続篇  巻之10  〔16〕『節分豆打図考』

 戌子(文政11年、1828年か)の正月2日、松の舎与清、1本を持ってきて、歳首(歳のはじめ)を賀すと云う。その本に題して云う。『節分豆打図考』。その文並びに図(写真参照、以下文ママ)。
 『躬恒集』、しはすのつごもりの夜、儺(ナ)の鬼を、乀おに(鬼)すらも都のうちとみの(蓑)の笠をぬ(脱)ぎてや今宵人にみゆらん
 『新撰六帖』一、衣笠内府、としのくれ、乀もゝ敷の大宮人もき(聞)ゝつ(継)ぎて鬼おふほどに夜は成にけり
 『宗長手記』下、節分の夜、大豆うつを聞て、乀福はうちへいり豆の今夜ももてなし(饗応)をひろひ(拾)ひろひや鬼は出らん。京には厄おとしとて、年の数銭をつゝみて、乞食の夜行にお(落)としてとらすることをおもひやりて、乀かぞふれば我八十の雑事銭やく(厄)(役)とていかがお(落)としやるべき
 『当時年中行事』上云。節分、ちらし(散)あぶら(燈)を供ず。夕方常の御所(清涼殿)例の御座にて御盃まゐる。先芋〔かはらけ二ッに入〕供ず。次に豆〔かはらけに二ッに入〕を供ず。次に折櫃(オリウヅ)二ッ、豆を入て、三方にすゑてもてまゐる。陪膳三方ながら御前にさしよす。折櫃二ッのふち(縁)を合て、二ッながら御左の手にとらせ給ひて、折櫃の中なる、豆のうへ(上)におほ(掩)ひたる土器(カハラケ)を、右の御手にて吉方(エハウ)へ三反打(サンベンウタ)せ給ふ。吉方若(モシ)御うしろ(後)の方ならば、御うしろざま(後方)に打(ウチ)給ふなり。打終らせ給ひて、三方に置せ給ふ。陪膳とりて勾当(コウタウ、勾当内侍)に伝ふ。
 勾当二(フタツ)の折(折櫃)を左の手にてとり、右の手にてうしろざま(後方)に、立
ながら一間に三反づつ打て、御殿(清涼殿)中御湯殿(ヂュウオユドノ)の上までをうち(打)め(廻)ぐる。此間(アヒダ)に土器(カハラケ)に入たる豆を御年の数まゐる。勾当帰り参りて、香炉に追儺香(ツヰナカウ)をくゆ(薫)らかしてもてまゐる。かが(嗅)しめ給ひて返し給ふ。女中次第にとり渡してき(嗅)く。その後勾当内侍また御殿中を持てめぐる。次に銚子いづ。御盃まゐりて、一献(イツコン、流杯)通る。御前を徹して、さげ直衣め(召)さしまして、御方違へになる(幸)。内侍燭を持て御先へまゐる。次に勾当ひとへ(単)ぎぬ(衣)着て、御剣(ミハカシ)をもてまゐる。御後(ゴゞ)には女中襠(ウチカケ)ばかり着て、ひるまうけ(昼設)の所にいら(入御)せましまして、三献(サンコン)まゐる。三こんめ天酌にて、女中男(ヲトコ)御通(流杯)しあり。御前を徹して、殿上へ(人イ)御鶏三声の後還御。勾当御やくはらひ(厄払)〔豆は年の数。鳥目も年の数。引合一かさねにおしつゝむなり〕、持てまゐる。御身を撫られて返さる。給はりてうしろ(後)をかへ(顧)りみざるやうに退(シリゾ)くを故実とす、云々。
 按、節分の夜の豆打〔『壒嚢抄』〕一、『附喪神記』、『元長日記』文亀四年(1504年)正月十一日条、『宣胤卿記』永正十四年(1517年)十二月十六日条、『宗長手記』下、『宗牧東国紀行』、『世諺問答』十二月条、『羅山文集』五十六、『当時年中行事』上〕
鬼を追う〔『躬恒集』、『新撰六帖』一、『夫木抄』冬三、『下学集』時節門、『宗長手記』下、『宗牧東国紀行』、『羅山文集』五十六〕
 福は内鬼は外〔『宗長手記』下、『羅山文集』五十六〕
 厄払〔『宗長手記』下、『当時年中行事』上〕
 鰡(ナヨシ)のかしら〔『土佐日記』〕
 鰯の炙串(ヤキグシ)〔『壒嚢抄』一、『四季物語』十二月条〕
 拘骨(ヒヒラギ)〔『土佐日記』、『四季物語』十二月条、『多識篇』灌木類部、『羅山文集』五十六〕
 燻薬(カギグスリ)〔『四季物語』十二月条、『当時年中行事』上〕などいえる名目、古く物に見ゆ。豆をもて邪気を駆(カリ)、或は祝事に用るは、漢籍(カラブミ)〔『事物記原』『東京夢華録』『太平御覧』『類書纂要』『広東新語』〕に見えたるいとおほし。また追儺に赤丸(セキグワン)五穀を播(ホドス)よしありて〔『後漢書』礼儀志注〕、此五穀の中には大豆(マメ)もこもりたり。文政十年(1827年)十二月廿日節分夜。源与清識。
 勾当内侍〔第一掌待、或は長橋局と号す〕豆打及に散油(チラシノアブラ)〔切燈台〕図は、平戸の藩士山本景興蔵する所の土佐守藤の光貞朝臣之図を以て、同藩の士井出利泰写する之を模する者なり。
 


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巻之79  〔18〕華鬘(仏具)

 僧家に華鬘と云う仏具がある。このことをある釈氏に尋ねたことに対する答えをここに録する。
 
 『摩梨支菩薩経』の巻の七に云う。

 二手を以て金剛拳を作りし、金頭指を少なく屈して、心上頂上に安し、復た心上復た胸上額上に於する、華鬘を繋るが如くし、擁護を以て為す云々
 この文を以て考えるに華鬘を繋るとは、この方の冠に日蔭を着る如く、糸にて華形を結び垂らして長く造るのを額の頂、頂の前、胸の辺りに垂らして、身体の厳飾と為すことと見える。華鬘の様を十分に想像できるだろう。

 和訓ではなかづらと謂うものだろう。

 華鬘、梵名摩利〔未利とも書く〕と云う。摩利支を華鬘天女とも云う。

 『翻釈名義集』〔巻三〕に曰く。摩利、此に奈んと云う。また華鬘と云う。鬘に作るに堪たり。

 『善見律』に云う。広州その華有り、藤王なりと。

 『名義集』〔巻七〕に云う。末利ここに黄色華と翻す。華黄金色の如しと見える。また摩利夫人と云う人あり。末利夫人とも云える。祇陀太子の妃である。

 この末利もここに鬘と云うと『名義集』に見える。

 末利、摩梨、麻里支天、何れも華鬘のことで、鬘に作る。華の名である。

 こうして本は華を貫いて鬘に掛けるが、後には糸を結んで飾りにするものも華鬘と云うことも有るだろう〔末梨花とて、植えて清翫に供ずる花は、南地の摩梨花であろうか。末梨は梵語のままを伝えている〕。

三篇  巻之77  〔6〕松尾の御神体と東氏

 過ぎし頃(辛丑、天保12年、1841年か)に京の松尾神職、東三位と称する人のもとへ御朱印頂戴に下った。

 わしの角力緋威(ひおどし)と京に手は懇意であったと云うので、かの宅へ寄寓したのだ。依ってわしは一夕招かれた。
 
 この東氏は、松尾の神職になるが、また一家に南氏と云うのがあって、南東を代わるがわる当職を持っていた。
 
 今年は東氏の番年なので、東三位に出府した。

 因ってある時ある人の話に、嘗て南氏が当職のときに、何れの時か、と曰く。

 「松尾の社は、神秘と謂えども、その社の預かりとして、その神体をよくわかっておらぬとはいかんと云って、社の扉を開けたのだ。すると忽ち眼はつぶれて、観ることが出来なくなっている。そのときから今に至るまで、その孫は短睛(チカメ、今でいう近視)、または通睛(ヤブニラミ)等、眼(マナコ)に祟りあって、啻(ただ)ならない。東氏はこの厄に運命づけなければ、普通の人であった」と。

  『都名所図会』に云う。松尾社。本社は祭る所二座にして、大山咋の神、市杵嶋姫なり。神秘あり。
 
 またかの社司曰く。

 この松尾の明神は、世は酒の神と称して、国々の酒家々々より、神供料を献じること夥(おびただ)しい。

 けれどそれは本当ではなくて、何もその神の酒に縁(ユカリ)はない。

三篇  巻之17  〔13〕壱岐生れ渡良左衛門


 天祥院殿(松浦重信1622~1703年、肥前国平戸藩第4代藩主、平戸松浦氏第29代当主)は客を好み士を大切になさった。
 故に武功達芸の者を招き寄せていると、遂にみな我が臣となった。

 伝わる話である。領国壱岐生れの一丈夫があった。身の長けは並みの人を大いに過ぎた。公はこの男を渡良左衛門と呼ばれた。渡良とは壱岐の郷名である。
 
 また今平戸に薄香(うすか)と云う処に、この者の墓石が建つ。石の高さは7尺許り、前面に法号を刻していない。渡良左衛門の名姓を刻している。
 
 人は言う。かの男が没して、その身の尺を以て墓石の高さとした。蓋し公の命じたところである。また壱州国分村天神の境内に、渡良左衛門の等身(セイクラベ)の石という者がある。その高さ7尺余りと。するとこの男の身長(ミノタケ)は7尺を過ぎていたのだろう。

  またこの男、はじめは賤卒であった。和州の家の伝えには、退入殿〔俗称織部、退入は致仕の号、天祥公の第二子〕は江都に於いて分家の後は、その外行には鎗を持って駕前に従ったが、ある時途中に所謂大八車があって横だわっていたので、邪魔であると両手車を挙げて道側に移したと。その力量知るべし。

  またある貴家が、この大兵を聞き及ばれ、召してその前に出ずる。侯はこれに巵(盃)酒と大鰕(イセエビ)とを賜う。渡良は既に1升の酒を飲んだ。侯曰く。「能復飲乎(ヨクマタノンカ)もう一杯飲むか」。渡良乃ちまた1升を傾け、大鰕の肉殻を食い尽くし、謝して辞した。侯謂(い)って壮士とした。帰ってまた具(とも)に天祥公に申した。公は殊に悦色の面持ちであったと。
 
 また藤邸〔和州居邸の私称。その故はあるが今ここに書くのは略する〕の人より伝わる。かの蔵む器の中に渡良の佩刀があった。柄の長さ1尺5寸2歩余り、鞘は3尺9寸6歩余り、中刃はこれに随う〔他は準じると察してほしい〕。殊に巨刀であり、その刀装を細注して示す。
 
 わしはすなわち曰く。「これは渡良の刀ではないか」。もしかしたらそうかもしれないと、藤邸の蔵簿を覧(み)ると、果たして野太刀と記して、渡良の事は記載していない。
 
 また上邸〔鳥越の私邸を云う〕にも、今平戸の旧蔵を携えてくると、また野太刀が記してあった。その尺(た)け、刀装中刃に到る迄これと異ならぬ。
 
 そんなとき天祥院殿の時、遠く法印公(松浦鎮信、1549~1614年。平戸藩初代藩主、平戸松浦氏26代当主)の朝鮮に用いられたのを、伝修して新たに二振りを造られた。一は退入殿に与えられたらしいのも計り難い。

  藤邸の刀茎には(藤邸の銘は、以下の如し、けれど文字朦朧も分かちがたい。ただ彷彿によるもの。上邸は、総て銘無き様なものであった。けれど、器薄兼法の作であることを録していた。銘もまた彷彿か)、濃州関住藤原□□兼法作とあった。『鍛冶考』を閲覧すると、関兼法は3人あった。時代上は永正(1504~1521年)、次は大永(1521~1528年)、下は永禄(1558~1570年)。且つ曰く。「子孫代々同名多しと云うが。するとこれは法印公の用いられたものか。また天祥公のとき、子孫に命じて造られたか。吾が祖先と雖ども、100年上のことは、天眼でなければ測り難い。因ってその実を得るには、後世の畏を頼みたい」。

 また藤邸の老人が云い伝える。「かの渡良は、退入殿の鎗夫に命じられ、退入君の外行には、武庫なる大刃(オホミ)の鎗を執(モ)って、かの巨刀を帯し、馬脇に従ったものよ。人がこれをみると、退入君の馬上の長けと、その高さはそろっていた」と。
 この話を聞いて、わしは思った。わしの少年の頃、雲州侯の角力、世に聞こえた釈迦嶽なる者は、身の長け7尺に余ったという。わしはこの頃身の卑しかったので(本妻の子でなく当時兄君がおられ、藩主になるとは思われない時期があった)、回向院にして相撲のある毎に、その門前の市楼に上って人行を観に、領国橋上を渡る群行、釈迦嶽の頭や馬上の人と並んでいた。

 すると藤邸古老の話は、全く誣(いつわり)でない〔また退入君は、この頃は中奥御番にて、御旗本の勤めであったので、前に駕辺というものは誤りであり、ここに馬上と云うものが正しいと思われる〕。

三篇 巻之59  〔13〕柳生但州、右大将様御剣術御相手被仰付之

 亥9月29日の沙汰書に、
              柳生但馬守
  右大将様御剣術御相手に付き之仰せらる。

  右芙蓉の間に於いて、老中備中守列座、中務大輔渡之申す。と見える。

  就いて思い出したことは、以前但馬守〔俊則〕と称したのは、実は松前氏よりの義子であった。
  
  わしは若い頃はかの氏と懇意にしていたので、因って但州とも知己であった。但州はその頃は年既に70になっていたが、衰えもせず勤めていた。

  わしはこのほどより剣術を好んでいたので、ある日但州に、「貴殿の剣法を語り聞かせいただけませんか」と言えば、「易きことではあるが、貴殿の剣術は、上の御流儀なので、話もまた固く戒めております」と答えた。

  わしは「では禁言の誓詞を認めて聞きましょう」と言った。

  但州「そうではありません。そちらの流を改めて某の家の剣法を学ばれるならば、すなわち流旨を述べるということです」と言った。

  因ってわしは流石に心形刀流(静山公はこれを修業した)をも捨てがたく、そのままに今日に至っている。当時を顧みれば惜しいことに思える。 

  わしはまた、「上へ教え奉るには如何にしてなさいますか」と問えば、「御教え申すとは言わず、御相手と称します」と言った。

  わしはまた「そうして如何為されますか」と問えば、「剣法のこととて言うべからずですが、部屋〔ここのことを忘れている〕にて衣服を更め、湯衣(ユカタ)を着て、袴は勿論、襷(タスキ)を掛けて、御相手を仕ります。その心配り推し給うてくだされ。御相手畢(おわ)って部屋へ退けば、太息(タメイキ)をつき、汗を拭うものです」と語った。

  この余は記すに及ばず。誠に上の御身分、御武職を継がせられること、芽出多久(めでたく)ぞ思い奉る。 

三篇   巻之77  〔18〕石翁、上屋鋪へ帰るべきか

 世態と謂うも是非なきものである。

 音に聞こえる石翁も、この節の享保寛政度に復すると云っては色めいた。

 がその駿河台の上屋鋪、子の讃州が日々かの隠宅に来て、隠荘を去って上屋鋪へ帰るべきと促すまま、去月晦日(先月最終日)に立ち出ると聞こえきた。

 今日も使いの者を出して聞けば、その日は障りがあって、6月5日に駿河台へ帰ると答える。

 これ等はこれでそんなものだが、家器(家庭の日常道具)と居処の結構は如何になるのだろう。

 わしの角力の二子も彼処(かしこ)に仕われているが、この度のことで、翁の貯えた衣服を渠(かれ)に与え、角力の大男が両人、殊に大きな包みにつつみ、二包みを持ち還ってきたと。如何なる衣服であろうか。
 
 この外の園樹、小亭、池橋などは、誰々かに与えた。わしがこれまで懇意にしていたかの家臣嘉平と云うものはあとに残ると云う。

 するとその屋舗は、翁の物であって、中野氏の別墅(ショ)であるか。
 
 また翁のうえを思うにも、恭廟(13代家定公か。家定公の院号温恭院)の御恩偶を失っては、憑(よ)る方もなく、またかの奢侈(しゃし、身の程以上の贅沢)も贈る者が絶えれば、驕るにも至らないだろう。

 況や天運尽きれば、そうなるのも尤もである。
 
 昨2日にも、白鬚祠に詣でると、藝花(植木屋)平作に立ち寄って、翁に便りを送ると、その答辞に「もはや遠からずこの荘を立ち去ろうと思っています」。するとこれよりは拝晤(謹んでお受けするの意)も叶うことはないだろう。

 けれど時々この隠荘には来ることはあるだろう。

 そのときは必ず知らせて訪ねてこられよ。

 寛晤(かんご、気軽に会う)を互いに楽しもうではないかと、懇に答えた。

 その状、翁の本心と察せられた。憐みを禁じ得ない。
 
 ある人が告げた。同姓忠右衛門剛が、人に語った。「静山君の御気質を以ては、以前我も同勤をもしたかの翁だが、和悦して語り合うことはあるのだろうか」と。この事、聞いた人「奈(いか)んとか為る」。如如、何何。
 

 剛は、幼名金弥。父も忠右衛門と称し、名は信義。相当に武技も達し、人品悪くはないが、世に合わずして表勤にて終わった。剛はわしが名付けた者であるが、終に奥に入り、恭廟の奥の番まで勤めた。これは何か、旨に違うことがあって、居屋鋪までを召し上げられた。今は年数も経って、世に広く務める。嘗て勤職の時は、翁も共に御前に周旋した輩である。因って爾か云う。 


三篇  巻之11  〔9〕浅草寺静御前の薙刀の誤った伝と浅草寺の鐘の後の通行を停めること

 『江戸志』浅草寺の条、貞雄の補いに、静御前の薙刀が観音堂の内の後ろ本尊の前、かもいの上に、昔より掛けてある。来歴しれず。また誰人の納めたと云うことも伝わらない。

 わしは因みに思った。希なる物で、就いて能く視たほしいと。先ず梅塢(荻野梅塢、1781~1843年、江戸時代後期の武士)は、かの寺内には僧の門人が多いので、塢(土手の意)に託して問うと、寺僧は嘗てこうは云わない。
 
 また本山東叡の仰せつけと云っても、猶更(なおさら)ない。その本は、何者か堂守坊主どもが、檀家の上り薙刀などを、夜盗の用心にかしこにかけ置いたものであるのではと。わしは再び遺念(思いを後に残す)が絶えない。人を遣わして観るに、なるほど今世は女子の婚礼長刀(ナギナタ)と称する体の、柄の長く刃の短しは、殊に後世の制である。且つ甚だ塵汚鏽垢の状で見るべくもないと。
 
 すると傍々、静に名を託して云うよりも、こうして誤りを伝えるのもまた久しい。これ等冠山老侯の、苦心して編述した、『浅草寺誌』にも遺漏(手落ち、手抜かり)なので、これは亡き友の追善と記した(御草案敬覧仕候所、条々おもしろく、殊に浅草之古考など別にして御出来と存じあげる。却って御文体よろしくあるので、先年之如く塗りつけも仕ったと申す)。

  また一事は、浅草寺の本堂前仁王門は、昏暮〔六ッ時、午後6時頃〕の鐘を撞くと、閉じて通行を停める。わしも近頃童相撲御覧のとき、夜陰に往って正しく視た。毎夜禁行の後は、この門前に幣束三本を竪て賽銭箱を置いてある。

  これを聞くと、近く寛政(1789~1801年)のはじめ、かの寺の執事代妙智院と云う者の意作であって、何か観音を深遠にしようと、このように為た。今は訳あり顔に設けて置き、浮説までを増やして、観世音は忝(かたじけな)くも、天照御神の本地なのでなどと云うと。これも冠山老侯は記しもらしたと聞く。

  この天照御神の本地を観音と云うことも、禁裡(宮中)にある二間の観世音と申すのは、十一面にして、天照御神を本地とすること、東寺長者の口訣(くけつ、口で言い伝える秘伝)にして、18日二間観音供とて、いたく秘することが、『東寺長者補任』等に見えると。

  また『禁秘御鈔』には、二間とは、温明殿〔内侍所〕の神鏡の坐(ましま)す所に隣にあるので、このように唱える。ここにその観音安置座すゆえとのこと。これ等附会の本であると、また梅塢曰く。

巻之89  〔5〕再々大盗人浜嶋庄兵衛

 巻之1に、大盗人浜嶋庄兵衛〔日本左衛門〕の京町奉行へ自ら訴えたことを記した。
 ところがこの頃異説を聞いた。
 
 曰く。日本左衛門は、その頃厳しくお尋ねあるとき、ある夕暮れに町奉行所へ自ら名乗り出た。

 その時に奉行某は、こう言えと申し出されたのは、「今日は既に御役所はひいた。明日出てくるように」と。日本左衛門は承ってその夜は還った。明日違えず奉行所へ出て、自ら囚れた。
 
 その後故あって、町奉行の書留を見たが、正しく実記であった。曰く。
                 徳山五兵衛掛
              無宿十右衛門事
              異名日本左衛門
   延享四年(1747年)卯正月廿八日入       浜嶋庄兵衛廿九歳
 〈堀田相模守殿御差図〉
 
  右の者儀、身持ち不埒につき親の勘当を請い、無宿に成り、所々徘徊致し、大勢で申し合わせ、美濃、尾張、遠江、その外六七ヶ国、押し込み強盗、金銀押っ取りいたし段、戴(すなわち)白状いたし処、重々不届き至極につき、町中引き廻しの上、牢屋敷に於いて刎首(はねくび)、遠州見付宿に於いて獄門。
   延享四卯年三月十一日

  〈右人相書を以て御尋ねの有った処、この度京都町奉行永井丹波守方へ名乗り出たに付き召し捕らえ、則ち永井丹後守、三井下総方より江戸町奉行能勢肥後守方へ引き渡しに成る〉

  これに拠れば、享保の御世より延享の御代に及んだことがわかに到った。

  これぞ実録である。

巻之12  〔7〕徳川家綱公の頃までは

 厳廟(第4代将軍)の頃までは、上下も普段は勝手次第に用いた事と見える。

 松平伊豆守信綱は、麻の上下を着せなくては、心が改まらないとて、いつも麻の上下を着て登城されたと聞く。

 これにてその時風を想い遣りたいもの。
 

巻之12  〔8〕明暦の大火における落首(時事や人物を風刺した匿名の狂歌や狂句)

 林氏が云う。
 
 明暦の大火の後、武家はじめ町家までも夥(おびただ)しく下された金である。大城延焼の時にこの如くと云うのも、当年国力の盛んであることが想像できる。また時の執事も人があってこそと見える。

 つまりこの時の落首、

 吝(しは)き雅楽(うた)心尽(づくし)の豊後どの
        江戸にはづんど伊豆ばよかろふ
 
 雅楽は酒井忠清、豊後は阿部忠秋、伊豆は松平信綱である。

 このとき下の人望が忠明に帰して、忠明信綱は人の思い寄りよからぬこととみえたのだろう。

 この落首はある大家の旧記に載っている。拙俗であるが当年を回想いたしたい。

 歴史の童謡俚諺の類だが棄てべからず。

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