巻之57 〔1〕 和田酒盛りと盃に思うこと  その1

 桑名侯(楽翁、松平定信、1759~1829、江戸中期の大名)の溜り詰めのころだろうか、何かのことで大きな盃を贈られた。
「如何なるものですか」とたずねると「これは和田酒盛(幸若舞曲の曲名)のときの盃で、今鎌倉の寺院にあるのもを模したものです」と答えられた。ここにその図を載せる①

 『曾我物語』の和田酒盛の条(虎が、盃を十郎に指す)を見る。

「義盛虎をつくづく見て、聞しは物の数にならず。
かかる者も有りけるよ。
十郎が心を兼て出ざるさへ優しく覚ゆるにや。
夫々と云ふ。何となく盃取挙て、其盃和田飲て祐成に指す。
其盃、義秀飲て面々に下だし、思ひ指、思ひ取、其後は乱舞になる。
茲に又始めたるかはらけ、虎が前にぞ置たりける。
取挙るを今一度と強られて、受持けるが、義盛是を見て、何かに御前ン、其盃何づ方へも覚ぼし召ん方へ思指し為給へ。
是ぞ誠の心ならんと有ければ、七分ンに受たる盃にちぢに心を使ひけり。
和田に指たらんは、時の賞歓違議なし。
去れども祐成の心の中恥かし。
流を立る身なれば迚(とて)、睦びし人を打置きながら座鋪に出るは本意ならず。
増てや此盃、義盛に指なば綺麗に愛たりと思ひ給はんも口惜し。
祐成に指ならば、座鋪に事起りなん(中略)。
和田の前へ下りに指し給う刀こそ童がものよ。
さゆる体に似て成し奪取り一刀刺し、倶(とも)にかくにもと思定めて、義盛一目、祐成一目心を使ひ案じけり。
和田は我にならではと思ふ所に左は無くて、免るさせ給へ、去迚(さりとて)は思ひの方をと打咲ひ十郎にこそ指れけれ。
一座の人々目を見合せ是は何かと見る所に、祐成盃取揚て、某給はらんこと狼藉に似たり。
是をば御ン前にと云ふ。
義盛聞て、志の横取り無骨なり。何かでか去る可き。
早々と式第也。
左のみ辞す当きに非らず。
十郎盃取挙、三度ぞくむ。
(朝夷奈に五郎力くらべの条)時宗盃取あげて、酌に立つたる朝夷奈に式第して、御盃の前後は持参の不礼御免あれ。
御盃は賜はり候迚、三度までこそ乾したりけれ。
其盃思取り申さん迚、元の坐式に直りけり。
五郎も酌に手をかけ、近くも参らず。
御酌に時宗立たんとゆるぎ立つ。
四郎左衛門坐を立て、其是に迚、挑子に取つけば、五郎も暫し式第す。
義盛是を見て、客人御酌然る可からず。
夫々と有ければ、経氏酌にぞ立たりける。
 朝夷奈盃取挙、三度乾す。其盃を虎飲て、義盛にさす(下略)」。

前図と此文に拠れば、この頃の盃は殊に大きく、義秀、祐成等が三度傾るとあるは、全く礼飲とこそ思わるるが、其余の応酬する回盃を知るべくして、又虎が七分を受たるとあるのも、婦人の飲量も亦見てほしい。
するとこの頃の酒は今と違うということか。
また奥州の泉侯(本多氏)は古盃を蔵に納める。
千寿盃と称する。②。
これは中将重衝囚となって、鎌倉で頼朝は千寿で宴を催しをさせたときの盃として、なお鎌倉に伝わっているのを、泉侯の祖寺社奉行のとき求め得て今に及ぶという。

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