巻之98 〔2〕 白雉のはなし

 丁亥(ひのとい、1827年か)5月。
野州黒羽侯のもとより、縁家の参政について白雉を内献上ありと聞いた。
その書き取りである。

 下野国那須郡高久村の辺りで白雉を見たという話があって、当4月はじめに、人足共に申し付け捜したところ、見かけた所々を追い回し、同村の内小深堀という処で羽が疲労していたのか、ススキの根本に首を入れ隠れていたのを見つけた。
町年寄を勤める高柳庄左衛門が手捕りした。
同月21日江戸に着いて、同27日堀田摂津守殿まで差し出した。 

『類聚国史』に云う。
孝徳天皇の白雉元年(650年)2月庚午の朔(四季の最初の日)戊寅、穴戸の(長門国)国司草壁の連醜経(むらじしこぶ)が白雉を献上した。
国の造首の同族贄は正月9日麻山に於いて獲たか。
これについては諸を百済の君に問う。
云々を略する。
赦天下に広め、元号を白雉に改めた。
仍(しきりに)穴戸界隈にて鷹を放つのを禁じた。
公卿大夫以下賜り、于(ここに)令史(律令制で、司監署の第四等官である主典(さかん)のこと)に至り、各差があった。
これについては美しく国司草壁の連醜経を褒め、大山を授け、並びに大録を給い、穴戸に三年調役(取り調べ役)として再び赴いた。

 これらによると瑞祥である。
肥州(静山公の御子息)がこのことを中川侯に咄(はな)したところ、侯の説に、拙領(豊後岡)では間々見られるという。
隣国肥後の山中には白雉がいて子をなすという。
すると白雉もまた一種の物と思えて来る。
穴戸は中国にある(現山口県)、『類史』によれば、但州、備後、丹波、飛州、美州よりも献上されたと聞く。
武州、常州、奥州よりも出し、筑前、壱岐よりも上るよし戴けば、わが大八州の中、その種は処々にあることか。
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