続篇  巻之4  〔2〕佐渡、讃岐の山稜を物語る

 真田豆州に逢って彼是の物語をした。
 
 豆州が云う。佐渡の山陵は〔順徳帝(1197~1242年、在位1210~1221年)〕は結構なるもので、世世の尊崇は今に怠りなしと云う。高橋越州〔新番頭、元佐渡奉行〕が言うのもその壮麗さが耳に入り、御勘定某が佐州に往ったが(その)云うことも同じであった。
 
 その言に、この帝はこのような嶋にて崩御なったのは御不運のようなれど、畿内辺りの先陵の跡形も無きになったのに比べれば、遥かに勝り奉れるなどと云った。
 
 また讃州白峰の陵〔崇徳帝(1119~1164年)〕は山上にある。昔時は度々鳴動したが、西行がここに詣でて和歌を詠じてより、鳴動は少なくなったと云い伝わる。

 すると西行の外、いまに至ってこの陵に往く者はいない。それなのに先の高松侯はこの処に往くと云われたが、老臣等より左右の者迄、前前よりここに至ると必ず凶変あるからと、遮り止めた。

 が侯は聞き入れず強いて山上に赴かれたのを、諸臣はこれを憂い、みな登城して侯の安否を窺ったが、かの処に到ろうと思う頃、遥望すると山上に黒雲が覆い震動が聞こえた。
 
 すわ変事かと、人を馳せて下山をすすめるが、その人の到り着く頃、はや侯はされようとする所に行き会った。

 雷雨は車軸を流し、山上の鳴動は夥しい。下山が終わると復(また)天は晴れたとぞ。侯に随った者どもは山上のことは他言しなかったが、何か怪事ありと察せられた。

 侯も陵の辺りまでは到り得ず、引き返されたと。危ないことが有ると云った。

 『和漢三才図』に云う。白峰明神は阿野の郡に在り。高松三里に至り、祭神崇徳院。保元元年讃岐に流遷、長寛二年八月于当国に崩し、白峰に葬る。西行法師詣る時陵鳴動す。西行和歌を詠じて之を納、乃止む。
   
   よしや君昔の玉の床とても
           かからん跡は何にかはせん     
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続篇  巻之26 〔4〕全盲の少年、火事場を逃る、他類話(含枕草子)

 先年の事である。

 平戸城下の町木曳田と云う所に某と云う町人がいた。相応にくらした者である。

 ある夜隣家より火を出した。不意の事にて家内は為すことを知らず。

 二子がいた、兄は由弥、年は15,6、盲人であった。次は娘、年は11,2、俄かに火に遭い、腰を抜かした。
 
 娘は兄に「急いで。うちは歩かれんと。助けて」と云った。由弥は「おいは目の見えんと。どがん行けばよかかわからん。そいでも早逃げんば。どがんしゅう」と云って二人は相泣く。

 娘は咄嗟に「そうたい。兄様、うちばかんぼ(おんぶ)してくれんね。うちは目の見えるけん、背中から兄様にどっちへいけばよかか云わるったい」と云った。

 由弥はすなわち妹を負うて歩いた。娘は兄の背から路をおしえ、遂に後山の上に逃れて火難を脱した。
 
 また嘗て聞いたことである。手長がいた。自ら「我は手が長いのが人に勝ると雖も、身辺の物を取ることができない」と言った。

 時にたまたま足長が来て言った。「我は足が長くて人に勝ると雖も、立つときは身辺の物を取るに由なし」と言った。手長がこれを聞いて「ならな我を負うてくれ。二人相合して一人の用で出来るではないか」と。前の話と類する〔このことは『列子』に見られると聞いたが『列子』にはなかった〕。

 『山海経』に云う。長臂(ひじ)国、焦僥の東に在〔旧説に云う。その人の手が下り垂て地に至る〕。

 又長股の国、雄常の北に在。一に曰く長脚〔国赤水の東在也。長臂人身中人如く。而して臂長三丈。類を以て之を推す、則ち此の人脚三丈に過ん矣。黄帝の時至る。或は長脚人有る。常に長臂人を負う、海中に入り魚を捕る〕。蓋しこれに由って話としたか。

また『清少納言枕草子』に、清涼殿のうしとら(艮)のすみ(隅)の北のへだて(隔)なる御さうじ(障子)には、あらうみ(荒海)のかた(形)、いき(生)たる物どもの、おそろ(恐)しげなる手なが(長)あしなが(足長)をぞかか(画)れたる。

※これを以て、災害に遭われた方の御見舞申し上げます。
 

巻之7  〔5〕前人寓意の聯(れん、連ねるの意)

 前人一時寓意(ある物事を他の物事によって暗示的に表現すること)の聯があった。
 
   醜石と雑花を与え、此れは是我が家の大弓宝玉と為す。
  
   素弦又清管、或は以て老子之醇酒婦人と謂う。
 
  これは蕉軒の集外の文なので記録した。

巻之7  〔4〕林蕉軒に問う

 林蕉軒に常に志す従事する所を問う者があった。
 
答えて「文武、和漢、古今、雅俗。この今と俗と云うところを深く咀嚼しておくれ」と言う。

また娯楽する所を問えば、答えて云う。「風月、山水、詩歌、管弦」。

巻之7  〔6〕千宗左の水瓶の銘題の価値

 千宗左召しに因り江都に出る間、紀邸の長屋に寓した。
 
 茶器を求めて、客中の用に当てたが、みな極めて粗悪な品であった。

 中に就き水さしの水を度々かえるのが煩わしいと、僕に命じて大きな水瓶を銭300文にて買った。

 これは炉辺に置いて用いた。その瓶は不性者と銘題された。

 暇を賜わり発足するに及び、門人が置いた所の茶器を請い求めた。

 宗左はこれに応じて配分した。門人の輩は謝儀として方金一二三を思い思いに贈った。

 時に宗左は僕に「先に汝が買って来てくれた大瓶は300匹(昔の1疋(匹)は10文、ここでは3000文)に所望せられたので、その金は汝に与えましょう」と謂った。

 僕は拝受して退こうとした。

 宗左は「待っておくれ。かの瓶は私が先に300文出したのだよ。300文は私に返しておくれ」と云って、その中から銭300文を取って、残りの金はみなその僕に与えたということだった。

巻之1  〔39〕松平左近将監、徳廟(家康公)日光山御参りの時、威望ありし

 松平左近将監は威望ある人であるという。
 
 徳廟の日光山御参りに、老職にて従っておられたとき、何れの御休宿か、御供が揃いかねたことがあった。

 それで御立ちなりがたく、「どうして供は揃わないのだろうか」と乗邑へ尋ねさせると、某が見廻って申し上げ様と、即ち馬に騎(の)って御陣処を乗り廻って立ち戻った。

 すると「はや御供は揃いました。打ちたたせましょう」と申すと、そのまま御発興(はじめて起ること)あって、御供一斉にそろっていたとぞ。
 
 人が畏服すること、この様であったということ。

巻之6  〔16〕富小路三位定直卿と千蔭の贈答

 堂上と地下の贈答に、見るべきのどの歌は多く聞かない。

 10年前にも有ったのか、富小路三位定直卿より加藤千蔭へ給わった消息の裏に、
  
   陰あふぐ心のはてはなきぞとは
          くまなくみらむ武蔵のの月

 とあって、千蔭の返しに、
   武蔵野のを草が上も雲井より
          もらさぬ月の影あふぐ哉   

 これ等は京紳にも恥じぬ咏であろう〔二条、林氏の冊、抄録〕。

巻之6  〔18〕京紳の秀逸の名歌

 林氏が云う。

  京紳の歌も、近世は多く様に依る胡廬(ころ、物笑い)を画くの類である。
  偶々人の伝わるのを聞く中で、秀逸とも云うベきは耳底に残って、忘れたくても忘れられない。
  これそ名歌とも云うべき。
 
    春江霞   文化十二年(1815年)  御製
  月花の影も匂ひもこめてけり
    霞あやなす春の入江は
  
    落花        閑院美仁親王
のどかなる春日なれども桜花
    ちる木のもとは風ぞ吹ける
   
    五月雨
さみだれのふるやののきにすくふ蜂の
    晴まを待てたたんとやする

    春月        西洞院風月入道
桜には霞かねたる影見えて
    花より外は春のよの月

    郭公        裏松入道固禅
いざさらば月も入けりほととぎす
    夢に待夜の枕さだめむ
 
    月前時雨      前中納言実秋
床寒き寐覚の友の窓の月
    またかきくもりふる時雨哉

    月前雁
雲霧もなくそら高くすむ月の
    南に向ふはつかりの声
 
    夜雨
つれづれの雨もいとはじあすは猶
    花の木のめやはるの手枕
     

 巻之2  〔6〕白川侯御補佐の時の狂歌

 白川侯が御補佐の時は、近代の善政と称された。

 何者が作ったのだろう、世に一首の歌を唱っている。
   
    どこまでもかゆき所に行とどく
         徳ある君の孫の手なれば

 この時武家の面々へ、尤も文武を励まされ、(ママ)太田直次郎〔世では寝惚先生と云う。狂歌の名を四方の赤良(あから)と云える〕といえる御徒士の口ずさむ歌は、
   
     世の中に蚊ほどうるさきものはなし
         ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず

  時人がもてはやしているので、組頭が聞き付けた。

  御時節を憚らぬことにて、御徒士頭に申し達し、呼び出して尋ねた。

  「何も所存は御座いませぬ。不斗(ふと)口ずさんでしまいました。強いて御尋ねとなりますならば天の命じる所でありますぞ」と答え咲(わら)って言い終わったと。  
 

巻之47  〔36〕濃州久須美村山中の蟒蛇(うわばみ)

 林の話にて。
 
 濃州岩村領恵那郡久須美村の山中と字(あざな)する所で、今は兀山(はげやま)のよし。昔は(草木が)灌莽(かんもう、群がりはえる)と生い茂っていた。
 
 今の城主〔能登守乗保〕、先代〔能登守乗薀〕の時、この地にて蟒蛇の骨を得た。今も尚頭骨を蔵に収めている。大きさ馬の頭程で、銃丸の通った痕が著しく残っている。これを打ち留めたのは、猟師の一郎右衛門と云う者であった。

 ある日一郎は、暁にかけて山中に往き、弁色(ものの区別が出来る)の頃おいに例の如く鹿を寄せようと鹿笛を吹くと蔚然(うつぜん、気分が満たされず、ふさぎ込むこと)とした中に大きな蟒蛇が首をもたげて出て来た。折しもわずかに旭光が昇ろうとしていて、両目は炯々(けいけい)と照り合うは、8寸ばかりの鑑を掛けたのかと云えるほどであった。

 その時一郎は「駆け出せば鹿と間違われ一口に呑まれるかもしれない」と思った。鉄炮に込めた玉薬を出し、常に守護としていた鉄玉を出し、強薬にこの鉛子(たま)を込め替えた。また鹿笛を吹くと、(蟒蛇は)蟒首に間近に我が上擡(もた)げたのを、鉄炮を引き寄せてあおむきざまに腮(あご)を打ち抜いた。

 その時万山一同に響き渡り、大地が震動して、思わず鉄砲を持ちつつその身は谷底に落ちた。幸いにも水も無かったので、岩角を伝いよじ登ったが、さしもの晴天が俄かに変じ、雲霧深くなり四方を弁ずることが出来ない。

 けれどその地は熟知した路だったので山道を一筋に跡も見ず、息を切って家に帰った。家人に、「この鉄炮は守護なので、屋の棟に結びつけてくれ」と云って昏倒して人事不省となった。日を経ても茫然として病がちになった。
 後3年を過ぎて、薪採りの者がかの山中に往き、何とも知れぬ白骨があったので、訝って草を分けて見ると、山2つに亙(わた)ってその末頭骨と思われる物があった。驚いて村長に噺すと、さらばと衆人が往き、それから城下の郡職へ訴え出た。

  その時になって、誰が云い出すともなく、「この3年猟師の一郎は病に臥せているが、鉄炮の達者の男なれば、定めて彼が打った骨であろう」との沙汰が頻りになった。郡職より一郎を呼び出して尋ねたが、そのことを云わなかった。それで強いて問い詰められ、ようやく(事の)始末を云い、戦慄して後ろを振り返り見ると、これ程までに灈(おそろし)かったのだと云うと、郡職の者等は咲(わら)ったと云う。

 それより一郎は病が癒えたが、遂に猟師をやめて、農夫になったとぞ。


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