続編 巻之八十六 〈五〉 蝦夷菊や蝦夷人の話

松前志州は旧来の馴染みであったが、家の浮沈により四十余年付き合いが疎くなり、この閏月にかの宅を訪れた。
西東隔土の話になり、わしは云った。
その領国(松前藩)で産出する蝦夷菊は愛すべきものである。
帰国の後、必ず各種を送って欲しいと云うと、志州が云った。
いや、その菊はわしの領地産ではないのだと。
先年当地から持ち帰り、植え始めたが、今ようやく育つようになったのだと。
わしは愕然となった。
そうして、芸花家が南京、薩摩、蝦夷などの名を托して珍重する者、この類が多いのだ。
また問うた。
その中の牧人(モクシ)と云って、馬に乗る自在な者を既に文政七年の頃、私邸に招き見物し目を驚かせた。
蝦夷もまたよい乗り手であり、随分牧人に劣らないとのこと。
馬具は何を使っているのか。
志州が答えるには、(蝦夷人には)馬具はなく、裸背である。
鞍を用いれば、荷鞍なので(荷物様の鞍しかないようだ)、なかなか常の馬具をの用いる事を知らない。
また馬を馳せるには、平地は勿論、山坂等嶮しく難あるといえども少しも避けず、直下しても恐れず、鉄砲もまた馬上で放ち鳥獣をうつ。
わしはこれを聞いて思った。
蝦夷人は、弓練の事は人みな知っているが、かの土の事を記録した書物にも専ら書いてある。
それにしても、鉄砲に於いては未だその資料を見出していない。また馬乗の事も見ていない。珍説と云えないか。
またわしは云った。蝦夷人がこの様ならば、きっと義気盛んなのだろう。
志州はこう云った。義気に於いては少しも無い。去年東蝦夷のウラヤコタンで、異国船が大砲を放した時、鉛子(タマ)の大きさ二寸余りの物が陸地へ転(マロビ)来た。
蝦夷人はそれを見て、みな逃げ去った。
なかなか義気の心のなき俗であると。
これもまた考え方の相違だろう。
わしはまたかの俗の真容を問うた。
すると近臣に命じて、路上にその肖像を描かせた。
それはここに移した絵の通り(写真)。
また、寛政の手入れの時、三ヶ寺建立があった。
その中に浄土宗の寺があった。その事も聞いたが、なかなか(宗教の)教化は進まない。
和尚は受け持つと地を巡行するばかりで、金を溜めるばかりである。
念仏も蝦夷人は唱えるが、常に忘れてしまい唱えない。
酒を与えれば、その時は唱えると。
一向法流が行われることはならず。

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コメント

No title

江戸時代の蝦夷人の風貌はなんとなく想像できますね。
日本書紀には東国に蝦夷人が住んでいて、東国巡行から戻った武内宿禰が帝に次のように言ったと出てきます。
「東(あづま)の田舎の中に、日高見の国があります。
その国の人は、男女とも髪を椎(つち)のような形に結って、
からだに入れ墨を入れて、ひととなりは勇ましく、たくましく見えます。これをみな蝦夷(えみし)と言います。また土地が肥沃で広いです。 攻撃して取るのがよろしい。」
土地は肥沃で奪い取るのが良いといっている場所が今の常陸国だと思います。

No title

木村 さん
コメントありがとうございます。こうしてご意見給わることで、ない知識が膨らんできますので。

No title

ありがとうございます。知っていることだとしたらうるさいのでスルーしてくださいね。ついでもこの日高見国についてはもう少し後の常陸国風土記(8世紀初め)には美浦村あたりを日高見国と言っています。
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