2023/10/01
三篇 巻之22 〔12〕逼塞(ひっそく、江戸時代武士又は僧侶に科せられた刑罰)
松防州も何か気の毒なことになってしまった。
霜月23日のことだが、ある御勘定が来て飲宴の席にて、昨22日より、評定所へ仙石氏の家頼(家来)の呼び出しがあって、41人が御吟味ありと語った。
わしは戯れて、赤穂は47人、出石は41人、6人足らぬと言ったが、笑いが起こった。
また防州の医師に外宅(本宅のほかに作った家)した者、朝鼎の懇意の人があった。
それを言うとて、去る13日御目付印封の物を持参して御尋ねがあった。
因って慎んでこれの在る旨の達しがあったと。
それなのに、門の出入りは固より、逼塞の体である。
そうしている間に家頼の出入りも成らなくなり、かの医師も昼は入ることは出来ず、夜更けて潜に門を通り、また翌日の夜更けに出たということ。
かの宅も外宅であるが侯の臣なので、同じく門戸を閉め、療用の外出も為されぬとぞ。
この体ゆえ、ある留守居が語るには、侯の縁家近親諸々、松平釆女正、稲葉備中、亀井能登、溝口信濃、永井飛騨、阿部能登6家の留守は夜分8時代にして、浜田の邸に往って、その出入りに就き、連人の趣にしてかの邸中の食物、その余什器等の用を明らかにするというぞ。
また聞く。
この如き所以は先年長崎の港に異国船乱入のとき、佐嘉侯逼塞を仰せ付けられたときは(佐賀藩は長崎の港の警備を担当していた)、江戸邸の出入りはこの度の様であったが、内々は隣邸の界塀を穿ち、隣邸に頼み、隣人の如くして、隣邸の門より佐嘉侯の人は出入りしていたが、この度防州の邸は、四侯を一区として、四端はみな通り道であった。
浜田の艮(うしとら、北東、鬼門)隣は閣老水越州、乾(いぬい、北西)隣は参政森川氏、東隣は溜詰松総州ゆえ、三隣の界塀を穿つに由なくして、相談は調わなかった。因って止めたことを得ずに、親類の留守をこう頼んだと思われる。
またかの近親の留守が、わしの留守(の者に)に語ったのは、先日御目付御印封書を持参、御尋ねの筋があった所、一々恐れ入る旨御請に就き、早速差し控えを伺われたが、それには及ばず、慎みあるべき旨を仰渡に依り、嫡子某の式日登城等も伺われるので、これは遠慮するべきとの御達にて、今にては父子慎んで、外向の応対は一向成らずと。