続篇 巻之3  〔17〕おめぶと 主上の御草履

 ある人が示したものを収載した(図を参照)。
 おめぶと
 主上の御草履である。稲の藁にて作る。
 鼻緒は通常の草履のごとし。横緒は白い奉書紙にてまく。表のかた稿(わら)のみごである。
 はな緒のあまり紙にてつつむ
  ほそいわらなわにてあむ。うらのかた皮とらぬ藁である。麻のより糸にてからぬ。
  
 
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続篇  巻之4  〔5〕箱根七湯、木賀、底倉の二湯には

 箱根七湯の中、木賀、底倉の二湯には秀吉太閤の朱印がある。

 また神祖(家康公)の御朱印もある。

 木賀の亀屋新太郎と云う者の居宅の上の山に薬師堂がある。

 堂前の石に穴がある。

 これは太閤の入湯されたとき、この穴を鑿(ほ)り材木を指し入れ小舎(こや)をしつらえた痕と云う。

 この時の奉行は片桐氏にて、その名にて亀屋の先祖に朱印を与えられる。

 神祖もここに御入湯あって下された御朱印は先年箱根大地獄と云う地震があって、この居屋も山水に押しながされて御朱印を紛失してしまった。

 けれどこの故にて、木賀の温泉は今に両御丸に樽詰めにして献納した。

 これも以前は亀屋より直に納めた所、近来は小田原侯より献上されていると云う(鼎、目撃の話)。
 

三篇  巻之27  〔2〕久昌夫人(静山公御祖母殿)の受け給われた一軸のこと

 これは久しい後のことで何時の頃であったろうか。久昌院殿は一軸を出して示された。

 清(静山公)に仰せになったことは「この仏体は、御先祖法印殿(肥前国平戸藩初代藩主、1549~1614年)が御持ちであったと聞きます。 
また武運の神なればとて、朝鮮御陣のときも、かの地へまで持ち渡られたそうです。その故か7年の艱難を凌がれ、また一度の敗れも取られなかったのです。
全く帰陣為れたこと、この御神のゆえでございましょう」

 など物語られ、清が初めて平戸へ入ったとき、懇ろにこの一幅を受け給わった。

 清は御言葉のままに、神前に備え、日時に拝礼し、東上には必ず携え奉る〔これは、過ぎし年に息子の肥州に譲り与えて、今は平戸の宝庫に納めている〕。

 わしはまた思う。夫人の仰せには摩利支天女とあるのを心得て年月を経るに、後東武に在って、絵所住吉氏に請いてその画を鑒(かんが)みるに曰く。

 「これは今の画ではありません。全く古の筆でございます」。すなわち鑒紙を示した。
 
 咤枳尼天之影、巨勢有重真筆無ㇾ疑無者也。文化七年〔庚午〕正月廿一日、
                     住吉内記広行(印)〔後写真参照〕

 さてこの巨勢有重と云うのは、『土佐系譜』に云う。

 巨勢は金岡の末にして有康、有久、有重がある。

 兄弟なるや、なからずや。按(しらべ)るに有康は嘉暦(かりゃく、1326~1329年)の頃、有重は文和(ぶんな、ぶんわ、1352~1356年)の頃と云う。

 然るときは、嘉暦元年は〔丙寅〕、後醍醐帝の8年。文和元年は〔壬辰〕、北朝後光巌の元年、南朝後村上の正平7年、嘉暦正平相距(へだ)てること27年。

 すると有重は、後醍醐の御時、或はその後の人としよう。

 因って思うに、その咤(だ)天の法は、『盛衰記』に、清盛の奉じたと見えて、また或人より、『太平記』には、〔参考本〕、後醍醐帝のこの法を崇重されたことが有ったと聞けば、(この参考本を閲覧するに、このことは見えない。

 けれど口碑の伝う所、他日を待ってその信を得る耳(のみ))、わが祖先若宮殿は〔この殿は、今城内に若宮明神と崇めし、鬼肥州殿の霊である〕、この帝の朝に、初めて肥前守に任ぜられ、『太平記』には筑紫に松浦鬼八郎と迄旧労の中に数え申した先代にして、南朝純忠の人である。

 (清が)思うに、この若宮殿のとき、既に崇奉された武運の神なので、代々相伝わって法印殿におよんだものであろう。

 乃(なんじ)見よ。

 その相伝の武神なれば、朝鮮軍中にも持って往かれたものか。

 ○かの記、清盛が咤天(だてん)を行う事の条に、清盛がいう。「財宝を獲るには、弁才妙音に及ばない。

 今の貴狐天王は、妙音のその一である。

 さては我が咤天の法を成就すべき者にこそとて、かの法を行う。下略

 また『参考太平記』に挙げた、足利清氏の願文には、
   敬白 咤祇尼天宝前
一、 清氏管四海を領して子孫永く栄花に誇るべき事
一、 宰相中将義詮朝臣忽ち病患受て死去せ被るべき事
一、 左馬頭基氏武威を失い人望に背き我が軍門に降だ被るべき事
右(上)三箇条の之所願一々成就令めば者永くこの尊之檀度と為て真俗之繁盛を専にすべき仍って祈願の状件の如し
  康安元年(1361年)九月3日(康安北朝後光巌の年号、南朝後村上、正平十六年 )
              相模守清氏

この様に見える。

 これ等は、私願の邪旨、忠謀の輩は味方にならねば、若宮殿の奉じらるは、時将に勢い盛んなる尊氏さえをも亡して、如何にも南方一統の世には復したいとの志望であったろう。

 法印殿は奉じられたが、また韓役は曝軍無理の戦であるが、何にもして、太閤の宿意を達しようとの義勇であった。

 これぞ孫末なる、不肖清が聊(いささ)か追考する所である。人それこれを択(えら)べ。
  
 これは後世のことであるが、野長が云うのは、「神祖(家康公)関ヶ原御陣のときは、天海僧正はこの咤天の性を修されたと。
 
  又、大阪冬御陣のときは、多武峰〔一代〕晃海僧正〔天海の弟子、実は米沢侯の子と云う〕、かの地に於いて、又この天の法を修し、守護献上と云う。
 
  又、咤吉尼(だきに)は天女である。『大日経』、同じく『註疏』に、曠野鬼神と訳す、大黒天の眷属なり。
   
   自書 その中先祖共咤天云々御一覧御評説待奉候。
    
     林答 詳細なる御記載に御座候。何之存意も御坐無候。
  
              
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三篇  巻之11  〔8〕枕上の歌、今の歌古詞と入れ替える


 乙未(天保6年、1835年か)の春の初めに、檉宇に書通して聞けば、蕉堂も風邪感冒して在褥(しとねの意)とのこと。

 この度の風邪は流行っており誰も病んでいる。

 かの賢者も免れず、哂(わら)って文通して安否を問えば、曰く。「病中は常と違い大いに閑がある」。
 
 さて各処より新陽の国風を示す者が多い。

 その詠に皆古詞を入れ替えたのみにして、殊更東歌京歌の分かちも思われない。
 
 昔は国風(くにぶり)と謂うこともあって、如何にして今は人真似ばかりに成っていく人気かと、例の悪口にて、枕上の戯作となったと書き示した。
  
   春のはじめによめる
 初かぜに千よの調ぞ聞ゆなる
      おほきの門の松竹のこゑ

  常とはにみつばよつばの殿つくり
      あらたまりぬる春の一日は
 
  君と臣の契り久しきためしとて
      としの初にみきたまふ也

  長閑(のどけ)さの初なるらしこすのとに
      かすみをくみてつどふ緒人

  武士の布ひたたれのさまざまを
      春のにしきのはじめとぞみる

  緑りそふ松もおほきの御溝水
      はるは千とせのかげをうかべて
 
 とざしせぬ御よのしるしか春とともに
      明るをまたで人もとひ来る
 
 にぎわへる民のけぶりの立そひて
      かすみもはやきむさしのの春

  武蔵野の広き恵のはる風に
      千さとの外もなびく民草

  春風は我東路に吹初て
      いたりいたらぬかぎりやはある

  山の名を猶こそあふげ出る日の
      ひかりくもらぬ君がよのはる

  以上を見ると、流石柳宮の儒官である。

 信に林子の前論、将軍様附きの者どもは、誰もこうあったと、柳間の大名壱岐入道は大いに感服した。

 (先日拙歌の御評未だ仰せ下さらず。何とぞ御評判待ち奉っております。タヒラ。猶(なお)拙文之貴評を冀(こいねが)っております。清。おもしろき御戯評にてあります。たひら)。          

三篇  巻之5  〔11〕法華宗の崇信甚だしくなりて


 近ごろは法華宗の崇信が甚だしくなった。

 天保3年(1832年)の夏、豆州三嶋の婦人が3人山禁を犯して題目を唱えて富士山を上った。
 
 これまで登山の輩は、以前弥勒〔人名〕と云う行者が、祈って山神の霊告を得た。
 
 弥陀(阿弥陀の略)の名号を高唱して上ることが始まった。

 そうであったがこの度法華宗がはじめて題目を高唱して山を上ったという。

 その後この輩は、山中の多宝塔を建てたが、山神はそれを受け入れなかったのか、間もなく崩れてしまったと云う。

 またかの徒、かの宗の尚(この)む所の七面堂、番神堂、鬼子母堂を建てたが、今年(5年)の4月富嶽水変のとき、かの堂宇を建てた人里の村々の皆その災いを蒙った、と。

 その所々は、南北へ吐き出した八ヶ村、御陵〔北口〕柴田善之丞支配所へ砂水が入り、その中明見(あすみ)村、下吉田村にて100軒余り土中に埋もれ、牛馬も多く倒れた。

 人は白昼ゆえ死ななかったが、南口は御料並びに水野羽州の領地へ吐き出し、再び5月の末に至って再びこの災いがあって、かの3つの堂も災いに罹ったと聞く。

 そもそも天の怒りか、また山霊か、不思議なことであった。 

三篇  巻之8  〔12〕 御本丸御月見のとき用いられた御島台

 
 1日(9月)一斎に話すことが有って物語る中に、上野の宮の御許に参じたとき、御本丸御月見のときに用いられた御島台とて、宮の御傍に在したものを見せていただいたが、その台見就(みつ)き一間にも過ぎるので、裏に人物あって凡そ50余りとも云うベく、居室草木みな具わっている。
 
 人形の長(た)け1寸5分ばかり、家屋もそれに協う。

 而して屋中にある器の大略、文台の大きさは1寸ばかりになり、文房の具はみなギヤマンである。

 その小さなるものを知っておきたい。

  また時計があって、高さ1寸3,4分、自ら鳴ることはないが、その体は本物と異ならない。

 他の器も推して知っておきたい。松の樹の根末は囲いで2尺許(ばかり)、蟠窟から垂れた枝は居室を覆っている。
 
 能く視ると、朶々(えだえだ)みな鼈甲(べっこう)の女櫛を比(なら)べ重ねて、梢葉の状をなしている。
 
 宮の仰せには、僧のこの様な物を用いる所はないと。

 実にただ翫覧に提供する耳(のみ)である。

 王維(中国盛唐の詩人画家)の画賦に、丈山尺樹寸馬豆人と云える、想いは合わさった。

巻之21  〔34〕無人島にて


 『玉露叢』に云う。
 延宝3年(1675年)4月5日に唐作りの御船、伊豆の下田を出船して、同7日に八丈嶋へ着岸し、同9日にかの嶋をまた漕ぎだし、同29日に人なき嶋へ着きました。

一、 元嶋の長さは16里、横2里程あります。湊2つ有り。この嶋にある物の品。

一、 四足の鳥、大きさは鳩程である。つらは猿に似て、羽は蝙蝠の如し〔但しこれは琉球のこうもりのよし〕

一、 海老、大きさ6尺程である。  一、かき色の鷺  

一、 黒鳩    一、烏      一、目じろ

一、 うそ    一、亀      

一、 びんろうじの木        一、やしほの木

一、 桐の木に似た木

一、 カチヤンの木〔しゃかがしらの様な実がなります〕

一、 桑の木   一、せんだんの木   一、榎の木

一、 山椒の木〔実はいかにもこまかであります〕

一、 ショウバン  一、ロクハン

 この嶋の近所に小嶋が16ございます

一、 沖の嶋の廻り18里程でございます。湊は2つあります。右(上)嶋にある品。

一、 雉子より少し小さい鳥にて、せいは高くして、毛はるり色にして、足は赤いです。さてなるほど足は速きものです。この鳥に粉餅を見せると、くれくれと鳴きます。

一、 黒鳩    一、檳榔子の木   一、やしほの木

一、 小チヤンの木

一、 犬ゆずり葉に似た木に柿の様に実がなります。

一、 2かい程の木の葉は大角豆(ささげ)に似ております。実もささげの様。

これらの嶋の近所にいくつも小嶋が有る。

一、 日月星は、日本にて見るよりは大きく見えます。御船は6月5日に人なき嶋を出船して、同17日に豆州下田まで帰帆。同19日の晩景に及んで品川沖へ着きました。

一、 無人島より八丈嶋迄海路430里程有ったかと思います。

 巻之80  〔4〕沼田領の奇植

 林子が云う。
 
 近ごろ〔丙戌5月、文政9年、1826年か〕沼田領〔土岐山州〕に奇植があった。すなわちその藩士より我が社中に示す紙片とて転送する。
 
 上州山田郡梅田之里、左羽清右衛門と申す者の庭に、野篠よりは長け高く、朱色にて少々節がある。
 
 花は石榴の様で白く一本に五りんほどある。このものは二根が生じている。

 また同処粟田清蔵と申す者の椽下に、女の髪の毛の如きもの二間ばかりの内に生じております。これは女の毛髪を植えた様に本末もなく、細く長け一尺五寸ばかりある。この二物 は如何なるものかわからない。吉凶悔吝如何、博物君子に問うことを希う。
                       同所奉行 相馬武助
                       同町支配 藤居久八

 愚考には、前の朱色なるは天麻だろう。

 先年この隠邸の外園にもふと一根を生じたことが有った。

 翌年には生じなかった。
 
 後のものは、先年三河の人の随筆に、かの辺の寺に蔵めた七難のそそ毛と称するもの、また往昔の霊婦の陰毛と云うものこの類だろう。

 その書今は失ってしまった。

続篇  巻之58  〔4〕三子の届け


 檉宇の書通の中、例の冊子に記すべき奇聞があったとて、この一紙片を遣して来た。

 孿(双)生は往々あり。三子は珍しい。
   
  定火消
      近藤彦九郎同心
       元飯田町 時谷般五郎 卯三十六
            同人妻きし 同三十四
       三子名前 三番目出生 惣領 鈸之助 
            弐番目出生 二男 鋒之助
            壱番目出生 三男 鎔之助
  この者、当卯正月廿八日明六ッ時出生にございます。三人とも達者にしております。

巻之56  〔24〕二本松の地変

 蕉堂が、二本松侯〔丹羽氏〕の領邑に地変があったので人の死等多くあったと聞いたかと尋ねてきた。

 それですなわち侯の留守にわしの留守居を以て問わせたところ以下の様に返答があった。

 私の領内陸奥国安達郡深堀小屋地所嶽山之内、温泉がありました。湯治人が集まる小屋並びに湯小屋等のある所、去る十三日より大風雨があって、同十五日夜四時頃、温泉北の方鉄山という山のある処の山の中程より崩落しました。上の小屋という小屋は大方潰れ、土中に埋もれました。湯治人並びに同所に居るものに怪我人、即死の人が出たが、速やかなる取り調べが出来かねました。死人、怪我人の人数も分かりかねます。が念を入れて取り調べた上、改めて伝えますので、在所の役人どもより申し来る間に、委細の義は追って改めて御届けいたします。先にこの段にて申し上げます。以上。
       八月廿六日            丹羽左京大夫  

私の領内陸奥国安達郡深堀小屋地所嶽山之内、温泉がありますが、湯治人の集まる小屋並びに小屋等のある処、去月十三日より大風雨に加えて、同十五日夜温泉北之方に鉄山という山のある処の山の中程より崩落しました。これらの小屋という小屋は残り少なに打ち潰れました。土中に埋もれ、湯治人並びに同所に居た者に怪我人、即死人も余程の数に上る様子です。速やかなる人数の確認も取り調べも出来かねました。念を入れて調べましたので、追って届け申し上げます。去月御用番松平右京大夫殿へ御届けいたします。埋められた場所は追々に現れたので分かってきました。調べた次第は以下の通りでございます。
 一、家数十三軒  内十一軒押し埋め、二軒大破
 一、湯坪四ヶ所  押し埋め
 一、六拾五人   死失人。内四十五人男、二十人女
 一、五拾一人   怪我人
 この通り在所役人共より申してきたので、この段御届け申し上げます。以上。
       閏八月十一日           丹羽左京大夫


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