三篇 巻之ニ十三 〈一一〉 平戸考

平戸考
わしの城地は島中にあって、世に平戸と呼ぶ。けれどもその地名の由来を知らない。ましてやその地にいる者さえわからないので、人が知らないのも然りである。だから、これを云うには、城地は島の北の方にあって、その地を平戸とするなら、島の総名は知る者はないだろう。
また上古に平戸と名ざすことはなかった。ならば、古に如何にと云うならば、単に平とのみこの島の名だった。
この平と云う古は『和名抄』に載るところ、肥前国十一群の中、松浦郡に、庇羅(ヒラ)、大沼(オオヌ)、値加(チカ)、生佐(イキサ)、久利(クリ)と云うのを上げる。即これぞ平である。庇羅と云うも平と云うもみな仮名にして同じ。
『三代実録』に貞観十八年の三月、参議太宰の権帥在原行平はニ事をうけた。その一事は〈中略〉、そのニ事は、肥前国松浦郡、庇羅値嘉〈値嘉も、今わしの領村。その説を下に記す〉の両郷に更にニ郡を建てて、上近下近に値嘉島を置くよう。今件のニ郷ははるかに遠いが、戸口は豊かでにぎやかである。また土産の出所は、奇異で物が多い。これに加えて地は海中にあり、境は異俗に隣する。
大唐新羅から来る者、本朝に入る唐の使い等は、この島を経て入らないわけではない。
また去年ある人民等が申して云うには。唐人等は必ず件の島に先に至り、多くの香薬を採ってそれを貨物に加える。その物を見せこの間、人民に令せず(ここ今一つ不明)。

これ等を以て見よ。古は庇羅の郷も、辺鄙な一所であると聞こえる。また宣長が『古事記伝』には、『三代実録』を引いて云うには。庇羅値嘉。『和名抄』にはなお松浦郡の郷名に載っている。定めてこの島は、今の五島平戸などの島々の総称である。そのゆえは、この島は歴史にも見えて、『三代実録』の趣きが大きくある島と聞こえる。在所もよく叶い、『風土記』に数大くあるのもよく叶ったりである。
五島平戸は、肥前国の西北方の海から西方へ遥かに連なる多くの島々がある。今も松浦郡につく。
(細注)後に平戸と云うのは、かの庇羅郷(ヒラノゴウ)より出た名に違いない。『三代実録』の文によると、庇羅はこの島にある郷である。
この値嘉を五島と云うのはよく心得た〈わしは、この弁を後で云おう〉。けれどもみな平戸とだけ云って、〈ト〉と云う弁は少しもない。また庇羅はこの島にある郷だと云っても『実録』の文は庇羅値嘉は、松浦郡の両郷とあって、郷の名である。だからこの様に云うなら、庇羅の郷の中に、また庇羅の郷があると云うも、宣長に似合わぬ陳腐なことである。
○この〈ト〉と云うのは、今は濁音に呼ぶが、これは平と云うので、度〈ド〉と濁るが、その正しきは渡〈ト〉と清〈スン〉で称すべきだろう。
如何にとなると、庇羅の島は肥前の陸地と接しているのは勿論だけど、わしの居城の辺りはますます近く、その南北は次第に闊距(大きな距離)で相離れ、唯城下の地勢相迫るを以て、朝暮来去の潮の流れは甚だ急で、ほとんど激流に勢いである。〈里俗はこの潮の勢いを名付けて四十八潮と云う。ただし潮行は一定でないが、変流は定まっていない。これはわしの居城の後ろの険しさに頼む所以である。詳しくは後の地図を見ておくれ〉。所謂この間は迫門(セド)なるものである。ゆえに平は庇羅にして、戸は庇羅島と肥前の陸地との門(ト)である。これはわしが城地の処ではなく、この様に呼ぶべき地である。

他その証を云うならば、世に名高い阿波国の鳴門。歌に
世の中のを渡りくらべて今ぞしる
  あはのなる^と^は浪風もなし
〈『和漢三才図会』に見える。読み人を云わず〉
これは、淡路国と阿波国との迫門(セド)である。また『歌枕』に〈紀伊〉、
かぢさがりゆらの^と^渡る柴船に 
  漕をくれたるなげきをぞする顕仲
この由良の^と^も、門(ト)にして『赤水興図』によると、淡路に由良というものがある。紀伊と相対してここは迫門(セド)である。阿波の鳴門と西東にあり〈世に紀州由良というのは、由良港(ユラノミナト)で、迫門とは別の処、紀の海口である〉。これ等にも思いを致したい。
それで単にいうなら、庇羅島(ヒラノシマ)と肥前の地との門(ト)にして、「ヒラノト」である。また本地へわたる、庇羅より渡る、これも渡(ト)というべきだろう。が、これは不自然。`ト`は濁音にならない。清音でありながら、今濁音になるのは、言便(ゴンビン)で濁るのである。
因みに、その地勢を知らない為に、過ぎし文化八年辛未冬、官命があって九州を測量した地図がある。ここに出してみる。その地図の全体を見て、よく知ってほしい。

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◎また前に云っていた松浦値嘉島は、庇羅と両郷としたことで、今も大なる島である。
けれどもその地は分断して続かない。
その島々を読んで、わしの居城の方にあるのを宇久、次を小値賀と云う。
それから次いで、中通、若松、奈留、久賀、福江と云う。
その形中小大と交じり連なる。
だが、宇久小値賀は前に離れ、その余りの中通以下は後(シリ)に連なる。
これは所謂五島で数によって称する。
問う。ならば、前の二島〈宇久、小値賀〉はどうして五島に加えるのだろう。
答える。『肥前国風土記』に云う。
値嘉島は郡の西南の海中にあり。
昔の者は同天皇〈同天皇とは前に纏向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)と云う景口帝なり〉巡幸の時、志式島の行宮に在して、西の海をよくご覧になった。
海の中に島がある。煙気が多く立ち上っている。

陪従安曇連百足を勅して、遣わしてこれを察(み)せしむる。
島は八十余りあり。
中に就くニ島は、島ごとに人あり。
第一の島名は小近。
土蜘蛛大耳がいる。
第二の島名は、大近。土蜘蛛垂耳がいる。
のこりの島は、並びに人おらず。
ここに百足は、大耳等を捕えて奏聞す。
天皇勅をして、みせしめ(言偏に朱)殺そうとした時、大耳等頭を叩いて聞きし曰く〈中略〉。
ここに於いて、天皇恩赦を垂れて放し、更に勅して云わく。
この島は遠しと云えども、猶近いように見える。近の島と云うべし。
よって、値嘉の島と云う〈中略〉。
或いは一百余りの近島がある。
或いは八十余りの島がある。
西に船の泊まる停(とまり)がニ処あり。
遣唐使、この停を発してより、美弥良久(みみらく)の済に至り、ここより船を発して、西を指してわたる。
〜ここまで肥前国風土記より。
また考えを巡らすと、大小とも値嘉の島なのは、呼称は別にして上古景行帝の頃は、大小(オヲ)の音を分けるまま、小島を小近(ヲチカ)と呼び、大島を大近(オチカ)と呼んで、その地を知るのを〈景行帝より、十三代四代の帝、顕宗、仁賢の両帝は、履中帝の御孫、御兄弟として坐するが、御兄仁賢帝の御名、億計(オケ)と申し奉り、御弟顕宗帝の御名を、弘計(ヲケ)と申し奉るも、御同名に非ざるは、呼び声の違い故である。
これ等を證とすべき。真淵が『語意孝』にも、これを詳しく述べた〉、数百年を歴たる中、いつしか今の小値賀の地のみ、旧名を残して、大近の地は、その呼称さえ絶えて、地勢によって、今は五島とのみ称しているのは、里俗を嘲るのみでなく、文雅の諸人、或いは国君さえも述べないのは、どうしてだろうか。

◎『風土記』の文に、遣唐使は、美弥良久の済に至り、これより発船して、西を指してこれに度(わた)ると見えるのは、美弥良久という処は今審にしないけれども、大近の島端から西を指し度ると云うと、漢土は今の浙江の辺である。
朝鮮対州は、共に大近の北方である。
『風土記』の文の唐使海路の便を見てほしい。
また今の浙江は、唐の代の明州で、『古今集』の旅、仲丸の歌〈天の原ふるさけみれば春日なるみかさの山に出し月かも〉の後注に、この歌は昔仲麻呂を唐に学びに遣わしたのを、あまたの年を経て、得(ェ)還り参(モウ)でに来たのをこの邦(クニ)よりまた使が下り至るにかこつけて、参でに来た明州の海辺で、かの国の人は馬の鼻向けをした。夜になって月がとても面白く出るのを観て、必ず歌を詠もうと語り伝うる、と見えたのはこの大近の対向によくかなったことだった。
これを思え。


◎また『風土記』の文に、天皇〈景行帝〉巡幸の時、志式島の行宮(アンキュウ)に在しと云うもの、今『風土記』の板本があると頭注がある。
曰く。志式島の事は詳くはないと。
わしは思う。平戸の島端は、北は居城の地、南端は〈この南北の距離は十里余り〉。
すなわち志自岐の社がある。また西海をみそなわすに、海中に島があって煙気が多く履う、云々。
小近大近と。今かの社地より西を臨めば、小値賀の島がある。
五島も同じ。また、志式、今は志自岐と書くが、『延喜式』神名帳、肥前国の式社四座の中、志々伎神社〈名神大〉は、正しくこの神である。
それで『延喜』には志々伎、今は志自岐、『風土記』は志式、みな同音である。
ただ『風土記』に島と云う物は庇羅島の南端であり、巡幸の時、北辺より島中を経られず、南肥後の方よりそこに至られたので、志式は素より島中にあるので、南端からみて称するなら、志式島と云うのは、相応しい。
よく思いを致すよう。
また云う。今かの志自岐の里俗、及び社家に伝わるのは、昔景行帝がこの処に到りたまわれたと古来伝説に言てある。
明らかにますます符号するのだ。
因みにわしは云う。
志々伎は古の文字、今は志自貴岐と書く。
だから古は志々と清音だったのが、終に言便に従い、志自と濁ったままを書かせている。
それで思う。平戸島の半ばより南方に、獅子村根獅子村等がある。
それより南の島先は志々伎神社とする。
だから、伎は崎のことで、獅子の崎となるのだ。
ただし獅子の文字は、全く後世の物で、古に志々と呼んでいたが、未だ考えが得られず。
これは庇等値嘉の事ではあるけれど、図を観て知って欲しい。
その首(はじめ)の宇久島は、五島侯の領地、次の小値賀島はわしの領地で次第に混雑する。みなその祖先に故あっての如し。
こと、下に述べたい。
またそれ以下の島にニ万領と称して、五島氏とわしと相互に、五分一ニ分一などと呼んで、農の租税、或いは漁猟の運上を両村に分かつことになった。
他には有ると聞いていない。
たとえば里中に小祠がある。
この朽損を修理するに、かの主よりは祠屋の半ば、わしの手よりは、その半などと云って、かの五分一、ニ分一の割に為るのである。
珍しい事なので、ここに付録した。

◎また宇久島は今五島侯の領分で、その島第一である。
小値賀島はわしの領として、第二にある。
これより、五つの島は連なりて五島侯の領分とする。
この次第交わる故を尋ねると、祖先覚翁殿のとき、その女を五島侯の先囲(かこむ)に嫁いで、男を生む。名は守定。
守定、幼きときに内乱に遭い、母と共に平戸に逃ぐる。時に覚翁殿は既に卒るをもち、子は高齢殿に寄った。
後その力により守定は本領に復(かえ)り、その母もまたかの家に帰る。
また里俗が伝える。
わが祖先公の女、五島氏の先君に嫁す。
このとき宇久の島を粧田として五島氏に贈った。
今宇久にある物は、この為だと。ただし前と一事。
因みに云う。今五島侯は、清和源氏と称するが、全くその初めは、わしの家祖先公の六子、宇久(うくの)源六と名乗られた末である。事『新修家譜』に詳しい。
ならば、嵯峨源氏の一族である。
この地理の事にはこだわらないけれども、宇久小値賀見合いの為に、ここに及ぶ。
わが居城(スミドコロ)は、あまさがる鄙(ヒナ)のとほき国の島なれど、平戸てふ名は、古より久しく伝へぬ。
しかはあれど、何(イカ)にして斯(カク)は名づくるも、今にしては人しらず。
因(ヨ)て、われその国の島に主(アルジ)として、斯なん人と同じからんもいかにと、昔のさまを前に書しるし、また値嘉の島てふ名も、遠き古に聞こえたれば、これをもともに、わけしるし侍りぬ。
あづまより千里へだてし庇羅の迫門(ト)の
   我が住むかたはちか(値嘉)の五島(イツシマ)
     (本文ママ)
珍敷考指上侯。得と御一覧御評被仰下度奉翼侯。頓首。
        二月十九日
清細なる考證感心仕候。
        二十一  衡
(忠行日。以下他日の御礼)
一、御領地云々めづらしき事を承り申候。
あの類の御草稿は一時遊戯と違ひ、実に考證も可相成之事どもにて感心仕候。
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