。論者謂う、軽重力偏る故なり。

 (注)『洛陽の宮殿薄に』に曰く、凌雲台土壁の方十三丈、高さ九丈、楼の方四丈、高さ五丈、棟の地を去ること十三丈五尺七寸五分なり。
 
 この土壁の方というのは、今の石垣土台の四方になるのだろう。

 高さはその長け、その上に楼が在る。

 下は楼の大きさ高さである。

 棟の地を去ることと云うのは、石垣の下より楼の屋根上までの高さである。

 すると『度考』に拠ると、魏の尺は今の7寸5五余りなので、石壁四方十三丈と云うのは、一間六尺の度にして、二十一間四尺、
  
   高九丈は、     十五間、
   
   楼の方四丈は、   六間四尺、
  
   同高五丈は、    八間四尺、

  総高十三丈五尺七寸五分は、二十二間三尺七寸五分である。その高構推し知るべし。  

巻之15 〔7〕琉球王子のよみたる歌

 先年琉球使渡来のとき、その王子が我国風によんだ歌を集めて書き留めた。これと云った歌ではないが、我風の異域の及ぶ一端がうかがえるので録した。
    扶桑の大樹公、御代をかわらせ給うにより、賀慶の使いとして、明和元〔申、1764年〕の秋むさしの国へ越され、肥前国松浦という所に至り、追い風がないので10日余り舟を止めて待ちながらよまれた。
                          読谷山(よみたんざ)王子朝恒
    遂にふく風の便りをまつらがた
        いく夜うきねのの数つもるらん
     伏見の里にて月を見て
    いつもかくかなしきものか草まくら
        ひとり伏見の夜半の月影
     富士山を見て
    人とはばいかが語らん言の葉を
        及ばぬ不二の雪の明ぼの
     霜月初(はじめ)つかたむさしの国にいたりかの所にて月を見て
    たび衣はるばるきてもふる里に
        かはらぬものはむかふ月かや
     帰路、浮嶋が原にて
   ふじの根の雪吹きおろす風みえて
        一むらくもるうき嶋がはら
     深草にて
   ふる雪にうづらの床もうづもれて
        冬ぞあはれふか草の里  

巻之2 〔38〕某侯の家老が遊女のもとで政務をとること

 もう昔のことであるが、奥州の知られた某侯の家老が新吉原の遊女のもとに通い、後は甚だしくなって、用心奉行などもみな誘って、もし従わらなければ己の権によって凌辱した。みなは恐れ随っていった。

  特に甚だしいのは一宿のみでなく、居続けて10日にさえ及んだ。随う用心奉行の輩も同じく居続け、その邸より官に申し出るべき願書も、みな遊宴の所にもって来て、かむろが取次いでかの家老に達したという。
 
 竟に主君の咎めをうけて逼塞された。

 これぞ寛政(1789~1801年)のはじめの事である。

 総て寛政にて維新の令を下される前は、世上の弊風これに類すること夥(おびただ)しいことであった。

巻之2 〔39〕家紋の由来

小出亀之助〔2000石〕と云って当時御使番なる人、わしも顔見知りで武辺者である。

この人の家紋は額の中に二八と文字がある。

わしはその故を問うた。

「我が先祖は某の処(地名は忘れた)に於いて首16を獲って、その辺の祠の額に積んで実検に及びました。神祖(家康公)に功労を褒めていただき、その状を家紋にせよと命じられたのです」と云った。  

巻之1 〔33〕人の事を暁(さと)らぬ者の事

  人の事を暁れぬ者があった。
 
 先年御成還御のとき、尾張町のあたりにて、御堂筋を人止めすれば、貴賤諸人みな止められて刻(とき)を移す間、溜っていた。
 
 わしもそのとき止められた中にいたが、やがて通御が済んだと、かためを払えば、止められた人々はわやわやと散っていった。
 
 その中に町人と思われるもの、独り言に「さても御威勢とて、誰叶う者はないが、さすが還御には御かないなされぬと見えて、かためを払ったのか」と云った。

 これほど事を暁れぬものがあるかと、あっけにとられた。

 

巻之1 〔34〕憲廟、酒井雅楽頭(うたのかみ)の死、上使、酒井家の臣の申すこと

 彦坂九兵衛〔寛政(1789~1801年)のころ御先手頭、今西丸御留守居にて大膳亮と云う〕が訪ねてきて談話のついでに、かの祖先のことを申し出る中に、憲廟(4代将軍家綱公)の潜邸の御時、酒井雅楽頭に深く愾(いかり)を覚えられた。

 それゆえ大統に継がせられた後、雅楽頭は病死するが、腹を切って死したとも風聞があった。
 
 九兵衛の祖はこの時大目付にてあったが、御前に召され、御目付北条新蔵と同じく命ぜられた。

 急ぎ雅楽頭の宅に行き、彼の死骸の様を見届けて来るようにと仰せであった。

 両人は速やかに雅楽頭の宅に到った。
 
 この時藤堂大学頭という雅楽頭の婿という者が来ていて、上使と承り出迎えた。

 両人は件の趣を大学頭にいった。大学頭は、「上意の趣は謹みて承り奉りました。

 雅楽頭は先刻病死されたことに相違ございません」と答えた。

 両人はまた「病死のことは素より上聞に達しました。我等が来たわけは、只死骸を見分ける為でございます」というが、大学頭は受け入れない。

 「武士の一言固(もと)より相違ありません。例え死骸を見られても、病死の外他義はないのです。この義は大学頭が申します旨、帰られて上聴に達せられますよう。もし上意に背いたとならば、大学頭1人代わって御勘気(家来や子供が君主・父にしかりとがめられること)を蒙りましょう。各達(おのおのがた)の無念にあらず」といいきった。

 もし再び言えばさしちがう様子なので、2人立ち帰ってその次第を言上した。その時言い甲斐のない事であった。
 
 (上様が)「如何様といえども、蹈込(ふんごみ)死骸を見届けて来られよ」と、御気色はげしくのたまうまま、2人また雅楽頭の宅へ走った。

 はや雅楽頭は葬送取り行い、その棺が門を出ようとする所であった。

 それゆえ馳せ帰り、またその由を言上すれば、憲廟は御気色を殊に損じられ、「それならば葬所へ参り死骸を堀り出し、蹈み砕いて帰られよ」と命じられた。
 
 2人は遂に雅楽頭の寺に行って、上意の趣申し述べたので、葬送に従う臣等は謹んで申すは、「雅楽頭の遺言の旨により、既に火葬し終わって御座います」。

 両人、できることもなく、御城に帰りそのままを言上した。
 
 そのままにて御沙汰もなかった。

 大学頭は上使に答え申して、速やかに出葬したのも、臣等が火葬してその由を答えるも、すべてこの頃の人のありさまは、感歎(なげき悲しむこと)にも余りある事である。

巻之1〔40〕徳廟の御膳にはさみ虫入る、その顛末

 徳廟(家康)の御時、いかが過ちか、御膳の御食器の中にはさみ虫と云う虫が入っていた。

 人々は大いに驚き御膳に預かる者は、みな罪を伺い申していた。

 政府にも「死刑相当ではないか」と評する者もあった。

 けれども先ず上旨を伺ってみようと申し出たので、上意には「その虫まだいるか」とお尋ねになった。

 「勿論おります」と申し上げれば、「それを膳に預かる者に食わせよ」と有ったので、その者どもは(一度はみな死を分としたので)、これ等のことを厭うことなく、快くしくした。
 
 それより上意には、「かの者はいかが別条ないか」と再々あった。

 「別条無くおります」と申し上げれば、「見よ、かの虫は毒なきものであったよ。我もまた無事であるから」とそれ以上のことは無かった。その沙汰は止み、どの者ももとの如く勤めに励んだという。
 
 百載の後に聞くも涙が出てきて、忝(かたじけな)く思い奉った。

 その時その輩の心持は如何ばかりであったろうかと推し量られる。

巻之1 〔42〕秋元氏の鎗のはなし

 これも秋元氏の宅にて、かの玄関の上に、世に鞍箱という鎗の鞘に金字で大きく無の字を蒔き出した槍が掛けてあるのを見る。

 わしは「かの鎗は何の由であるか?」と問うた。

 永朝は「吾が祖泰朝〔但馬守〕は大阪御和睦のとき総堀を埋める奉行でありましたが、堀は埋めるでないと神祖(家康公)の上意はありましたが、泰朝はそれを聞かず、人夫を促し、矢庭に埋め終わらせたのです」と云った。
 
 この時18歳であったとぞ。「無雙(ふたつとない)の若者である」とて、この御鎗を賜わりましたと語った。

 またかの家士の説には、駿府に於いて賜わった所と云う。

続編 巻之15 〔14〕神祖(家康公)と秀吉の評

 5月26日〔甲子〕、林子が訪問してきてさまざま談話する中で、曰く。

 継絶(けいぜつ、絶えた国の後を継ぐ)挙廃(きょはい、挙がる廃れる)と云うことは、神祖の御事業に多い。今の大名、高家、麾下(さしずばた)の旧家、及び神社、寺院等、みなこの事によらざるは(何事によらず完全は望みえない)無し。太閤秀吉は一時快活で、人の耳目を驚かすことは多いが、根本に拠ることは少しと云々。

これは席上の評だが、確言である。
 

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