三篇 巻之7 〔1〕 はかなきもの

 城下庇羅の渡(ひらのと)東里(田平村)に、南左戸右衛門と云う者が住んでいた。
この先祖公は相神浦半坂(現佐世保市相浦(あいのうら))の合戦には、蔵人として討ち死にした。
その子孫を左戸右衛門とする。
その者はこう云った。

「先祖某は朝鮮御出陣のときは老年なので、子が2人ありました。
長男は廿余歳、弟は13歳ばかりでした。
この時法印公(松浦鎮信、26代当主、1549~1614)は海を渡り自ら南の居宅を訪ね、仰いました。
『汝、征行の志があれば、従軍しないか』。
南が答え申しますには『わたくしはもはや老年で戦うことは出来ません。子を供にして頂けませんか』。
公は『さらば長子を従うべし。弟は未だ少年なので汝が介抱すればよし』と云って還っていかれた。
今、この事を云う者は、公がこのような田里の居にお出でになり、従軍の士をお誘いになった。
これはかの国にては一辱(一栄一辱~人の世には良い事も悪い事もある。ここでは良い事)を受ける所以である」と。

 またこの南の宅は、公時代の制か、この宅地の回りは譜代の家来を10余家住まわせ、南の家には鼓を置き、急変のときこれを鳴らせば、隣人がみな集まる。
そのような用心深さだった。

 つまり世が移り今は治平に至っても、隣居なお古と変わらない。
鼓もまた空しく(はかなく)南の家に存在する。
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