巻之三 〈三三〉 近世の国持(藩主)の内でも見所のある者

述斎(江戸城儒教学者林述斎)が語った。
肥前少将治茂(鍋島治茂1745〜1805)も近世の国持(藩主)の内でも見所がある。
白河侯(松平定信1759〜1829)が当路(重要な地位にある)とき、世間は(白河侯を)風靡するが、独り屈さず(長いものに巻かれなかった)。
(二人の)間柄はというと、国元から手紙を贈り、時事を議論した。
営中では奏者番(城中の武家の礼式)の習礼のとき、一度するだけで再びすることなく本席に戻った。
だから脇坂淡路守が呼び返すと、今敷居に手を付いた様なことである。
そのことは心得ていると、見返りもせず、退く。
また昌平の聖廟拝詣のとき、長袴の裾をくくることが出来ず、空しく立っていると、見かねた勤番の史打ちによりくくった。
これは営中では坊主が、両山では案内の僧がくくれば、自身でくくることはいらないのである。
無頓着な大家風の体(てい)がある。
また寛容の所がある。
家臣どもがよそへ行き、遅く帰った時は、言葉をつくして「溜池邸に行き、遅くなりました」と云っている〈溜池邸には養母の円諦院が住む〉。それを聞き流して咎めない。
時には笑って云っている「みなみなは溜池と云う良い処がある。我らは行く処がないな」。
また身持ちは手堅いところもある。
その中で、袴は夜更けても脱ぐことはない。
奥に居ても然り。臥所に入る時に始めて袴を脱ぐのだ。
この様な古風な人も、今は稀である。
この治茂侯は、文詩に長じた点は格別である。
かの家士(家臣)古賀弥助〈淳風〉が召出される間は、人みな弥助の方が潤色であると評する。
けれども府に召されても、文詩は少しも遜色ない。
人は始めてここで服した。
この侯は、はじめは佐嘉の支家鹿島2万石を勤められた。
わしが先人政功君と同席していたことがあったが、後本家(鍋島本家)を継がれたという。
だから、わしも若い頃は、懇意に会っていた。江戸城より長崎の地にてしばしば行き交わった。
江戸に在るときも、わしの邸に来られ、祖母夫人と先君のことを申し出されて昔のことを語られた。
その性質は人情に篤く誠実である。
その容体は腰をそらせ、鳩胸で、足は棹の様に立て歩く人である。
殿中でも、人はその容体をおかしがる。
また一種の癖がある。
手水される時、湯次の水を何篇となく替えるほど、長く為されている。
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ここで知ったのだけど、林述斎の妹御は、肥州(静山さんの息子)妻。
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