三篇  巻之16  〔4〕芸花(うえきや)平作のはなし

 続巻之92の註に、芸花平助のことを記した。
 
 この男ははじめ賤業であったが、庭造のことで、しばしば来て懇意になった。

 その頃は常に麤服(荒服、こうふく)を着て、嗇(やぶさか)の行いがあったので、戯場花街の類は身震いして嫌っていた。そして近年は権僧の手先となって、その外行いに必ず従っていた。権僧の荘は、隅田の川辺にあったので、日夕には舟に乗って、西岸の仮宅に游女の棲んでいるのを舟中より縦観(気ままに見る)した。
 
 平作も度々の為か、早晩(いつしか)浸染して、浅草広小路寓居(かりたく)の佐野松屋と云う処の游女几帳と邂逅して、遂に堅く情深くなった。それから日々美しく装って往来し、物入りが重なったという。
 
 またある晩、几帳為に、自ら絆切股引(ハンテンモモヒキ)を着し、従前芸花人の形となって、その庭を造るなど、世人の笑い話となることもまた、この頃の珍である。

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巻之2  〔8〕富士の麓の馬のはなし

 先年〔寛政己未、寛政11年、1799年〕御馬預り鶴見清五郎の宅に立ち寄った際、顔を合わせたので物語に及んだ。

 わしは「先年旅路の蒲原(かんばら)の駅で聞いたが、富士の麓にて馬を産しているそうだね。その馬のはじめは頼朝卿の放たれた種の畜の生まれで、今も尚その性は神駿で、山谷を飛行する程すがしこくて、外の普通の馬とは違うそうだね」と云った。

 その後、旅行で原の駅に宿したが、岩本内膳正に仰せで、この馬を取って乗り用となさる為、これを繋いでおく処などをしつらえるのを見たと。この事を思い出したので、「取られた馬は如何であったろうか。果たして駿逸であったか」と尋ねると、鶴見が云うには、「我もその頃見たたけで、預り知らぬ事でその後の事は知りません。見た頃はかの駒の3歳の時でしたが、長け3尺ばかり、大きな犬の様でした。父馬は3尺を越えるが4尺には及ばぬか、少し大きかったですね」と語った。

  因ってその性は如何にと問うと、「殊に勝れたとは思えません。普通の馬と変わりません。仙南の産に比べれば、劣ることが多いでしょうか」と答えた。

  となると先年聞いたことはひが言(ひが事、誤り)であったのだろう。

 巻之2  〔2〕明廟、明和の大火の時の言葉

 明廟(9代将軍家治公、1737~1786年)は御仁深くあられたと聞く。

 明和の大火(明和9年、1772年)のとき御櫓に登られた。

 火の勢いを御覧になり、左右(の者)に上意があったのは、「さてさて大火。これは天災と云うべき。下々はさぞ難儀するだろう。これは吾が身の罪だ」と仰せがあったという。

 左右は恐れ入り、何も言えなかったと云う。

 巻之2  〔3〕徳廟の時の火事と今の火事の手当について

  故松平豆州はわしの岳父(義父)である。因って少年の頃より往来していた。その臣に新藤右兵衛と云う人がいた。頗る学者で、その頃はや老年であったが、享保の頃(1716~1736年)からの人である。
 
  この人が語った。

   徳廟(家康公)の時は町中火防の手当も今とは違う。その次第は、まず火事と聞けば、その町を限りにして他の町には往かずに、長い事火がおさまらぬ時は、みな火防を専らにして、屋上に登って被害を防ぐ。

   年長者年少者ある中で、用に立つべきは、みな下にいて水を運び、屋上の防火を助ける。これに依って段々と大火は鎮まっていった。
 
   今は出火と聞くと、みなそこに馳せ集まって大きく騒ぐこともあまりない。それゆえ延焼も却ってあると云うが、新藤が言うにはまた既に20余年を歴て(言えることは)、火事場の体もますます陵遅(りょうち、次第に物事が衰えていくこと)しているとのこと。

巻之3  〔10〕某が幼年の頃戦った風鳶(たこ)のこと

 蕉軒(林述斎)が伝える。

 風俗の時に従い移易することのその1を言った。某(林子)が幼年のとき、毎春風鳶の戯を今思い返すと、真に盛りを極めていたと云うべき。そのときは挙世一般のことなので、誰も心付く者はなかった。
 
 その頃は実家の鍛冶橋の邸に住んでいたが、南は松平土佐守、北は松平越後守で、土州の嫡子の越州の弟某と鼎峙(ていじ、三方から向き合って立つこと)して、各盛事を尽くしたし。

  且つまた互いに風鳶をからみ合わせ、贏輸(えいゆ、勝負)したときは、附きの者、伽の子どもなど計にはなくした。家中の若輩がみな集まって、力をあわせて、人々からは戯れの気配もなくなり、一春の間、誠に人は熱狂した。

  風巾(たこ)が大きくなるに従って、紙数100余枚に至った。その糸の太さは親指ほどもあった。風に乗じて上がる時は、丈夫(おとな)7,8人で手に革を纏(まと)い、力を極めてようやく引き留めた。
 
  ある時手を離さざるを得ぬ者があって、誤って糸をゆるめたら、その者は長屋の屋根へ引き上げられ落ちた。が幸いにも怪我はなかったが、危ないことなので、家老より諫められ、止められてしまった。流石土州は大家のことゆえ、種々の形に作ったものが数多あるが、扇をつなぐ数は300までになった。
 
  また鯰の形に作ったのを、某が争って、その長さは頭より尾に至るまで邸の半分はあった。風箏(ふうそう)なども奇巧を尽くし、鯨竹唐藤の製は云うまでもない。銅線などでその音の奇なものを造った。

  世上みなこの類なので、枚挙するに遑(いとま)はない。天晴れ風和する日、楼に上って遠くを望むと、四方満眼すると、遠近の風巾のない所はない計り。

  今は小児がこの戯れをする者は少なく、偶(たまたま)あっても、小さな物か、形もよくありがちのものばかり。高処に眺矚(ちょうしょく、眺め見ること)してもポツンポツンとあるばかり。

  こうして世風もかわるものかと云ったことだった。

三篇  巻之3  〔2〕大伝馬町大丸屋、火事後の再建の御触と違う事


 大伝馬町の呉服屋大丸屋は、火事に遭えば再建の外また別に家作りを切り組んで深川などに貯え置いていた。即時に店を開
  この2月の災にもそうであった。この前焼けた跡の切組をすぐに建てようとして葺匠(ヤネヤ)を雇うに、この度の火事に就き、諸工の料が高騰しないようにとの新令があったにも関わらず、秘かに1日工料1歩3朱を工人に与えた。因って我も我もと大丸へ赴き、かの御触に違うと、市尹より大丸の番頭に手錠を加えたと。
 
  〇この度〔2月〕の大火は中々人による失火ではなかった。予め火気地垠に盛んであると思えるのは、前にもいう様に土井鴻臚が林子に語った乾燥の火の徴も、後の伯州閣老の池の話も、人々は伝唱した。伯州の邸は土井鴻臚と近いので、かの地底には火気盈々(みちみち)ていた様だ。

  〇またその日はわしの上邸にも臨時の火防(ヒケシ)を命じられて、築地の辺りまで行った。所々の屋鋪の火へ掛ったが、その辺りの川と云う川は水が枯れて、水の手乏しくて、消火の手立ては不便になったと。これもまたその証。

  〇また両国辺りの小川と云う小川も、火災の夜は水が乏しくて、川によっては竭水の処もあったという。浅草大川も引き潮ながらいつもよりは殊に水が落ちたと聞くが、後思えば火気にて水を吮(す)うものであったろう。

 〇観世新九郎は芝新銭坐にいた。「火災のとき丁度引潮なので消火に不便であった」と云った。そのとき引潮ではなく、火気の潮盈を遮ったという。
 
 ○またこの6年前丑歳に、材木町辺りの滞留の旅僧があったが、「昨今川の水殊に減じている。思うに火災があったのでは」と云った。遂にその言った通りであった。これもこの度の同徴、何れも地の火の動機はこの如し。畏るべきことである。

続篇  巻之37  〔2〕新田大光院自殺と増上寺

 寅(文政13,天保1 1830年か)正月8日、宝生大夫の宅に能初見物といって往ったが、桟敷にてある人が語った。

 「去年極月(師走)中旬新田大光院が自殺したというのです〔この大光院は典乗と云って、典海僧正のときの表役者であったが、出世してかしこに住んでいた。わしもかつて知るひとである〕。はじめ子どものときより養ってきた侍の20歳ばかりなる者に『我は自殺するまま介錯せよ』と云ったそうです。ですが師主(新田大光院)に対し害するのが忍びない所ですと固辞したんですね。それで典乗は『では汝の命を我に与えよ』と云ったのですよ。侍は『心得候』と云ったのです。『では我(新田大光院)は自滅する。汝よ介錯して死せよ』と約束してそのまま切腹しました。侍はその首を打ち落として自滅しました。そのさまは殊更に勇々しかったと(永昌寺にて聞くとこのとき予めその弟子並びに塔中の人々を呼んで置いて、この体を見よと、衆目の前で事を遂げたとぞ)。即官へ届けると、速やかに検使が来て見たそうです。自殺の体あっぱれなさまで、見る者は感愴(かんそう、悲しむ)して還ったそうです」と。

  またある人曰く。このゆえは増上寺一山争論のことがあって、官裁となったが、憤怒の余りここに及んでなど風聞した。
 またこの正月6日僧中御礼のとき、浄土宗にてはただ両人出しのみで、伝通院、光明寺をはじめその檀林の僧1人も出なかった。珍しいことであったと。
 
  永昌寺側は「この度の一件で増上より御礼に出た者はなく、但し役者の中1人出たとぞ。これは高野山その外諸寺献上物取次ぎのことにて、止むを得ず出したことと聞こえてくる。増上寺方丈は昨冬隠居を仰せ付けられた。例は後継の僧正を見立て申し上げることであるが、この度はそれに及ばないので、直に隠居仰せ付けられたと。伝通院は逼塞仰せ付けられ、檀林も一向も出なかった」と言った。

  去年殿中沙汰書によれば、12月29日、上使として脇坂中務大輔、松平丹波守両人、増上寺へ相越し、方丈は病気につき、願之通隠居仰付被の御旨を伝えた。慶長以来、官家にても格別の御取扱の御寺になるが、この度のことは気の毒なることであった。

続篇  巻之32  〔7〕深尾権之丞のはなし

 寿白曰く。
 
 深尾権之丞の先は権八郎といって、憲廟(綱吉公)の御意に恊(かな)って、度々拝領物が有って、今にかの家に伝わっている。
 
 あるとき憲廟の上意に、「その方何か望みのことがあれば申し上げよ」とあった。

 権八郎は、「何とぞ私の宅に御成を願い奉ります」と答えたと。憲廟は殊に御機嫌で、「とても叶わぬことを願いは尤もである。かの宅に往かば土産はとらそう。即ちその土産の意(ココロ)にて、屋鋪を取らそう」と仰せ渡され、町屋鋪を下さった。

 これより連綿して今の権之丞に至る。大夫の外、弟子にして拝領屋鋪ある者はこの一家のみであると云う。

 この町屋鋪は、神田町松下町不動のある所と云う。
 

巻之10  〔25〕口論

 近年のことだという。

 柳原の土手にて修験と士が口論して、追々言いつのり喧嘩にかってしまった。それであたりの人は集まって人垣となった。
 
 こんな中修験が「汝は武士というが我は加持力があるものよ。これを使えば刃を抜くことも出来ぬはずじゃ」と云った。士は憤怒となって「若しそうなればわしに呪文を掛けろ、即坐に汝を斬る」。修験は心得たりとて、すなわち印を結び呪文を誦えた。士は怒り柄に手を掛け、刀を抜こうとするが抜くことが出来ない。
 
 観る者は伝え聞き、弥々(いよいよ)囲いをなした。土手に軒を比する肆(みせ)店の商人もみな来て見ている。
 こうする中、士に怒りは甚だしく、力を振り絞り刀を抜くと、刃は鞘から出ること3,4寸、(修験が呪文を)また誦えると復(また)鞘の中に踊り入った。この如く数度であった。

 修験はずっとこれを行っていた。

 士は竟(つい)に抜くことが出来ず、恥じて衆人の中に逃げて見えなくなった。

 見ていた者達はこれを大いに笑った、方々に散っていった。

 商人が各々その店に還ってみれば、肆の品物がごっそりなくなっていた。するとさきの口論は盗人の奸計(かんけい、悪だくみ)であって、肆店の物をその党の輩が計り合わせて奪ったのであろう。

 真に奇策、咲(わらう)も余りある。

巻之20  〔14〕吾が友の慨嘆(がいたん、気が高ぶるほど嘆いて心配すること)

 吾が友が告げた。

 この〔壬午、文政5年、1822年か〕9月、三大官の擢挙(てっきょ、多くの中から選び出す)があった。一は京所より台閣に入る。二は参政より京職となる。三は申次より参政となる。みなその邸に往賀しに、3,4日の間、老閣参政の門は肩摩袂接(けんまべいせつ、人の多い事)して市を成すとも云える。たった京兆尹(けいちょういん)の門は寂然として人はいない。

 これ迄外官であった人達は隷属したことがなく、政府に入るとあらばゆかり無き者までがこう計って集まり来賀する。今まで大参であったはこれぞ夥しい属官の配下であれば、踵賀も多かったであろう。且つ従前のことも謝する意味も含める者もいくらかあるはずである。
 
 つまりそうでないのはその人の徳不徳に係るようであるが、実は徳によることではない。抑(そもそも)近年都下の風俗が一変して、軽佻浮薄(けいはくふはく)の習いが日々に甚だしい。外官に遷るとなれば、はや人々は捐棄(えんき、捨てる)して顧みない。やがてまた入朝あれば、その時はさぞかし門前市を成すである。

  明和(1764~1772年)の頃世俗の薄いこと紗(うすぎぬ)の如く為りゆくのを寛政(1789~1801年)で更張(こうちょう、緩んでいたものを引き締めて盛んにする)して人心を敦厚篤実に取り返し、近い程まで維持するまで殆ど30年でこう成果となった。三十年一世と曰うと、世と云う文字は三十年と云うことであるが、一世には必ず変わるものと見える。世道人心に志ある輩は、いか計りか慨嘆せずにはいられない。

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