巻之8  〔13〕川流句、川流のはなし

 
 川流(せんりゅう)句は毎に感じ入るが、ある人がまたこれを云った。
  
   湯屋の喧嘩の片手あつかひ
 
 わしはつらつら吟じて且つ考えてみると、この句は恐らく川流ではない。条理をなさずしてまた短句ならば、思うに世の俗調なる俳句を、誤って川流としたのだろう。条理をなさずと云うわけは、この片手と謂うは、入湯の者は裸体人前を憚れば、各片手で陰処を掩(おお)う。
 
 つまり口論より憤闘に及んでも、ただ空手を以て打擲(ちょうちゃく、ぶつこと、なぐること)に至り、片手なお放さずと云うのだ。わしは「こうして憤闘に及ぶ族(やか)ら、ここぞのこの時に陰処を掩う底の容であろう」と云った。

 ならば固より忿怒(ふんぬ)ではない。故にわしは取らなかったが、後ある日湯屋の戸前を過ぎると、屋内憤闘の体であった。興中よりこれを見るに視えず。すなわち人を使って視せにいかせると、果たしてわしの説の如しであった。すると素より人事自然の妙句ではない。これを取らざる所以である。人よ、能くこれを惟(おも)え。因って云う。川句の採るべき者は、
  
    角(ツノ)大師湯番を叱る御姿

  これは、大師の下「は」字を加え、湯番の上「凡俗湯入者の(凡俗湯に入る者の)」六字を冠(かぶ)せて解すべし。角大師とは元三大師の降魔せられたときの姿であり、上野よりその御影が出て、専ら世に布(し)く。その下は入湯の者はかの戸の湯番を叱る状態、かの角大師の体に類する。裸体の怒る形さも比すべし。如々(いかん)、何何(いかん)。
スポンサーサイト



三篇  巻之15  〔6〕勢州の城の地形によって日の出の時刻が異なる

 
 藤堂候は、伊勢国であるが、伊賀もまた領されている。

 また侯の世臣の吉田六左衛門と称して大坂陣以来の名家があった。この家は昔より伝えて軍射の術があった。わしも久しく信仰している。

 さてこの頃、計らずも六左衛門が出府して時々面会し、且つ学んだことがある。ある日の話に、伊賀国の四辺は山囲いで、侯の城地〔これは勢州にて侯の居城とは外である〕は、その中にあった。世に謂うすり鉢の底の様な形勢である。

 わしは「ならば城地は不要害にならないか」と問うた。(六左衛門は)「いいえ。かの繞(めぐ)れる山は、余程隔たっていています。城のある処はまた底に一山あって、その高い処にあるのですよ。だから要害に障りはないのです」と云うた。

 また「この様に回周山であれば、暁の後日光が現れるのは遅くてですね、夜が明けるのも他に比すれば、蚤(はや)くはないですね」と続けた。

  因って勢州を発する者は、日の出以前に行くので、伊州の到っても、未だ日光の挿しこむ前であると。国々の空模様はこの如く殊(こと)なる。

  まずは知ったことである。
 

 巻之73  〔5〕武州府中六社明神にて流鏑馬があるはなし  

 過ぎし文政巳年(文政4年、1821年か)のことである。

 武州府中六社明神にて流鏑馬があると聞き、弓馬道相伝の家なので、小笠原孫七郎へこのことを問うたが、未だ見聞きしていないというので、その12月26日に弟の兵次郎を六社に往かせ、社司の猿渡近江に聞いて、翌27日に来て伝語した。
 
 「そのこと〔六社の地、小笠原氏の宅雉橋より7里余りと云う〕はかの流鏑馬があるのは、六社の祭礼年々5月3日より5日まである。流鏑馬は5日の深更(夜中)に行うとぞ。これより神輿は出て行った。流鏑馬の乗り手は社人1人である。馬は障泥(あうり)を着けない〔これは尋常のことで、この社式には限らず〕、乗り手は射服ではなくおの位服で、弓は桑の木である。的は式の如く3つ竪て、はじめの的は馬の足を停め一箭(や)を放ち、それより少し馬を進めるのみにする。毎年見物人が群囂沸糅(ぐんきょうふつじゅう。人が群れ集まり騒がしくしているさま)の中なので、その式の意ばかりして終わったとぞ。
 
 また社地神殿の前に、五尺四方、高さ三尺もあろう木垣を構え、その中に矢竹が生じていた。それは群がり鬱蒼としていたが、古来より1つも垣の外へ出る事はないと。社司も曽(かつ)て伐ることはない。かの流鏑馬の箭(や)幹にも用いる事なく、その箭は以前からの故矢を伝え用いていると。相伝う。この竹のはじめは、源頼義朝臣が奥州征討凱陣のとき、所持の矢を地上にたてたことより蕃(繁るの意)生してこの如しということ〔思うに、箭幹は生育しなかったのだろう。ただ頼義の時のものなのは違いないかと〕。
 
 また駒くらべと云う式がある。祭礼の初日、3日の夜に行い、4日に渉らない。本式は10月中〔日は定かでない〕に官の御厩博労頭の1人が御馬を牽いてきて、かの社前並に東照宮の御神前を牽き、それより神祖(家康公)御寄附の馬場へ牽き往き、その後はこの御馬は博労頭へ賜わること、今馬市のあるその古例であるというぞ。これより享保12年(1727年)より馬市は江都両所に移り、10月に官厩より牽いてくる御馬も、近頃はかの式後博労へ銀子を賜わり、御馬は御厩に戻るとぞ。関ヶ原大坂御陣の時、神祖の乗られた御馬もこの馬市より引きいれられたもので、この馬市には何か神祖の尊慮あらわれる場と云う。
 またこの駒くらべと云うのは、乗り手は社司12人定まり、12疋の馬に乗りつれて市中を廻る。昔は遍数12度とか定式であるが、今は略式に従うとぞ。社司の服は烏帽子、素袍(すおう、ひたたれ)であると」。
 
 これは思うに、はじめは武士が為したことを、後社家に更(かわ)ったものであろう。

巻之20  〔16〕 いざというときに

 蕉叟が語る。
 
 この7,8年も前のことである。高松侯〔松平讃岐守〕の藩中にて斎藤某と云う士が乱心して4,5人を手負わせた。その者は一刀流を究めた剣術者であったので、誰も恐れて出向かうものはなかった。因って所々馳せまわり広鋪口へ切りいった。そこの番を勤める賎士屋代某は、これも一刀流を学んでいたが、持ち場ゆえやむを得ず立ち向かった。斎藤は20余の大きな若者で、長い刀を真向に振り上げてきた。屋代が指した脇差は短く、流義の心得にて立ち向かった〔一刀流に小太刀で長剣を敵手とする習いがあるそうな〕。とても叶わないと思い、夢の様になったが、かの大刀で切りかかるを、小脇差にて3度まで左右へ切り落とそうとしたとき、適の太刀先に文明(ぶんみょう、はっきり)と見えると心に覚え、手心丈夫になってその刀を打ち落とし、飛び掛かって組み伏せた。そこへ人々がかけ集まり縄を掛けたと云う。屋代は後日に、蕉の家頼(けらい)の同門の者だったので話したと云う。流義であるが、あまり小脇差は事に臨むとき心細いものである。尺八寸より内の物は指すまいと誡めたとぞ。
 
  且つ最初夢の如きとき、袴の股立(ももだち)を我知らずに取ったが、あとになってみれば高過ぎて見苦しい計(ばかり)であった。もの前では気がせくものと云うぞ。如何にも真率にて飾らぬ有り体のいい分、奇特であることと心に銘じたと物語った。
 また曰く。30年前の事である。実家の在所で〔濃州岩村〕、城下の市人が遊山して、熊の児を捕らえ帰れば、親熊は怒って市中に出て1人住む家に入り、その人を掻殺して去った。因って訴え出たが、足軽どもを出して鳥銃(てっぽう)で熊を打たせた。物頭各組を連れて、城山の辺りを終日捜索したが熊は見えなかった。日もやや暮れようとする頃、各帰ろうと、山を下りた。その時は隊伍を乱してあと先になって、ちりじりに行くが、海野勝右衛門という物頭が何心もなく行った。路辺の篁(竹やぶ)から颯(さっ)と音がして伏せると均しく大熊がとびかかった。その人は無辺流の鎗術者であったが、小者の持つ槍を取って突くと、幸に熊の喉の横手より脇腹へ突き通した。臓腑に中(あた)らなかったので、熊は少しもひるまない。増々怒って、鎗の柄をたぐり寄せるまま、為方なく我が身を廻らせてあしらう内に、後より来た足軽は馳付けて、鳥銃で打ち留めた。後日に勝右衛門は「稽古と云うものはよいものである。はじめ熊が飛び掛かるのを鎗でついたときは、所謂間髪を容(い)れずの場合になる。もしうろたえて鞘ながら鎗をつかぬならば、一掻に命も失したろう。我知らず夢中に鞘をはずした計(ばかり)に免れたのだ」と云った。これも真実の物語りで矜(ほこ)らしく思うも賞するべきかと。
 
 静山曰く。「わしの先君天祥公(平戸藩第4代藩主松浦重信公、1622~1703年)が学ばれた木下淡州の流には、鞘は刃であって常に紙で貼る。因ってこのような急ごとには鞘ながら突くべし。今に代々その鎗を持たす。2本のうち直鎗即その鎗」。

巻之76  〔11〕蛇が蛸に変ずるものとは!!!

 蛇が蛸に変ずるは、領内の者が往々に見ている。蛇が海浜に到って、尾で石に触れば、皮が分裂し、その皮はすなわち脚となる〔或は蛸の足は八つあって、蛇の化したものは必ず七つであると。未だ熟れぬのかはわからない。〇また世人総て蛸の頭と思われる物は腹で、頂は尻である。因って足と呼ぶ物は、手である。蛸は烏賊の属いである。烏賊は魚を以て見ると、かの頭足の非は知っておきたい。世俗は蛸の入道など称する者は、その尻を誤って頭とするから起こる。この文以下を読んでほしい〕。
 
 また蛇は、首より中身のあたりは、皮が翻り、鱗のある所は腹内となって、皮は裏返って身外となる。総じて蛸は紅白色なので、蛇より化したものは身は純白、腹は長く脚は短く、その形は尋常のものとは殊なる。また游泳せずにただ漂うのみ。且つその変ずるあたり血色は殷々と海水を染めて、方5,6尺にも及ぶと云う。人々の云う所、小異あるが大率この如しである。
 
 〚和漢三才図会』、『本綱』を引いて云うと。石距も〔俗に云う手長蛸〕亦章魚(たこ)の類。身小して而足長し。塩を入れ焼食うは極めて美なり。又曰く。按(しらべ)るに蛇江海にいり、石距に変ず。人その半ば変わるを見たる者有り。故に多食へば則ち食傷す」。これ等に拠れば、領内の見る物とは同じでない。多く食えば食傷すと見えるが、蛇化のものはとても見分けて食うべからざるものであると。

  また『本草啓蒙』に云う。くちなわだこ〔雲州に言い方〕は、形は章魚(たこ)に同じで、足は最長し。食えば必ず酔い、また斑を発する。これは石距である。一名石距〔『寧波府志』〕、八帯魚〔『東毉宝鑑』『漳州府志』〕、八則魚〔『山東通志』〕。
 雲州及び讃州にては、石距は蛇の化したものと云う。蛇化のことは若州に多し。筑前にては、いいだこの九足のものは蛇化と云う。八足の正中に一足あるのを云う」。これらも領内と云う所と合わない。
 
 同書に曰く。蛇婆、一名海蛇〔『琉球国使略〕。時珍は水蛇とする。臓器の説は海中の蛇とする。うみくちなわは数品ある。蛇形にして色は黒く、尾は端寸許り分れて、流蘇(ふさ)の様で、赤色または白色のものがある』。
 
 これを見ると、蛇が化するのも自らその尾を打って分裂することは、天理の然ることであると思える。

 因って思うのだが、領海にアラカブ(カサゴ)と呼ぶ魚があって、頭口とも大きく黒の鱗である。この地にある藻魚、メバルの類にして、多く海辺の石の間にいる。蟾蜍(ひきがえる)が変じてこの魚となる。既に見た者が往々にいる。その言に「蟾蜍の前二足は、魚の前鱗となり、後ろ足が寄って魚尾となる」と曰く。なるほど蟾蜍は頭が大きく巨口、黒色のものである。かの魚と化するも由なきに非ず。

  1人また「蟾蜍の化するのは、アラカブに似た一種である。皮は滑らかで黄色、黒の斑がある。両鰭(ひれ)は自ら蟾蜍の手臂(ひじ)の様だと」曰く。また一説である。

 『和漢三才図』に云う。蟾蜍が海に入り、眼張る魚と成る。多く半ば変わるのを見る、と。すると余所にも有ることであろう。 

続篇  巻之47  〔6〕利生とは何のことやら

 わしの荘の西南一町余に、出山寺と号する小宇がある。貧地にして堂門も名ばかりである。門には、三国伝来満徳如来と刻した扁(ふだ)を掲げ、堂の額には三国伝来釈迦如来と書いてある。これ等の扁の古物があったが、朽ち損じていて摸して改造したと。このことは信じがたい。
 
 その寺の縁起にも三国伝来の事を載せるが、拠るに足らない。またこの仏像をわしは見たく思い請うていたが、秘仏であると開扉することはなかった。けれど開くべき期日があって、詣人に拝ませた。因ってわしは先に視た者に問えば、「古木が自然に人体を為して、衣様面皃(貌)、世に謂う釈迦出山の像に似ている。これ即ち寺の名の起こった由であろう〔縁起には、慈覚大師清水寺造立の砌り、かの地に一宇の御堂を建て、この尊像を安置し、御堂を出山寺と号されたという〕。

 縁起の云う所は、聖武の朝、神亀5年(728年)8月に紀州の漁師が暴風に遭い、船は破れて海に溺れ時久しく漂った。夜に及んで浮木がやって来て、手が触れた。漁師はこれを助けとし、終宵千辛万苦して遂に岸にたどり着いた。万死を逃れて、一生を得たと。これ即まの仏像なる由。すると隔たる千百有余歳の物で、嵯峨霊像の様な人作には及ばないだろう。
 
 また縁起三国伝来の故は、はじめ唐の玄奘天竺霊鷲山に感得し、それより持ちかえり、唐(モロコシ)五台山に安置したのを、今ここに来ると云えば、吾が邦に到る、神亀のはじまりである〔これも人の奉じ来るではない。漂到したのだ。けれど伝来とも云えるだろう〕。これより漁師も発心して僧になり、この像を武州比企郡慈光山に移し、岩窟の中に置いたと。また後漁師80余年にして死して、慈覚大師を唐より帰朝の後、東国を歴てこの像をかの山に移したと。この帰朝の時は仁明の承和14年(847年)になるので、神亀5年より120年の後である。これ等後の人の附会顕然(関係をこじつけてあらわしている意)か。
 
 また云う。そうしてより数星霜を経て、圭円が夢想にて東国に遷した。時に天正8年(1580年)と云う。これもまた如何にして今の所に移したか(前註に清水寺とあるのをわしは京師の清水寺かと思ったが、『江戸砂子』を読むと、江都に清水寺があった。開山慈覚大師、天長(824~834年)中草創と。大師の入唐は承和5年(838年)にして、天長はまたこの以前である。すると矛盾に近いか。清水寺のことは、わしが明らかにした所である)。

 またこの様に、縁なき仏菩薩の当否を論(アツカウ)こと如何なのかだが、世人は謂う。この仏像に禱(いの)れば婦人難産の患なしと。わしはすなわち何かの故にかと問えば、出山、出産は同じ呼び方だからとのこと。笑える。
 
 そうして利生(仏が衆生に与える利益)があると云うとは、何のことか。憎むべきは俗僧而已(のみ)。

三篇  巻之17 〔8〕時を打ち間違えに多理ある

 伝聞する。
 
 寺嶋河辺権僧の宅で、撃柝(たく、拍子木の意)の僕が、ある夜時をうつにその数を打ち違えた。近侍の者が聞いて主人へ告げ、夜守を厳しくしかった。
 
 が僕は伏せず、却って曰く。
 
 「主公へ所々より進物としてしばしば来る時計でありますが、実は主公が御好みになる物でもなさそうです。且つその価を聞くと、みな200両金を過ぎるそうですね。けれどその時を告げるは相合わぬことがしばしばでございます。また叱咤の沙汰に納得がいきません。僕の給金は、1年僅か2両にして、終宵邸中を巡るもまた1年です。ならば時として時の合わぬものであると、かつて責に伏することは出来ません」と。

  陳情大笑い!甚だ多いに理があったのだ。

巻之99  〔1〕鷹司右大将殿下向の時の和歌

 御大礼に就き、鷹司右大将殿〔輔胤卿〕が東へ下向された。3月27日角田川遊覧のとき、
    
  隅田川にて
  はるばるととひこし我をまたでちる
       つつみの花の心みじかさ
 
  木母寺にて
  古塚のむかしをとへばしら川の   
       花になれにし人のおもかげ 
     
  金沢侯の邸にて      右大将殿
      (鷹司准后政煕公子、関白政通公孫、右大将輔胤卿)
  住めば猶都もおなじ東路の  
       わかれぞつらき旅の衣手
  かずかずの恵もふかき有磯海の
       浜のまさごはふでに尽せじ
  海山はへだてて遠くなりぬとも
       みやこより猶ことやとはまし
     
  加州後室 真蔵院
      (真蔵院、准后政熙公息女、故加賀中将斉広室)
  かりそめの旅のわかれのつらきにも 
      とまる名残をいかでくらべむ
  たらちねのそのはらからをおもふにも
      心は君とともにゆかまし
  都よりことやとはんの言の葉に  
      せめてなぐさむけふのわかれぢ
  わかれても又あふ事はありそ海の 
      真砂の数のちぎりにぞまつ
  めぐり逢しまれのちぎりの姫小松 
      たち栄ゆべき蔭やたのまむ

ある人が言った。この後室は鷹司家より入興あった人なので、加州家へ右大将殿の招きの時のことのよし。     
      

巻之48  〔26〕高木侯の別荘の奇異

 画家住吉内記は、牧野半右衛門〔寄合6000石〕とは年来の懇意であった。先年半右衛門の不調法のことがあって、麻布の屋鋪を渋谷羽子沢(はねざわ)に替わられた。この地は人の居る所から遠くにあって、野郊の小路など伝い行く所もある。

 ある日その屋鋪に来客があって、内記は取りもちに往った。夜更けて還ろうと出ると、時は既に丑の刻(午前1~3時頃)に及んでいた。6月初旬のことで、梅の熟す侯で雨が降っていた。またこの道には高木侯の別荘があった〔麻布こうがい橋の奥である〕。土地の広い荘で、林木のみで家屋も少なく、荘中を人が抜けて往来する路があった。内記がここに行きかかると、木を伐る音が丁丁(ちょうちょう、物を続けて打つ音)鳴っていた。僕が1人従っていたが疑って、「この深夜雨の降る中に、木を伐る音は何でしょうね」と云った。内記は顧みて、「何くてもよし。鎮まっていくだろう。必ず騒がぬ様に」と云いながら行く。
 
 やがてどうと大きな音がして、木を斬り倒した響きがした。僕はいよいよ不審に思い恐れたが、内記はようよう連れて行き、その夜は家に帰ったとぞ。かの高木の下屋鋪には、山神の祠と云うものがあって、この神は、時々この様な奇異のことをなすということだった〔今年甲申、文政7年1824年か〕。

続篇  巻之15  〔12〕俳優の衣裳の贅沢に思う


 世の奢侈(しゃし、身の程を越えたぜいたく)に移って行くには歎息が止まない。隠倫の身で与(あづか)ることではないが、聞く所を記しておこう。
 
 この春、戯場(げきじょう)で、助六狂言のとき、傾城総角(あげまき)の外一人、白玉と云うのを岩井紫若が為している。

 その装束に、上に着た打掛の小袖五つ、その下は白繻子の無垢に、抱一隠者〔これは先年に鷺山と称する姫路侯の弟で、今は僧道に入り、等覚院と号する。最も画に巧みである〕が描いた墨画の雲竜、その上の四つは金銀で置きあげの金具、紋様にしつらえ、獅子或は草花等であったとぞ。
 
 その費用金600余両であると。先日俳優の衣裳の美麗を禁じられ、染は支障がない。都(すべ)て地合は木綿であるべしと、町奉行の庁にて申し渡したとあって、役者共大いに困ったと聞く。今はや箇様になることに至るは奈何(いか)にぞや。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
667位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
131位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR