2022/01/10
巻之61 〔19〕 神君の伝説―秀頼公の伝え
大坂落城のとき、秀頼が薩摩に往ったことは前にも云った。この頃聞くと初め肥後の隈本に退いた。
従者は5人あったが3人はそこで暇を出された。
肥後に於いて関東を憚り、薩魔に送り遣わしたとのこと(この次第はー。人名等『白石紳書』に見えると云う。わしの書は戊寅(つちえのとら)に焼失したので、人の云うままを記した)。
薩州でも関東を畏れて、内々その事実を申し上げると、すでに大阪城は落城して、秀頼生害(自害)と披露があったのは、生存すれども死んだも同じ。
そのままにして置くべき。
だが他国へな出さぬようとの御沙汰があって、91,2迄存命したとのこと。
その子孫は今4世ばかりになって、木下谷山村と云うところに住居して、次郎兵衛と云う百姓であるよし。
朝川鼎が西遊のとき、正しく確かめて聞いたと云う。
秀頼の墓と云う物も往って見たが、同村の普門寺と云う所にあって、無銘の石塔であった(この谷山村は鹿児嶋より2,3里の所にあると云う)。
かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀」が今に残り、その外の物は一切なし。
この故は秀頼が終わった後、所持の品はことごとく売り払い、田畠を買い取り、百姓に成ったよし。
薩魔よりは前後手当等為らなかったという。
これも次郎兵衛が鼎に話したと云う。
これは関東を憚っていたからだった。
これ等もて思えば、その時天下の御勢観るべく、また豊氏全盛の成れの果ても憐れむべし。
また先年ある伝説を聞いたのは、落城のとき城中に火の手が上がるよし、言上あれば、即ち御立あったと仰った。
時に山岡道阿弥は、未だ城中の虚実はわからずと申し上げると、最早火の手が上がれば落城だとの上意にて、直ちに御立あったと。
また今年専筑と云う人(この人はよく古今の書に通じる人で、もとは僧であったという)の話では、大坂御立あって、直にその夜は二条の御城に到りあそばされ、翌日御参内になったという。
また先年聞いた話の中では、落城の日、御陣へ真田は夜討ちをかけたが、早や空になった宮で、真田は望みを失ったという。
誠に神智の君なのではないか。
また『史記』―。
周の世家に、紂走り反り、入りここに鹿が台の上に登り、衣てその珠玉を蒙り、自らここに火を燔(や)いてしかも死す。
武王は遂に入りて紂が死ぬ所に至り、自らこれを射ること三発にして、しかも後車を下り軽い剣をもってこれを撃ち、黄鉞(まさかり)をもって、紂の頭を斬り、大白の旗に縣くと。
これ等は聖賢の所為であるが、愚見には神君に比べれば、幾ばくか劣れるように思われる。
※下記写真は、旧谷山村の秀頼公の墓所



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