これは久しい後のことで何時の頃であったろうか。久昌院殿は一軸を出して示された。
清(静山公)に仰せになったことは「この仏体は、御先祖法印殿(肥前国平戸藩初代藩主、1549~1614年)が御持ちであったと聞きます。
また武運の神なればとて、朝鮮御陣のときも、かの地へまで持ち渡られたそうです。その故か7年の艱難を凌がれ、また一度の敗れも取られなかったのです。
全く帰陣為れたこと、この御神のゆえでございましょう」
など物語られ、清が初めて平戸へ入ったとき、懇ろにこの一幅を受け給わった。
清は御言葉のままに、神前に備え、日時に拝礼し、東上には必ず携え奉る〔これは、過ぎし年に息子の肥州に譲り与えて、今は平戸の宝庫に納めている〕。
わしはまた思う。夫人の仰せには摩利支天女とあるのを心得て年月を経るに、後東武に在って、絵所住吉氏に請いてその画を鑒(かんが)みるに曰く。
「これは今の画ではありません。全く古の筆でございます」。すなわち鑒紙を示した。
咤枳尼天之影、巨勢有重真筆無ㇾ疑無者也。文化七年〔庚午〕正月廿一日、
住吉内記広行(印)〔後写真参照〕
さてこの巨勢有重と云うのは、『土佐系譜』に云う。
巨勢は金岡の末にして有康、有久、有重がある。
兄弟なるや、なからずや。按(しらべ)るに有康は嘉暦(かりゃく、1326~1329年)の頃、有重は文和(ぶんな、ぶんわ、1352~1356年)の頃と云う。
然るときは、嘉暦元年は〔丙寅〕、後醍醐帝の8年。文和元年は〔壬辰〕、北朝後光巌の元年、南朝後村上の正平7年、嘉暦正平相距(へだ)てること27年。
すると有重は、後醍醐の御時、或はその後の人としよう。
因って思うに、その咤(だ)天の法は、『盛衰記』に、清盛の奉じたと見えて、また或人より、『太平記』には、〔参考本〕、後醍醐帝のこの法を崇重されたことが有ったと聞けば、(この参考本を閲覧するに、このことは見えない。
けれど口碑の伝う所、他日を待ってその信を得る耳(のみ))、わが祖先若宮殿は〔この殿は、今城内に若宮明神と崇めし、鬼肥州殿の霊である〕、この帝の朝に、初めて肥前守に任ぜられ、『太平記』には筑紫に松浦鬼八郎と迄旧労の中に数え申した先代にして、南朝純忠の人である。
(清が)思うに、この若宮殿のとき、既に崇奉された武運の神なので、代々相伝わって法印殿におよんだものであろう。
乃(なんじ)見よ。
その相伝の武神なれば、朝鮮軍中にも持って往かれたものか。
○かの記、清盛が咤天(だてん)を行う事の条に、清盛がいう。「財宝を獲るには、弁才妙音に及ばない。
今の貴狐天王は、妙音のその一である。
さては我が咤天の法を成就すべき者にこそとて、かの法を行う。下略
また『参考太平記』に挙げた、足利清氏の願文には、
敬白 咤祇尼天宝前
一、 清氏管四海を領して子孫永く栄花に誇るべき事
一、 宰相中将義詮朝臣忽ち病患受て死去せ被るべき事
一、 左馬頭基氏武威を失い人望に背き我が軍門に降だ被るべき事
右(上)三箇条の之所願一々成就令めば者永くこの尊之檀度と為て真俗之繁盛を専にすべき仍って祈願の状件の如し
康安元年(1361年)九月3日(康安北朝後光巌の年号、南朝後村上、正平十六年 )
相模守清氏
この様に見える。
これ等は、私願の邪旨、忠謀の輩は味方にならねば、若宮殿の奉じらるは、時将に勢い盛んなる尊氏さえをも亡して、如何にも南方一統の世には復したいとの志望であったろう。
法印殿は奉じられたが、また韓役は曝軍無理の戦であるが、何にもして、太閤の宿意を達しようとの義勇であった。
これぞ孫末なる、不肖清が聊(いささ)か追考する所である。人それこれを択(えら)べ。
これは後世のことであるが、野長が云うのは、「神祖(家康公)関ヶ原御陣のときは、天海僧正はこの咤天の性を修されたと。
又、大阪冬御陣のときは、多武峰〔一代〕晃海僧正〔天海の弟子、実は米沢侯の子と云う〕、かの地に於いて、又この天の法を修し、守護献上と云う。
又、咤吉尼(だきに)は天女である。『大日経』、同じく『註疏』に、曠野鬼神と訳す、大黒天の眷属なり。
自書 その中先祖共咤天云々御一覧御評説待奉候。
林答 詳細なる御記載に御座候。何之存意も御坐無候。